――……もう間もなく夜が明けるというころ。それまで微動もしなかった黒狐は立ち上がると、そのまま外で出て行った。
 もしかしたら、と思いどうにか身体を起こすと、すぐに黒狐は帰ってくる。そしてその後に続き、八尾は姿を現した。

「…………」

 毛先に混じる朱とは違う、恐らくは相手の血であろうが、赤というより黒に近いものでその身を染めながら、全身に生々しい傷跡を刻み込んでいた。ようやく治りつつあった以前の傷も余程激しい動きをしたのか、開いており、見るに堪えない状態だ。
 足もやられているのか、ひょこひょこと動きがおかしい。むせ返るような濃い血の匂い、視界を遮る靄の中、おれはただ、やつを見る。
 八尾は黒狐とまるで言葉を交わすように、視線を交わすと、しばらくして黒狐は洞から去っていった。
 いつもであれば、やつは帰ってくるとすぐに傷口を舐めるが、今日は違う。おれの姿をそのつつじの花によく似た色の瞳で見ると、身体を重そうに引きずりながら傍らまでやってくる。
 手前で腰を下すと、そっと鼻先を寄せ、そしておれの顔を舐めた。
 始めは頬を。次に顎を。鼻の下を。頭を。そして衣の裾を器用に舌で上げ、その下にあった腕も舐められる。それはすべて、おれの血が流れているところだった。全身の痛みは未だ消えず気づかなかったが、腕も打ち付けた際に傷ができ、血を流していたようだ。

「あ……」

 熱い舌がおれの身を這う間にも、血の靄はさらに濃くなっていく。くらくらとするほどの血の匂いも。
 自分の方が余程重症だというのに。それでも妖狐はおれの傷を、血を舐めとる。何度も何度も、労わるようにそれを続ける。
 おれは、身体の傍にあるやつの鼻先にそっと手を触れた。すると八尾はようやく動きを止め、顔を覗き込んでくる。
 人にも、獣にもない色のその目は、一度としておれを睨んだことなどなかった。

「っ……ふ――」

 おれは両腕を精一杯伸ばし、妖狐の鼻先を抱きしめた。やつの瞬きで髪がそよぎ、熱い鼻息が腹にかかる。それほど、傍にいる。

「ぅ、あ……あ……っ」

 必死に声を殺そうとしても、せり上げるものに耐えようとしても、もう駄目だった。
 おれは妖狐にすがりつきながら、泣いた。目から零れる涙をぼろぼろ落とし、やつの身体を濡らす。
 よかった。
 戻ってきてくれて、よかった。
 無事とまではいけぬ有様だが、こうして今おれは触れている。それだけで安堵からくる虚脱感は身体の痛みさえも忘れてしまうような、途方もないものだ。
 わかっていた。わかっていたのだ。おれの感じていた“不安”の正体。ずっと、この洞の中“待っていた”もの。わかっていて、でも認めたくなくて、だからすべてを他のせいにしていた。
 だがもういい。ちっぽけな見栄などもう、もう――
 おれは嗚咽に阻まれながら、声を絞り出す。

「どう、して……どうして、なんでっ――そんなに、優しくする。なぜだっ」

 なぜおれを牛鬼たちから救った。そしてこの洞に連れてきて、面倒をみた。おまえがあっさりとおれを食らってくれたのならば。ただ放っているだけなのであれば。
 こうして、おまえに触れることもなかっただろう。こんな不安を覚えることも、痛みを感じることも、温もりを知ることさえも。
 なぜ、おまえは人のおれに優しくする。なぜだ。
 言葉など通じるはずもない妖狐は、答えない。だが不意に動き出し、おれの胸から鼻先を上げる。目先にやつの口元がきたと思ったら、べろりと顔を舐められた。何度も、何度も頬に筋を作る涙を舐めとっていく。
 やがて、おれの涙が止まったころに、静かにやつの顔は離れていった。しかし一度目を合わせると、最後にというかのように、もう一度だけ頬を舐めてゆく。
 おれはまだ湿っぽい鼻を鳴らしながら、やつの鼻先を撫で。

「――ありがとう」

 初めて、妖狐の前で口元を綻ばした。

 

 


 いつのものように妖狐の身体に埋まりながら、やつとともにおれは泥に沈んだように眠り続けた。起きる度に軋む身体に呻くと、それを心配するように妖狐が鼻っ面を寄せてきては、おれの顔や身体を舐めて。
 そしてしばらく日が経つと、二尾と四尾が顔を出すようになった。四尾の傷は既に大分癒え、多少動きは緩やかだがそれでも元気な様子だ。やつらは八尾の傷口を舐めたり、おれに食べ物や飲み物を持ってきてくれたりした。
 周りを主に構ってもらいたい犬のように飛び跳ねる元気な二尾と遊んでやっている四尾の姿を、じゃれる二匹をおれは八尾に身を預けながら眺める。
 あやかしと、化け物と、そういうが。彼らは確かに情を持っている。嬉しければはしゃぎ、悲しければ耳を下げ。怒るときは大口を開けて牙を剥き出し。獣と、何が違うというのか。大きさか。流れず空に溶ける血か。――いや、それだけでもやはり化け物に違いないのだろう。おれが知らぬだけできっと、他にも何かあるはずだ。
 だがしかし、恐ろしいのは何もあやかしどもだけではない。獣どもとて人間に牙を剥けば安易に命を奪えるし、人間もまた智を持って何かの命を奪える。ましてや、同じ人を殺めることさえあるのだ。
 同じではないから、言葉が通じぬから。姿が違うから恐ろしいと思うのは当然のことだ。獣も人もあやかしも、決して混じることはない。等しいものにはなれない。しかし認め合うことはできる。理解することもできる。ならきっと、共存の道もいつかは、見出せるのであろう。
 ――おれは恐ろしかった。得体の知れぬこの妖狐らが。何を考えているかわからぬやつらが。
 いまでもやつらの考えはわからない。いつこの首を掻かれるやもしれぬ、と思う。しかし、むやみに恐れるのはもうやめようと、そう決めたのだ。
 二尾に耳をかまれても大人しく好きなようにさせている四尾は、なんだか苦笑しているように思える。そんなはずはないが、おれにはそう見えた。
 しばらく仲のいい二匹を眺めていて、不意に腕に痒みを覚える。おれは衣をまくりそこに軽く爪を立て掻こうとしたところで、はっと気づいた。
 今爪を立てたその場所は、以前に黒狐に吹き飛ばされ、そして壁にぶつかったとき擦れ血を出したところだ。まだ傷は癒えていないはず。瘡蓋でもできているはず、だった。
 おれはさらに衣をまくり、直に腕を見る。しかし、そこにはうっすらと傷のあった痕はあったものの、それだけ。まるでもう何日も過ぎ去ったあとのようなそこに、言葉を失う。決して、こんなにも早く瘡蓋がなくなってしまうはずがない程度の傷だったのに。
 他にも身に覚えがあった傷を見てみると、すべてが癒えていた。あの、牛鬼につけられた肩傷でさえまるで何年も昔のもののように、多少肌の色が変わったくらいになっている。
 そういえば、あれほど熱を持っていた痛みをおれはいつから感じなくなっていただろうか。肩を動かせば、ひきつるような感覚はあるし、多少の苦痛はある。しかし気に障るほどでもない。いつまでもじくじくとその存在を感じていたというのに。
 震える指先を伸ばし、ほとんど癒えてしまったその傷に触れた。ごくりと、生唾を飲み込んだ喉が鳴る。
 なにが、起きたというのか。
 指先でなぞり、これが夢などではないことを知る。あれほど強く岩に打ち付けられた全身は、まだ数日しか経っていないのに何事もなかったかのように普段と同じに動く。あの直後おれは眠り続けていたが、起きる度にその軋むような痛みに呻いていたと言うのに。打った頭には瘤すら見当たらない。
 自分の指先を、そっと喉へうつした。冷えているそれが喉に触れ、己の手だというのに思わず身体を震わす。しかし、それに恥じている余裕さえ今のおれにはない。
 喉から滑らすように、次に己の腹に手を添えた。
 先程水を飲んだばかりでまだ潤っているし、腹も少し重たく感じるほど、十分食った。
 一度頭によぎった己の考えに、無意識のうちに自嘲めいた笑みが浮かぶ。
 そうだ、すべて気のせいだ。この洞に来てからというものほとんど動かなかったから、だから傷の癒えも早いのだろう。そう自身に言い聞かせながら、拳を握る。
 ふと、おれの様子に気づいたのか。八尾はそれまで寝かしていた頭を起こし、そっと鼻先を寄せてくると、頬を舐めた。
 無意識にその顔に手が伸びる。傷を確認するために袖を捲り上げた片腕だけが肌を露わにしていたが、そのせいもあってかやつの毛にくすぐられなんだがかゆい。濡れている鼻に手をかけながら、しかしおれはあいつの不思議な色彩の瞳を見返すことはできなかった。

 

 ――それから数日が過ぎたころ。おれは、以前よりも確かに喉の渇きや空腹を感じることが少なくなった。

 

 

 

 平穏な日々が過ぎていく。おれは大抵妖狐の傍におり、その巨体に身を預けていた。
 目の前で繰り広げられる二尾と四尾のじゃれあいに時折口元を緩めることはあっても、しかしすることがないのは相変わらずだ。
 完全に癒えた体力は反対に有り余り、最近になっては八尾の八本のうち一本の尾を相手に取っ組み合いをすることもあった。いくら尾とはいえどもおれの身体よりもはるかに大きい。振り下ろされればこの身はあっさりと吹き飛ばされてしまうだろう。だがやつは十分手加減をしてくれているらしく、おれの顔にたとえ尾が下されたとしてもふわりとその柔らかさを堪能するだけだ。
 日を浴びたいと思い堂々と洞から出ようとすれば、静かに八尾の前足が肩にかかり後ろに転がされる。やはりそればかりは許してはくれぬようだ。
 しかたなく今日もまた存分にこの身をやつの尾で動かし、そして尾を腹の下にして寝転がっているその時だった。生々しい傷と、血の靄を纏った黒狐が洞の中に飛び込んできたのは。
 やつの姿を見つけると同時に妖狐は立ち上がり、それに合わせて動いた尾の上からおれは転がり落ちた。
 打ち付けた腕の痛みに顔をしかめるも、それを抗議する気持ちなど微塵も浮かばず、息を飲んで傷ついた黒狐を見つめる。
 やつはただ八尾を見上げていた。八尾もまた、黒いのを見つめ返す。しばらくそうして、不意に八尾は一歩を踏み出した。おれの傍にあったやつの八つの尾も、するりと前に進んでいく。
 気づけばそのうちの、先程まで遊んでいた尾のひとつを掴んでいた。巨体の八尾にとって、おれの手が掴んだほどでは虫がとまったと思う程度のものだろう。しかし、やつは振り返る。そしてそこでようやくおれは、己がやつを引き留めたことに気づいた。
 なぜそう行動してしまったのかわからないまま、また勝手に身体は動き、両手で改めてやつの尾を握り直す。
 そして口を開かせた。

「ま、待て。いくな」

 その言葉に八尾は目を細める。
 視界の端で黒狐が荒い息をついているのがわかった。その息遣いさえ少し離れた場所にいるおれの耳に届く。余程大きな傷を負っているのだろう、今にも崩れ落ちてしまいそうな足でそれでも堪え立っている。
 しかしそれを知ってもなお、おれは長い毛を手放しはしなかった。――否、できなかった。
 おれの中の何かが知らせる。行かせてはならぬと。手をはなしてはならぬと。
 妖狐は器用に身体を回すと、動けずにいるおれへと顔を寄せた。

「――――」

 首筋に鼻先が寄り、ふんふんと匂いをかがれる。それから厚い舌を出すと、おれの顔を一舐めした。
 そうして離れていくやつの顔は、目は、静かにおれをあやす。
 その手をはなせ、と。

「……っ」

 一度さらに手に力を入れたが、それをゆっくりと解く。だらりとおれの腕が尾から離れ、ただぶら下がるのをしっかりと目に収めてから、やつは動き出した。
 洞から半身ほど出したところで駆けだす。それを追って傷ついた身体のまま黒狐も、夕暮れ色を微かに見せる森のなかに消えていく。
 おれはその場に立ちつくし、やつらの消えていった森を見つめた。
 己の胸に垂れこんだ曇天は、静かに厚く、広まっていく。
 息を飲み、一歩を踏み出した。そろりと足を忍ばせるように前に進んでいき、そして初めて、洞の口に手をかける。
 そっと顔だけを出し、右に左にとあたりを窺うも、しんと静まりかえる森は何も教えてはくれない。二尾たちが傍にいるかもしれないと思ったが、四尾ともにその姿はなく。洞の周りに誰もいないことを知った。
 空を見上げれば、生い茂る緑の隙間から朱の溶け込み始めた空が見える。前を向けば、巨体の妖狐がよく通るためか道ができている。しかし、すぐに影に行く先を消されてしまうような暗闇の中だ。
 だがおれは、そんな森にはじめて一歩を踏み出した。牛鬼襲われ、この洞に連れてこられたうちに履物は脱げてしまって今はもうない。そのため素足のまま落ちる枯れ葉を踏みしめる。
 しばらく進むと、足裏に痛みを感じ、一度足を止めた。足先で地を埋め尽くす枯れ葉を退かすと、そこには小石があった。ちょうど天に向き尖っている。
 足裏を見れば、その尖った石の先に当たったかかとに一点、赤が浮かび上がる。どうやら切れて血が出てしまったようだ。
 恐らく、この先を素足で進み続ければ、この程度の傷では済まないだろう。石だけでなく、枝でさえ踏み方が悪ければ傷を作る。
 だが、それでもおれは進むのを止める気にはなれなかった。
 顔を前に戻し、再び歩み始める。たとえ痛みを感じたとて、もう足を止めることはなかった。

 

 

 

 どこへ行こうかというのもわからぬまま、冷えて痛みさえ薄れ始めた足を引きずりながら前へ前へと向かっていくと、不意に影が見えた。
 明らかに木々などの植物ではないそれに身をかたくし、どこか隠れようと辺りを見回そうとしたその時。向こうの動きが早かった。

「何奴!」

 腹から響く低いその声にびくりと身体を震わすも、その次におれは目を丸くすることになる。
 がさりと木陰から姿を現したのは、紛れもなくおれにかけられた声は――

「……む、おぬし、人か……?」

 そこにいたのは、抜き身の太刀を握った一人の若い男。人間だった。背には弓矢が背負われている。ぬっとおれが見上げるほど背が高く、また体格もいい。
 彼はひどく汗を掻いていて、また息も荒かった。目も血走り疲れが色濃く見受けられる。だが、今のおれにはそれに気を配れるほど余裕はない。それに勝る驚きで、思わず息を飲んだ。
 しかしそれは相手も似たような状況らしく、呆然と口を開き、おれを見る。

「もしや――雅殿か……!」
「いか、にも。あなたは……」

 掠れた声で肯定すれば、彼はうっ、と呻くような声を上げて瞳を潤ませた。泣く、とおれが直感すると同時に、勢いよくその場に胡坐を掻き、深く頭を下げられた。

「お探ししておりました、雅殿! よくぞご無事でいらした! わたしは貴殿を探しにこのあやかしの森に遣わされた者のひとり。佐太(さだ)と申す者にございます」

 おれも彼の傍らに腰を下し、その場に胡坐を掻いた。
 実をいうと、久方ぶりに歩いたせいですでに膝が笑ってしまうほどの疲れを覚えていたのだ。どれほどの道を進んだかはわからないが、つい先刻ほどまでおれは殆ど寝たきりの生活をしていたのだ。足がなまっていたところでなんら不思議はない。
 その足を休めるためにも、ようやく出会えた人間のためにも、そして――彼の発した気になる言葉の為にも、今は先を急くよりも彼の話に耳を傾けることに決めた。

「佐太殿、わたしを探しにとは、いったい……」
「雅殿の兄上である雅志(まさし)殿が帝より賜った討伐隊を率いてこの森に来たのです」
「み、帝だと!?」

 兄上が討伐隊を率いていることよりも、それが帝直々の命を受け組んだものであるということにおれは思わず声を荒げた。
 おれの驚きを理解しているらしい佐太殿は、ただじっとこちらの目を見て頷く。

「公の目的は名の通り森に住まう妖どもの討伐。しかしながら真の目的は雅殿。八尾の妖狐に攫われたという貴殿の救出です」

 救出、という言葉におれはようやく、彼に――佐太という名の人間に会えたことを実感した。そして、じんわりと胸に喜びに似た、少しの痛みも混ざる気持ちが湧き上がる。
 いつまで待っても来なかった迎え。本当は、とうに諦めていた。もうおれは死んだものとされたと。しかし、兄上は……父上たちはやはり、おれを見捨てなどしなかったのだ。
 おれがこの森に連れてこられ、妖狐どもと日々を送るようになったあの時から――既に二百(ふたもも)をゆうに過ぎる夜を過ごしてきた。それほどの時が過ぎながらも、もう助けなど来ないと、確信に近いものを抱きながら惨めにもおれは兄上たちを信じていたのだ。だがそれも決して無駄ではなかった。こうして今、兄上とともに来た男と今向かい合っているのだから。
 感極まり薄らと涙を浮かべると、目の前の男もおれの思いを悟ったのか、力強く頷きながら肩を叩いてくれた。

「もう生きてはいまいと人は口を揃えて言ったものですが、よくぞご無事でいらした。それも、このあやかしの森で……」
「――申し訳ない、佐太殿。貴殿のおっしゃるあやかしの森とはいったい、どういうことなのだろう……?」
「ご存じ、ないのですか?」

 おれの言葉に彼は呆けたように驚きを見せる。その姿に、おれは簡易に自身の身に起きたことを話した。
 牛鬼に襲われたこと。そこで妖狐に“助けられた”こと。気づけばこの森にいて、それ以降妖狐たちに世話になっていたこと。
 大方を話せば、彼は納得したように顎に手を添え、そこを撫でた。ううむ、と唸った後、おれと目を合わせて口を開く。
 彼の話によると、今おれたちがいる森はあやかしの森と人々から呼ばれている場所なのだそうだ。
 あやかしの森は、本来は人が足を踏み入れることさえ叶わぬ、あやかしと獣とだけの住処。
 人が森に足を踏み入ろうとすると、ただすり抜けてしまうのだ。さらには入ってきた場所から出てきてしまうという不可解なもの。
 恐らくおれがこの森に入れるのは――いや間違いなく、あの妖狐に連れてこられたからなのだろう。おれが気を失っている間に何があったかは知らないが、本来人間が立ち入ることすらできぬ森であるのならばそれしかない。
 佐太殿からさらに話を聞けば、兄が率いる討伐隊は今回、陰陽寮の者を数名連れてきたからどうにか森に入ることが叶ったそうだ。
 おれがあやかしに、牛鬼に襲われたところよりはるか北に、この森はあるという。付近の村人からは入らずの森とも呼ばれているのだそうだ。

「馬の残骸を見つけ、さらには牛鬼のものらしき足跡や身の一部を見つけ、雅殿はあやかしに襲われたのだとわかりました。……もう、生きてはいないと誰もが思いましたが、しかし貴殿の兄君であらせられる雅志殿は諦めませんでした。父君がもう雅殿のことは忘れろとおっしゃられても、決して。そしてもうひとりの兄君でいらっしゃる雅信(まさのぶ)殿とともに帝に直訴なさり、雅殿の捜索隊を――いえ、表向きにはあやかしの討伐として、我らをこの森に遣わされたのです。我らは三日ほど前から森に足を踏み入れ、雅殿を探しておりました」

 そうか、兄上たちは最後まで、おれのことを。
 再び胸にこみ上げる熱に堪え、震えそうになる喉を抑えた。

「――……佐太、殿……兄上は、兄上はいずこにいらっしゃるか?」
「ああそうでした! 見つけ出せたことに興奮しておりました……雅殿、この森は危険にございます。早く、早く雅志殿と合流し、出なければ」

 こちらです、と佐太殿は腰を浮かせた。おれも立ち上がったその時、彼の視線が下を向く。

「雅殿、足が……」
「あ、ああ――この森に連れてこられたときに、履物は失くしてしまって」
「傷だらけではありませんか。わたしの背をお貸しできればよいですが、弓を手放すわけには――おお、そうだ」

 おれの足元に佐太殿は屈むと、懐から取り出した布で足裏をくるんだ。とはいっても布の長さはそうなく、ただ土踏まずと足の平のあたりを覆い足の甲のところで結ぶくらいしかできないが。
 何もしないよりは幾分楽でしょうと、そう言いながらそれをもう片方の足でもやってくれた。
 かかとや足先はまだ素足のままだが、それだけでも十分、歩きやすくなる。

「感謝する、佐太殿」
「いえ、たいしたこともできず申し訳ない。本陣と合流したら、しっかりと手当しましょう」

 おれたちは顔を見合い、ようやくふたりで歩み始めた。

 

 

 

 しばらく先を進み。おれの顔程もある背の高い草を掻き分けながら歩むと、不意に視界が開けた。
 そしてその先で見えた惨状に、ふたりして言葉を失う。

「こ、これ、は……」

 草も、木も、地までも。目に至るすべてが切り刻まれていた。決して飛び跳ねた程度では届かぬ、天にほど近い場所にある枝もだ。草はともかくとして幹が真っ二つになって倒れているものもある。その断面、切り口からして、鋭利なものですぱりと一撃だ。それだけを見ても十分、これは人間がやったものでないとすぐにわかる。
 しばらくは状況を飲み込むこともできずただ呆然とするだけだったが、ようやく頭が追いついた頃、視界の端に人が倒れているのがわかった。
 草はどれもおれの膝ほどの高さに切られているが、倒れている人間を隠すには十分な丈だ。たとえその人間が、緑に映える紅をその身に纏ったとしてもこの暗がりではただの暗色に姿を変えている。
 おれが動くよりも先に、佐太殿が足を踏み出した。

「おい、しっかりしろ!」

 血の気も失せきり、瞼さえ持ち上げられぬその男の身体を、自らの衣が汚れることも厭わずに佐太殿は抱え上げる。
 血濡れたその人は、やはり目は開けぬまま、しかし小さく口を開いた。

「――――か、ら……ぐ……、げ――」

 すでに虫の息の男は、何かおれたちに告げようとしたが、何も言葉になせぬままに動かなくなる。佐太殿が懸命に声を張るが、もう男は口を震わすことさえない。
 ようやくそこでおれも彼らに歩みより、そして知った。佐太殿の腕に抱えられ息絶えた男の両足が、腿の中程から切り離されていたことに。

「――……むごい」

 もう手遅れだと悟った佐太殿は、開いたままとなっていた口を閉ざさせ抱えた彼をゆっくり地に横たえさせる。
 その姿から目を逸らし、おれが他を見回すと、少し離れた木に身体を預け項垂れる男を見つけた。頭から血を流し、ぐったりとしているようではあるが、肩がしっかりと動いている。息をしている証だった。それに、出血の割に外傷が見当たらない。
 おれはその男へ駆け寄った。

「大丈夫か」

 傍らに片膝をつき、男の顔を覗き込む。するとゆるりとうつろな目にまみえた。

「――あ、ああ……」

 頭を打っているのか、それはわからないが、焦点があっていない。しかし声音はむしろ弱々しくはあるが意志が宿っており、さほど辛そうではないように思えた。
 だからこそ、おれは彼に問うため口を開く。

「何があった?」
「あや、かしが……突然……。雅志、さま、方が、危ない……」

 それだけを告げると、男は身体を前になだれるように倒れてきた。それを受け止めると、べったりとおれの衣に彼の血がつく。いつまでも慣れない濃厚なその匂いに思わず顔をしかめるも、吐き気を堪え、どうにか口を開く。

「おい、大丈夫か」

 男は答えない。しかし、まだ息はあることに辛うじての安堵を感じていると、いつの間にか後ろへ来ていた佐太殿が隣に膝をつき、男の顔を覗いた。

「気を失っただけのようですな。横にさせてやりましょう」

 おれの腕に支えられた男を佐太はその場に横にさせてやる。それから彼の纏う布で頭の血を抑えるためにもきつめにそれを巻いた。
 男は、意識ははっきりしていると思っていたが、やはり無理をしていたらしい。ただ静かに、まるで魂が抜かれたように、身を動かされても瞼すら動かすことはなかった。

「今、この男はあやかし、と言っておりましたね」
「……兄上が、危ない、とも」

 ふたり揃って立ち上がり、そして周りの惨状に。この、あやかしの森に目を向ける。
 なにがここで起こったか、悟るには十分なものだった。
 緑に隠されてしまっているが、倒れている人間はひとりふたりだけでは済まない。物も残骸と化し散乱するなか、草を掻き分けると奇妙な足跡らしきものを見つけた。それは大きさこそ人間と大差ないものだが、形が、明らかに異なっている。
 そして、ところどころに落ちているものがあった。
 おれはその場から五歩左に進んだところにある木の枝にひっかかる黒に手を伸ばす。

「雅殿、それは」

 声をかけられ、振り返り佐太殿に手にしたものを見せる。それは抜け落ちた羽だった。黒い……そう、からすどもの持つようなもの。しかし、おれの手にしたそれは、からすのものにしては――いや、鳥のものにしては、あまりにも大きい。
 おれの顔よりも長く伸びるその羽に、ついに佐太殿が声を荒げた。

「――っ、雅殿はここでお待ちください。わたしは雅志殿の後を追います。恐らく、この先に……」

 佐太殿が向いた目の先を、おれも辿り見る。
 まるで誘われているように、道標のように、無残に切り開かれた森が、人が、物が。道を生み出していた。
 恐らく兄上は、この先に逃げたのだろう。

「おれも行く」

 気づけばそう、口にしていた。
 佐太殿はさあっとただでさえ色の失せていたその顔をさらに青ざめさせる。

「な、なりませぬ! それはあまりにも、きけ――」

 彼が言葉を紡いていたその途中で、前に一度だけ聞いたことのあるやつの、妖狐の声が森に響く。
 おれは唇を噛みしめ、驚きに声のした方へ向いた佐太殿を押しやり先へ進んだ。

 

 

 

 所々に置かれた死体から目を背け、臭うものに鼻を抑えながら荒く作られた道を目印に進んでいけば、しばらくして多くの人間の背が見えた。ここから見える限り、少なくとも二十数人ほどがいる。
 その武装した男どもの姿を確認した佐太殿はようやく顔を僅かに明るくさせ、声を張った。

「みな、無事であったか!」
「佐太殿!」

 声に振り返った男どもは、佐太殿の顔を見て擦り傷や土ぼこりを付けたその顔に安堵の表情を浮かべる。
 互いに駆け寄り、その無事を祝い合った。集う人々は佐太殿に声をかけ、おれはその広い背の後ろでただひとりの顔を探す。
 しばらくして、ようやく再会の喜びが落ち着いたひとりの男がおれに目を向けた。

「――佐太殿、後ろにいらっしゃるのは、もしや……」

 その男の言葉に、ただ頷きだけが返される。しかし、それだけでも十分だったようだ。
 男たちはみな一様にまじまじとおれの顔を覗き込み、そして双眸を潤ます。

「よくぞご無事で! ここは危険です。どうかすぐに森から出てください」

 今度はおれに向けられた顔を眺め、求める姿を探す。けれど、みつからない。

「雅殿、早く――」

 急かす男どもの言葉に頷きながらも、しかしおれは迫る顔ぶれを見回してはこの顔ではないと内心で焦燥感を増してゆく。
 いるはずだ。ここに、きっとすぐ傍に。
 頭に巣食うは、黒い羽根。無残に散らされた、魂を抜かれた顔。失われた四肢、黒い血。

「兄上は……兄上はどこにいっらっしゃる?」

 どこだ。兄上は、どこだ。
 ついに隠せなくなった思いに、人を押しのけてでも先に進もうとしたおれに懐かしい声がかけられた。

「――雅、か?」

 かけられる多くの声に紛れ、聞こえたそれに。その方へ目を向ければ、他の男どもを押しのけこちらに向かってくる人が見えた。
 他の男どものように纏う衣を着崩してしまっているだけでなく襤褸にし、御髪もほつれさせたその人は、焦がれていたその顔で。少し頬がこけているが間違いない。
 おれは堪らず駆け寄り、その人へすがりついた。

「兄上……!」
「雅!」

 両腕を広げ向かい入れてくれたその胸は以前にこうした時よりうんと狭くなっていて。どれほど久方ぶりに兄上とお会いしたのかをよくおれに知らしめてくれる。
 ああ、兄上だ。ようやく、会えることができた。
 胸の内に言い表しきれぬ思いが溢れ、そしておれの言葉を詰まらせる。けれどどうにか、兄の目を見て口を開いた。

「お会いしとうございました、兄上……っ」
「おれもだ、雅。無事でよかった……!」

 互いに声を震わし、そして強く抱擁を交わす。昔から抱きしめる力加減ができていない兄上の腕は多少の痛みを覚えるも、今ではそれが心地いいもののように思えた。

「信じていた、おまえが生きていることを」

 離れていった兄上と改めて向き合えば、相手の目に薄らと浮かぶ涙。涙脆いところも変わっていないのだと、おれもつられるように目に薄い水の膜が張っていく。
 しかし、再会の喜びはそう長くは続かなかった。
 再び森にこだまする、あいつの声に。この場にいる者の視線が一斉に声のする方へ向いた。

「まずい、大分近くなった……やつらが争っている間に森から抜けなければ」
「やつら?」

 ざわつく胸を押さえ、森の奥を睨む兄上を見上げれば、おれにその目が向くことなく答えてくれた。

「――あやかしどもだ。黒いあやかしが現れて陣が襲われた時、突然妖狐の群れが現れてな。そのふたつで戦っている。しかも、妖狐のとくに八尾は巨体だ。我らでは到底太刀打ちできまい。ましてや生き残っているのは今この場にいる者だけ。あやかしに長けた陰陽寮の者どもはみな初めに黒いあやかしにつぶされた。目的であったおまえに会えたのだ、これ以上この森に居座る理由などない。すぐにでも退こう」
「…………」

 兄上の言葉は、途中からおれの耳には届いていなかった。
 妖狐の群れ。八尾の。そして森に度々こだまする声。それはあいつに、あいつらに違いない。

「あに、うえ……やつらがいるのはこの先でしょうか」

 兄上が警戒する方角へおれも目を向ければ、神妙な面持ちで深く頷かれた。

「森の出口はちょうど反対だ。やつらあやかしがわたしたちの存在に気づく前に、森から――雅!?」
「雅殿!」

 すべての言葉を聞き終える前に、おれは駆け出していた。焦る兄上の声が呼び止めるが、それでも足は止まらず、さらに強く拳を握る。
 走る途中、どしん、どしん、と時折何か重たいものが落ちたかのように地が震える。大きなものが木々の中に投げ飛ばされるような音も、ざあざあと揺れる木の葉の音さえも。
 途中森から逃げ出そうとする動物たちとすれ違いながら、時折木の幹に足をとられ転びながらも、それでもおれは足を前へと動かす。
 いくら布を巻いたとはいえ、足を置く場所を選ばず進んでいるために足裏はすでに傷だらけだ。それに構わずひたすらに、目指す。
 次第に何かが争う音が、声が聞こえ。薄暗い辺りには靄がたちこめはじめる。赤い靄だ。そして、血のにおい。それにおれは確信を得た。
 この先だ。この先に間違いなく、あいつがいる――!
 あと少し、ほんの少し、もうすぐそこにいるはずだ。この騒ぎのもとになっているやつが、この血の靄の、持ち主が。
 八尾の妖狐が、この先にいるのだ。

「――――っ!」

 自然に生み出された低い背の木々の生垣へ頭から突っ込むと、おれはようやくその場面に足を踏み入れることが叶った。

「っ、あ……」

 くるりと、その場にいたすべての者の目がおれに集う。その中に探していたはずの、求めていたはずの八尾の姿が目に入る。
 おれは思わず口を開き、そして呼ぼうとした。やつの、妖狐の名を。しかしそんなものを知らないことに飛び出ぬ声にようやく気付き、我を取り戻す。そして今になって初めて妖狐たちの置かれた状況を悟ることになった。
 八尾の妖狐を先頭にし、その両脇にそれぞれ四尾と黒狐が。そして八尾たちの後方、おれが顔を出したすぐ傍に二尾がいた。みな毛並みを乱し、所々に斬られたような傷を負っているようだったが、重傷なものは見受けられない。どうやら無事なようだと安堵したのもつかの間。おれはようやく、八尾が対峙する相手がいることに気づき、そしてその姿を目にした。
 しかし、それと同時に相手が動く。
 突如現れたおれに目の前のそれから目を逸らしてしまった妖狐に隙を見出し、何か鋭いもの飛ばしてきた。
 おれに気を取られていた妖狐だが、それでも注意はしていたらしい。すぐさま反応をして左に顔を逸らすと、首筋に浅く裂傷が刻まれた。ぶわりとその周囲の靄の色が増し、切られた妖狐の白い毛が舞う。
 唖然とするおれなど見えぬというように、それは妖狐に向かい口を開いた。

『ううむ、やはりきさまが人間をかくまっておったか』

 それは、人の言葉だった。低めの、男の声で紡がれる。

『森を乱す者は、仲間とて許さぬということはわかっておろう。きさまも、わしと同じく西と東とでこの森を守る者であるのだから』

 そう冷たい声音で、確かに人の言葉を紡いだのは――あやかしの一種である、からす天狗だった。
 姿形は人とそう変わらず、おれよりは背は高く体格もよさそうだがやはり見目は人間に近い。しかし、人では持ち得ぬ黒の翼で空を飛び、本来は肌が露出する場所も羽が並んでいる。更には顔の上半分には人間が作ったような赤い天狗の面をつけており、その下半分は烏の嘴が伸びていた。
 噂通りに山伏の姿をしたそれは、面に隠れた目をおれに向ける。

『今ならまだ、これまでのことは目をつむってやろう。だが代わりにその人間をこちらへ寄越せ。見せしめに人の集まる都にでもその首晒してやろう』

 不思議と、遠くにいるはずのからす天狗の声がまるで傍らで話しかけられているかのように、風に乗ってそれが届く。だからこそおれは、その言葉に息を飲んだ。
 間違いなくやつのいう人間とはおれのことだ。そしてはっきりと敵意を持たれていることを知る。それにおれはなぜだが、胸に靄がかかった。だがすぐに胸の内で頭を振るう。
 ――あやかしと人は相容れぬもの。妖狐とおれとの間が不可思議なものであっただけで、本来はこうあるべきなのだ。
 どうやらこのからす天狗と妖狐は、仲間であるようだ。何やらいさかいが間にあるようではあるが、ともにこの森を守る者。ただ気まぐれに助けられたおれと妖狐の間にあるものよりははるかに確かなつながりがあるのであろう。
 どうなるのか、ただおれはあやかしどもの話がまとまるのを待つしかない。だからこそ妖狐の背を見つめた。
 からす天狗が手に持つ葉団扇の先が、おれへと向けられる。確か、あの団扇を一振りするだけで大木をも薙ぎ倒すという。そんなもので仰がれてしまえば、おれはあまりにもあっさり、吹き飛ばされることだろう。
 しかし、やつがそれを振り上げるよりも先に妖狐がおれのからす天狗との間に割入る。その時辛うじて見えた妖狐の顔は、鼻っ面に皺が寄っていた。
 高い位置で飛んでいるからす天狗の姿は隠れず、やつが腕を組むのが見える。

『――なに? もう一度言ってみろ。わしの聞き違いかもしれぬ、よく考えて発言せよ』

 どこか苛立った声に、 少しでも現状を把握しようとおれは頭を働かせた。
 おれには何も聞こえはしなかったが、同じあやかしであるからす天狗には妖狐の言葉が聞こえているのだろうか。そして、妖狐が何かからす天狗にとってよくないことでも言ったのか。
 やはり何もわからぬおれには、様子を見守るしかできなかった。唯一の状況を知れるのがからす天狗の言葉のみというのが歯がゆい。
 しばらくして、ゆっくりとからす天狗が嘴を開いた。

『――それが、きさまの答えととってよいのか、東のよ。……きさまがおかしな行動を始めたのは、よもやそんなことが理由だったとは。だが、素行悪し、人を好物とする聞き分けのないあやかしどもをのしてきたのは、確かにこれまで争いを好まずだったきさまらしくないものだった。しかし、事情があったのであれば頷ける。だがな、かといってここは人間が足を踏み入れることは許されぬ森ぞ。ましてやそこの人間が原因で、すでに多くの人間が群れをなして森を踏み荒らした。罪なきあやかしもただいたずらに殺されているのだぞ。この怒り、森に入りこんだ人間の命だけでは収まりきらぬわ』

 その怒りを表すかのように、からす天狗は思いを吐き出すかのように言葉を連ねる。そしてそれにより、おれは兄上率いる討伐隊の面々が森で行ったことも知った。
 からす天狗の私怨の言葉を除いても、兄上たちは森に入りそして、目にしたあやかしたちを消してきたのだろう。でなければからす天狗がいう“罪なきあやかし”が、人に何もしていないあやかしが殺されるはずがない。見つけ次第退治、可能性の危険すらも消していった結果がそれなのだろう。
 それが正しいか正しくないか。それはわからない。しかし人間側のおれからしてみれば、兄上たちのしたことは理解できた。襲われ、被害があってからでは遅いのだ。
 人にとってあやかしは――本来は相容れぬ敵であり、異形の獣なのだ。油断していたらこちらが食われてしまう。だからこそ相手に先手を打つ必要がある。先手を得るために、人を襲わぬ大人しいあやかしか、人を襲う獰猛なあやかしか、見極めている余裕などない。
 だがあやしからしてみれば、おれたちは悪でしかないのだろう。ただ目が合っただけで、退治された。それは都に突如あやかしが現れ、暴れ人を食らったこととなんら変わりないように思える。その都が今の森であり、暴れたあやかしが人間になっただけ。兄上たちがしたことは、悪さする邪なあやかしと等しいものなのだ。
 そしてそうさせたのは、おれだ。兄上はおれを探しにこのあやかしの森に訪れたのだから諸悪の根源はやはりおれであろう。
 そう、からす天狗が思っているのは話を少し聞いたおれでもわかったし、納得のできる言い分とも思った。
 八尾の妖狐は、この森の東の守護を担うものと、そうからす天狗の言葉から知った。ならば森を荒らした人間が来るきっかけとなったおれを、どう思うだろうか。
 妖狐は、人じゃない。獣であり、そしてあやかしなのだ。仲間が傷つく、殺される根源であるおれを、どう思う。
 やつの言葉を聞けぬおれはただ、その行動で真意を知ろうと、じっと後ろ姿を見つめる。しかし八尾は振り返ることもなければ、おれの前から退くこともなく。低く屈めた前身を起こすこともなく、警戒を解く気配もなかった。それは周りの黒狐たちとて同じで。
 今度こそ“人”に牙を剥くのであろうと思ったおれは、ひたすらに前に立つ妖狐の背を見つめ続けた。

『――東のよ。きさまがそのちっぽけな人間のために負った傷すらも忘れたか? それが来なければきさまも、きさまの仲間たちも血を流さず済んだのだぞ。味方を傷つけることも、本来好まずだった争いさえも、しなくてもよかった。己を変えてまでその人間を気に掛ける価値がどこにある』
「……え」

 からす天狗のいう通りの、ちっぽけな人間であるおれの呟いた声など、緊迫したこの場で、誰の耳に留まることなく消えていく。
 先程、からす天狗が言っていた言葉が、頭に繰り返された。
 妖狐たちが、これまで負った傷。それはおれが関係しているのか……? 八尾も四尾も、黒狐の怪我も。
 妖狐は最近、人間にとっての悪い森のあやかしを倒していたと、そうからす天狗は言っていた。それには何やら理由があるとも。それが、その理由が、おれとでもいうのか。
 おれの、このおれの、ために……?
 流した血の靄で洞がすべて染まるほどのあの大怪我も、そうだというのか。ましてや、争いを好まぬというその己の心を変えてしたのも、それも。
 ならば今こうしてからす天狗と対峙しているのは、やつに牙を剥きおれに背を向けているのは。それが、答えだからなのか。
 ――いや、本当は少し、そんな気がしていた。自惚れだとは思っていたが、もしかしたら。おれを守るために今こうしているのではないか、と。だがやはりあいつはあやかしで、おれは人間で。相容れぬものであり、本来混じり合わぬもののはず。だから確信など持てない。からす天狗の言葉を聞いた今もわからない。なぜならおれにはあいつ自身の声が聞こえないから。言葉など、わからぬから。
 だが。

『――改めて言おう。そして、これが最後だ。そこの人間をわしに寄越せ。その腹を引き裂いてくれよう。苦しみが続くよう、すぐには殺さぬ。最後にはさらし者にしてくれるわ』

 八尾が、言葉を返しているのであろう沈黙に。おれは拳を握る。
 ただ、妖狐の背だけを見つめ、待った。

『……なぜだ。なぜ、わしらの前にきさまは立つ。そんな、人間なぞに肩入れする』

 唸るようなからす天狗の声に、おれの背にはいつしか滲んでいた冷や汗が垂れる。

『――守り、たい? その人間をか? 長い歳月きさまが守護してきたこの森を見捨ててまで、仲間を巻き込んでまで、その人間を守りたいと、そう申すか』

 妖狐はそれでも、おれの前から退くことはなかった。
 それに、深い深いため息がひとつ返される。一度閉じられた瞼がゆっくりと持ち上がったその時、からす天狗の目はこれまでとは違う、何かを決意したような強い光をそこに湛えていた。

『――わかった。ならば、わしは森を守る者として、今ここでその人間もろとも、東のよ。きさまを八つ裂きにしてくれよう!』

 からす天狗は手にしていた葉団扇を大きく掲げると、勢いよくそれを振り下ろした。その瞬間に巻き起こった風はすぐにおれの元まで届き、息も止まるほどのそれにぶわりと煽られ足が地から離れる。宙に投げ出された身体でどうすることもできずただ空に足掻けば、振り返った妖狐が口を開いておれに迫った。
 巨大で鋭いやつの牙が迫り、思わず瞼を強く閉じれば身体が大きなその口に挟まれる。しかし、痛みなどまったくない。傷を与えぬよう注意を払いながら、飛ばされかけたおれのこの身を引きとめてくれたのだ。
 風がまだ余韻を残すかのように木々を揺らしているうちに、おれはそっと近場の木の影に置かれる。
 すぐに去ろうとする妖狐の鼻先に、自分でも気づかぬうちに手を伸ばしていた。湿るそこに手の平を当てながら、じっとこちらを見つめるつつじの花の色をする不思議な色彩の瞳に、開いた口からは言葉が出ない。

「っ、あ……」

 何も言葉を紡げずいるおれに、妖狐は一度顔を引いて自らおれの手から離れる。
 そのまま行ってしまうのだろう。おれは、なにも告げることもできず。そう思ってすぐに顔を俯かせたが、それとほぼ同時。顔にやつの生温かな鼻息がかかって髪がそよいだと思ったら、頬に、肩に。やつの鼻先がそっとすり寄ってきた。
 顔を上げて前を見れば、やはりおれを見る八尾が。腕を伸ばしやつの顔に震える手を添えれば、ゆっくりと瞼が閉じられる。

「――……」

 おれも妖狐へ顔をすり寄せながら、伸ばした短い腕で精いっぱい抱きしめる。そのぬくもりに、匂いに、感触に。手放したくないと、確かにおれは思った。
 何も言葉をかけないまま、枝から離れた葉がひらりひらりと地に落ちるほどの間。おれたちは隙間なく互いに身を寄せ合い、互いの存在を確認する。
やがて離れていく顔を、小さく頷きそして見送った。
 身体を反転させ、すでに黒狐たちとからす天狗との間で起こっている争いに八尾は滑らかに駆けて向かう。おれは、それを連れてこられた大木の影からそっと顔を出し様子を見守った。
 八尾はその巨体からどうにか飛べば届くも、四尾や黒狐たちが飛んだところで届かぬところにいるからす天狗にどう挑んでいるのか。一方的になぶられているのではないかと心配したが、それはどうやら彼らをよく知らぬおれの杞憂だったらしい。
 黒狐は近くの木を枝が生えるところまで駆け登ると、器用に枝を足場にくるくる幹を中心に回るように上に登っていく。時には隣の木の枝に飛び移り上へ上へと身体を移し、そして空に飛ぶからす天狗へ飛び掛かれる場所まであっという間に辿りついてしまった。そして同じように別の木から上にきた四尾と呼気を合わせながら、左右からからす天狗に食らいかかる。
 するりと翼を動かし後ろへ避けられてしまうも、黒狐も四尾も飛んだ先の木の枝に足を置き、再び体制を整えからす天狗へ狙いを定めていた。
 そして姿勢を崩したからす天狗には、八尾が下から口を開いて迫る。それを上へ逃げれば再び黒狐と四尾の追撃が待っていた。上から降ってくるように襲い掛かる二匹から逃れるために、下に口を開け控える八尾を避けて急下降する。
 しかし、その先で伏兵として二尾が待ち構えていた。
 鼻っ面に皺をよせ、恐ろしい形相で牙を剥く二尾。しかしそれに気づいたからす天狗が手にした葉団扇を煽いだ。
 猛烈な突風が吹きあがり、二尾の身体は牙を剥いたまま飛ばされ木の幹に強く身体を打ち付けられる。
 悲鳴を上げる二尾を目で追うおれと、そしてからす天狗。開いた口から血が飛ぶのが見てとれ、思わず顔がゆがむ。地に力なく崩れ落ちる二尾を心を曇らせ見つめていたその時、からす天狗の叫号が耳をつんざく。
 二尾から目を離しそちらへ振り返れば、その腕が、足が、黒狐と四尾の牙で抉られているのが見えた。

『おのれ……!』

 呪いを吐き捨てるかのようなからす天狗の声に、葉団扇を手にする左腕の自由に。おれは気づけば声を張り上げていた。

「離れろ!」

 しかしこの声が彼らの耳に届き、行動にうつる前に。八尾がおれの言葉の意図に気づき、からす天狗の牙に封じられていない左腕に前足を伸ばす前に。
 鋭くからす天狗の左腕が動いた。
 途端にからす天狗を中心に風が吹き荒れる。その激しさのあまりに、しっかりと食らいついていたはずの二匹は吹き飛ばされ、そして八尾の巨体さえも後ろにひっくり返された。
 黒狐、四尾は身体を大きく上に飛ばされ、風が止むとその高い場所から受け身もとれぬままに激しく地面にたたき落とされる。悲鳴すらも上がらぬその衝撃に、二匹は起き上がろうと動くことさえできぬ様子で、ぐったりと足を投げ出しその場に身を横たえたままだった。
 地に伏せながら、八尾もその姿を目にする。そして、立ち上がると同時に口を大きく開き、つけられた傷口を抑え痛みに耐えるからす天狗へ牙を剥いた。
 しかし、それにからす天狗は笑う。

『それがきさまの望んだことだぞ、東の。許さぬ、わしは決してきさまを許さぬ。言ったはずだぞ。きさまも、きさまの仲間も、人間も、八つ裂きにしてくれようと、な!』

 言葉の途中からす天狗は未だ動けずにいる四尾の方へ目を向けると、八尾が反応できないうちに手にする葉団扇を振るった。しかし、それは今までと違い煽ぐのではなく、空を切るように団扇を縦に持ち振り下ろす形だ。それでは風はできないのでは、と思ったが、やつの狙いがただの風でないことをすぐに知ることになる。
 葉団扇に先にいる四尾の背が突然裂けて、その血が空に舞った。
 それまで起き上がることすらできなかった四尾の絶叫が森に木霊し、悲痛なそれに堪らずおれは目を背ける。
 団扇を真横に仰げば風が吹き荒れ、切るように滑らせれば見えぬ風の刃が生まれる。先程はそれによって誕生した風の刃に、四尾の背は裂かれたのだ。
 唇を噛みしめ、目を逸らしてはいけぬと、おれは再び木の影から顔を出す。するとのたうちまわる四尾に向かって再び葉団扇が振り下ろされているところだった。
 おれはただ、目を見開かせ、遠くから手を伸ばすことしかできない。八尾もそれに気づき駆け出すも、今からでは風の速さに間に合うはずもなく。空気の流れで風の刃が四尾の首を狙い進むのが見えた。
 息もできず意味もなく手を伸ばしたおれを嗤うように、風の刃が四尾の首を刎ねようとしたその時。四尾の身体に白い塊が体当たりをし突き飛ばした。
 白い塊。それは、二尾だった。いつの間にか駆け出していたらしい二尾は全力で四尾の身に自身の身体を当てることによって突き飛ばし、どうにか風の刃から守ったのだ。しかし、その代わりに二尾が凄まじい悲鳴をあげる。
 四尾を助けたその代償。二尾が風の刃を受けることになりそして、ふたつある尾の片方を根本切られたのだ。そして残るもう片方も中程から切り離され、ただの塊となったそれらは離れた位置にまで吹き飛ぶ。
 痛みにただただ足掻き地に積もる木の葉を押しのけ空に舞わせる二尾を、冷たく見つめるからす天狗。その背後には、はっきりと怒りを露わにした八尾がいた。
 鼻っ面に皺が寄り、牙を見せながらわなわなと震える口元に、からす天狗が振り返ったその時だ。
 八尾が、からす天狗に向かい口を開いて襲い掛かる。しかしそれを上に逃げ避けたやつは、そのまま地に噛みついた妖狐へ葉団扇を縦に振り下ろした。

「ひっ――!」

 飛び出たおれの悲鳴など掻き消すほどの、八尾の叫びが森中に広まるように。その噴き出した血の靄も、色濃く辺りを包んでいった。
 離れたところにいるはずのおれのもとにまで、それは届く。
 だが、からす天狗の風の刃は一振りには留まらなかった。二度三度と下され、その度に初めについた右肩の傷に続き、右頬が、左わき腹が。そして四振り目には右片耳までが失われる。
 もはや妖狐の血の靄に阻まれ、空を飛ぶからす天狗はおろか、妖狐自身の姿すらもこの目には霞む。だがそんな中、光放つからす天狗の目が、未だ苦しんでいる二尾へ向けられるのがわかる。そしてそれを知ると同時、おれは、駆けだしていた。
 走り、そして足掻き続ける二尾の前に立ち、こちらを向くからす天狗と対峙する。
 闇の中、濃厚な血の靄の中。あやかしであるからなのか光る二対の目に、おれの足は笑ってしまうほど震えていた。しかし、目の前から視線を逸らすことなく、その場に仁王立ち両手を広げる。

『なんの真似だ、人間よ』
「これ、以上……こいつらを傷つけるな」

 絞り出した声すらも震え、それはからす天狗の嘲笑を買う。

『ほう、その無力な、牙も爪もない身でわしの前にはばかるか。その勇気は認めてやろう。しかし、大人しく木陰で隠れていればよいものを。守ることなどできぬ、奪うばかりの愚かな人間が』

 冷たいその声音が、ここで大人しく引き下がってくれるなど到底思えなかった。
 おれは、おれには、おれでは。妖狐たちを守ってやることなんてできない。自分の世話すらろくにできないおれが、力なきおれが、できるはずもない。
 こうして妖狐たちがからす天狗と争っているうちに逃げ出すことくらいできたはずだ。追いつかれるかもしれないが、足掻くことぐらいおれにもできたはずだ。でも、できなかった。
 ただ彼らの戦いを見つめるばかりで、その苦痛を聞くばかりで、悲鳴に目を逸らすばかりで。それしかできない。こうしてからす天狗の前に出たとて、交渉もできぬおれは睨むばかりしか。
 本当、なんの役にも立たない。身体を震わすばかりで、なんと情けないことか。本当は、今すぐにでも逃げ出したいさ。どうせ役にも立たないのだ、八尾のやつも今背を向けてひとり逃げたとしてもきっと責めたりなどしない。むしろそれを望んでくれているのかもしれない。おれを変に気に掛けるよりいなくなった方が、余程戦いやすかったろう。
 でも、それではおれが駄目だったのだ。

「――ない」
『む? 何か言ったか、小さき人の子よ』

 細まる目に、おれは叫んだ。

「ここは、退かない! おれは逃げない! 例え立ち向かう武器を持たずとも、おれは、おれも、こいつらとともに戦う!」

 笑ってしまう。全身を震わし、立つこともやっとな恐怖を覚えながら、それでもおれはこの独りよがりなわがままを突き通そうとするのだから。
 でも、それでも。これがおれの決め選んだ道なのだ。たとえ今ここでやつにこの身を裂かれようとも。ここで妖狐たちを見捨て逃げ出し後悔するよりいい。

『――ならば、己の無力を恨みながら死ぬといい』

 振り上げられる葉団扇。それは縦に、刀として、今まさにおれを斬ろうとしている。
 妖狐は、八尾はどうしているだろうか。生きているのだろうか。
 今までのどの血の靄よりも濃い。生きていられたとして、虫の息がいいところか。
 ――おれが、巻き込んでしまったのだな。なぜ妖狐があの時、牛鬼に襲われ傷ついたおれを助け、そしてこの森で世話をしてくれたか知らぬが。はじめは境遇を呪ってばかりいたが。恐れてばかりいたが。
 今では、よかったと思っている。恐ろしい目に遭ったが、苦しい思いもしてきたが。それでも、巻き込んでしまったやつらには悪いが、おれにとってはきっとよかったのだ。
 ただ流されて、そして今後も己を忘れ過ごしていく日々よりも。触れ合う温もりなど知らず過ぎゆく人生よりも。あやかしを一概に悪と決めつけ恐れ知らぬよりも。
 おれというひとりの人間を、彼らは見てくれた。人間だとかあやかしだとか、そうではない。ひとつの生き物として、等しい者として。
 八尾の身体に寄りかかり、二尾と四尾のじゃれあいを見ていた時を思い出す。それは、やつらの優しさに気づくのが遅かった愚かなおれの安息のほんのひと時。妖狐たちの存在を認め、無暗に恐れることを止めたあとの、ささやかな日々の一幕。
 それはおれにとって確かな、幸福だった。
 できることならばまた、あいつの身体に顔を埋め静かに眠りたかった。寒い夜でも、多少獣臭くも温かいやつの身体。長い毛にうずもれ、少しの息苦しさを覚えながらも、身を寄せ合い眠りたかった。
 からす天狗の葉団扇が振り下ろされる。ひゅん、と風の刃の音が迫ってくるのが聞こえた。
 もう一度、伝えたかった。ここからでも聞こえるだろうか。ああでも、もう間に合わないか。――ありがとうと、まだ言い足りていないのにな。
 すまない。なんの恩も返せず、礼すらもろくに伝えることのできぬ本当に愚かな人間で、最後まで頼りにならぬ人間で、すまなかった。
 目を閉じれば、最後に触れ合った、互いに頬を寄せ合った時のあいつの目が脳裏に浮かぶ。つつじの花のような色をした、人ならざるものの目。はじめはそれが恐ろしかったが、今ではなんと美しいものだったのかと思う。もっとよく見ておけばよかった。

『ああぁぁあっ!?』

 ただ静かにこちらを見つめるあの瞳を思い出しながら、拳を握り覚悟も決められず後悔ばかりを思い起こすそんなおれに触れたのは、風の刃でなくからす天狗の絶叫だった。
 驚いて目を開くと、そこには葉団扇を手にしていた左腕が火で包まれているからす天狗がいた。紅色の火はからす天狗が腕を振ろうが、地に落ちるように転げそして土を被せてみても消えることはない。
 わけもわからずただその光景を見つめれば、濃い血の靄の中、他にも揺れる火が見えた。そちらへ目を向け何が起こったのかを悟る。おれは全身から力を抜かし、その場に崩れ落ちた。
 見上げたその先に、八尾が立っていた。生々しい傷跡を晒しながら、絶えずそこから血の靄を吐きながら。だが生きて、そこに立っていた。
 しかし何よりおれの目を奪ったのは、妖狐のその身体が放つ輝き、炎を纏う足元や尾の先。そして、周りを浮遊する八個の火の玉だった。

「きつ、ね、び……」

 狐火。妖狐がつかうという、彼らの妖気が具現されたという、火の玉だ。書で一度読んだことがある。他には妖狐の吐息が光っているだとか、尾を打ち合わせて火を起こしているだとか、様々言われるが、今妖狐の周りに漂うそれは、身に纏うそれは、狐火なのだと、おれは直感した。

『おのれ東の……!』

 いつの間にか手に纏わりついていた火が消えたらしいからす天狗の腕は、しかし黒く焼け焦げもとの形がわからないほどになっていた。その手を黒狐によって傷つけられた腕で抱え、仄暗い光を湛え妖狐を睨んでいる。
 しかし、八尾はその姿をただ静かに見つめるだけだった。それがさらにからす天狗のはらわたを煮えくり返すことになったのか。やつは羽根を広げ飛び立つと、そのまま妖狐の顔にとびかかろうとする。
 だが、それは途中で勢いを殺す。

『くっ、前が……!? わしに何をした、東のっ!』

 空でのた打ち回るからす天狗を、目を凝らしよく見れば、妖狐の流した血である赤い靄がやつの顔が見えぬほどに纏わりついていた。手で振り払おうともそれはまるで意志あるようにからす天狗の視界を遮る。
 じたばたと手足をばたつかせ足掻くからす天狗に、妖狐の周りに浮かんでいた八つの狐火がゆっくりと近づいていく。
 そして、血の靄がやつの顔から薄まると同時に、代わりにその身を狐火の炎が包んだ。
 開いた嘴から飛び出した絶叫に、おれはただ夜の中に燃え立つ鮮やかな火を見つめる。やがては地に落ち、どうにかそれを消そうと転げまわるも炎は消えず。やがて動かなくなり、そして完全にからす天狗が止まった頃、ようやく火は静かに消えていった。
 そこに残ったのは、全身を黒こげにした、もはや誰かもわからぬかたまりのみ。地に敷き詰められた木の葉などには一切火は移らずに、ただからす天狗だけが燃えてしまっていた。
 黒いただのかたまりと化した、からす天狗だったものをしばらく見つめおれは動けずにいた。しかし傍らから二尾の呻き声を聞き、ようやく我を取り戻しそこへ目を向ける。

「……だいじょうぶ、か……」

 口から、尾から流した血を少しずつ靄にさせながら、二尾はぐったりと横たわったまま目すら開けない。
 触れることもできず、どうにもできないままただ手だけを彷徨わせていれば、いつの間にかおれの背に来ていた八尾が、すっと二尾に顔を寄せた。すでに身体の光は消えており、狐火もない。いつもの妖狐の姿であった。
 その時、黒狐も傍らに来て、四尾も傷つき血を流すその身体を引きずりながら二尾のもとへやってきた。そして切られてしまった尾を黒狐と四尾が、顔や身体は八尾が舐めてやる。その姿に、おれはそろりと手を伸ばし、足先をそっと撫でてやった。
 それからしばらくして、うっすらと目を開けた二尾。その視線は定まっておらず揺れていたが、それでも顔を舐めていた八尾の鼻先を舐め返してみせる。尾からの流れる血も収まりつつあるように、おれには思えた。
 二尾の小さな舌を感じてから八尾は顔を離す。そして次に背に大傷を負った四尾の身を血が止まるまで舐めて、次に黒狐の身体を舐めて。三匹が静かに眠りについた頃、次におれをみた。
 顔に伸ばされる大きなやつの舌は、怪我などしていないおれの身を舐める。自身の傷の方が余程深刻だというのに。未だ、血が出ていて辺り広まっているというのに。
 でも、八尾の温もりに心の底から安堵するおれがいるということにも気づいていた。だからこそおれは震える指先を伸ばしながら、そろりと歩いて妖狐の胸もとに抱きつく。
 ふわりと軟かい毛が、飛び込むようにして触れたおれの身を受け止める。全身でそれを感じながら、傍らの二尾、四尾、黒狐の寝息を聞きながら。八尾に触れながら、胸の奥からこみ上げたものに声を殺しながら静かに溢れさせた。

「よ、かった……よかった……っ」

 告げたいことはたくさんあった。おれなど見捨ててくれてよかったと、おまえたちの敵である人間など放ってよかったのだと。おまえたちが争い傷つく必要はどこにもなかったのだと。だが、嬉しくもあったのだ。この森よりおれを選んだ妖狐の意志が。それに従った黒狐たちが。
 だからこそありがとうと言いたかった。出会いの、牛鬼たちからおれを救ってくれたこと。その後世話をしてくれたこと。おれの中のあやかしという存在を変えてくれたこと。ぬくもりを教えてくれたこと。――兄上たちを、おれを救ってくれたこと。
 すまない、と謝りたかった。助けてくれたのに怯えてばかりいたこと。その礼を何も返せていないこと。争いをさせてしまったこと。こんな、大怪我をさせてしまったこと。
 告げたいことは、告げなければならないことは、たくさんある。だがおれの震える喉はただ同じ言葉を繰り返した。八尾の身体に顔を押し付けているため、声もくぐもっており、今にも消えてしまいそうなほどに小さなそれが、果たしてやつの耳に届いているかはわからない。
 だが今はただ、妖狐たちとともに在れていることを、震えるほどに歓喜した。
 ようやくおれの嗚咽が収まった頃。妖狐に鼻先で背を叩かれる。顔を上げれば涙を舐めとられた。
 湿る鼻を鳴らしながらおれも手を伸ばし八尾の鼻先を撫でれば、不意にそれが離れていく。どうしたものかと目先の大きな顔を見上げれば、顎で自身の後ろを示していた。
 妖狐の影からそろりと脱げだし示された先に目を向けてみれば、離れた場所に兄上を見つけた。そのさらに後ろにともに生き残った兵たちがおり、その中に佐太殿の姿もある。
 おれはもう一度全身で妖狐の胸元に抱きつき、頬ずりしてから、それから離れて兄上のもとへ向かった。

「雅……」
「――――」

 向き合った兄上の目は、しきりにおれの後ろで待つ妖狐に向けられているのがわかった。あれほどの大妖が暴れれば、いくら手負いとはいえ今生き残っている兵だけは到底太刀打ちなどできない。恐れるのは当然のことだ。

「大丈夫です、兄上。あいつはおれたちを襲いませぬ。それどころか、我らをからす天狗から守ってくれたのです」
「……やつが、おまえのこれまでの時すらも見守ってきたのか」

 おれが頷けば、兄上はしばらく間を置き、そして深い溜息を吐いた。

「妖狐がおまえを、そして我らを手助けてくれたことは、正直信じがたい。しかし先程の戦いを、おまえとの様子を見せられれば信じるより他ないな」

 疲れ切った顔で、しかし兄上は穏やかに笑んだ。それは苦笑に近かったかもしれないが、長旅を続けようやく一息つけたような、そんな安堵が見えた気がした。
 それにつられ、おれの頬を緩む。兄上の後ろに控える佐太殿方は皆一様に表情をかたくしたままだったが、今回の討伐隊の総指揮をとる兄上にさえ理解を得られれば問題はなかろう。

「あの妖狐らに礼を言わねばなるまいな。おまえを保護してくれただけでなく、我らを助けてくれた」
「――いや、それはおれから伝えておきましょう」
「そうか、それは助かる。正直悪いあやかしでないとわかったとはいえ、近づくのは恐ろしい」

 その言葉に互いに笑みを深め、そして兄上はおれと向き直る。

「さあ、雅。この森に長居は無用だ。早く戻ろう。父上も母上も雅信も。おまえが無事その顔を見せることを待ちわびているぞ」

 差し出された兄上の手を、おれはじっと見つめた。
 同じ人間の手だ。大きさもそう違わぬ、人の。親しい者の。兄上の。
 しかし、目を閉じたおれの胸に浮かぶは、人ならざる者の手だった。おれの身体ほどもある太く毛に覆われた、あやかしの。恐ろしい思いばかりさせられた者の。彼の。
 だがそれが、おれの出した答えなのだ。

「兄上。おれは、彼らとともに参ります」

 静かに口から出た言葉に、しかし兄上は驚く様子はなかった。ただ目を伏せ、一度ゆっくり瞬くと、おれを見つめる。

「……そうか。よし、雅。そこに座れ」

 差し出していた手を下すと、そう告げながら先にその場に腰を下した。
 顎で示された場所におれも座り、兄上を見つめる。それからおれたちの間で交わされたのは、かつての思い出話だった。
 おれが養子に出されるまでの、兄上たちとともに過ごした日々。幼い頃の思い出は、末の子であるおれがどれほど愛らしかったというものばかりだったが、それほど大切にしてくれていたのかと知ることができて、それだけで止まったはずの涙がこみ上げてきそうになる。
 そして、おれのことで知らせを受けた日のことも話してくれた。もうひとりの兄上である雅信兄さまとともに、帝にあやかしの討伐隊としての体なら人を出してもらえるのではと画策したことも教えてくれた。そしてもとよりあやかしの森を疎んでいた帝がその策に乗ってくれて無事討伐隊を組めたこと。その後この森を目指し歩んできた道の途中、どれほどおれを想ったか。
 兄上たちには、大変な苦労と心配をかけてしまった。やつれきったその身体、ほつれ泥だらけの衣、細かな傷、それ等をみればわかる。だがそれでもここまで来てくれた。おれの生存を信じ、進み続けてくれた。どれほどありがたく、嬉しいか、言葉にすらできないほどだ。
 おれは兄上に妖狐との出会いと、そしてそれからを語った。はじめはどれほど恐ろしい存在であったか。それが少しずつ心の拠り所となり、自ら触れるようになったか。妖狐のことを知ってもらいたくて、兄上にも認めてもらいたくて、おれは必死になって言葉を紡ぐ。それを兄上はただ穏やかな笑みを浮かべ、時折頷いて。否定することなく耳を傾け続けてくれた。
 妖狐たちの血が靄となり濃厚にたちこめるこの場所で、笑い思い出話に花を咲かせ、時に涙ぐむおれたちはさぞ、奇妙に人の目に映るだろう。しかし、そんなの気にはならなかった。ただ互いの無事を祝い合い、そしてあと少しで訪れるであろう今生の別れに。悔いなきよう言葉を重ね合う。
 ひとしきり話終え、しばらくするとどちらからともなく口を閉ざした。そして訪れた沈黙に、兄上とおれは目を合わせ、頷き合い立ち上がる。
 いつしか顔に浮かべていた笑みを消し去り、苦しげな顔をする兄上に、おれはただ笑みを向けるしかできなかった。

「……本当に、彼らとともにゆくのか」
「ええ。それに、おれはもう――」

 一息には言葉が出ず、一度はそれを飲み込む。
 だが、兄上の目を見つめながら、おれは再び口を開き、続けた。

「おれはもう、あやかしに近い存在になりつつあります」
「なんだと」
「恐らく、ですが。この森……この、あやかしの森に実る果実や水を飲んだからか。もしくは大妖である妖狐の妖気にあてられたのか。それはわかりませぬ。しかしこの身は傷の治りは驚くほど早まり、腹もすかなくなりつつあれば、水も求めなくなってきています」

 おれの言葉に、初めは目を見開き驚いていた兄上も、少しずつ内に飲み込んでいったのか。
 力なく、そうか、と呟くだけだった。

「――人に戻れるか、わかりません。だからこそおれはもう、人の世では生きられません」

 人の姿をしていても、異形とは気づかれてしまうもの。気づかれてしまえば人間は己と異なるものを恐れる。おれもそうであったから、よくわかるのだ。
 人であり、しかしあやかしの気も持つようになってしまった半端なおれはもう、特に異端を拒絶する人の中にはいられまい。しかし人を捨てきれぬからこそ、あやかしの中でもいられない。
 だが、人であろうとおれを受け入れた奇特なあやかしのもとでなら、この半端な身とて、許されるであろう。

「だから彼らとともにゆくのか?」

 兄の言葉に、おれは首を振った。

「――いいえ。おれが、そうしたいからです。たとえこの身が人のままであってもきっと、おれはこの道を選んだでしょう」

 人であり、あやかしになりつつあるこの身はもう行き場など限られてしまっている。だが、だからといっておれはこの道を選んだわけではない。
 おれがそうしたいから、おれがそう望んだから。おれの意志が、それを選んだのだ。

「……達者でな」
「兄上も。父上たちにもそうお伝えください。そして――雅はようやく、己の道を見つけたと」

 言い終えるとともに、かっと顔に熱が走った。自分でも何が起こったかわからないまま頬に感じる熱に指を這わせれば、驚く兄上の顔が目に映る。そして指が辿る熱の線に、おれはようやく己になにが起こったかを悟った。
 兄上はあえて何も言わず、最後に、笑顔を見せる。そして力強く頷いた。

「ああ、任せろ」
「――……それでは、兄上。どうかお元気で!」

 妖狐と同じ文様が刻まれた顔で、おれは兄上に手を振り、帰るべき者たちのもとへ駆け寄った。

 

 

 

 時は過ぎゆく。時代は廻り、人の世も姿を変える。
 そんな中、とある山奥では決して変わらぬ物語がひとつ語り継がれていた。
 それは人とあやかしの物語。
 ひとりの人間を愛した妖狐。そしてその妖狐とともに歩むと決め、半妖となった人間。そんな彼らの、終わりなき物語。
 今でもその山奥では時折、大狐とその背に乗った美しい青年が、三匹の狐を従えて姿を現すといわれている。
 彼らはともに揃いの文様の顔に刻み、時に人助け、時に妖助けを行いながら、その山を見守っているそうな。

 おしまい

 

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さてさて。思った以上に長くなってしまいましたが、いかがだったでしょうか。

あばんじゃさんには一番初めにお借りしたネタの他に、妖狐の血は靄になることや、あやかしの森のこと、狐火のこと、揃いの顔の文様など色々と提案してくださいました!
作品がいい出来かどうかはともかくとして、自分でも違和感なくそのあたりは物語に組み込めたかな、と思っています

本当、ツイッター上にて呟かれた素敵な人外ネタを恐れ多くも書かせていただきましたが、正直な話書いていて楽しかったです!

化け物あやかしと怯え、しかしそんな彼らと過ごさざるを得ない日々を強要された雅。彼には頑なに拒絶してもらいました(あまり書けてないかもしれませんが)
でも人間であり、怪我もしている彼は少しずつ弱って時には風邪で寝こんだり。そんな時にそっと寄り添ってくれる妖狐を少しずつ気にかけていく、その姿が無事書けていればなあ、と思います。

本当でしたらこの場所にあばんじゃさんの当時の呟きそのままに、この妖狐の物語の元になったものを掲載したいところですが、多分それは許してくれないので残念です(恥ずかしがり屋さんなので)

本当、人外好きなら誰しも萌えるような内容なんですよ!
ちょっとあうんの小説だと伝わりにくいですが、大まかな内容は原作に沿っている、はずですので……。

※ここからはあうんが妄想した、彼らのその後です。

まず、その後彼らはあやかしの森を出て、とある山に住みつく予定なんですよ。
八尾は九尾となり。
二尾、四尾、六つ尾の黒狐もそれぞれ尾の数を増やしながら九尾を目指し成長していきます。

そんな中雅はゆっくりと人からあやかし(といっても半妖)となり、そして最終的に人狐になるんです。
ただ、狐の姿になれるだけですね。しかも普通サイズ、尾の数も一本です。
でもあやかしとなったから、寿命が格段に延び、そして妖狐たちとともに生きることが可能になるんです。
人の寿命では妖狐にとっては瞬きほどの短い時しかともにいられませんが、人狐となった雅とはずっと一緒に居られます。
そして自分たちが住む山を見守りながら、ずーっとみんなで仲良く穏やかに過ごしていく……というのを想像しています。

人と人外って、寿命の差はもはや宿命ですからね。
でもずっと一緒に居てもらいたいからこそ、雅には最後、あやかし混じりとなってもらいました。

……実は今回書かせてもらったこの妖狐の物語。
あうんが初めて完結させた中編ですね。短編は何作か書きましたが、長編含め中編で書ききったものは今までありませんでした。
だからこそ、そういった意味でもとてもいい経験をさせていただきました。

そしてだからこそ、たくさんの思いを込めたこの作品への愛があふれてついつい後書きがこんなに長く……ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。

折角頂いたネタを生かしきれなかった物語ではありますが、楽しんでいただけたのであれば幸いです。

ではでは。
本当にこの物語を私に書かせてくれてありがとうございました!

2013/06/19

原案  :あばんじゃさん
執筆  :阿吽