気をつけたほうがいいーーそう、フェリクスには言われていたのに。
二日前の会話を思い出しながら、春一はどうしたものかと内心で頭を抱える。
「ハル殿、どうかされましたか?」
「いえ――」
にこやかに声をかけてくるのは、注意するように言われていたはずのシャティフルの第二王子であるナーシルだ。
教材として使用する資料を探しに訪れた王宮図書館に、ちょうど彼らも見学に来ていたらしい。
王宮図書館は入城が許可されている者であれば誰にでも解放されている。希少な書物や歴史書など文化的価値が高いものは別の書庫で厳密に管理されているため、一般人の目に触れて困るようなものは置いてはいない。
たとえ異国からの客人であっても制限されることはないので、ナーシルが来ていても何も問題はないのだ。
しかし各国特有の種が記録された動物図鑑を求めて図書館に来ただけで、こんな偶然の出会いは予想もしていなかった。
使節団の一員とはいえ、相手は他国の王族でもある。何かあればさっと春一の前に出て守ってくれるセオドアも、今回は一方的に遮断するわけにもいかないようだ。
何かあればすぐに対応できるよう、ひとまず邪魔にならない程度に斜め前に立ち目を光らせてはいる。まだ口を挟むまではせずに、春一たちの様子をじっと見守っていた。
ナーシルは慣れた様子で軽やかに、春一は油が切れたブリキのようにぎこちなく挨拶を交わして互いに名乗り合ったが、もちろんそれではさよならというわけにはいかないようだ。
本当なら目を合わせた時点で回れ右したい気持ちだったが、まさかあからさまに踵変えすわけにもいかず、かといってどう対応すればいいのかもわからず、春一は存在を消すように縮こまる。
しかし大勢のなかのひとりというわけではない。どんなに気持ちとしては小さくなったところで琥珀の瞳はまっすぐに春一を見つめ、まるで正体を見極めるように目を細めた。
「滞在中に一度ご挨拶できればと思ってはいましたが、こんなところでお会いできるとは思いませんでした。お顔を拝見できて光栄です」
「そ、それはどうも」
王族とはどこの国でも顔がいいと決められているのか、ずっと鼻筋の通った美丈夫の口元に淡い笑みが浮かぶ。
「お持ちのものは動物図鑑ですか」
「ええ、そうです。興味がありまして」
「子どもたちに見せるためですか?」
春一が教師役をしていることは秘匿されているわけではないが、他国の者にわざわざ知らせることでもない。しかしナーシルはすでにそのことを承知していることに驚いた。
春一に興味があるナーシルに誰かが教えたのか、それとも独自に調べたのか。
どちらにせよ少し彼に対する警戒心が強まる。
「絵もついているから、口で教えるよりもわかりやすく説明ができるのでよく利用しています」
心情の変化を表に出さないよう、気をつけながら脇に抱えていた図鑑を前に出した。
「ハル殿は動物にお詳しいのですか?」
「詳しいというほどでは。それに知っている内容も本の知識で、実物はほとんど見たことはありませんが」
表紙を覗き込んだナーシルは表紙にある文字を視線でなぞり、やや考え込む素振りを見せる。
「――世界の動物、ということはもしや、私が連れてきたギサルにご興味があるのでは?」
「それは……はい、子どもたちが誰かが聞いたらしくて」
悩んだのは一瞬で、正直に答えることにした。
はぐらかそうと考えたのは、これ以上会話を長引かせたくはなかったからだ。しかし自分が嘘が得意でないことは自他ともに認めるところであるし、隠すほどのことでもないかと思い至ったからだ。
だが本当はもっと違うことに警戒すべきだったのだと、駆け引きめいたことに疎い春一は気がつくことができなかった。
「それでしたら、よろしければ私の部屋に来ませんか?」
「え?」
やはりそうきたか、と傍らに控えるセオドアが内心でついた深い溜息は、当然ながら春一には聞こえない。
「ギサルは我が国の固有種で、本来であれば我が国に訪れることがない限り目にすることはないでしょう。しかし彼らは警戒心が強く、人に慣れることも滅多になく見かけることさえも難しい。ですが今回は私が連れて来ていますから、ぜひ見にいらしてください」
「あ……でも、元気がないと伺っております。国元を離れて、違う環境で過ごしているのですから、疲れていらっしゃるのでしょう。見知らぬ他人が顔を出せば余計な負担をかけてしまいますから」
幸い本心にあった懸念をそのまま伝える。実際には興味があるし、見られることなら見てみたいが、弱っているギサルにはゆっくり休んでもらいたいというのも偽らざる気持ちだ。
それでもナーシルがギサルをだしに春一を部屋に招くこの好機を無駄にするはずはない。
「ハル殿も気にかけてくださっているとは、ありがとうございます。確かに少々疲れがあるようですが、ハル殿の御尊顔に拝謁できれば元気になると思います」
そんなわけあるか、と咄嗟に口に出かかった言葉をどうにか飲み込む。
春一にはフェリクスの魔力専用の貯蔵庫という特殊な力が確かにあるが、それ以外はただの一般人で、魔法を扱うこともできない。
フェリクスのような見慣れても時折まぶしく感じるようなきらきらとする顔なら動物相手にも効果がありそうだが、残念ながら顔立ちも平凡そのもの。むしろこの世界では彫りが浅く薄い顔面はのっぺりとしてそっぽを向かれてしまいそうだ。
「いえ、やはり怯えさせてしまっても心苦しいので、せっかくお誘いいただきましたがご遠慮させてください。ですがもし元気になられたあかつきには、フェリクス殿下と二人でお邪魔させていただいても構いませんか? あのお方もギサルに興味があるそうですから」
この場では角が立たないよう断りつつ、やむを得ず行くことになってもフェリクスが同伴できるのなら、何かがあっても彼がうまく立ち回ってくれるだろう。
「おや、フェリクス殿下にもご興味いただけていたとは。ではその時にはぜひお声かけいたしますので、殿下とともにいらしてください」
「――ハルさま、そろそろお時間です」
自分にできる最大限の回避ができたことに安堵したところで、隣から声がかかる。
「すみません、この後に用がありまして。またお会いできましたらよろしくお願いいたしますね。それでは失礼いたします」
実際には何もないが、セオドアが出してくれた助け船に正しく乗りかかり、別れの挨拶を交わしてその場を後にする。
引きとめられるかとも思ったが、ナーシルはにこやかな笑みを浮かべて春一を見送った。
本当なら他の資料も探す予定だったが、そそくさと王宮を後にして、住み慣れた王弟宮に逃げ帰る。
部屋に戻り、ようやく一息つくことができた。
「ナーシル殿下のことはよい対応だったと思います。お疲れさまでした」
ぐったりと長椅子に沈み込んだ春一を、セオドアが労る。
「まさかあんなところにいるとは思いませんでしたよ……」
「ただの偶然であればよいのですが」
「え、まさか。ただの偶然ですよね? あそこは誰にだって解放されているわけだし……ですよね?」
不穏な発言に不安を煽られ、春一は部屋の隅でお茶の準備をするセオドアを振り返った。
「それに、思いのほかあっさりと逃がしてくれましたし。やっぱりちょっと顔を見てみたかったくらいだったのかも」
「そうだとよいですが……」
表情は晴れることはなく、セオドアは珍しく歯切れ悪く言った。
結果として何もなかったし、春一自身はナーシルに対する嫌な直感はとくに感じなかった。だがだからといってセオドアの懸念を軽んじるつもりはない。
油断せず、引き続き警戒すべしと頭の隅に記憶しておく。
「――まあ、あの王子のことはこのあたりにしておきまして。そんなことよりも今はうちの王弟殿下のことを優先いただくべきですね」
「う……」
気がかりであったはずの異国の王子のことは一瞬にして遠くに追いやられ、すぐに頭の中はフェリクスのことで埋め尽くされていく。
籠絡作戦はこれといっていい案が浮かばないまま、ただ時間だけが過ぎていた。
同衾することで二人がともに過ごす時間は確実に確保できているし、友人として毎回尽きることのない思い出話で盛り上がっている。
それはそれで楽しいのだが、本来の目的である春一への未練を引き出せているとはまったく思えなかった。
むしろ満足のゆくまで語りつくして、これで悔いはないとフェリクスに笑顔で送り出されそうな勢いだ。
ここ最近は寝ても覚めても悩み考えては、そして答えも出せず、自ら残りたいと口に出す覚悟も決まらず、もやもやとした日々を送るばかりだった。
「セオドアさん」
「はい」
「おれの現状を打破するための検索ワード並べるとしたら、なんですかね」
突然の発言にもセオドアは訝しがることもなく「ふむ」と顎に手を添え考え込む。
春一がもといた世界ではインターネットが発達していて、調べ事をするときは検索するための単語を並べるのだと教えたことがある。以来、考えが煮詰まったときなど、セオドアに検索ワードを上げてもらい、視点を増やすことをしていた。
つまり行き詰っているというわけだ。もちろん、フェリクスに引きとめてもらおう作戦について。
手っ取り早いのはフェリクスの役に立ちそうなことを探すことだと思っていたが、どこを見ても王家を支えるそれぞれの部門のプロフェッショナルが揃っている。どの分野も素人でしかない春一が手を出せる部分はこれといってなかった。
今は寝起きをともにしているので朝の着替えを手伝ってはいるが、そのために残ってほしいと思われるわけがない。むしろその手伝いだって、春一が半ば強引に名乗り上げたのだ。求められて始めたことでもないし、代わりはいくらでもいる。
時間があれば自分に何ができるのかと考えているものの、これといって浮かばずお手上げ状態だった。
「そうですね。成人男性、籠絡、とかですかね」
「……ろうらく」
「もしくは落とす、とか、夢中にさせる、魅力的にみせるには、などいかがですか」
「……ははは」
自分から聞いておきながら乾いた笑いで返すのは失礼だとわかっていても、返す言葉がないので誤魔化すしかない。
いくら検索するためのワードを並べたところで、ここに検索エンジンなんて便利なものはないので調べることはできない。
こういう時、向こうの世界は良かったなと思う。ネット環境さえあれば一つ所で多くの情報を探すことができたのだから。
不正確な情報も溢れていたので真偽を見極める工夫は必要だったが、検索した単語に対してちょっとした関連性があるだけのものも含めて膨大に提示されるのだから、着想を得るには十分だっただろう。
だからといって帰りたいとは思わないけれども、今はあの便利さがあればと痛切に思う。アイディアを捻り出すために書物を探すにしても、どう探せばいいのかも検討もつかない。
もっとも、以前からこのような事態になるという想定は薄らあって、帰る気がなくなった頃から意識はしていたのだ。
今思い返せば、いい方法がなにか何か無意識にいつも探していたと思う。それでも見つけられず、ついに問題に直面して困り果てているような発想の貧困さが問題なのかもしれない。
「そういえば、今度お二人で城下へお出かけされますよね。子どもたちが言っていた噂にでも頼ってみるとのことでしたが、殿下にそれとなく情報を渡しておきましょうか」
春一自身はほとんど王城内に引きこもっているので市井の噂話や口伝の俗説には疎いが、時々子どもたちがどこからか聞いた話を教えてくれる。そのなかには迷信じみたまじないや、古くから人々に信じられてきた俗信などがあった。
フェリクスと外出の約束をした際、いわゆる験担ぎとしてそのうちのいくつかをやってみることにした。それを行うだけでうまくいくなんて楽観視はしていないし、とくに信じているわけでもないが、今は藁にもすがる思いだ。いい方向に転がるきっかけになってくれればいいという程度には願っている。
「フェリクスに噂やまじないを教えるってことですか?」
「ハルさまがそれをご存知であるとはお伝えしません。ただ、そういう話があると知っていれば、実際にその行動をすることになった際には少しは意識してもらえるかもしれませんよ。もしくは、実はハルさまは知っていてやっているものだと考えるやもしれません」
「……もし、知っているのか聞かれたら?」
「素直に知っていると言ってもよいのではないでしょうか。偶然まじないに値する行動をしていただけで意識はしていなかったと言えばそれまでですし、誤魔化すことはできます。もちろん、正直に効果を期待したと告げてもいいと私は思いますけどね」
意図してやったと伝えればそれはつまり遠回しな心情の吐露になる。しかし察して欲しい、相手からの言葉が欲しい、というアピールにはなるが、それなら自分から「残りたい」と言うのとそれほど変わらない気もする。
――いつまでつまらない見栄をはるつもりなのか。
どこかで自嘲する、そんな自分の声が聞こえた気がした。
もう自分の期限と決めた日まで残り少ない。だが別にぎりぎりまで粘ることはないのだから、今回の外出がちょうどいい機会なのかもしれない。
もし外出の結果でフェリクスから望む言葉を引き出せなかったら、いよいよ自分が折れて正直に帰りたくないと伝えるべきだろう。
帰るにも、帰らないにしてもやるべきことがある。答えが出るのが遅くなればなるほど周囲も巻き込むことになるのだから、もうちっぽけな年上の矜持を守っている余裕はない。
だがそれにはひとつ、心配ごとがあった。