それが起きたのは、春一が希望する大学に合格した頃のこと。同じく進路が定まった友人たちとお祝いをすることになり、浮き足立ちながら集合場所に向かっていた時だった。
行き慣れた道を歩いていると、突如として目の前の空気が歪んだ。驚いて咄嗟に飛び退いたが歪みは景色を捩じり上げながら急速に広がり、春一はそれに絡めとられるようにのみ込まれてしまった。
地面の感覚が遠のき、見慣れた何の変哲もない町中の景色も外気の冷たさも消え去っていく。手足をじたばたさせても何も感じるものがない恐怖と途方もない心細さは、まだ未熟だった春一の思考を奪うには十分なものだった。
ぱっと闇が晴れたら場所は室内へと切り替わり、気がつけば春一は見知らぬ部屋のなかでただただ呆然とするしかできなかった。
――あれから十七年。
空間の歪みにのみ込まれ異世界を渡った春一は、この世界でいう稀人としてオルデニア国に保護されて穏やかな日々を送っていた。
今も自室に引きこもってのんびりと読書を楽しむ。
お茶で一息入れていると、ノックの音が部屋に響いた。
「はい」
扉の陰から現れたのは見知った顔で、彼だと認識すると無意識に顔が綻んだ。
「ああ、フェリクス。どうし、わっ」
出迎えるべく立ち上がった春一が声をかける途中で、足早に歩み寄ってきたフェリクスに抱きすくめられた。
「ついにやりました!」
「え、な、なに? どうしたんだ?」
頭ひとつ分ある身長差から ほとんど埋もれてしまってフェリクスの顔が見えない。それでも弾む声音に、いつになく興奮していることはわかった。
珍しく喜びを露わにする様子に目を白黒させていると、春一に絡めた長い腕が解かれ、肩に手が置かれる。
「ついに春一を元の世界に戻す魔法を見つけたんです」
「――え?」
「転送の魔法です、世界を渡るための。ようやく故郷に帰ることができるんですよ」
興奮に鼻息荒くすることもなく、上品な顔立ちによく似合う滑らかで耳触りのよい低音で、フェリクスはまるで歌うように歓喜する。
向かい合う春一はフェリクスにつられて曖昧に笑って見せるものの、まったく理解が追いついていない。
――帰ることができる。故郷に。日本に……?
フェリクスはようやく春一の戸惑いに気がついたようで、輝くような笑顔を少しばかり収めた。
だらりと両脇に下がっていた春一の手を取る。
「長らく待たせてしまい申し訳ありませんでした。でももう大丈夫です。安全にあなたを送り届けられます」
念願だった帰郷が現実のものとなった事実を受け入れるのに時間がかかっていると思ったようだ。
帰りたいと泣いた日々から十七年。それほど待っていたというのなら、フェリクスが春一の気持ちをそう想像するのも無理はない。
「あ、あの、それは、すぐ……?」
表情を陰らせ、フェリクスは小さく首を振る。
「すぐというわけではありません。必要な魔力があと少し足りないのです。ですが不足分も一月もあれば溜められますから大丈夫ですよ」
元の世界とおおよそ同じく、こちらの世界は一月三十日の計算で、一年を十二ノ月で分ける。
つまり三十日くらいが、春一がこの世界で過ごせる最後の日々となるのだろう。
「本当は実行できる準備が整ってからとも思いましたが、春一にはまず伝えておきたかったのです」
戸惑いに曇っていた視界でようやくフェリクスを捉えると、華やかなその美貌に似つかわしくない隈を見つけた。
服装こそ使用人たちが丁寧に整えているので、一見するといつもどおりの非の打ちどころもない完璧な状態に見える。けれども本人の疲労は、どう手を尽くそうとも隠しきれないものだ。
最近、何やら根を詰めていることに気がついていた。見かけるたびに、普段は上手に隠している疲れが顔に出ていたからだ。
春一は何も言えずに、ただ他愛ない話で少しばかりの気晴らしに付き合うくらいしかできなかった。
もしかしたらそれは転送の魔法の研究が佳境に入り、少しでも早く仕上げるために過分に集中していたのかもしれない。
「無理をして……」
「苦労はありませんでしたよ。それに、春一を待たせてしまった時間を考えればこのくらい」
なんの労わりにもならないが、そっと目元を撫でると、フェリクスは嬉しそうに微笑み指先を受け入れる。
「これでようやく、あなたとの約束を果たせます」
立場ある彼がこうも無防備に懐に入れ、なおかつ許可なく顔に触れることを許す相手などそういるわけではない。柔らかに見えて警戒心が強く慎重なフェリクスは、だからこそ一度心許した相手には献身とも言える愛情を注ぐ深い情の持ち主だ。
フェリクスはいつだって春一のために心を砕いてくれている。春一からは何もしてやれないのに、そんなものはいらないのだという、一切の見返りも求めない優しさに申し訳なさを感じてしまう。
現国王の弟であるフェリクスは、王弟として兄の補佐を担う傍ら、忙しい政務の合間を縫って魔法の研究をしている。
時に寝る間も惜しんで研究を進めたのは、春一を元の世界に戻してやるためだった。
『春一が元の世界に帰れるよう、ぼくが道を作ります。だから、待っていてください』
幼いフェリクスは誓い、そしてついにその約束が果たされる日がやってくるのだ。
「私はこれより陛下に転送魔法が確立されたことを申し上げにまいります。まだ一方通行ですから見送ることしかできないので、最後の挨拶代わりに盛大にパーティでもしましょう。きっと陛下も賛同してくださいます」
「フェリクス……」
「では、詳しい話はまたあとで」
必要なことだけを端的に説明したフェリクスは、踵変えしてそのまま忙しなく部屋を出ていこうとする。
「あの」
引きとめるつもりはなかったのに、咄嗟に声を上げていた。
振り返ったフェリクスに、けれども飛び出しかけた言葉をのみ込んで曖昧に笑う。
「――ありがとう、フェリクス」
「私がしたかったことですから、お礼なんていいんです。また来ますね」
見送ったフェリクスの背は扉に遮られる。それでもなお見つめていると、これまで春一たちの傍で空気のように控えていたセオドアが声をかけてきた。
「ついに帰れるというのに、気乗りしないご様子ですね」
「……わかります?」
「ええ。ハル様とは長いお付き合いですから。お茶を淹れ直しましょうか」
「お願いします。でも、まだ残っているのも下げなくていいです。セオドアさんの淹れたくれたのは冷めても美味しいですし」
ソファに座り直した春一はカップを手に取り、すっかり熱を失ったハーブティを口に含んだ。
幾分か香りも落ち着いてしまったが、とくにこだわりがない春一にはこれでも十分においしく感じる。それでも追加で欲したのは、温かいものを飲んで気分を落ちつけたかったからだ。
春一の部屋の隅には、セオドアの茶器一式と、ハーブや茶葉が数多く揃えられている。その日の気分に合わせて、彼が即興で茶を調えてくれるのだ。
新しいものを用意しようとしてくれた時点で、きっとセオドアの頭の中は今の春一の荒れる心を宥めるための組み合わせを考えていたのだろう
国王にも供することを許されるほどの腕前だというのに、振るう主な相手が味に頓着しない春一ではやり甲斐も薄いに違いない。申し訳なく思うが、いつだってセオドアは気にする様子もなく丁寧にお茶を淹れてくれるのでありがたかった。
初めて会った時、ぴしりと背筋を伸ばしている姿には隙がなく、眼鏡の下にある冷やかに思える怜悧な眼差しに怯んでいた。自分はどちらかといえば楽天家でぽやっとしたところがあると言われているので、自他ともに厳しそうで硬質な雰囲気のあるセオドアを苛立たせてしまわないか恐々としたものだ。
今となっては、この男が見た目ほど堅物ではないことを知っている。
真顔でしれっと冗談を言ったり、相手を呆けさせるような驚かしをするのが存外好きだったり、案外茶目っ気のあるからかい好きな人なのだ。
セオドアは春一付きの専属侍従で、自分の面倒を見てもらうには明らかに優秀すぎる人材だった。だがこの世界に来てから誰より傍にいた相手でもあり、常に冷静沈着で動じることのないセオドアを春一は内心では師のように仰ぎ、信頼していた。
だからこそ彼しかいない場では、フェリクスにさえ伝えられない本音が零れてしまう。
「はー、ついにこの日が来てしまったかぁ……」
来訪者の気配が完全に消えた部屋で、春一は彼には伝えられなかった苦い想いをそっと口にした。
この世界には魔法が存在している。誰しも魔力を持っているが、魔力量が多い者だけが魔法を扱うことができるのだという。
オルデニア王族の血脈には、魔力量に恵まれた者が現れやすいとされていた。実際にその血を引く者たちからは多くの魔法が使える者――魔法使いが輩出しているので、それは確かなことだろう。
フェリクスは生まれながらにして、異常なほど膨大な魔力を有していた。それは王族の一員であるということでは説明がつかないほど強大なものだった。
彼が産声を上げた時、空を厚く覆っていた雲が一瞬にして吹き飛ばされ、眩いほどの晴天になったという。しかも影響は国土にとどまらず、大陸全土にわたる範囲であったそうだ。
とても強い力ではあったが、過ぎた魔力は未成熟な身体には負担があまりに大きく、制御するだけの力も備わっておらずに持て余してしまっていた。
そして十七年前のあの日。フェリクスが七歳の時に、魔力暴走が起きてしまったのだ。
魔力暴走とは魔法使いなどの魔力量が多い者が体調不良や精神不安、生命の危機などを感じることによって引き起こされるものだ。当人の意思に関わらず魔力が体外に放出されるため、それにより予期せぬ魔法の発動に繋がることがあった。
過去に魔力暴走によって森の一帯が陥没したり、湖が一瞬にして干上がったりというものから、町ひとつが火の海と化して滅んだというものなど、様々なことが報告されている。
フェリクスの場合、周囲に甚大な被害を出さなかったものの、偶然にも別の世界と空間を繋げてしまった。春一はそれに巻き込まれこちらの世界に転がり落ちてしまったのだ。
以来、一度も元の世界には戻れていない。魔力暴走によって偶然繋がった異世界への道は、まだ確立されたものではなく、帰してやりたくても誰もそれができなかった。
その時の春一はただ悲しみに打ちひしがれるしかできなかった。どんなに帰郷を望もうとも、元の世界との縁はすっぱり切れてしまったのだから、もうどうしようもない。
フェリクスは自分の力の暴走に春一を巻き込んでしまったことに、ずっと責任を感じていた。
だからいつか春一を元の世界に帰すという約束をして、それを果たすべく転送魔法の研究に力を入れていたのだ。
王弟という立場であり、かつ二十四歳という若さで移動魔法の第一人者となっているのは、王族への忖度や追従の肩書きではなく、それに見合うだけの実力があってのことだ。
フェリクスは「いつか帰れるようにします」と常々言ってくれていたし、春一も「頼りにしてるよ」と応えていた。それは嘘ではない本心からの言葉だ。
確かに、生まれ育った場所に戻れる日を夢見ていた。
家族も友人も、慣れ親しんだ土地も、思い描いていた将来も、何もかも突然に切り離された。いくら大抵の物事を気楽に構える春一でさえ、もう帰れない現実に絶望し、食事も通らないほどに衰弱した時期も確かにあった。
でももうそれは過去のこと。とうに帰郷を諦めていた。
なにせ十七年だ。十八歳でこちらにきたので、あと少しでこちらの世界で過ごした時間のほうが長くなる。記憶もない赤子時代などを除けば、むしろこちらでの日々のほうが記憶にあるくらいだ。
五年を越えたあたりから期待を持たなくなり、十年も経てば諦めた。
今となってはすっかり気持ちの整理もついている。忘れないように時折思い返しては郷愁に駆られるものの、帰りたいと願う気持ちはもう湧いてこない。すでにこちらの世界で生活の基盤ができているためだ。
十数年も経てばあちらの世界は大きく変わっているだろう。みんな春一のことを忘れたわけではないと思う。だが家族はともかく、友人たちは社会に出て生活には大きな変化があったはずだ。家庭を持ち、子が生まれている者もいるかもしれない。多忙のなか、はたして突然消えてしまった学友を今も覚えている者はどれほどいるだろうか。
帰るのではなく、一時的な里帰りなら喜べた。けれども行き来はできないとなると気持ちは複雑になる。
セオドアは春一の帰りたくないと思う本心に気づいていたようだ。言ったことはなかったが、聡い彼は長く傍にいるうちに見抜いていたらしい。
「帰れるって言ったって、どうしよう」
今更戻っても、元の世界でも同じ時間が経っているはずだ。
突然消えてしまった自分がどういう扱いになっているかもわからない。失踪者扱いはされているだろうが、過ぎた時間を考えれば死亡届が出されている可能性も十分にある。
仮に時間の流れが違うのだとしても、やはり春一自身は間違いなくこちらで過ごした分の歳月があるのだから、どちらであっても困ることしかない。
春一を保護してくれたこの国の者はみな優しく、春一を不憫に思って何かと気にかけてくれて、寂しさを紛らわしてくれた。早く馴染めたのも、周りが異物であるはずの春一を自ら受け入れてくれたおかげもある。
だからこの世界で生きていくのだと決意した。
別れも言えなかった家族には申し訳なく思うが、もうここで生活の基盤もできている。血がつながった人は誰もいなくても、友人もできたし、フェリクスやセオドアのように頼りになる人もいる。
ここに戻れないというくらいなら、故郷に帰れなくてもいいとさえ考えてしまうくらいには、すでに春一にとって大切な居場所になっているのだ。
「素直にお伝えすればよろしいのでないでしょうか。ここにいたいのだと」
新しいカップに注がれたお茶が、セオドアの優雅な動きで音もなくテーブルに置かれる。
お礼を言いながら、透き通る琥珀色を見つめた。
「そう、なんですけどね……」
言い淀んでしまうのは、フェリクスがどれだけ春一のために時間と労力を割いてくれていたのかを知っているからだ。