アロゥとルーフィアが恋仲となるまでに然程時間はかからなかった。仕事の合間を見て二人は逢瀬を重ね、想いを深めていく。そしてルーフィアがアロゥの子を身ごもったのは、二人が出会ってから一年ほどが経った頃だった。
 その報告を待ち望んでいた王は大いに喜び、機密事項であるそれを知る者たちもアロゥを手放しに祝福してくれた。
 皆がアロゥの子に期待をしていた。魔術師か、それとも何か特別な能力を備えた子供になるのかと、誰しも口には出さないまでもそれを望んでいたのだ。それを二人は熟知していたが、たとえ生まれた子が一般に部類される者となったとしても、親となる自分たちはただ健やかなる生誕を喜ぼうと誓い合った。
 アロゥはルーフィアの妊娠が発覚して以降、それまでは周囲に隠れて会っていたのを止めて堂々と彼女のもとを訪れるようになった。今まで以上に顔を合わせ、まだ腹のふくらみが見えないうちから彼女に尽くす。そのおかげで、ルーフィアは初産への不安を感じたことはなかった。まだ身体に変化が出ていないため実感がないとはわかっていたが、それでも今後もアロゥが傍で支える限り、自分はゆっくり母になれるのであろうと確信を抱いていた。
 順調に日々は過ぎていった。しかし誰の目にも隠れ、とある闇はゆっくりと歳の離れた仲睦まじい恋人たちを薄く薄く包み込んでいたのだ。
 ルーフィアの懐妊がわかってから三か月ほどがたったとある雨の日、アロゥはルーフィアを定期的に検診している治癒術師から、残酷な運命にぶつかった。
 風邪に似た症状を見せたルーフィアは、定期的に彼女を検診している治癒術師に診てもらった。そしてそのとき、ルーフィアが病にかかっていると、アロゥは治癒術師から報告を受けたのだ。
 適切な処置さえすれば不治の病にも死病にもなることはないが、治療をするには薬の投与が不可欠であり、それには強い副作用が現れるためお腹の子を諦めなければならなかった。
 もし薬を拒み現状のまま出産に臨めば母子ともに危険になりかねない。だが今ならば子を諦めれば母の命は確実に助かる。治癒術師はアロゥにそう伝えた。
 アロゥは大いに悩んだ。仕事が手につかなくなるほど、一日も欠かさず会いに行っていた最愛の者の顔を見られなくなるほど、悩みに悩んだ。そしてアロゥは、自らが迫られた決断を、ルーフィアにお腹に宿る二人の子を堕ろすよう伝えたのだ。
 苦渋の決断であった。だがアロゥは芽生えた小さな命よりも、ようやくできた最愛の者を選んだ。子供はまたいつか作ろう、だから今は病を治してくれと、アロゥは寝台に横たわるルーフィアに深く頭を下げたのだった。
 しかし、ルーフィアは頑として頷かなかった。

「天から授かったこの命、何故殺してしまうことができるでしょうか。大丈夫、アロゥとわたしのお子です。きっと耐え抜いてくれることでしょう」

 ルーフィアの口から出た“殺す”、という言葉にアロゥの胸は深く抉られた。彼女は自分の台詞がどうアロゥの心に届くかをよく知っている。だからこそあえて言葉にしたのだ。そして、だからこそ女神のように微笑んで見せたのだ。

「――だが、わたしの不安はそれだけではない。ルーフィア、きみに、もしなにかあれば、わたしは……」
「アロゥ。心配しないで。わたしは大丈夫です。きっと、元気な子を産んでみせましょう。だからもうそんな顔をしないで。ね?」

 幾度も説得を重ねた。犠牲になる子は決して忘れない。子供から生を奪う責任はすべて自分が受け持つから、だからどうか治療を受け入れてくれ、と。
 繰り返された話し合いの末、折れたのはアロゥだった。
 ルーフィアはひたすらにこの子なら元気に産まれると、わたしなら大丈夫と同じ言葉を重ねた。子を諦める考えなど端から彼女にないことも本当はわかっていた。だからアロゥは彼女の意思を尊重することを選んだ。
 だが覚悟したところで不安が消えるわけでも、危険性が消えるわけでもない。何よりアロゥは怖かった。ルーフィアは一度として、自分も生き抜いてみせる、とは言わなかったからだ。わたしは大丈夫、元気な子を産んでみせる――では、出産後のルーフィアは、どうなっているのだろうか。
 日が経つにつれ、ルーフィアの腹は膨らんでいった。そして着実に病も彼女の身体を蝕み、容赦なく体力を奪っていった。
 治癒術師は、このままでは母体は出産に耐えられぬだろうと言った。それでもルーフィアは笑顔を守り、わたしは大丈夫です、とアロゥの不安を煽るだけの言葉を重ねた。だからこそアロゥも歪みそうになる顔で笑みを返し、日に日に細くなっていく彼女の手を握り続けた。
 頼りない身体なのに腹だけはまあるく膨れていく。それはお腹の子が成長している証である。だがアロゥは素直に喜ぶことはできなかった。新しい生の気配と忍び寄る確かな死、押しつぶされる胸はどの感情を現せばいいかわからず、人知れず涙する夜もあった。しかし、ルーフィアに決して弱音は吐かなかった。彼女が強くあろうとしているのだ。自分だけがいつまでも受け入れぬわけにはいかない。それでもやはり、ときにはルーフィアの腹に手を置き、薄い肉の下から蹴り上げる力を感じて涙しそうになった。
 傍にいる時間を増やし、二人は多くの将来について話した。生まれてくる子の名前だけでなく、一部の者にしか認められていない婚姻を交わし、正式な夫婦となることも誓った。未来をともに想像し、ともにあれる日々を語り合った。
 アロゥは彼女の出産に立ち会うつもりでいた。
 予定日よりも早く産気づいたルーフィアの傍にちょうどいたアロゥは、そのまま分娩室に向かう途中、部下から連絡を受け、国に最上級の魔物が三体も接近しているとの知らせを受けた。折悪しくしてそのとき全十三隊長のうち五隊長が遠征に出ている最中にあり、アロゥの助けが必要となったのだ。
 アロゥは初め、要請を断った。ルーフィアの傍にいたかったのだ。だがそれを制したのは他ならぬ離れがたい彼女だった。

「アロゥ、どうぞ行ってください。あなたを必要としている方がいます。ですから、あなたはあなたが為すべきことをなさってください。そしてわたしはわたしが為すべきことを果たします。大丈夫、必ず元気な子を産んでみせるから」
「ルーフィア……」

 アロゥは彼女を強く抱きしめ、額に唇を落とす。頬を撫で、微笑むルーフィアの顔を心に焼き付ける。そして別れを告げ、彼女と離れた。そしてそれが温かなルーフィアに触れる最後の機会となった。

 

 

 魔物を退けアロゥが駆けつけた頃、寝台で横になるルーフィアの隣には生まれたばかりの赤子が眠っていた。早産であったため身体はやや小さいが、それ以外は至って健康な男の子だった。
 アロゥは助産師の助けを借りながら我が子を抱きしめ、そして目を閉じるルーフィアに顔を寄せる。
 両手で我が子を抱きながら、声もなく静かに涙した。これが初めてルーフィアの前で零したなみだだった。しかし彼女の反応が返ってくることはない。
 ルーフィアはやはり、出産に耐えることができなかった。報告によると子どもの方も危うかったそうだが、彼女が最後の気力を振り絞り産んだそうだ。そして我が子を抱き締めながら、静かに息を引き取ったという。
 アロゥは間に合うことができなかった。己の使命を全うし、国を、民の平和を守り、そして最愛の者の最期に立ち会えなかったのだ。
 溢れたアロゥの涙で濡れたルーフィアの頬を指で撫で、アロゥは腕の中の存在を抱え直し、改めて彼の顔を覗き込んだ。
 まだしわくちゃで、髪もややしっとりしている。肌の赤みも抜けきっていない、この世に生誕したばかりの命。アロゥと同じ銀の髪を持つ、ルーフィアとの子。

「――きみの名はシュヴァル」

 以前生まれてくる子は男だと分かったとき、ルーフィアが決めた名だ。その名前自体はそれほど珍しいものでもない。だが、それには特別な意味が込められている。

「わたしの名をきみに託そう。どうかきみが、健やかに育つように」

 息子に与えたその名は、魔術師アロゥが魔術師となる以前に持っていた名前である。
 魔術師は魔術師となったその日に、師から新たなる名を授かる。アロゥは師であるメロゥから名付けられたときから、シュヴァルという名は心の深くに封じていた。
 魔術師たちの風習を本で読んだことがあったルーフィアは、アロゥに以前の名を聞きだしていた。だからこそアロゥの守護でよりよく子が守られるように、シュヴァルと名付けると決めたらしい。
 アロゥは、守れなかった。小さな花のように可憐で、清廉な泉のごとき美しい心を持つ女性。まるで慈愛の女神のように、若いながらに深い包容力を持ち、そしてアロゥの半分も生きていなかったというのに儚くなってしまった最愛の人。かけがえのない存在だった。二年とともにいられなかったが、これからのアロゥの人生の中で永久に心に居続ける者。とても大切な彼女を、アロゥは守ることができなかった。

「シュヴァル。今度こそわたしはきみを守ろう。彼女が命を懸けてまで守りきったきみを、今度はわたしが。だから、だからどうか、どうかルーフィアの分まで……げん、き、に……っ」

 シュヴァルはその場に膝をつき、大人しく眠り続ける赤子を抱きしめたまま、ルーフィアの傍を離れぬまま、声を押し殺したまま。長い間声なき声で泣き叫び続けた。

 

 

 

 シュヴァルをヴァルヴァラゲーゼ王に初めて謁見させたそのとき、アロゥとルーフィアの子の将来は決まった。
 シュヴァルは国王たる者の持つ資格、選別の瞳を有する者だったのだ。つまりそれを持つシュヴァルは次期国王となる。
 ルーフィアのことを知るヴァルヴァラゲーゼ王は、喜びをひた隠し、アロゥに告げた。

「アロゥ。わたしはもうながくない。おそらくシュヴァルが王となるその日までもたないだろう。だからきみに一時、この子が大きくなるまで国を任せたい」

 ヴァルヴァラゲーゼ王は以前より病を抱えていた。それは全隊長を含めた国の要人たちに伝えられていたが、その病は最早手の施しようがないほどにヴァルヴァラゲーゼの身体を蝕んでいたのだ。それを知るのは彼とその主治医のみで、アロゥもあずかり知らぬところだった。すでに残された時に限りが見え始めている。
 ルカ国王は原則として識別の瞳を有する者がなるが、もし万が一能力を持つ者が見つからなかったり、その者が国を統治するには幼かったりした場合、一時的に力を持たぬ者が王の代行者を務めることがある。
 次期国王シュヴァルは生後間もない赤子であり、彼に国を任せられるまでにまだ時間はかかるだろう。それまでの中継ぎとしてヴァルヴァラゲーゼ王はアロゥを指名したのだ。
 アロゥであればこれまで魔術師として国を支えてきた実績もあり、人望も厚く智にも長けている。影ながらにヴァルヴァラゲーゼ王を支えてきたこともあり、これ以上の適任者はいなかった。

「あの子が亡くなったばかりというのにこんなことを頼むのは心苦しいが、わたしに残された時間も然程ない。そしてこの国を任せられると思ったのはきみしかいない。友よ、どうか、頼む」

 王でなくヴァルヴァラゲーゼとして、彼はアロゥに頭を下げた。
 以前のアロゥであれば、自分は影がいいと断っていただろう。だが、今のアロゥには守るべきものがある。何よりそれがやがて立つ場所となれば、断る道理などなかった。
 ヴァルヴァラゲーゼの肩に手を置き、顔を上げさせる。アロゥは真剣なまなざしで、困り果てた顔の男をまっすぐ射抜いた。

「陛下――ヴァルヴァラゲーゼ。一年だけ、わたしにくれまいか。シュヴァルとわたしに。国には戻ってくる。だから、一年だけでいいから」
「――わかった。一年だけ、許そう。それまでわたしも王として腰を下ろしておく。だから必ず帰ってきてくれ」
「ああ、必ず」

 王位を継ぐ者を国から出すなど、国を支えている魔術師の旅を認めるなど本来ありえないが、ヴァルヴァラゲーゼは友アロゥの願いに頷いた。
 それは彼がシュヴァルの父であり、誰も敵わらぬ高みに位置する魔術師であり、心に大きな空洞を抱えているからであった。

 

 翌日、アロゥは一部の者に見送られ、生後間もないシュヴァルと一輪の花を手に国を出立した。

 

 一年後、誓い通りにアロゥは大きくなったシュヴァルを連れルカ国に帰ってきた。
 目が開くようになった幼児の瞳は青く、ルーフィアを知る者は彼女を大きな青い瞳を思い起こす。そして銀髪は伸び、まさにアロゥとルーフィアの子であるということを認識させた。しかし以前は銀髪であったアロゥの髪はすべてが灰色となっていた。
 帰国したその日に床につき危篤であったヴァルヴァラゲーゼ王から王座を明け渡され、アロゥは一時の王を務めることが正式に決まった。それから二日後、ヴァルヴァラゲーゼは役目を終えたように静かに息を引き取った。
 アロゥはシュヴァルが即位するその日まで国を保ち、また彼が十分な王たる資質を身に着けるための教育も自らが行った。その間にアロゥは決してシュヴァルにお互いの関係を知らせることはなく、また事情を知る一部の者にも口を噤むよう頼み込んでいた。
 シュヴァル王はその後、エイリアスという世の表舞台には語り継がれぬ影なる者との衝突の末、六度目の選択の時のために訪れた選択者とディザイアの神とともに世界を守り、平穏なる国を治める。賢王として名を馳せ、子宝にも恵まれた。
 彼は最期まで、父のように頼りにしていたアロゥが実父であったことを知ることはなかった。

 

 

 


 胸に乗る重みに、涙がこみ上げる。
 もう視界はほとんど何も移さず、生まれたばかりの我が子の顔を見ることもできなかった。だから重みだけがその存在を実感させてくれる。
 目元がとても熱かった。けれど、指先からどんどんと体温が消えていくのがわかる。
 もう身体は限界を迎えていた。けれど恐怖はない。けれど、寂しさも、後悔もある。
 目を開けたら、どんな瞳の色をしているだろう。どんな声、どんな匂い? 初めて喋る言葉はなんだろう。この子はどんな子になるだろう。でもどんなに想像したところで、わたしはこの子の成長を見ることは叶わない。それがとても寂しい。
 そして、残していくことになるあの人のことが心配だった。とても聡明で、優しく、けれども本当は甘えられる人を欲していた孤独な人。偉大なる力を持つからこそ、それに相応しい者でなければいけなかった。あの人の憩いの場であれたことは嬉しく思うけれども、もうそれでもできないんだ。
 ああ、もっと傍にいてあげたかった。傍にいたかった。でももう、無理なんだ。
 せめてあと一目、会いたいけれど。頑張ったよって、元気な子が生まれたよって。喜んでもらえて、よくやったって、褒めてももらいたいけれど。でももう、時間はない。
 胸にいるはずの重みがわからなくなってきた。周りの声ももうほとんどきこえない。
 ああ――わたしは、とてもしあわせだった。
 初めて恋した夢の人と結ばれ、その人だけを愛することができた。沢山話をして、沢山笑い合って、楽しかったな。そして、この子を授かった。
 無理をさせてしまったけれど、あなたも頑張ってくれたから、だから無事産まれてきてくれたんだよね。ごめんね、それなのに抱き締めてあげることも、声をかけることもできなくて。でもわたしはずっとあなたに会いたかったの。諦めないでよかった。あなたなら大丈夫って信じていたの。きっとアロゥも、こんにちはって、これからよろしくねって言ってくれるよ。
 ……ああ、アロゥ。
 アロゥ、アロゥ――
 どうかこの子を、あなたとわたしの子を、見守ってあげてね。
 アロゥ、アロゥ――
 どうかあなたは、ながいきしてね。もっとたくさんいきて、またあえたとき、いっぱいおはなししてね。
 アロゥ、すきよ、だいすき。
 わたしはもうそばにいられないけれど、ずっと、あなたと、シュヴァルを、ずっとまみもっているからね。
 アロゥ、アロゥ――
 ずっとずっと、あいしてる。

 

 おしまい

 

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2015/04/14