これまで誰も確立できなかった異世界への転送魔法を諦めることなく、常に研究に明け暮れていたその理由は、春一をもとの世界に帰してやるため。ただそれだけだ。
 本当はもっと早くに辞めていいと、春一のほうから言えればよかった。だが当初は非常に困難なことであるとわかっていても期待してしまったし、帰ることをすっかり諦めてしまっても言い出せなかったのは、転送魔法の研究によって他の魔道具の開発や改良点が多く見つけられたからだ。
 市井の暮らしが豊かになるなど実のある副産物がいくつも生まれ、春一よりも周囲がフェリクスの研究に期待しているところもあった。なおのこと口を挟むことなどできなかったし、なによりフェリクスがまさに心血を注ぐように熱心だったから、辞めてもいいんだと気軽に言いだせなかったのだ。

「それにあんなに喜ばれると、言い出しづらいと言いますか……フェリクスはおれのこと送り出す気満々ですし」


 声音に喜びが滲み、晴れ渡った笑顔をしていた。転送魔法の完成はつまり春一がここからいなくなってしまうことを示すというのに、寂しそうな気配はまったくなく、同じように春一も喜んでくれるものだと疑う様子もない。

 もろ手を上げて歓喜する姿を前に、実は帰りたくないのだと言い出すことは到底できなかった。

「ですがこのままでは魔力が溜まり次第、ハルさまは故郷にお戻しされることになりますが」

「できることなら、一度は里帰りはしたいと思っていますけどね。挨拶も何もなく突然こちらに来てしまったから。でももう、おれの帰る場所はここだと思っているから……どうにかして、残れるようにできないものかな」

 やはり素直に胸の裡を明かすしかないか。

 そう思うものの、やはり「約束を果たせる」と言ったフェリクスに報いてやりたいとも思う。だがそれには春一は元の世界に送り届けられなければならない。
 一方通行の片道切符だ。またこちらに戻れる保証はどこにもないし、おそらく春一がいなくなれば異世界を行き来するのに必要な魔力を溜め込むことも大きな課題となって立ちはだかるだろう。
 カップを手にしたまま考え込んだ春一に、では、とセオドアが口を開いた。

「帰らせたくはないと思わせるのはいかがでしょうか」

「帰らせたくない?」
「そうです。殿下がご自身が手放したくないと望まれるのであれば、ハルさまがあちらの世界に行く必要もなくなるでしょう」
「な、なるほど!」

 つまるところ素直に帰りたくないと言い出せない理由は、フェリクスが春一に微塵も執着していないように見えるせいだ。

 その気のない相手に縋っても困らせるだけだし、何よりフェリクスは春一にとって庇護すべき幼子の頃から見守っていた相手で、みっともない姿を見せたくないという年上としての矜持もちっぽけながらにある。
 でももしフェリクスのほうから「まだここにいてほしい」と一言でも引き出せれば、春一のほうも勇気を出して本音を明せる気がする。
 ほんの一瞬でも、フェリクスが引き止めたいようなそぶりさえ見せてくれれば。

「殿下も今はまだハルさまをお戻しするため、気丈に振る舞われているだけなのかもしれません。長年の研究が報われた喜びも大きいでしょうから、それが落ち着けばあるいは殿下からハルさまを留めたいお気持ちを口になされるかもしれません。殿下はハルさまを好ましく思われておいでですから」

「そうだといいんですけど」

 つい綻びかけた口元を引き締める春一を、セオドアは微笑ましく見守った。

 フェリクスと春一が気の置けない仲であることは周知の事実ではあるし、自覚もある。でもそれを指摘されると気恥ずかしく、でも嬉しくてつい顔が緩んでしまいそうになる。
 この国の王弟相手には口にできないものの、きっとお互い兄弟のように思っている。なにせフェリクスが幼い頃から協力し合ってきた仲なのだ。
 成長した今もフェリクスのほうから忙しい仕事と研究の合間を縫って会いに来てくれるし、嫌われているわけではないのは間違いない。
 春一だって昔から「春一、春一」と後ろにくっついて来ては笑いかけてくる素直なフェリクスが大好きだった。
 大人になった今でも顔を合わせるだけでとろけそうな極上の笑みを向ける彼の真っ直ぐな好意が嬉しいし、また清く正しくを地でいくような清廉で澄んだ雰囲気を持つ男へと成長してくれたことが我がことのように誇らしく思っている。どこに出しても恥ずかしくない、むしろ自慢して回りたいくらい立派な青年だ。
 その代わりとても忍耐強く、弱音をあまり吐かないところを心配している。
 あまりに疲れたときには、ふらりと春一の前に現れ、肩を貸してくれと言ってそのまま寄りかかってつかのまの休息を取る。春一のもとにはセオドアがいるのでリラックスできる美味しいお茶は出せるものの、春一自身は何もできないので、本当にただフェリクスに肩を貸して寄り添ってやるくらいしかやってやれない。
 いつか、フェリクスにももっと心から甘えられる人ができたらいいのにとは思う。そうなると伴侶というのが定石だろうが、王弟である彼は未だに婚約者さえ作っていない。
 王族としてはもう妃がいて、なんなら子供がいてもおかしくはない年齢だ。その辺がどうなっているのか気になっているものの、デリケートな問題だし、きっと春一が知らないだけで周囲からなんのやいのと散々言われているだろうからフェリクスに尋ねたことはない。
 でも多分きっと、春一のためだろう。研究に集中するため家庭を持たずにいたのだと思う。

「研究もひと段落ついた直後なら、殿下も多少時間にゆとりができることでしょう。私の推測ではありますが、おそらくはハルさまと最後の時間を捻出されているかもしれません」

「研究がなくても忙しいし、そこまで期待はできないと思うけど……でも、送還されるまでに離れがたくなったフェリクスから声をかけてもらえればいいってことですね。おれからも積極的にいったほうがいいのかな」
「ハルさまからも働きかけたほうがよろしいかと思われます。殿下は非常に心持ちがお強いですから。そう簡単にハルさまを引きとめるような言葉は出さないでしょう。心の裡でどう思おうと、あえて自制されるかと」

 セオドアの言葉にはっとする。

 あまりにあっさりした様子に呆気にとられてしまったが、春一が帰りたいと思っているから、すんなり行けるように寂しいと思う気持ちを隠していることもフェリクスなら十分あり得るだろう。
 むしろ春一をなんとも思っていないと言うより、引きとめたい気持ちを我慢していると言われるほうが納得できる。それだけ二人の信頼は厚く、そして彼は本当に心優しい人だから。
 なによりフェリクスの芯は強く、確固たる信念を持っている。自分が納得しない以上は妥協しない彼が、春一を返すのだと決意をしたのだ。いくら長年の友との別れが迫っていようとも、そう簡単に未練や惜しむ言葉は口にしないだろう。
 たとえ懐かしい昔話などで情の部分を刺激したところで、屈強なフェリクスの精神の牙城はそうやすやすと崩せるとは思えない。

「うん、そうですよね。おれからも全力でいかないとですね!」

「ええ。ぜひ、ハルさまのすべてをもって殿下を籠絡なさってください」
「……ろ、ろうらく?」

 日常ではそう使わない言葉がすぐに頭で理解できず思わず聞き返すと、セオドアは至って真面目に頷いた。


「はい。籠絡です」

「……なんだか人聞き悪い言い方のような気もしますけど、要は説得ですよね! ならやっぱり、おれのこの体質というか、身体を全面的に出していくべきですかね」

 またいつものようにからかわれる気配を感じたのでひとまず流すと、珍しくセオドアが口元に小さな笑みを浮かべる。


「それもよろしいかと思われます。殿下も、一度でもハルさまを味わってしまえば虜となって手放せなくなるでしょう」

「とっ、虜って……おれが言っている意味と合ってますよね?」
「私の意味としては、味わうとは言葉通りです。お二人ともまだお若いですし、独り身でいらっしゃる。それにお互いに十分好意があるのであれば、そちらを狙うのもありかと思います。むしろそのほうが殿下も離れがたいでしょう」
「セオドアさんっ!」

 つまりは恋人的なものになればいいと言ってくるとんでもない侍従に声を荒げるも、まったく動じる様子はない。

 身の周りの世話をされる立場ではあるし丁寧に扱われているが、その実の力関係は歴然としている。逆立ちしたってセオドアには敵わないのだ。
 確かにお互いに好意はある。だがそれは親愛であって、恋愛感情ではない。

「若いって、そりゃセオドアさんよりは多少若いでしょうけどおれは三十も半ばだし、フェリクスとは十一も歳が離れているんですから」

「十一歳差程度ではそう珍しい話でもないでしょう」

 確かに、色々と思惑が絡む政略的な婚姻が多い王侯貴族には、年齢差など大した問題ではないのかもしれない。


「しかも同性であっても殿下のお相手は許されています。ハルさまも問題ありません」

「そ、それはそうかもしれませんけど……」

 フェリクスは兄王の長子である王子が十五歳で王太子に就任した際に、王位継承権を放棄して臣下することを宣言をしていた。そのためにフェリクスの伴侶には性別や身分さえも問わないと王が認めていると誰かが言っていた気がする。――いや、それはセオドアから聞かされたのだったか。

 しかし王族であることには変わりないし、実情は誰でもいいというわけではないはずだ。まさか特殊な立場ではあるけれど爵位もない冴えない年上の男を選ぶことはないだろう。

「でもなにより、友人として好いているのだとわかっているでしょう。からかわないでくださいよ」

「ふむ」

 口元の小さな弧を消さないばかりか、返答も曖昧にされたままに終わるが、これ以上何を言ってもどうせセオドアの手のひらの上だ。

 黙っていれば冷徹そうなこの侍従は、時折フェリクスと春一を絡めたこんな冗談を言ってくることがある。さすがに王弟相手に悪戯じみたことはできないので春一に対してのみだが、いくら当人がいないと言ってもこんな冗談に巻き込んでよいのだろうか。セオドアが世話をしているのは春一だが、雇い主はフェリクスだというからなおさらだ。
 冗談を言われても大抵は笑って聞き流すし、セオドアはちゃんと弁えて遊びをしかけてくるのでむしろ場合によっては楽しんでいるが、フェリクスとのことだけはどうにも慣れない。唯一過剰な反応を見せてしまうネタだからセオドアもからかい甲斐を出してしまっているのだろう。

「まったく。おれの言った身体のことだって、どういう意味かちゃんとわかっているくせに」

「たしかに、殿下専用の無尽蔵の魔力を保管できるお身体、手放すには十分に惜しい力かと思います」

 異世界人である春一が衣食住の面倒をみてもらっているばかりか、城内に一室を与えられたうえに、セオドアという優秀な侍従をつけてもらうほどに手厚く保護されている理由はそこにある。

 この世界では誰しもが大なり小なり魔力を持つという。人間に限らず他の動物にも、植物にも、道端の石ころにも、空気にさえ、万物に魔力は宿っているそうだ。
 しかし極まれに魔力を持たないものがある。それが異世界から迷い込んできてしまったものたちだ。
 魔力の暴走や暴発に巻き込まれて世界を越えて引き寄せられるものは極まれにあり、大抵は小さな物か小動物だという。なかには春一と同じく人間であったこともあるというが、正式な記録はなく口伝で残っているだけで伝説のようなものらしい。
 異世界からのものたちには総じて魔力がなく、春一も例にもれず魔力を持たない人間だった。ただ唯一、他と違うことがひとつだけあるとすれば、魔力を持たない代わりに他者の魔力を吸収し貯め込み、必要があれば取り出すことができるという魔力の倉庫的な力があったというところだ。
 今のところ、常人の数十倍以上の魔力を保有してもまったく影響がないほどに収納抜群らしい。そもそもこれまで限界が見えたことがなく、どれだけ魔力をしまえるのかまだ誰も知らない。
 過ぎた魔力をその身に蓄え過ぎれば魔力暴走を起こしたり、肉体が耐えきれず死に至ることもあったりするという。
 何十人分も溜め込みながらも平然とする春一のその力を知ると、大抵の人は目を剥くほどに驚くものだ。
 ただしその倉庫としての機能が働くのはフェリクスの魔力のみ。他でも試してみたがまったく反応がなく、また春一に収納された魔力を引き出せるのもフェリクス本人だけだった。
 保管庫として使われている春一自身にはまったく感覚がないので、今でも自分にそんな能力があると信じられないことがある。だが別に信じられなくてもよかった。
 生まれつき過剰な魔力量の生成により常に身体に負担があったフェリクスは、すぐに熱を出しては寝込んでしまうような病弱な子どもだった。時には歩くことさえままならず、内臓も弱り、食事もろくに摂れないので体力をつけることさえできずに衰弱していく一方だった。
 そしてとある日、ついに身体から溢れた魔力が暴走を起こした。それによって捻じ曲がってしまった次元に迷い込んでしまった春一は、この世界でフェリクスと出会ったのだ。
 当時の春一にとっては不幸であったかもしれないが、フェリクスにとっては間違いなく僥倖の出会いだった。あのとき春一が来なければ、きっと幼い命はあと数日ももたなかっただろうと言われている。
 フェリクスは魔力を春一に預けることで正常な量を保つことができるようになり、負荷がなくなったことで健康的な生活を手に入れることができた。
 成長とともに魔力の器である肉体も安定し、自身で魔力を放出するなど制御も覚えたので、フェリクスはもうひとりでも問題はない。出会った頃の小枝のように頼りない身体はしっかりとした厚みがあって、はりのあるしなやかな筋肉に覆われている。背だって春一をあっさり越してしまい、虚弱だった頃の面影はどこにもない。
 もうフェリクス自身に春一は必要ではなくなったが、それでも周囲からの春一の価値は損なわれることはなかった。フェリクスの魔力の受け皿以外にも十分な有用性があったからだ。

「とはいえ、今更おれの価値を訴えてもですよね」

「殿下も承知の上で見送ろうとなされておりますからね。そちらのほうは殿下よりも陛下にお話しされたほうが有効かと思われますので、いざというときの奥の手として考えておきましょう」
「はは、フェリクスよりも、陛下からのほうが残ってほしいの言葉を引きだしやすそうですよね」

 むしろ王は春一からの言葉をまんじりともせず待ちかまえているかもしれない。王を味方にさえつけてしまえれば、フェリクスといえども逆らうことはできないし、残ることに問題はまったくなくなる。

 それでもやはり、フェリクスからの想いがほしい。
 たった一言、欠片でもいいから引きとめたいという気持ちが覗ければ、それに縋りて情けない自分を曝け出せるだろうから。

「よし、とにかくやれるだけやってみます。期限は半月ってことで、改めて身の振りを考えようと覆います」


 それまでにフェリクスの言葉が引き出せないなら、彼の望み通り元の世界に帰るか。それとも素直にこの世界に残りたいと願い出るか、それとも別の何かを考えるか。

 答えは出ていないが、帰るにせよ残るにせよ準備が必要になる。周囲も関係のあることなので、フェリクスにアプローチしつつ悩み抜く期間は十五日間と始めから決めておくことにした。 

「それではまず、殿下とゆっくりお話しされる時間があるべきかと」

「フェリクス、ずっと忙しかったですもんね」

 特に最近は長年の研究の佳境に入っていたので部屋にこもりきりで、顔を見たのだって随分久しぶりだった。

 もし残れずに帰るしかないにしても、後悔がないくらいには語り合いたいし、単純にゆっくりとした時間を二人で過ごしたい。

「――ハルさま、ここで私にひとつ提案が」


 相変わらず顔色ひとつ変えず単調に話すセオドアに、春一は内心で気合いを入れてその提案とやらを聞いてみた。



 ―――――
 

  Main