20

 

 はっと目を開けると、目の前にはまだ眠るフェリクスがいて、その手を握りこんでいることに気がつく。

 見ていた夢のせいか、自分の手に力が入っているのがわかる。じっとりと汗も掻いて今にも震えだしてしまいそうな気がして、フェリクスの眠りの妨げになる前に放した。
 そのまま距離をとろうと身体を動かしかけたところで、伸びてきた腕に引き寄せられる。
 フェリクスの胸に抱かれて驚いたが、どうやら起きたわけではないらしい。顔は見えないが、声をかけられることもなく、呼吸も一定なので眠ったままだということがわかる。
 また離れようとすれば、今度こそ目覚めさせてしまうかもしれない。そう思うと動く気にはなれず、春一はフェリクスの腕の中でゆっくりと身体から力を抜いていく。
 春一を包む腕は太く、薄かった身体はしなやかな弾力があってしっかりと筋肉がついている。背丈も肩幅も一回り以上大きく、春一よりもよほどたくましい男へと成長した。
 もう、守ってやらなければならない子どもではない。身も心も成熟した、頼りがいのある大人になったのだ。
 わかっていたつもりだった。きっともっと前から――春一に誓いを立てたあの日から、ずっとフェリクスは立派だった。一人で考え、前を向き、周りからどう言われようが努力できる人間だった。
 勝手に守ってやらなければと勝手に思っただけで、きっと春一がいなくてもフェリクスは今の姿になっていただろう。
 むしろ本当に守られていたのは、春一のほうだ。今ならそれがよくわかる。
 彼の成長を見守る、子どもとしての甘えを受け止める、その心を守る――そう自らに役目を課すことで、この世界で生きるための軸を見つけることができた。
 何も持たずに来た自分でも、できることがあるのだと。意味はあったのだと。
 フェリクスという生きがいがあったから、春一は進む道を見失うことなく、こうしてのびのびと暮らすことができている。
 元気になっていき、周囲からの信頼を得るほどに、素晴らしい人へとなっていく彼の礎のひとつになれたのではないかという喜びがあった。ささやかな貢献であっても自尊心が満たされ、安心してここにいられたのだと思う。
 フェリクスを守るつもりが、そうすることで春一の心が守られていた。

『傍にいてください。春一と一緒でないと、安心して眠れない』


 眠る前、離れようとした春一を引き留めたフェリクスの言葉を思い出す。

 聞いた瞬間、心が震えるほどの喜びに満ち溢れた。
 フェリクスの信頼が、好意が寄せられている何よりの証拠だ。
 弱さを見せまいとする彼の傍にいていいと、いてほしいのだと言われたこと。
 その身を委ねる先に選ばれたこと。
 ためらいもなく心を許されたこと。

「――ありがとう、フェリクス」


 広い胸に顔を埋めながらつぶやく。

 眠る相手に届かないと知りながら言わずにはいられなかった。
 ――もう十分だ。こうして一緒に眠っている。それだけで、もう。
 これ以上ないくらい春一に尽くしてくれた。誠実に、真摯に。元の世界に帰してやるという約束を果たすために、どれだけの時間を費やしてくれたことだろう。
 フェリクスが苦しむ姿を近くで見てきたが、彼もまた春一の苦悩を傍らで見ていたのだと思う。
 今ここでできることをする。そう決意しても、春一は何度もフェリクスに隠れて泣いていた。
 手を繋いでいた夜だって、彼が眠っていると思って、密かに涙を流した。込み上げる感情を堪えることができなかったのだ。故郷を思い出し、まったく先の読めない未来に震えていた。
 それをフェリクスは知っていたかもしれない。声を上げて泣いていたわけではないけれど、ちゃんと嗚咽を噛みしめきれていたのか、今となっては自信がない。
 人一倍責任感が強いフェリクスがそんな春一を見て、追い詰められないわけがない。だからなおのこと、一度も研究の手を止めることなく進めてきたのではないか。

「ごめんな……」


 これまでを感謝するとともに、謝罪しなければとも強く思う。

 フェリクスは春一を巻き込んだ責任をとってくれた。彼の立場からすれば、帰す手段ができたのであれば帰してやるのが当然のことだ。だってそれを春一が望んでいたし、約束までしていたのだから。
 でも約束が果たされようとするこの時に、この世界に残ることを決めたのは春一だ。
 この世界に来た当初と事情が変わったのだから、フェリクスも説明すればきっと理解してくれる。それをわかっていても話しをせず、ただ純粋にフェリクスから引き留める言葉を欲しがるなんて、なんてひどいことをしようとしているのだろう。
 ずっと、春一をここに呼び込んでしまったことに負い目を感じさせていたのに。
 それなのに今度は、引き留めてしまったという苦しみを与えるというのか。
 ここにいるために、またフェリクスに責任を負わせるというのか。
 ここにいてほしいと言ってほしかっただけだ。ただフェリクスに求めてほしかっただけで、いていいのだと認めてもらいたいだけで、そこに深い意味などなかった。
 その結果がフェリクスにどう影響を及ぼすかなんて何も考えていなかった。
 ――いや、もしかしたら無意識に不安があったのかもしれない。
 フェリクスには大切にされているし、嫌われていないことはわかる。二人の間には友情めいたものがあるはずで、ただそれとは別に、間違いなく責任も感じているはず。
 春一の存在はずっとフェリクスの重荷となっていて、約束を果たすことでずっと抱えていた罪悪感を昇華させることができると。その瞬間を待ちわびているのではないかと、フェリクスが考えていないか不安だったのかもしれない。
 だからフェリクスにこそ、残ってもいいと、むしろ残ってほしいのだと言ってほしかったのではないか。
 彼からの許しを得て、本当の、なんのしがらみもない関係となり胸を張ってここにいたかったのではないか。
 それがフェリクスの新たな負担になることもわからずに、ただそれだけのためだけに、また彼に依存しようとしていた。
 年ばかり重ねて、結局中身はまるで成長していない。今更ながらに突きつけられたふがいない自分に嫌気がさした。
 傍らでフェリクスという理想のような人を見てきたのに、なんて情けないのだろうか。
 せめてもの救いは、新たな責任をフェリクスに押しつける前にそれに気づけたことだ。
 まだ間に合う。改めて身の振りを考え、今度こそフェリクスに面倒をかけることなく自立すべきだ。
 でも今は、もう少しだけこの腕の中にいたい。まもなく手放さなければならない、この心地いい場所に。
 春一は目じりに涙をにじませながら、フェリクスの胸にすり寄った。


 ―――――
 

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