Desire 三人称

いつの時だったが、Desireを全篇三人称で書きなおそうかな、それだったらまだ同人誌収録もありかも? なんて単純に考えて挫折したDesire三人称バージョンです。
中途半端なところまでしかできていませんが、折角そこそこ書いたので供養のためこちらに……新旧のちょっとした違いを楽しんでいただけると嬉しいです。


 昨日の夕飯のあまりであるの二個のから揚げの隣には、毎朝必ず出しているカリッとなるよう焼いたベーコンがあって、その上には半熟の目玉焼きが乗っている。それだけでも温かくて美味しい匂いだが、やはり朝には味噌汁が欠かせない。道路を挟んで右隣の老夫婦が自宅の庭で家庭栽培した をたっぷり入れた味噌汁も、また寝起きの胃袋を刺激するだろう。
 朝食に合わせて予約をしていたお米は白く艶やかで、ふっくらと炊けていた。しゃもじで中を掻き混ぜると、手に熱気が絡みつく。

「あちち」

 手早く底からひっくり返して、用意していたお椀に炊きたての白米をよそう。水分やや少なめの硬めの米はしゃもじに張り付くことなく、ぺいっと器に落ちていった。しゃもじの先でちょいちょい突いて形を整え、黄金比のようになだらかな円を描くように綺麗に盛り付ける。しゃもじからばっと移しただけだって味は変わらないが、ほんの少し加える手間で少しでも美味しそうに見えるならそれがいい。
 掌にラップを広げ、そこに米を移す。中央にから揚げを投げ入れて熱さと戦いながらラップに包んでおにぎりを結んだ。それをよっつ作る。
テーブルの端に置いていた蓋の開いたままの弁当箱を閉めて、おにぎりと一緒に弁当入れにしている小さな鞄の中にしまった。それをふたつ作って、準備はできたと真司は一人頷いた。
 流しに戻り、使ったフライパンなどを洗い、濡れた手をタオルで拭いてから用意しておいたメモを机にさっと置いた。
 あと五分もしないうちに、この家の主が降りてくるだろう。それよりも先に弁当箱と鞄を掴んで、さっさと家を出ようとする。
 玄関の取っ手に手をかけたとき、ふと思い出して、一度履いた靴を慌てて脱ぎ捨て、なかに戻った。
 居間に行き、そこにある仏壇の前に正座をする。ふたつ並んだ遺影と、錆がある小さな鈴にそれぞれ目をやり、真司は笑顔を見せた。

「学校、いってきます」

 それじゃあ、と手を振って、今度こそ家を出た。
 本当なら、ゆっくりご飯を食べて、ちょっとテレビ番組でも見て、それから家を出れば学校には十分間に合う。しかし愚かにも昨日、出されていた課題を学校に忘れてきてしまったものだから、今日早く行って朝のうちに片付けなくちゃならないのだ。しかもその科目は英語で、真司が特に苦手にしていた。さらに間の悪いことに、今日は確実に自分が差される日だ。担当の教師は毎回、席の順にさしていっているので間違いない。ただでさえそれほど得意としない英語なのに、課題をこなさないまま答えられるわけがない。
 用事があるから、ちょっと早く出る――とはメモを置いてきたが、学校に早く行くなどほとんどない。むしろ、以前に同じ理由で早くに出たことがあったから、用事の内容などきっと気づかれてしまうだろう。
 帰ったら、ちょっと早く、の意味を絶対に聞かれる。そしてその理由に雷が落ちるだろう――それを思って肩を落とし歩いていると、不意に制服のポケットに入れていた携帯電話がぶるぶる震えた。
 振動はすぐに止んだから、きっとメールだ。そう思いながら携帯電話を取ると、画面にはメール受信のマークの右上に、〝7〟が浮かんでいる。昨夜寝た後から確認できなかった分も含まれているようだ。
 こんな朝早くからメールを送ってくる友達はいない。大抵、遅刻ぎりぎりまで寝ていて、朝飯を掻きこんで大慌てで本鈴の直前に教室に飛び込んでくる。
多分迷惑メールかなにかだ、と思って開いてみると、やっぱり有名人の名を語って詐欺の内容だった。他のメールの内容も似たり寄ったりで、それをゴミ箱という名のフォルダに移してまたポケットにしまい込んだ。
 通学路である道は今、学校が始まるまでまだかなり時間があるから、同じ制服を来た生徒の姿はない。住宅街であるから、朝の準備をする家の気配は感じるばかりで、外ではスーツを来た男性と犬の散歩に出たご婦人とすれ違うだけだった。
 もともと家にはゆとりを持って早めに出るほうではあるが、それよりもさらに三十分以上も早いとなると、通学路は随分閑散としたものになる。
 いつもと違う雰囲気が、開けた景色が、少しだけ清々しく思えた。しかしすぐに課題を思い出しては、やっぱり溜息をつくのだった。
 真司の通う高校は、自宅から徒歩十五分ほどの距離にある。
 七時半よりも少し前の時間に着くと、校門は既に開いていた。この時間帯に来たことがなかったから、もしかしたら開いていないこともあるかもしれないという不安も霞めていたので安堵する。しかし人の気配はなく、学校もしんと静かだった。
 もしかしたら自分が一番乗りかもしれない。勿論学校が開いているということは、教師の誰かがいるわけだが、生徒としては多分きっと自分が今日初めてだろう。
 早く来た理由が理由なだけに、決して誇れるわけではないが、なんとなく一番というのは気持ちがいいし、達成感のような高揚がほんのり混じる。
 鼻歌交じりに校門を抜け、玄関に入る。
 人の気配だって、物音だってしないし、こんな時間に誰もいない。そう思い込んでいた真司は、下駄箱の角を曲がる際、ろくに確認をしていなかった。だから、その先に人がいたことにも気がつけず、ぶつかってしまった。

「うわっ――」

 思わず上げた声とともに、油断していた身体はなんの構えもできないまま後ろに倒れていく。おもいっきり尻餅をするだろうと鈍い痛みを覚悟してぎゅっと目を瞑ると、誰かに強く腕を引かれる。
 目を開けようとした。しかし突如として視界の先が眩い光に包まれ、なにもかもが見えなかった。



 ――光に目が眩んで、気がついたら真司は踝ほどの高さの草が茂る地面の上に倒れていた。
 倒れたという感覚もなく、場所を移動した記憶もなく、もしかしたら気を失っていたのかもしれない。それになんだか、眠り過ぎてしまったときのように頭がすっきりとしない。
 ぼうとした思考のなかで、真司はまず身体を起こして、地面に座り込んだまま周囲を見渡す。
 どこに目を向けても深い緑しか映らなかった。真司がいる空間だけがやや開けているだけで、周りには樹木が不規則に生えている。それが延々と続いているようで、人の手が加えられた気配がない。
 見覚えがない場所であるが、こころが森や林の中であるということだけは理解した。だが、何故自分がここにいるのか。それがまったく心当たりがない。
 身体を支えるために地面についていた手の周りにも視線を落としてみるが、なにかがあるわけでもなく、持っていたはずの学生鞄もなく、着の身着のままだ。
 目が覚めてきた頭は、徐々に混乱と不安に染まっていく。そうなる前に、真司はここで目覚める前の自分の行動を思い起こしてみる。
 今日は早めに家を出て、学校で忘れてしまった課題をやる予定だったのだ。予定の通りに誰もまだ来ていないような時間に学校に着いたし、下駄箱で上履きに履き替えようとして、それで――

「それで、どうしたんだっけ……?」

 思わずぽつりと真司は呟く。しかし誰もいないのだから、返ってくる言葉はない。
 もう一度周囲に目をやり、それから頭上に顔を向けると、周囲の木々から伸びだ枝葉で覆われてしまっていた。それでも隙間から微かに見える青空はさっぱりとしていて、少しばかりだが心を宥めてくれる。
 ゆっくりと、けれども確実に、直面した現実を理解しはじめた心臓が鼓動を速めていく。

「あ……もしかして、夢かも。本当は寝坊してて、早く起きなきゃいけないのかも――」

 家の近くにも学校の近くにも、山や森などの広い自然はない。こんな場所がないのだから、自分がこんな深い森のような場所にいるのはありえないことだ。つまり夢だ。
 認めたくない真司は、そうに違いないと頷いて、夢だと証明するために思いきり頬を抓ってみた。
 夢であってほしい。そう信じたくて指の力に加減などしなかったが、じんじんと強く傷む頬は真司に現実を突きつけるだけだった。

「いたい……」

 涙目になりながら、赤くなった頬を擦る。それでもしばらく痛みは引かず、ようやく落ち着いてきた頃に真司はころんと初めのときのように寝転がって目を瞑る。視界からの情報がなくなれば、少しは意識が集中できるような気がしたからだ。
 何度も記憶を辿ってみるが、やはりここに至るような覚えない。しかし自分はここにいる。
 起きた後、いつもと違うことといえば、ただ早く家を出ただけだ。それで、学校にも一番乗りで――そこまで考えてはっとする。
 一番乗りではなかった。下駄箱の角を曲がったとき、真司は誰かとぶつかたのだ。その衝撃で後ろにひっくり返りそうになったところを、相手が腕を掴んで引き寄せてくれた。
 大きな手だったし、倒れる真司を引き戻せるほどの力だから男だったに違いない。しかしそのとき咄嗟に強く目を瞑ってしまっていたため顔は見ていなかった。目を空けようとして、あの目が眩むほどの光が突如弾けたのだ。
 そして目を開ければ、相手の顔はなく、鬱蒼とした緑が溢れていた。
 目覚めた時と同じ体勢になった真司は、今目を開ければ、もしかしたら景色が本来あるべき学校の下駄箱に戻っているかも、と淡い期待を抱いた。でも本当は、頬を抓ったのと同じ結果であるともわかっていた。頬をくすぐる草は確かにここにある。
 それでもそうっと目を開けてみて、息を止める。

「起きたか」

 頭上から、心地よい低さのある男の声が落ちてくる。それはきっと、目の前に現れた膝をついた下半身の人のものだ。
 そうだとわかるが、しかし音もなく、気配だって感じなかった。一切予想していなかった他人の登場に、真司は飛び起きて男と距離を取る。
 身を竦めながら相手の顔を見て、すぐに強張りを解いてその場にへたり込んだ。

「大丈夫か」

 自分が脅かしたとわかっているのだろうか。判断しかねるその人は、真司にかける言葉は気遣っているようにも思えるが、声音は先程となんら変わらない。
 しかし知った相手の顔は、見知らぬ地でとても心細く思っていた真司に多大な安堵を与えてくれた。

「岳里も……ここに来てたんだな……」

 なんとか作った笑顔だが、眉は八の字で情けなく、ようやく出た声にすら、同級生の岳里岳人と出会えた喜びをありありと訴えていた。
 岳里は小さく頷くと、その場にどかりと腰を下ろし、胡坐を掻いく。気がつかなかったが、右手に蔦で編まれた目の粗い網を持っていたらしい。葉もついているし、まだ青々しいので、恐らく岳里が身近にあったもので作ったのだろう。
 膨らみのある網の袋を二人の間に置いき、結び目を解くと袋が開けて中身がよく見えるようになる。
 中には果物らしき実が入っていたのだが、林檎のような形をしていてるが、苺のように表面に小さな種が並ぶ新緑色のものや、握り拳大で全体が棘に覆われている真っ赤なものもある。つんと先まで尖る棘は一見硬質そうではあるが、地面に当たってへりょりと曲がっているところをみると然程かたくはないようだ。色も形も様々で、どれも見覚えのないものばかりだった。

「これは……?」
「腹が減ったから採ってきた。おまえも食え」
「どれも、見たことないけど……食えんの?」
「食える」

 妙にはっきり言い切った岳里に、それでも訝しむ眼差しを向けると、じいと果物に向けられていた焦げ茶の瞳がちらりと真司に向けられた。その真っ直ぐな視線に、そして彼のその顔に、思わず真司のほうが目を逸らす。

「なんでそんなこと言えるんだよ?」
「さっき会った狸に毒見させた」
「ど、毒見……」

 さらりと事もなさげに言ってのけた岳里は、その狸のことなどどうでもいいというように一番近くに転がっていた雑巾を絞ったようにねじれている細長い茄子色の実を手に取ると、躊躇いもなく齧りついた。シャリっと耳心地のよい爽やかな音が鳴る。岳里はよく噛まずに二口目を齧った。躊躇う様子もないので、味も悪くはないようだ。
 黙々と食べ進める様子を横目で見ながら、真司も山からひとつ手にとってみる。どれも怪しげで選べなかったので適当にとってはみたが、真っ黒な塊を思わず戻しそうになる。衝動をぐっとこらえて、両手で皮の手触りを調べた。
 皮は厚くかたそうだったので、剥かなければ食べられなさそうだ。生憎ナイフなどはもっていないので、とりあえず爪を立ててみる。思いのほか剥きやすく、手は溢れてきた果汁でべとべとになったが、中身を拝むことはできた。
 実は半透明に白く、中央に小さな黒い種が浮かぶように沢山見えた。香りは柑橘系のもので、オレンジの匂いに近いだろう。

「い、いただきます……」

 食欲をそそらない真っ黒な外見ではあるが、慣れた匂いに勇気づけられ、そろりと一口齧ってみる。すると口に広がる甘酸っぱい味は、まさに匂いの通りオレンジそのものだった。
 親しみやすいオレンジのような味に無意識に口元が綻ぶ。安心できるものがもうひとつ増えた気分だ。
 口の端についた汁をぺろりと舌を伸ばして舐めとると、栗鼠のように頬を膨らましながら食べ進めている岳里がじっと目を向けてきているのに気がついた。慌てて真司が手の中の果実に目を落とすと、視線も外される。
 半透明の実を齧りながら、すでによっつめとなる果実に手を伸ばす岳里をこっそりと窺った。
 頬のものをすべてのみ込んだのか、歪なふくらみのないすっきりとした岳里の顔はいっそ恐ろしく思えるほどに整っている。肌は石膏のようになめらかで、造形されたようなその輪郭はどこから見ても非の打どころがない。背も高く、手足も長いのでスタイルだっていい。
 すっと通った鼻梁に彫りの深い顔立ちは一見外国人のようにも見えるが、それでも日本人の範疇からかけ離れ過ぎてはいない。だからかなのか、美しくはあるが特別華やかな顔立ちというわけではなかった。本人も決して騒ぐような者ではないからか、教室の隅に溶け込むようにそこにいる。けれども、不思議と人を惹きつける静かな魅力が彼にはあるのだ。
 存在感がなく、気がつかなければその存在に一向に気づけないというのに、一度目に入れてしまえばいつのまにか吸い込まれている。それに男も女も関係ない。
 かくいう真司も、何度か岳里に見惚れたことがある。同じ男相手に見惚れるもなにもないと思えるが、岳里相手なら仕方がない。真司以外の男たちも同様に、岳里に度々目を奪われるからだ。自分だけではないのでおかしなことではないと受け入れられている。
 岳里を見ているときの気持ちは、とても不思議な感じだ。中肉中背で、まさに平凡の代名詞のような自分との顔立ちを比較して羨むでもなく、嫉妬するでもなく、憧れるでもなく。ただじっと無心になっている。岳里が動き出さなければ、いつまでも彼を隠れて見ていることもある。――そこだけ、真司の感覚は他の皆とは違ようだった。大抵は岳里の顔になりたい、なれない、なぜ自分とこうも違うと羨望の眼差しを向けるのだった。
 男でも見惚れるほどなのだから、女子たちといえばすごいものだ。顔がいいのは勿論なのだが、岳里岳人はそれだけではない。
 彼は成績もかなりよく、常に学年のトップだった。さらにはスポーツ全般をそつなくこなせる運動神経と器用さも持つのだから、天に二物も三物も与えられた男なのだ。
 そんな岳里にも、欠点といえるべき点がある。
 オレンジの味がする実を食べ終えた真司は、手についた汁をぺろりと舐めて岳里に笑顔を向けた。

「ありがとな、岳里。おかげでちょっと落ち着いたわ」
「――……」

 ちらりと視線を向けただけで、岳里は応答もすることなく再び果物の山に手を伸ばした。
 岳里岳人はなんでも揃っているが、しかし愛想だけは持っていなかったのだ。誰がなにを話しかけても最低限の受け答えしかせず、会話が続いた者を見たことがない。
 いつも一人で、ひっそりとそこにいる。周りに誰もいないせいか、岳里を見かけるときはまるで絵画を見ているかのように、どこか浮世離れしているようだった。
 笑った顔を誰も見たことがないという噂まである。岳里は誰にも興味を持たないし、誰とも関わろうとしない。それは黄色い声を上げる女子にも同じことで、まともに相手にすらされないのだ。――まあ、そんな無愛想そうすぎるという点ですら、一匹狼のように格好いいと女子に言われるのだから、世の中顔だなと悟りを開く男子が岳里の周りに多いのは仕方がないことだと思う。
 どんなに岳里につれなくされてもめげずに当たっていく女子たちはすごいと、そう素直に思える。
 噂によれば、岳里のファンは年上にも年下にもいるどころか、県をまたいだ先にまでいるとかなんとか。真正面から無断で撮っても怒りもしないので、隠し撮りなども含めて、写真も相当出回っているらしい。
 当然のように、見た目なら完璧に近い岳里を自分の彼氏にしようとする女子は後を絶たない。しかし誰一人としてその隣に立てた者はいなかった。
 告白をすると、必ず決まった言葉で断られてしまうらしい。好きな奴がいる――と、岳里はどんな美女に言い寄られてもくらりと靡く素振りもなくそう言うのだそうだ。
 好きな人がいるなら仕方ないと諦める者は少なくないらしい。興味ないだとか言われるのならまだ努力次第でチャンスもあるが、きっぱりとそう答えられてしまっては付け入る隙などないと思えるのだそうだ。それでも中には、岳里とその想い人はまだ付き合ってはないのだから、まだ勝機はあると考える者もいるそうではあるが。
 賢い岳里のことだから、その断り文句は今は駄目でもいつか振り向いてもらえるとアピールし続ける相手への牽制になると思っての事かとも勘ぐってしまう。もしくは単純に、適当な理由をつけてこれ以上相手にしたくないだけか。

(――でももし、本当に好きな人がいるとするなら)

 きっとその人はとんでもない美人で、岳里に合わせられるような人だろうから、同じくらい寡黙で大人しいのだろうか。それとも岳里を引っ張り、いつでも笑っているような爛漫な人だろうか。
 岳里を見つめながら、ぼんやり考えていた真司は、不意に顔を上げた岳里と視線が交わり、ドキリとした。
 向けられる遠慮などない真っ直ぐすぎる眼差しは、岳里のことを考えていたことが見透かされているような気がして、ひどく居心地が悪い。
 小さく開かれた唇に、なにを言われるのかと身構える。

「もう、食わないのか」
「え? あ、うん。なんか、そんな食べたい気分じゃなくて」

 まだ余っている地面の上の果物に目を向けられ、真司は無意識に入っていた肩の力を抜いた。

「悪い、折角分けてくれたのに」
「別にいい。まだそこらじゅうにあるし、必要であれば採ってくる。いつでも食べられる状況であるのに、無理に食べる必要はない」

 せいぜい別に、とだけ言われるかと思ったが、以外にも岳里は真司を気遣う言葉を使った。そのおかげで、少しだけ岳里に対して硬かった表情が緩む。
 一人食べ続ける岳里に、真司は躊躇いながら声をかけた。

「あの、さ。ここ、どこだかわかるか?」
「知らん」
「他に誰かいるのか?」
「おれたちだけだ。気づいたときにはおまえと二人で倒れていた」
「そっか――」

 なんとなく、そんな気がしていたので、素っ気なくはあるが偽りのない岳里の言葉をすんなり受け入れることができた。しかし、がっくり肩を落とすことは止められない。
 この先どうすればいいのか、どこに行けばいいのかもまるでわからない。なぜここにいるのだろう。どうやってここまで来たのだろう。見慣れないこの果物はなんだ、学校はどうした、他の生徒は、先生は異変に気付かなかったのか――考え出すとキリがない。
 唯一自分が知る岳里に、縋るように再び声をかけた。

「なあ、おれのこと知ってる?」

 とりあえず、なんでもいいから会話がしたかった。今の状況から、少しでも考えを逸らしたかったからだ。
 岳里は目を向けることなく、簡潔に答えた。

「野崎だろう」
「同じクラスだもんな、さすがにわかるか」

 とはいえ、一度も話したことはない。それに岳里が自分を知っているのは、本当は少し意外だった気持ちもあった。親しかったわけではないというのは勿論だが、岳里が周りに興味なさげだったし、特に目立つわけではない真司を知らないことも十分に考えられたからだ。
 正反対に岳里岳人は、学校どころか地域では知らない者がいないのではないかというくらい有名人だ。顔の良さだけでなく、成績もかなり優秀であるし、子供のころから子供らしからぬ落ち着きすぎる面もあったので、よくもわるくも目立つ存在だったのだ。
 岳里と同じ高校に通うことになったとき、噂の彼が誰であると教えてもらわなくても、見ればすぐにあれが岳里だとすぐにわかったほどだ。
 正直言えば、真司は岳里が少し苦手だった。いつも無表情でほとんど口をきくこともなく、なにを考えているかよくわからなかったからだ。

「真司でいいよ。おれたちのクラス――ってか、地域的に野崎って多いだろ? 先生だって真司って呼ぶし、おれもそのほうが慣れてるし、嫌じゃなきゃそう呼んでくれよ」

 同級生なんだしさ、と真司が笑うと、岳里はようやく顔を上げた。

「――真司」
「ん、よろしくな、岳里」

 耳通りのよい声に呼ばれるとなんだか面映ゆく、自分でそう仕向けたのに顔がにやけそうになる。なかなか興味を持ってくれなかった野良猫が、ようやく自分に意識を向けてくれたような気分だ。
 すぐに岳里の目は逸らされて、果物の山に戻ってしまう。
 同じように食べる気にもなれず、これ以上話しかけて食事の邪魔をする気にもなれず、かといってなにかすることなんてなく。ただ、理由もなく岳里の様子を見守る。そうすると、またもぐるぐると悩みが戻ってきてしまう。
 こんな場所にいるなど、誰かに連れてこられたとしか考えられない。しかし、ならばいったい誰がどういう理由で連れてくるというのだろう。それも、岳里にならなにか価値があるかもしれないが、何故自分のようなどこにいる男子高校生まで?
 朝の早い時間であったから、玄関先には誰もいなかった。真司たちが連れ去られていたとして、気づいた者はいるのだろうか。
 今頃はホームルームでも始まっている頃だろうか。姿のない真司たちはただ欠席と扱われるだけなのだろうか。それとも、なんの連絡も入っていないことを不審に思った友人たちが、訝しんでくれるだろうか――そこまで考えて、真司ははっとした。

「そうだ、ケータイ!」

 なぜ今まで気がつかなかったのだろう。右のポケットに手を入れると、つるりとした長方形の形に触れる。掴み出したそれは、藍色の携帯電話だ。
 欠席の真司を不思議に思った誰かが連絡を入れてくれるかもしれない、と思ってようやく存在を思い出した携帯電話に希望の光を見た気がして、それがあまりにも嬉しくて真司は岳里に振り返る。

「なあ、岳里! これ!」
「そうか」

 興奮して声が大きくなった真司に対し、目も向けないまま返された素っ気ない返事の棘が刺さったように、膨らんだ気持ちがぱちんと割れる。
 見知らぬ土地で突然目覚め、不安に思う気持ちが岳里にはないのだろうか。動揺のかけらもない様子に、こうして不安がり、連絡手段を見つけ大いに喜んでいる自分が大げさなような気がしてしまう。
 しかしこれで状況が変わることは違いないと、真司は一度は萎んだ気持ちを持ち上げて携帯電話の画面を立ち上げた。
 まず真っ先に電波状況を見る。余程の田舎や山奥でない限り電波は繋がっているずだと期待を込めていたが、見えた〝圏外″の文字に肩を落とさずにはいられなかった。
 恐らく岳里は、既に携帯電話を確認して、連絡がとれないことを知っていたのだろう。そうであるならば、先程の冷静さには頷ける。

(それならそうと、先に言ってくれればいいのに――)

 一人喜んで、馬鹿みたいじゃないか。さすがにこれには不貞腐れずにいられなかった真司は一度横目で岳里を睨みつつ、時計を確認する。
 時刻は九時だった。気を失ってから、二時間は経っていないようだ。もう学校では真司と岳里が出席していないことを把握しているはずだ。
 少なくともここは電波も届かない場所であるということはわかった。だがやはり思い当る場所はない。

「――はぁ……」

 ついに出た溜息とともに項垂れていると、不意に手の中の携帯電話が震えた。
 画面を見ると、メール受信の表示だ。電波は圏外のままではあるが、奇跡的に一瞬だけ繋がりメールが届いたのだろう。
 一度は裏切られた期待が蘇る。一瞬でも繋がったと言うなら、場所を変えればきちんと電波が繋がる場所があるはずだからだ。
 これで連絡が取れると希望を持った真司は、すぐにそのことを岳里に報告しようとしたが、未だに黙々と食べ続ける姿を見て止める。先程の素っ気ない返事のこともあって、食べ終えてから伝えることにした。
 その間に先程偶然にも届いた幸運なメールでも確認しようと、機嫌よく確認画面を開き、受信されたメールアドレスを見て小首を傾げる。
 受信メール一覧の一番上にある届いたばかりのメールアドレスは、ただ〝Desire″とだけ表記されていた。続くドメイン名もなく、題名もつけられていない。
 いつもの迷惑メールだろうか。
 不審に思いつつも、興味に駆られてメールを開いてみる。

「――この、世界に……?」

【この世界に選択を。最善の未来を下し者よ】

 画面には、ただそれだけが記されていた。

「なんだよ、これ……」

 これも迷惑メールなのだろうか。だが、不思議とただの文字から目が逸らせない。
 心の中で何度も繰り返し文字を読み返していると、ふっと画面が真っ黒になる。
 五分間、なにも動かさず放置するとスリープモードになる設定にしていたはずだ。そんなに眺めていたつもりはないが、思いの外時間が経っていたようだ。
 呆けていた自身に呆れつつ、再度画面を確認しようと動かしてみるが、画面は真っ暗なままだった。
 なにか不具合が起きたのかと思い、電源ボタンを何度か長押ししてみてもやはり反応はない。先程充電を見たとき、ほぼ満タンであったから充電切れもあり得ない。万が一そうであったとしても、電源が落ちてしまうまえに充電をしろという警告が出るはずだ。
 どこを押しても反応しない携帯電話に、徐々に顔が青くなっていく。

「こ、こわれ、た……っ!?」

 まだ購入してから半年も経っていない。そんなに乱暴な扱いをした記憶はないが、ここまで反応しないのならどうしようもない不具合が起きているとしか考えられない。
 蘇るのは、つい昨日寝る間際にベッドの上から床に落としてしまったことだ。ゴン、と大きな音がしていたし、十分要因となり得る。
 真っ暗な画面に映る自分の顔がわかりやすく不安げになっている。その後ろに、鬼のような形相で自分を見下ろす人の幻影が見えた気がした。

(拳骨だけじゃ済まされない……!)

 これまでにも粗相の度に食らったことのある制裁を思い出した真司は、頭の上がじんじんと熱を持って痛み出した気がして顔を歪める。
 そんな真司の様子を見ていた岳里は、指先で摘まんでいた木の実を口に放り投げ、手を差し出した、

「貸してみろ」

 思わず、差し出された掌を辿って岳里の顔を見上げる。相変わらずの仏頂面のような無表情ではあるが、その動じなさが今は少し頼もしく見えた。
 頷いて、岳里に携帯電話を渡す。
 岳里は画面を覗き込みながら、真司がしたように電源を入れる動作をしてみる。すると、さっきまでまったく反応しなかった画面に光が灯った。
 真司の顔が明るくなると同時に、表情のなかった岳里にもわずかな変化が走る。

「ディザイア――この世界に、選択を……」

 岳里が呟いた言葉に、真司は、あっ、と声を上げた。

「それ、さっき届いたメールの内容だ」

 携帯電話が動かなくなる前に見たものだ。にじり寄った真司は、岳里の隣に並び画面を覗き込む。やはり、画面には先程のメールと同じものが映し出されていた。
 しかし見られたのはほんの一瞬で、また画面は消えてしまった。
 岳里が何度か動かしてみるが結果は先程と変わらず、そのままの状態で返され肩を落とす。
 修理に出せば直るだろうか――そんな心配に溜息をついていると、岳里が制服のポケットから自分の携帯電話を取り出し、それを差し出してきた。

「見てみろ」

 促されるまま受け取り、画面を点灯してみると、そこには先程真司に来ていたメールと同じ〝Desire〝からのメールが開いていた。
 題名はなく、内容は本文に二言だけ。

【世界が授かる答えに従え。光を降らせる神の使者よ】

「――なんだよ、これ」

 それは、真司のところにきたメッセージとよく似ていた。しかしその意味はよくわからない。
 眺めていたのはほんの十数秒だ。短い間であったが、岳里の携帯電話も暗くなり、そしてもう一度つくことはなかった。

「おれのも、おまえと同じ状態だ。メールを確認した後、動かなくなった」

 真司の手から携帯電話を抜き取った岳里は、それをポケットにしまいながら、もう片方の手で持っていた果物の最後の一口を頬張り、ろくに噛まないまま嚥下していた。
 かなり大量にあった食料だが、いつの間にか全部食べてしまったらしい。
 指についた果物の汁を舐めとる岳里をぼんやり眺めながら、真司は小さく口を開く。

「――なあ、岳里」
「なんだ」

 隣に座る岳里は、やはり声音にも愛想のかけらもないが、ちらりと向けられた視線は嫌そうではなく、むしろ言葉の続くを促してくれている。
 態度のわりに、食料を分けてくれたり、ちゃんと返事をしてくれたりするからだろうか。岳里からはどこか柔らかいものを感じる気がする。
 だからだろうか。じわりじわりと滲み出る不安に耐え切れなくなった。

「ここ、どこなんだよ……」
「知らん」

 なんでおまえはそんなに、冷静でいられるんだ――そう続けようと思ったのに、声は出ず、代わりに唇を噛んだ。
 ここがどこなのか、どうやって来たのかすらわからない。携帯電話もつながらず、それどころか変なメールが届いて二台とも壊れてしまった。岳里と真司以外の人気もなく、周りは人の手が加わっているとは思えない自然に囲まれている。
 耐え切れずぶつけた不安に、けれども岳里が揺らぐことはなかった。その動じなさを見ていると、少しだけ落ち着きが取り戻せる気がした。

「――なあ、さっき岳里が言っていた、その……でぃ、でぃざいあ? だっけ……?」
「でぃざいあ? ――ああ、ディザイアか」
「そう、それ。それってどういう意味なんだ?」

 沈黙になるとまた不安がぶり返しそうになるので、真司は先程の岳里の発言で気になっていたことを質問してみた。
 どうやら発音が違かったらしいが、合点のいった岳里は嫌そうにする素振りもなく教えてくれた。

「願う、という意味だ」
「それじゃあホープやウィッシュと同じってことか?」

 〝Hope″、〝 Wish″は願う、希望するという意味と習っている。英単語の中でも一般的なやものであるし、いくら英語の科目が苦手だったとしても合っている自信はあった。Desireも願うという意味ならば、つまりはそれらと同等となるのだろうか。

「同じというわけではない。そのふたつが純粋な希望、願いという意味だとするならば、ディザイアは欲望や、強い願いだ。人間の本質的なものだと言えるだろう」
「へえ、よく知ってんなあ。おれ、でぃざいあって言葉すら知らなかった」
「大したことじゃない」

 さすがに学年トップの頭の出来は違うものだと感心していると、不意に岳里が振り返った。

「岳里?」

 同じように後ろを向いてみるが、そこには真司と同じくらいの背の低木が密集し生える場所で、重なりあった枝葉に視界が塞がれてしまっていた。
 ただ緑ばかりが重なるだけの場所を、岳里はじいっと見つめている。黙りこくり、意識を研ぎ澄まそうとしているようだった。
 なにか、そこにいるのだろうか。森で出会う猛獣を想像した真司は、ふと恐ろしくなり、その考えを否定したくてもう一度岳里に声をかけようとした。
 しかし声を出す前に腕が伸びてきて、肩を岳里のほうに引き寄せられると、もう片方の手で口を塞がれてしまった。
 驚いて咄嗟に暴れた真司を難なく抑え込みながら、そうっと耳元に口を寄せ囁く。

「足音がする。静かにしてろ」

 短い言葉だったが、真司は抵抗を止めて身をかたくした。
 本来なら、他に人がいたことを喜んでいいだろう。しかしそれができなかったのは、明らかに岳里が警戒をしているからだ。
 真司も耳を澄ませてみるが、足音どころかなんの音も聞こえない。枝葉を掻き分ける音、草を踏む音も、なにも。
 鳥の声のひとつもしない違和感を覚えることのない真司は、すぐ傍らの岳里の様子を窺うしかできない。抱え込まれた脇から岳里を見上げるが、彼の瞳は一点に向けられたままだ。
 やはり音は聞こえず、岳里の思い過ごしではないだろうかと思ったそのとき、微かに草を分ける音がした。
 それは岳里の視線の先から、真っ直ぐにこちらに向かってくる。
 一歩一歩近づく度に、真司の心臓の鼓動も強くなっていく。
 岳里は移動することなく相手を待った。そしていよいよすぐ傍まで迫ったとき、木の壁の向こうから声がかけられた。

「――誰かいるのか?」

 それはまだ若そうな男の声だった。唸るように低い声ははっきとした警戒を滲ませている。
 こちらが息を殺していたというのに、相手は真司たちの存在に気がついたようだ。その事実に真司は動揺するか、岳里は至って冷静だった。

「いたとしてどうする」

 真司に語りかけるときと同じ、普段と変わらない口調と声音だ。緊張しているようにも聞こえなかった。

「もしおまえらが我が国へ危害を加えるつもりなら、ここで始末するまで。そうでないなら、国王の御意志により歓迎してやるさ」

 平然としている岳里に合わせるよう、男の声色から険が消える。しかし選ばれた言葉は、その通りにまるで真司たちに刃を突きつけるような鋭いものだ。

(始末――それってつまり、殺すってことか……?)

 物騒な言葉に、真司は息をのむ。それだけのことに喉が震えた。
 ゲームや漫画で聞いたり読んだりしたことがあるくらいの台詞は、随分現実離れしている。しかしこれは夢ではない。身体に触れる岳里の熱を感じている。先程食べた得体の知れない果物は味がしたし、心臓がばくばくと鳴っている。
 それともうひとつ。男は〝国″と言った。日本にいるとするなら、どこの村や町、市から来たか、と問うだろう。それに日本には天皇という特殊な存在はおられても、国王と名乗る者はいない。つまり、ここが日本であるという可能性は低いと言える。しかし相手が使う言葉は日本語で、だからこそ男に強い違和感を覚えてしまう。
 ここはどこなのだろうか。男は何者だ。何故こんなことになっている? 何故危うい事態となっているというのだろうか?
 身動きを封じられ、口も塞がれる真司はただ静かに冷や汗を流す。それに岳里は気がついているだろうか、押さえつけている同級生を一度も気遣う素振りも見せず、喉を震わすこともなく発言を続ける。

「ならおれたちの命は保障されているな。この森に迷い込んだだけで、困っているところだった」
「――ふうん、それを信じろと?」

 男が声音に面白がる色を乗せるが、実際は疑っているのではないだろうか。顔も見ていない相手を、言葉だけで信用できると言い切れるのはとんだお人好しくらいなものだろう。
 友人たちの間でも、おまえは人が良すぎると苦笑される真司ですら、男の立場だったとして、先程の短い言葉の応酬で岳里を信じるなどあり得はしない。

(なら、どうすれば信用が得られるんだ?)

 自分にもなにかできることがないか、極まる緊張のなかで真司が必死に思案していると、ふいに身体の拘束が外された。
 どうして、と思う前に、岳里が男に言う。

「おれたちのことは、こいつが証明する」
「へ?」

 岳里に振り向こうとした瞬間、どん、と強く背中を押され真司は前につんのめった。慌てて手をついて身体を支えようとするが間に合わず、ぐるんと視界が回る。
 それほど痛みはなかったが、相当強く押された身体は前転一回では留まれず、ぐるぐる回って茂みに突っ込む。

「うおっ、おおおっ!?」
「は? ちょ、のわあっ!?」

 肌を引っ掻く茂みを抜けた後、一瞬だけ見えた鮮烈な赤と、短い男の悲鳴。
 強い衝撃の後、真司の意識はふっつり途絶えた。



 道路の端で、ひとりの少年が頭を抱えてしゃがみ込んでいた。

『いたい……いたいよ……』

 頭部を押さえる指の隙間から溢れた血は、身体に流れて、半ズボンから覗いた足を伝ってコンクリートに薄く広がっていく。瞳からぼろぼろ零れる涙は、真っ赤な血だまりに落ちてはのみ込まれていく。
 打ち身や擦り傷だらけで、全身がとても痛い。痛い。痛くて、呼吸が苦しくて、なにもかもがつらくて、少年は顔を上げて必死に叫んだ。

『おかーさぁん、おとーさぁん! いたいよぉっ……にいちゃん――っ』

 力の限りの叫びに、傷だらけの全身が苛まれる。
 痛い。痛い。苦しい――何も考えられないほどの苦痛に、それでも少年は、僅かな希望を呼ぶ。何度も、何度でも、嗚咽に阻まれようが、痛みに遮られようが、ひたすら求め続けた。
 濃い煙と、天に届かんと伸びる大蛇の舌のように燃え上がる炎が、朦朧とする少年の視界の先で二つの車体を飲み込んでいく。噎せ返るほどの熱が、十数メートル離れた少年の場所にまで届ほどだった。
 ――それだけはだめだ、絶対にだめだ。
 少年は懸命に手を伸ばした。しかし真っ直ぐに伸ばした指先は、胸より上にすら上がっていない。
 ――だめだ、だめだ。返事がない。だからきっとあそこにまだいるはず。だからまだ、あと少し。みんながここに来てくれるまで待って。
 伸ばした腕で均衡を崩した少年は、その場に倒れて強く顎を打ち付ける。ぐわんと頭が揺れた。それでも手を伸ばし続ける。
 炎に包まれる車の中にいるはずの、家族へ。

『――かぁ、さ……とぉさ……』

 か弱い声は爆発音に掻き消される。
 いっそう大きくなった炎は、もはや飲みこんだものの影をぼんやりと腹の中に映すだけになった。
 ついに少年の手は、ぱたりと固い灰色の地面に落ちてしまう。

『にい、ちゃん……っ』

 ――もうこの声は届かないのだろうか。応えてくれる人はいないのだろうか。
 もう、誰にも――

『真司!』

 ――ああ、まだいるんだ。
 少年は炎を見つめながら、ゆっくりと瞼を閉じた。



 右頬に湿った暖かく柔らかいものが這う。くすぐったく思えて、真司が身を捩って逃げる。すると今度は目尻を撫でられる。
 細いなにかに肌をくすぐられ、その煩わしさにようやく意識が浮上する。

「ん……?」

 完全に覚醒しないまま、薄らと目を開けてみれば、黒髪が視界を覆うようにすぐ傍にあった。初めは自分の髪かとも思ったが、鼻にかかるほど長くないし、こうもさらさらとはしていない。
 じゃあこの髪は誰のものだろう? とぼうっと考えていたところに、頭を持ち上げた黒髪の持ち主と目があった。

「がっ、岳里っ!?」

 どうやら、岳里が覆いかぶさっていたようだ。
 鼻先が触れ合いそうなほど近くにある岳里の顔に驚いた真司は咄嗟に身体を起こしてした。幸い、岳里がさっと避けたので頭同士がぶつけることはなかったが、しかし衝突を回避できたはずなのにずきんと痛んで、真司は頭を押さえて呻く。

「いってて……」
「起き抜けにそれだけ動けるなら大丈夫だろう」

 苦しむ真司を尻目に上に乗っていた岳里はさっと退くと、傍らに置いてあったらしい三つ足の丸い椅子に腰を下ろした。

「なんか、ちょっとこぶになってる……?」

 頭を擦っていると、普段はないわずかな起伏を感じて首を捻る。なにか岳里が知っているかと思い目線を向けるが、なにも語らないままふいと外を向いてしまった。

「なあ、岳里」
「なんだ」

 わざとらしく目を逸らした岳里がなにか知っているはずだとこぶの理由を問いかけようとしたのが、小さく開いた彼の口を見てはたと目覚める寸前のことを思い出す。
 自分の上にいた岳里と、湿った柔らかい感触。それらによって導き出される答えに至った真司は、思わず頬を手で覆う。指先で触れる残るまだ濡れた肌に、一気に顔が熱くなる。

「お、おま……っ! なに、おれをなに!?」
「落ち着け」
「おまえっ、おれが寝ている間になにしてたんだよ!?」

 哀れなほど動揺する真司とは正反対に平常そのものの岳里に、同じような冷静にはなれず、真司は噛みつくような勢いで問いただす。

「拭いただけだ」
「なにを!」
「――おまえが、泣いていたから」

 だからなんだ、舌で舐める必要があるのかと、言いたいことは沢山あるはずなのに、静かに目を伏せた岳里に真司は口を噤んだ。
 これまで感情の読み取れなかった岳里が、ほんの一瞬だけ、なんだか怯えた子供のように見えたからだ。

「おれが、泣いてた……?」

 先程まで眠っていたはずの真司が涙を零したから、岳里はそれを拭ったのだと言う。しかし真司にはそんな覚えがない。
 困惑していると、岳里が真司に目を向けた。

「悲しいのか」

 眉ひとつ動かない、相変わらずの表情のない顔のまま、椅子から腰を上げると、手を伸ばしてくる。思わず真司はわずかに後ろに身を引いた。しかし怯むことのない岳里の指先は追いかけてきて、頬に手が添えられ、親指が目尻に触れる。
 温かく、大きな手だった。すぐに離れていった親指の先は真司の涙に小さく濡れていた。
 自分でも岳里が触れた目尻に指先を当ててみると、確かに湿った感触がある。
 岳里が言ったように、確かに真司は眠りながらも泣いていたようだ。

「……はは。なんでおれ、泣いてんだろな?」

 まるで小さな子供のようだ。高校生にもなって意味もなく泣き、そしてその涙を同級生に見られたと言う事実が気恥ずかしく、真司は乱雑に袖で目元を擦った。
 力任せに擦るものだから、すぐに肌が痛くなる。それでも羞恥を誤魔化し続けると、ふいに岳里に腕を掴まれた。途端に縫い付けられたように、まったく腕が動かなくなる。
 抗議をしようと頭を上げると、珍しく岳里がわずかに眉を寄せいた。

「が、岳里……」

 顔立ちのいい者だと、少しの不機嫌そうな表情でもなかなかに凄みがある。ましてや普段表情を変えない岳里ともなれば、余程の事が起きてしまったかのように思えてしまう。
 いったいなにが岳里の気に障ってしまったのかわからず、大人しくして様子を窺っていると、両頬が岳里の手により包まれた。

「赤くなっている」

 まじまじと顔を覗き込まれ、咄嗟に後ろに逃げようとするが岳里の両手に固定されて動かすことができない。
 言葉から、擦りすぎて赤くなった目元を心配してくれているのはわかった。しかし涙の痕まで見られているような気がして、なにより岳里の顔があまりにも近くて、もしかしたらまた舌で舐められてしまうのではないかと心配になる。

(て、抵抗したら怒られるのか……? いやでももうこれ以上耐えられるもんか!)

 徐々に迫ってくる真剣な眼差しの端麗な顔立ちをキッと睨み、よし、と心の中で意気込んだ真司は、今にも重なりそうな岳里の胸を両腕で力一杯押し返した。

「はーなーれーろーっ!」

 声を出して気合を入れるが、一向に距離は広がらない。全力を出しているはずなのに、まるで体勢を固定されている人形を相手にしているようだ。
 所々で感じていたが、岳里の膂力が凄まじく、真司ではまったく歯が立ちそうもない。真司の力が弱いわけではない。強いというわけでもないが、一般的な男子高校生の腕力ではあろう。だが、岳里のほうは異常なまでに力があるようだ。
 今はっきりと証明される筋力の差は、あまりにもかけ離れすぎていて、少し恐ろしくも思えた。いくらなんでも、本気の抵抗を見せる男を、完全に微動もしないように押さえ込むことなど可能であるのだろうか。それにどんなに強く胸を押されても、岳里は痛がることも、苦しそうにする素振りも見せない。真司を押さえつけていても力を入れている様子すらなく、何事も起きていないようなけろりとした顔だ。

(なんなんだよこいつ! いっそのこと蹴り入れてやろうか!)

 岳里に底知れぬものを感じてしまいそうで、それを誤魔化すためにもいよいよ鳩尾でも蹴ってやろうかと足を上げようとしたところで、部屋の扉が音を立てて開いた。
 驚いた真司が振り返ると、そこには燃え盛るように赤い髪を腰ほどまでに伸ばした男がひとり立っていた。
 男は扉に寄りかかり、真司たちを眺めてにやりと片頬を上げる。

「邪魔、したか?」
「っぜんぜん!」

 いくら男前だとしても、男とこんなにも密着していて楽しいわけがない。
 真司が力強く否定をすると、顔を掴んでいた岳里の手が緩んだ。その隙をつき、渾身の力で岳里の腹を蹴り飛ばした。なにを考えているかわからない岳里に振り回され鬱憤が溜まっていたので、加減は一切していない。
 また効かないのではないだろうかと一瞬不安も過ぎったが、岳里はあっさりと背中から床に落ちた。
 どすんと重たい音が立つと同時に、真司は寝台の上から飛び降りて、そのまま縋るように部屋の中心まで来ていた赤髪の男の後ろに隠れた。
 岳里はすぐに起き上がったが、痛がるでもなく、ただ打ち付けた頭をぼりぼりと掻いているだけだった。
 やはり相当痛みにも強いのかもしれない。とはいえ、いくらなんでも腹を蹴飛ばしてしまったのは少々やりすぎであった気もしないでもない。岳里が抵抗もなく落ちたので、実は真司のほうが驚いてしまったのだ。
 実は顔に出ないだけでとても痛がっており、内心では憤怒しているかもしれない。
 怯えた真司は、情けなさを自覚しつつも、岳里と目を合わせる前に赤髪の男の背に顔を隠した。

「あー……おれになにしろって? つか睨むなよ、怖えな」

 はじめの言葉は自分に向けて言われたものであるが、しかし次の台詞は岳里に向けて発せられたものだとわかり、真司は顔を青くする。
 あの岳里が睨むほど怒っているということだ。素直に謝れば許してくれるだろうか。しかし、離れろと言っても放してくれなかった岳里にもまったく非がないとも思えない。しかし、岳里のような男に怒りをぶつけられるのは心底恐ろしい――

「そいつから離れろ」

 迷う真司に、岳里が地を這うように、低く唸る。明らかに重さを増している不機嫌そうな声にますます顔から血の気が引く。
 堪らず目の前の背にしがみつこうとするが、頼りにしていた壁はひょいと脇に避けてしまう。

「ほら、離れた」

 身構えることもできず開けた視界の先で、バチッと岳里と目が合った。
 一瞬、鋭く険しい眼差しが見えた気がしたが、一度瞬きをすると、いつも見ているなんの感情も見えない表情になっていた。

「こちらに来い」

 声音も心地よい平常の低さに戻り、荒ぶる怒りは感じられない。
 手招きをされ、逃げ場もない真司は諦めて数歩分の距離を詰めた。

「そ、その……蹴って、悪かったよ」
「別に。気にしていない」
「ほんとに?」
「怒っていたほうがいいか?」

 慌てて首を横に振る。
 岳里はにこりともしてはいないが、怒りは収めることにしてくれたようだ。
 ひとまずほっと安堵をすると、こほん、と咳ばらいがひとつ聞こえた。

「あー、っと。そろそろいいか?」
「あっ、はい……」

 これまでの流れに巻き込んでしまった男に改めて目を向けてみると、やはり彼の風貌はとても鮮烈に映る。
 秋の紅葉よりもはっきりとした赤い髪は見事までに根元から毛先まで、むらなく鮮やかだ。ついそちらに目が行ってしまうがその髪色は、彼自身が整った容姿であるからこそ気障ったらしくなく似合っている。
 ほんの少し下がる目尻と爽やかな風貌、派手な髪色から、やや軟派な印象を受けるが、髪と同じ色をした赤い瞳に宿る光は穏やかだ。真司たちが落ち着くのを半ば呆れながらも笑って待ってくれている様子から、面倒見のよさが窺えた。
 つい赤毛に視線が向いてしまうことに気がついたのか、男は自身の長い髪を一房摘まんだ。

「そんなにこの色が珍しいか? おれにしてみれば、おまえらのその黒い頭のほうが珍しいんだけどな」

 男はぱっと髪を手放すと、じっと真司の顔を見つめた。正確には珍しいと言った黒髪を見ているのだろうが、どうも目が合っているような気がして落ち着かない。
 あまりにも真っ直ぐな眼差しに慣れない真司は、逃れるように下を向くと、不意に影が差す。
 顔を上げれば、いつのまにか岳里が目の前に移動をしていた。そのおかげで視線から逃れることはできたが、視界に岳里の背中しか見えないのは、同じ男としてその体格の良さが羨ましくもあり、貧相な自分が悔しくもある。

「あまり見るな」
「あー、はいはい。おまえのこと、なんとなくわかってきたわ。――ほら、これでいいだろ?」

 岳里は答えないまま、半歩分だけ横にずれる。そのときちらりと真司に視線を寄越したが、動くな、と無言の威圧を感じたので、仕方なく真司は半分だけ岳里に隠されたまま赤毛の男と向かい合うことになった。
 男は目が合うと、お互い岳里の理解できない言動に振り回されている者同士の共感からか、苦笑しながら軽く片手を振った。

「それじゃあ、これから説明させてもらう。まずは名前だな。確かおまえは、真司って言うんだろ?」
「は、はい」

 真司自身が名乗っていないが名前を知っているということは、岳里が教えたのだろう。

「おれはレードゥだ。よろしくな」
「よろしくお願いします。その……れ、れーどぅさん」

 にっと愛想よく笑いかけられて、真司も多少ぎこちないながらも笑顔を返した。しかし自信のなかった名前の発音は流行り心もとない。

「呼びづらかったらレドでもいいぜ。そう呼ぶやつも少なくないしな」
「あ、ありがとうございます……レドさん」

 心苦しく思いながらも、彼の心遣いに感謝をして、今度はしっかりと名を呼ぶことができた。聞き取りづらかったわけではなかったのだが、あまり馴染のない名前であるからか、きちんとした名前で呼べるようにはもう少し時間が要りそうだ。

「さて。まず始めに、どっから説明するべきかな……」

 どう切り出せばよいか悩み頬を掻くレードゥを視界から外さないようにしながら、そうっと辺りを窺った。
 この部屋がどこかのホテルだったとしても、内装は非常に凝っている。先程まで寝ていた寝台も沈み込むように心地よく、かけられていた掛布団は羽毛が詰まっていたのか、とても軽やかだが優しい温かみがあった。床に円状に広がる絨毯の模様は青を基調としながらも複雑に他の色が絡み合い、落ち着いた色合の中にある金糸が時折輝き、上品なものであるし、窓枠には蔦と花の飾り彫りが施されている。
 気にかかるのは、家電製品がひとつも見当たらないということだ。天井には拳ほどの半球が埋まっているので、おそらくそれが照明になるのだろうが、壁を見ても電源は見当たらない。それどころかコンセントすらないようだ。窓の隣に設置された書斎机の上にあるのはインクと立てておかれた羽ペンで、ボールペンのようなものも見当たらない。現代ものを一切取り除き、アンティーク調で整えられている。
 気を失ってからのことは覚えていないが、ただ運び込まれたというだけでこのこだわりが詰まる部屋を宛がわれたとしたら、豪華すぎる。
 それに、レードゥのことも気にかかる。彼の髪色や、明らかに外国人のような彫りの深い顔立ちは勿論の事だが、彼が纏う服装の濃灰色のロングコートはまるで、部屋の内装の雰囲気も合わせると、ファンタジー映画から抜け出してきたような印象を受ける。
 装飾はあまりないので一見簡素に見えたが、裾にある刺繍や釦に彫られた模様はとても細やかで、物への鑑識眼はさっぱりの真司でさえそれが上等なものであるとわかる。彼の正体にまるで見当もつかない。
 これから語られるのは、おそらく真司たちがおかれた現状について。しかし未だに真司はなにひとつ状況を理解できていない。
 心臓が、いやに高鳴っていく。

「――今からおれが言うことを、よく聞け」

 いつまでも唸るばかりで始めないレードゥにしびれをきらしたのか、岳里が真司に向かい直った。
 表情の変わらない岳里は、瞳ですらなにも語らない。これからなにを言われるか、そんな予想も思い浮かばせてはくれず、真司の心の準備ができないまま岳里は告げる。

「ここは、おれたちのいた世界じゃない。俗に言う、異世界だ」
「――いせ、かい?」

 ろくに考えないまま、真司の口からぽろりと言葉が零れた。
 岳里は浅く頷く。

「おまえも薄々は気がついていたんじゃないか。異世界とまでは思わなかったとしても、ここはおれたちの知る場所ではないのだと」
「き、気づくって……そんな、わけ……」

 ない、とは言い切れなかった。真司はただ顔を青くしていき、真っ直ぐ向けられる岳里の眼差しから逃げるように俯く。

「おまえが眠っている間におれはこの国を見てきた。ここの世界にはおれたちがいた日本がなければ、知っている名の国はない。車や電車なんてものはないし、携帯電話やテレビもない。それどころか、魔物がいるし、魔術も存在してる」
「――……漫画やゲームじゃあるまいし。今の状況でそんな冗談、性質悪いって」

 物語ではよくある話だ。倒す敵である魔物、火や水を操ってそれらを攻撃する魔法。ゲームなどをやらない人間でも知っている単語である。だが、どちらも現実には存在していないもの。
 無口な岳里にしては珍しく言葉数多く語られるものは、しかし現実的な彼らしからぬ台詞だ。だからこそ、そんな夢を見ているような説明を思わず信じてしまいそうになる。

「冗談なんかじゃないぜ。現におれはニホンって国を知らないし、テレビだの、ケータイデンワだのもわからない。ただ言えるのは、この世界はディザイアで、おれの住むこの国はルカって名前だってことだけだ」

 〝ディザイア″とは、岳里と真司にそれぞれ送られてきていたメールアドレスと同じ名だ。
 この世界に来てから見たメールの送り主と同じ名前の世界。なにか関係があるというのか。まさか岳里の冗談は、本当だと言うのか――いつの間にか浮かんでいた半笑いも消して真司が黙り込むと、不意に右手が温もりに包まれた。

「――っ」

 突然のことに右手に目を向けてみると、真司の手よりも一回り大きな岳里の手に握られていた。驚きのあまり振り払うことも忘れて、顔を上げて彼を見る。

「震えていた」

 まるで、こうすることが当然かのように岳里は言った。
 彼の瞳は同情するようでも、哀れむようでもなく、感情が読めない。だがその行動が動揺する真司を宥めるためのものであるのには変わりなかった。

(おれは、女じゃないっての……)

 いくら顔がいいとはいえ、同じ男に手を握られ、喜ぶとでも思ったのだろうか。そう心の中で反発するものの、真司は岳里の手を強く握り返した。
 なぜ岳里の手はこんなにも温かいのだろう。そう考えてから、自分の手がひどく冷えていることに気がついた。震えていたということにも気がつかなかったので、自分が思っている以上に混乱していたのかもしれない。
 異世界にいるというありえない現実。周りのすべてが信じられない中、ひとつだけ、確かなことがある。
 岳里岳人の存在だ。彼は真司と同じ高校に通っていた日本人で、同じ〝世界″からやってきた。聞いたことのない名前の世界でも、鮮やかな赤髪を持つ人種がいても、なにもかもがわからなくても、岳里のことだけは知っている。然程仲が良かったわけでもないが、こんな場所に来てしまってもふてぶてしいほどに変わらない彼は、震えるほど狼狽えている真司にとって心強かった。

「わけ、わかんねえよ……」
「そうだな」

 真司の呟きに、岳里は静かに応える。

「なんだよ、どこなんだよここは。本当に別の世界だって言うのかよ……?」

 同じ状況にありながら、まったく揺らぐ様子のない岳里。だからこそ真司は、彼のその強さに甘えてしまう。そしてそれを岳里が受け入れてしまうから、真司は不安を投げつけた。

「ディザイアだって? ルカだって? そんなの……そんなのおれ知らねえよ! どうしておれたちはこんなところにいるんだよ!?」

 繋いでいた手を解いて、岳里の胸ぐらに掴みかかる。

「なあ、これは夢じゃないのか? 気づいたら森にいて。この部屋にいて。それが違う世界に来てただなんて……ありえないだろ、こんなの信じられるかよっ」
「……そうだな」

 岳里は否定もせず、ただ肯定をする。嘘をつくような男でないのは、この世界に来てからの短い間でも十分に分かっている。だが彼の言葉で受け入れられるほど易しい現実ではない。

「なあ、帰れないのか? 今すぐ戻れないのか!? 早く帰んないと、兄ちゃんが……」

 そこまで言いかけて、真司は思い浮かんだその人に口を噤む。
 朝、家を出る時に兄は必ず言う。
 遅くなるなら、連絡くらいしろよ――と。
 心配症の兄は、もしも帰りが連絡もせず遅くなろうものならばすぐに連絡をしてくる。気がつかなければ大量のメールと着信が入っているほどだ。慌てて帰って詫びたとしても必ず説教をされるし、怒りが収まらないときには拳骨が落ちることもある。それだけ過保護に真司の身を案じてくれる人だった。だが今日はその言葉を聞かず家を出てきている。それどころか、行ってきます、とさえ言えていない。
 昨日、課題を忘れなければこんなことにはなっていなかっただろうか。いつものように兄と朝食を取り、同じくらいの時間に家を出て、別れるときには、行ってきますと挨拶をして――
 帰ってこない真司を、兄はきっと探すだろう。いつまでも探し続けるだろう。自分の家族が急に消息不明になり心配をしない者はそういないだろうが、しかし自分の兄はそれ以上の不安を見せるだろう。
 なぜなら、真司も同じく兄が帰ってこなかったとしたら、誰に止められたとしても探し続けるからだ。

(だって、おれたちはふたりだけの――)

 真司が強く兄を想い、岳里の胸ぐらを掴む拳を震わせていると、突然扉が荒々しく叩かれた。
 真司だけでなく、岳里も、これまで静観していたレードゥも扉に振り返る。

「レードゥ隊長、ちょっといいですか?」

 部屋の外から聞こえた男の声は、先程のノックの音のように慌てている様子だった。
 声を聞いたレードゥは自ら動き、扉を開けてやる。

「ジィグンか。どうかしたのか?」

 扉を開けた先にいたのは、四十代半ほどに見える無精ひげを生やした男だった。背は真司よりも低いが、体格はよく、あまり小ささは感じさせない。
 男の濃灰の髪は真司にとって馴染があり、顔も平たいほうであるからか、彼も″この世界〟の人間であるはずなのに真っ赤な髪のレードゥだけが異端のように見えてしまう。
 男はちらりと真司たちを一瞥した。その視線に、まだ岳里の胸ぐらを掴んだままだったことに気がつき、慌てて手を離す。
 真司が男に視線を戻した頃にはもう、彼はレードゥに耳打ちをしていた。ぼそぼそと声はするが、聞き取れるほどではない。
 無意識に耳を澄ましている自分に気がつき、真司は深く息を吐いた。もし聞こえたとしても、声をひそめているとしても真司たちの目の前で話しているような内容だ。それほど重要な話でもないだろうし、たとえ話が自分たちに関わるようなことでも今は困惑するだけだろう。なにより他人の話を盗み聞く趣味はない。
 男の登場に少しは落ち着いた真司は、傍に立ったままの岳里を意識して、彼の目から逃れるように俯く。
 混乱していたとは言え、興奮して岳里に詰め寄ってしまったことを深く悔いる。
 いくら頭がよかったとしても、迷い込んできたこの世界からの帰り方を知っているはずがない。それにいくら顔に出ていないとしても、彼と真司はまったく同じ境遇だ。真司が騒いでしまっているからこそ反対に冷静でいられているのかもしれないが、既にすべてを受け入れきれたわけではないだろう。むしろ先にこの世界を見てきた分、真司よりも苦しい状況にあるかもしれない。
 先程の真司の言葉はただの八つ当たりだ。岳里と、そして自分自身の不安を煽るだけでしかなかった。そうわかっていても抑えきれなかった。それほどまでに異世界に来てしまったという事実は受け入れがたいものだったのだ。だからこそレードゥは真司を止めなかったし、岳里も受け入れたのだろう。

(……くそっ、岳里のやつ本当に同い年かよ)

 実は若く見えるだけの五十歳とかではないのだろうか。そう思えるほど岳里の落ち着きようは高校生には見えず、彼の隣にいると、自分の幼さが際立つ気がする。

(おれだって、しっかりしないと)

 よし、と内心で意気込んで顔を上げると、どうやら初めから真司を見ていたらしい岳里と目が合う。
 少し面を食らいながらも、気をとり直し、彼に頭を下げた。

「その、さっきはごめん。八つ当たりだった。おまえだって大変なのに、感情的になっちゃって」
「気にしていない」

 その感情の窺えない顔は、だからこそ岳里の心情を見る側が好き勝手に捉えさせる。短い言葉から一度は怒っているのではないかと疑ったが、彼の瞳にはなんの険も見えない。本当に気にしていないのだろう。
 真司がほっと胸を撫で下ろしていると、不意にレードゥが声を荒げた。

「なんだって!? なんでそれを先に言わないんだよ!」
「いやほら、さっきのほうが重大じゃあないですか。それにあの人のことはいつものことでしょう?」

 顔を青くさせているレードゥに対して、無精ひげの男はにやりと笑う。

「た、確かにそうだけど……まだこっちには来ないよな?」
「おれがこの部屋に向かい出した頃には、もうすぐ来そうな勢いでしたね。あの人、レードゥ隊長の匂いには敏感ですし」
「に、逃げねえと――」

 しれっとした男の返答にレードゥは大いに狼狽えていた。扉を背にして室内を見回すが、出入りできる場所は他に窓くらいしかない。しかし空ばかりが見える窓からの景色からわかるように、少なくとも二階以上ではあるようだ。
 窓から飛び降りるわけにもいかず、実質出口は今背にしている扉しかないはずだと真司は判断する。しかしレードゥは振り返ることなく、そのまま窓に向かって走り出した。
 一瞬反応が遅れた真司が振り返った頃には、既にレードゥが窓枠に片足をかけているところだった。

「ジィグン、ふたりを頼んだからな!」
「ちょ、レドさんっ!?」

 咄嗟に真司が手を伸ばすが、窓から距離がある場所から届くはずもなく、躊躇いもなく飛び降りたレードゥを掴むことはできなかった。

「了解~」

 レードゥが部屋から出ていった後、遅れて男が応える。慌てている様子はなく、岳里も何事もなかったかのような顔をしている。真司だけが狼狽えているようだ。
 しかしあくまで自分が一般的な反応だと知る真司が咄嗟に窓に駆け寄うとしたところで、男がにかっと歯を見せ笑った。

「大丈夫だって。このくらいの高さくらいじゃレードゥ隊長の障害にはならねえよ。いつものことだから」
「い、いつものこと……?」
「そ。だから心配するだけ無駄だぜ――っと、そろそろかな」

 男は呟くと、立ち塞いでいた扉から壁際に避ける。
 それから程なくして、部屋の外から荒々しい足音が聞こえてきた。

「レードゥ! どこだぁああっ!」

 足音とレードゥを呼ぶ叫び声は恐ろしいほどの速度で真司たちの部屋に近づいてくる。いよいよ中に入ってくるというところで、出入り口を見守っていると、紫頭の男が飛び込んできた。

「のわっ」

 男はビュンと音がしそうなほどの勢いを止めることができず、そのまま出入り口の直線状にあった窓に突っ込んでしまい、頭から落ちていく。
 文字通り流れるような一連の動作に、一瞬真司の判断も遅れた。

「え……お、落ちた!?」
「あれ? 今日は止まれなかったのかね」

 乱入者が巻き起こした風に髪が揺れる。
 無精ひげの男に焦った様子はなく、レードゥのときと同様に真司だけが慌ててしまう。
 レードゥのときは本人の意思で飛び降りたが、今回はわけが違う。窓に駆け寄った真司は、先程の男の安否を確認すべく窓を覗き込もうとしたとこで、突然腕を掴まれ後ろに引っ張られた。
 よろけると同時に、窓から紫頭の男が顔を出す。
 しばし男と見つめ合い、そして遅れてやってきた驚きに、咄嗟に真司は腕を掴んだ相手に抱きついた。
 それが岳里だと気がつき、あわあわとしながらもさっと離れる。

「いやあ、すまぬな。人がおるとは思わなんだ。少年、怪我はないな?」
「あ、はい……」

 男は悪びれた様子もなく笑い、ひょいと軽い身のこなしで窓から部屋の中に入った。
 改めて向かい合うと、男がかなり大柄なのがわかった。岳里よりも少し背が高く、肩幅が広い。瞳と同色の紫の髪はレードゥのものと違った鮮やかさがあり、顔の両脇の髪が少し長く、髪型も特徴的だ。両耳にはざっと数えても十個以上のピアスがつけられているのも印象的だった。

「おぬしら、見ない顔だな? それに珍妙な格好であるし、ここの国の者ではないようが」

 やや太い眉を片方上げて、真司と岳里を交互に見やった。純粋な興味があるのか、男から向けられる視線に敵意は一切感じない。

「ヴィルハート隊長。この二人はレードゥ隊長から預かった大事な客人でして――」
「そうだ、レードゥはどこだ!?」

 レードゥの名を聞いた途端、男の瞳がぎらりと色を変えた。
 無精ひげの男の言葉を遮ると、部屋の中をぐるりと見回したり、床に這いつくばって寝台の下を覗き込んだりしはじめる。登場時のように落ち着きを失った彼を見た無精ひげの男は、困った素振りも見せず、レードゥが窓から出て行ったことを告げる。

「ふむ、ならば今日はあの店に隠れに行ったのだろうな……世話をかけたな、ジィグン。客人どの、今は急ぐものでな。後ほど挨拶させてもらうゆえ、今は失礼させてもらうぞ!」

 にかっと歯を見せ笑った紫髪の大男は、言い終えるなり走り出すと、レードゥが去ったときと同じく窓から外に飛び出してしまった。
 さすがに三度も繰り返されてしまえば驚きも薄れ、なんとなく予想していた真司は嵐のように去っていった男をただただ呆然と見送っていると、背後から声がかけられた。

「いやあ、悪かったな。あの人はいつもあんな感じでよ。でもああ見えても十三番隊隊長なんだぜ? 変な人だって思っても一応口には出すなよ」

 ま、そんなこと言われても気にするような人でもないけどと男はからりと笑う。

「あ、いつもって言っても、レードゥ隊長の補充が間に合わないときだけで、落ち着いているときはちゃんと話がわかる人だからな」
「レドさんの補充?」
「ああ。さっき荒らしのような人はヴィルハート隊長って言ってな。レードゥ隊長とは長い付き合いになるんだが、物心つく前から毎日一回は抱きしめてたからかそれが日課になっちまったらしくてな。今では日課ができないと〝レードゥ切れ〟になっちまうんだよ」

 レードゥ切れになったヴィルハートは、普段は面倒見のよい寛容な男であるのに、人が変わったように手が付けられなくなるのだという。ひたすらにレードゥを求め先程のように国内を駆けまわるそうで、それに巻き込まれる兵士も後を絶たないらしい。ひどい時には部下の指導と称した鬱憤晴らしが始まるそうで、周囲は止むを得ず荒ぶるヴィルハートを治めるべくレードゥを生贄に差し出しているのだという。

「まあ別にレードゥ隊長に他に相手がいるわけでもないし、ヴィルハート隊長の一途なまでのぞっこん具合におれたちも応援してるし、むしろ邪魔すると被害が出るし……だからおまえらも巻き込まれないよう、レードゥ隊長の場所を聞かれたら素直に教えることだな」

――と、ここまでで終了です。