20

 

 ぴりっと肌に走った痛みに、今度こそ抵抗を止める。

「そう、大人しくしていろよ」

 低くざらついた、けれども粘つくようないやらしさが耳を撫でるような声だった。
 肌から離れた抜き身の短剣は、すうっと細い一線の赤に濡れている。先程切れたリアリムの頬から流れた血だろう。
 鈍い光をちらつかせながら、男はそれでリアリムの上着を裂いた。そのとき切っ先が肌を掠めて、そこにも薄らと血が滲む。
 びくりと身体を震わせたリアリムに、短剣を握る男はただ目を細めただけだった。
 前にいる男の行動、そして両脇に控える二人の下劣な笑みに、自分の身にこれから起きる未来を理解する。
 初めは、物取りとばかり思っていた。金品を奪われ、追いかけることができない程度に痛めつけられるのだろうと。しかし男たちは荷物の詰まった腰の鞄に目もくれず、少しずつ暴かれるリアリムの身体ばかり見ている。
 つまり彼らは、リアリムを犯そうとしているのだ。弱い立場にある女をいたぶるように、力で押さえつけて。
 同じ男であるのに何故、という疑問を浮かべるゆとりもなく、露わにされた首筋を撫でるかさついたぬるい手の温度に嫌悪がこみ上げる。切りつけられた服をさらに開かれて、増える露出で晒された肌が外気に触れて、倍に感じる寒さに凍えてしまいそうだ。
 無意識のうちに暴れようとする度に、がっちりと押さえつけられるよりもはやく刃をちらつかされた。
 感触を確かめるように、肌を這う手。あまりに恐ろしく思えて、気持ちが悪くて、けれども拒むことは許されずただ強く目を閉じる。
 時折遠くに聞こえる低い男たちの笑い声。できたばかりの傷跡をあえて辿り、赤い筋を薄く引き伸ばしてゆく。
 上に乗る男が位置を下にとずれていったが、それだけでどうすることもできない。腹にかかる重みは消え去ったと言うのに吐き気がこみ上げた。
 胸の突起を抓るように摘まみ上げられ、痛みに身を捩れば彼らは笑った。
 興奮したように荒くなっていく男たちの呼吸と比例するように、浅く早くなっていく自分の息遣い。極度の恐怖に、転がされているのに、目を閉じているのにくらくらとめまいがする。
 ついに震え出した身体は、自分自身のことながら哀れに思えるほどに頼りなかった。決して非力なわけではないが、三人の男の前ではあまりに無力で、ただ触れまわる手の勝手を許すしかなくて。
 いよいよ下に手をかけられたとき、水をぶちまけるような、冷え冷えとした声が割り入った。

「なにをしている」

 リアリムはきつく瞑っていた目をはっと開く。
 男たちは声の主に振り返り、まるで獣が唸っているように表情を険しくさせた。

「もう一度だけ問う。なにを、していた」

 聞き覚えのあるその声に、リアリムは誰の者であるかを頭が理解するよりも早く本能が認識して、駆け寄りたくなった。拘束さえされていなければ実際そうしていただろう。
 もう、大丈夫。
 口内を満たすように押し込まれていた布を舌でどうにか押し返し、吐き出す。
 その頃には倒れるリアリムでも姿が見えるほどに距離を詰めていた勇者を見つけて、堪らず叫んだ。

「勇者さま……!」

 リアリムの声を聞き届けた勇者は、ちらりと視線を寄越しただけで、それ以上は応えぬまま男たちを見やった。
 三人は押し黙ったまま勇者を睨みつけている。動く気配はない。
 このまま膠着状態が続くかのように思われたが、先に勇者が行動を起こした。
 軽く手をかけただけでいた剣を抜いたのだ。暗がりでもわずかな光に輝くそれに、短剣ほどの武器しか持たぬ男たちは顔に動揺の色を走らせる。
 リアリムもはっと息をのんだ。まさか斬りつけるのではないか、と危惧したのだ。
 ゆっくりと勇者の握る剣の切っ先が弧を描く。しかしそれが狼藉を働く男たちに向けられることはなく、勇者自身の指先に宛がわれた。
 自身の剣を自らの指に滑らせて、勇者の指先からは血が溢れ出していた。
 彼はなにをしているのだろうかと男たちは不審げな目を向け、リアリムもただその行動がなす行く末を見守る。
 真っ赤な雫が今にも肌から滴り落ちそうになったとき、勇者はその指を男たちに向けて払った。
 一人は耳に、一人は右目の瞼に、一人は喉元に、勇者の血が飛び散る。それは男たちの肌を彩ると同時に、その場所に魔法円を描いた。
 三人はそれぞれの顔を見合わせて、勇者の血が付着したところを手で押さえる。てのひらの下では赤い線であったそれが黒に代わり、確実に彼らの身に刻まれた。

「な、なにしやがった……!」

 未知の恐怖に顔を引き攣らせて、勇者に向かい短剣を構えて一人が唸る。明らかな動揺は突きつけられた切っ先にも表れていて、細かく震えていた。
 勇者は一切の感情を窺わせない表情で、ただ平静に告げる。

「二度と悪さできないようにしてやったまで。おれの気が変わらないうちにさっさと去れ」

 忠告など耳を貸さずに、男たちは拳を握り、構えようとする。
 その瞳に宿る狂気を鋭くさせた瞬間、変化が訪れた。

「ぐ、うう……っ」
「んだよこれ……!」
「くそっ! 頭がいてえ!」

 三人とも頭を抱えてしまった。握られていた短剣は手から滑り落ちて、石畳に叩きつけられ耳障りな男を立てる。
 苦痛を覚えている様子だった。一人が声に出したように、三人とも激しい頭痛に襲われているのかもしれない。元凶であろう勇者を睨めば、さらなる苛みにあったかのように、なにかを振り払うように頭を振るっていた。とくに痛みを覚えるのは勇者の血が刻印となった場所のようで、それぞれの箇所を押さえている。
 状況をのみこめぬリアリムが呆然としているうちに、一人が逃げ出し、それに続いて残りの二人も慌てて追いかける。
 最後には我先にと押し退けあって、退路に立ち塞がるようにいる勇者に触れぬよう縮こまってその脇を通っていった。
 立ち去った男たちの背を見ているうちに、気がつけば傍らにきていた勇者が手をリアリムに伸ばしているところだった。
 自分に触れようとする指先。それが、先程の男の指と重なって見えて、咄嗟にリアリムは身を縮めた。
 強く目を閉じてしばらく、ようやくここにいるのは勇者であることを思い出す。
 はっと顔を上げれば、いつも通りの表情をする彼がそこにはいた。

「す、すみま、せ……」

 声が掠れる。すべてを言い切ることなくまた顔を俯かせた。
 謝ったところで、助けてくれた勇者に対する非礼を覆せるわけではない。それに今は、多くの感情が入り乱れていてどうすればいいかわからなかった。

「後ろを見せろ。解いてやる」

 リアリムが見せた反応などまるで気にしていない勇者の声に促されるまま、ごろりと転がり向きを変えて、きつく戒められたままの両手を見せる。かたく結ばれているそこを、勇者は取り出したままの剣で切ってくれたようだ。
 ふっと解放を感じて、まず手を前に持ってくる。縛られていた場所を擦りながら確認してみれば、はっきりと痕が残っていた。

「立て。帰る」

 ほとんど無意識のうちに勇者の言葉に従おうと、下に手をつけ身体を起こす。けれども浮き上がったのは上半身だけで、下半身に力が入らずにいた。
 無理に立ち上がろうにもうまくいかない。
 手首を縛られていた影響か、血の巡りが悪くなったのか、ぞっとするほど手が冷たくなっていた。
微かに震えているのに気がつき、拳を握る。
 すっかり腰を抜かしているのだと理解していたが、それを告げることができない。縫いつけられたように口が貼りついてしまっているのだ。
 立ち上がることも、伝えることもできず、ただ乱暴に開かれた服を引き寄せ胸の前で片手で押さえた。
 勇者に助けられたのはこれで幾度目だろうか。短い旅の間、似た場面はいくつもあった。彼はリアリムを救い出した後に手を貸すことはなく、いつも置いてかれそうになりながら追いかけていたような気がする。
 初めて出会ったときも、ヘルバウルの殺気にあてられて腰を抜かし動けなかった。そのときさえ勇者は、立てないというリアリムに、それでも立てと言ったのだ。今にして思えば、それは勇者の特異体質である相手の魔力を狂わせる力を恐れてのことだと知ってはいるが、そのときは途方に暮れたものだ。
 だがもう、リアリムと勇者の関係は変わった。リアリムは勇者の狂わせの力の影響を受けない者なのだから。
 だからこそ、あのときとは違った今が起きたのだろう。
 勇者はしゃがみ込んでリアリムに背中を向けた。
 半ば予感していた出来事にリアリムが驚くことはなかった。
 俯いていたのだから、一度勇者が手を伸ばしかけ、拳に変えたことなど知る由もない。もしそれを見ていたのなら、なにかが変わっただろうか。そんな思案すら知らぬ者が許されることはない。

「乗れ」
「――……」

 助けてもらったお礼も言えないまま、示された背に自ら手を伸ばす。
 首に回されたリアリムの手を掴んだ勇者は、その身体を支えて起き上がる。
 締め痕が痣となる手首を掴む手には手袋がはめられていて、肌の温度は伝わらない。それでも服越しに、ほんのりとした勇者の温もりを感じた。それは身体を這いまわったぬるいてのひらと近いはずなのに、勇者のものはまったく別物に思える。
 か細く震える身体に、彼は気がついているだろう。リアリムが首に回す腕に力を込めれば、その分だけ、触れる勇者の手にも力が入った。

 

 


 リューデルトには詳しい事情を話さぬまま、リアリムは彼の治療を受けた。
 ラディアのように内面からくるものや病はどうしようもないが、擦り傷などの外傷であればリアリム自身が持つ治癒力を高める魔術を施すことにより、完治させることが可能である。そのため、縛られた痕も石畳に擦った肌も滑らかな状態に戻すことができた。
 しかし傷はどうとでもなっても、精神はどうにもできはしない。
 魔術を用いた治療の際、傷の具合を確認するリューデルトの指先が肌をかすめる度に、リアリムは大げさなほど身体を震わせた。極力触れぬように気遣ってくれたのはわかったが、ろくに礼も言えぬまま、一度として顔を上げることさえできなかった。
 処置が終わると、リアリムは勇者に手を掴まれ、荷物もそのままに宿屋を後にした。
 一度はリアリムが一人で辿った道を通り、今度は誰ともすれ違わないまま、当初目指していた大通りに顔を出す。
 このときになってようやく勇者と手を繋いでいることが気にかかり、道行く人の眼差しを受け外そうとしたが、勇者はリアリムの見せたささやかな抵抗など気にも留めぬままに半ば引きずるように進み続け、すぐにとある建物の前まできた。
 中に入り、ようやく手が解放される。勇者はそのまま進んでいき、受付で待つ人に話しかけていた。
 どうやら宿屋らしい。リアリムがぼうっと凡庸な内装を眺めているうちに手続きを終えた勇者が戻ってきて、またリアリムと手を繋ぎそのまま二階へ向かう。今更抵抗しても遅いと、リアリムは身を任せることにした。
 二階の一番の奥の部屋に入ると、ふたつ並んだうちの入り口に近いほうの寝台まで手を引かれた。そこに座るように導かれる。
 リアリムが腰を落ち着かせると、勇者は一言も残さぬまま部屋を出て行ってしまった。
 ぱたんと閉められた扉をしばらく見つめて、勇者がすぐに戻ってこないことを理解して後ろに倒れ込む。
 横になり、靴を履いたまま身体を丸める。ぎゅっと目を閉じ自分の身体を抱きしめていると、身体にかけ登る小さな存在に気がついた。
 目を開けると、丁度視界に入る場所までやってきたヴェルと目が合う。

「……おいで」

 手を差し出せば、小さな友はてのひらに乗り込んでくれた。そっと潰さぬよう彼を抱きかかえ、また目を閉じる。
 毛づくろいでもしているのか、手の中で細かく動いていた。肌を擦る毛がなんだかくすぐったい。
 どうにかして勇者とリアリムの後を追ってきたのだろう。姿を見てようや小さな友を思い出したが、無事追いかけてきてくれたようでよかったと安堵する。
 目を閉じていると、賑やかな人々の声が聞こえてきた。

 

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