ある日の岳里家
岳人視点
「あ、やべ」
キッチンから聞こえてきた声は口先で消える程度の微かな独り言だったが、竜人の聴力はつがいのやや焦った声を確実に拾った。
声色からは緊急性を感じることはない。調理する音も聞こえていなかったから、準備段階で何か不都合が生じたと判断できる。
わざわざ確認しにいくことではないとわかってはいたが、真司になにか困ったことが起きているのであれば、小さなことでも助けになりたいと思うのはもはや岳人の性分のようなものだ。
それまで出かける支度を整えていた岳人は、迷うことなく部屋を出て真司のもとに向かった。
「どうした」
「あ、いや……あれ? 出かけんのか?」
キッチンを覗くと、空になった味噌のパックを手にした真司が振り返る。浮かない顔をしていたが、岳人を見て目を瞬かせた。
外出時にのみに使っている眼鏡をかけていたからだろう。
少しでも顔を隠してきらきらをなくせ、と真司から与えられたものだ。一度つけて外出してみたものの、どうやら真司が期待した効果は望めなかったらしく、今後も身に着けるかは好きにしていいと言われていた。
装飾にとくに興味はないが、愛する者からの贈りものだ。もらってからは好んで使用していた。
「買い物をしてくる。それより、何があった?」
「あ、それならついでに味噌頼んでいいか? ストックあったと思ったのに、買ってなかったみたいで」
先程の焦りの滲んだ声は使うはずだった調味料を切らしたからだったらしい。
「わかった。他にはあるか」
「ちょっと待って、一応確認する」
周囲を確認した真司は、ついでに買ってきてほしいものを告げて、岳人はそれを頭にメモした。行先もちょうどスーパーだったので都合がいい。
もともとすぐに出る予定だった岳人は、真司のもとに顔を出したその足で玄関を出る。
近くのスーパーに行き、真司から頼まれたものと自分の買い物を済ませて真っ直ぐに家に帰った。
玄関扉を開けると、音を聞きつけた真司がすぐに駆け寄ってくる。
「おかえり」
「ただいま」
「外、暑かっただろ。重いものばっか頼んじゃって悪かったな。助かったよ」
竜人の特性として膂力は人間の数倍あるし、寒さはともかく、熱には耐性があるのでうだるような暑さでも岳人の苦にはならない。それを真司も忘れているわけではないのに、労いと感謝を忘れない律儀なつがいの優しさと、出迎えに見せてくれた笑顔に、自然と頬が緩みそうになる。
「自分の買い物のついでだった。気にするな」
キッチンに移動して早速買ってきたものを袋から取り出していると、一緒に片付けをしていた真司が岳人の手元に移ったアイスのカップを見て弾んだ声を上げた。
「あ、それ新商品のだ!」
真司が好きなアイスの新味だ。一番好きなのは定番のバニラだが、新しい味が発売されるたびに味見だと入手していた。
「そういえば今日が発売日だったっけ……もしかして、わざわざこれ買いに行ってくれた?」
「おまえが食べたがっていたから。子どもたちの分もある」
袋の底から同じ新味のアイスを家族分、それとそれぞれが好きな他のアイスも一つずつ取り出して見せると、真司が耐えきれないと言ったように笑い声を上げた。
「最高だな! 今日の風呂上りにでもさっそく食べよう」
「ああ」
「りゅうたちもそろそろ帰って来るよな。あいつらも食べたがっていたし、きっと喜ぶよ」
「それはどうだろうな」
「え?」
岳人の返事に真司が首を傾げると、再び玄関が開く音がした。
「ただいま」
「ただいまぁ」
息子たちも帰ってきたようだ。
いつもなら自室に行って荷物を置きに行くりゅうと竜司だが、今日はまっすぐキッチンに顔を出した。
不思議そうにする真司だったが、二人の手にそれぞれ袋があることに気が付く。
「アイス買って来たんだ」
「おれも。冷凍庫空いてる?」
「ああ、大丈夫だよ。実は岳人もアイスを……ん?」
子どもたちから袋を預かって中を覗き込んだ真司は、一度目を瞬かせると笑い声を上げた。岳人も脇から覗いてみると、自身の口元がふっと緩むのを感じる。
袋には岳人も買ってきたものと同じ新発売のアイスが入っていた。他にもいくつかあるが、どれも家族がそれぞれ好きなもので、誰のために買って来たのか一目瞭然だ。
「岳人が真司に買ってくるかなと思って、新作は一個にしておいた。あとはみんなが好きなやつ」
「それでおれはそう考えるだろうたっくんを想定して、別の新商品にしておいた」
「今夜はアイスパーティだな!」
真司は驚いていたようだが、子どもたちと同様に岳人も彼らの行動をある程度想定していた。だから岳人が買って来たアイスに、それを予測していたりゅうたちが喜ぶとは思わなかったのだ。むしろ自分たちの予想が当たって満足していることだろう。
真司の喜びようを確認したりゅうたちは、手を洗いに洗面所へ向かう。
二人の背を見送ってから、アイスを冷凍庫に仕舞い終えた真司の背中に抱きついた。
「わ、なんだ?」
振り返った真司に顔を寄せ、触れるだけのキスをする。
間近にある相手の肌がさっと赤く色づき、鮮やかな変化に目を細めた。
「な、なんだよ……っ?」
「帰ってから、まだしていなかったから」
家のなかで二人きりという条件のもと、帰ってきたときに玄関先まで出迎えてくれた真司とキスで挨拶をすることがある。
真司の気分次第なところもあるので毎回してくれるわけではないが、今日は頼みごとのほうに気を取られていてやろうとすら考えてなかったようだ。
いつもなら残念に思うだけに留めているが、今回は込み上げる愛おしさで堪らない気持ちになってしまったので岳人から仕掛けさせてもらった。
一応岳人も分別はあるので子どもたちの目がない隙を狙ったのだが、思いのほか真司を動揺させてしまったらしい。
不意打ちの口づけとはいえ、つがいとなって十数年。唇など数え切れないほど重ねあわせてきている。
濃厚に舌を絡めたわけでもないのに、攫うようなキスに慌てふためく初心な姿に、吸い込まれるようもう一度顔を寄せようとしたとき、リビングの入り口から声がかかった。
「なあ、りゅうが夕飯手伝いたいって言ってるけど、ちゅーっていつおわ、ふがふが」
「た、竜司っ!」
背後にいたりゅうが慌てて弟の口を塞ぐが、一歩遅かったことが大袈裟なほど身体を跳ね上げた真司が教えた。
「な、なななにもしてませんけどっ!? ほら、おまえも離れろ!」
真司にとってはそれなりに力を入れた肘で押されるが、竜人の身にとってはよろけるほどの力は感じない。抵抗しているわけではないのだが、訴えを無視し続けてしまえば羞恥をこじらせた真司に接近禁止令を出されてしまう。もう一度――もう何度かキスをしたかったが、諦めて真司の毛が逆立たない距離を取った。
「別に気にしなくていいのに。たまには真司からハグぐらいしてやれよ」
「気にしてませんしハグもしません。親をからかうんじゃない」
「まあまあ。ところで今日は何? 竜司がお腹鳴らしてて」
「メインはから揚げ。味噌汁がまだだけど、すぐにできるから先食べてててもいいぞ」
竜人が三人もいる家は一般的な家庭の食事量では到底足りないので、いつもおかずは大量に用意されている。キッチンのなかでは揚げ物の油を切るため、空いているスペースにバットがいたるところに並べられていた。
「もうちょいなら待てる」
答えながら竜司の腹がグルルルルと獣の唸り声のような音を上げるので、出来上がって冷ましていたからあげを真司が口に放り込んでやった。ついでにりゅうにも平等に食べさせてやる。
満足そうに咀嚼する息子たちを眺める姿はすっかり親の顔になってしまっているが、それもまた好きな真司の表情のひとつだ。
息子たちに並び岳人も口を開けると、真司は声を上げて笑いながら、同じようにからあげを放り込んでくれた。
おしまい
2024.08.18