きみのこころ

 

 根元から切り倒されて横に積み重ねられた生木は、成人女性の腰より太い。デクは枝を落としただけのその丸太を両手で掴み、全身に力を入れて肩に担いだ。一人では持ち上げられることさえ容易ではない四メートルほどもある木材だが、それを肩に置いたデクの顔色が変わることはない。
 担ぎやすいように一度位置をずらして、しっかりとした足取りで歩み始める。その後も身体の芯をとられることなく進み続け、すでに同じ場所から伐採した木材を積み重ねている場所に、新たに持ってきた一本をそっと下して横たえた。
 一息ついて肩を回し、デクは踵返して先程の場所へと戻る。
 丸太を運んで繰り返し道を往復していると、置きに行った先でこれまではいなかった青年の姿を見つけた。その人は上にいくほど数が少なくなるよう四段に積まれた木材の二段目に腰かけ、頭の後ろで腕を組んで背を預けている。
 彼はそれまで空を眺めていたが、視界の端に映ったデクに気がつき目線を落とした。

「また一人で黙々と働いてんのかよ」

 かけられた声には溜息が混ぜられ、わざとらしく肩まで竦めてみせる。そんな姿を見せる青年、ユールに、デクは一瞥をくれただけだった。
 ユールが腰を下ろす場所の傍らに、新たに四段を作ろうと、まず一本目となる木を置く。

「よくもまあ疲れねえもんだな」

 いつからか聞き慣れてしまった声が耳に届くが、デクは気に留めないままユールに背を向けた。
 再び木材を運んでくると、ユールは同じ場所に腰かけたままでいたが、先程とは違い、持ってきていたらしい昼食のパンを取り出していた。日避けもないところで太陽の光を一心に浴び、葉野菜や薄切りにした肉が挟まっているパンをユールは心地よさげに頬張っている。
 どうやらここへは、仕事の休憩がてら食事をとりにやって来たらしい。ユールはふらりとデクの仕事先にやって来ては、今回のようなことを度々繰り返しているのだ。
 デクは町の土木関連の仕事携わっている。そのため依頼された仕事が終われば次なる建築現場へ向かうのだが、その場所とユールが勤める理髪店が近いとき、彼が姿を現す確率は高い。今そうしているように時折日差しに目を眇めながらも、温もりを肌で感じながら食事をするのだ。余程外で食べることが好きなのだろう。
 本来であればこの仕事場には男たちの声が行き交っているはずだった。現場監督である親方のグンジを筆頭に、幾人もの職人たちが働き汗水流し、ときに家などの建築を、ときに橋や道などの建設、整備などをしている。デクもまたそのなかの一人となり町造りに一役買っていた。だが今はそんな男たちも皆この場を去り、デクと部外者のユールの他には誰の影もない。
 デクの仲間たちは皆、太陽が真上にあるこの日差しの強い時間帯を避けて休憩をしているのだ。身体が資本の仕事であり、力仕事も多く過酷である。休憩なくして働き詰めることなどできず、そのため他の職より幾ばくか長い昼食の時間を設けていた。
 与えられた休息の間に食事を済まし、人によってはひと眠りして体力を回復させる。長くとられた時間のおかげで、町中へと赴き店内で悠々と食事をとる時間も確保されるため、仕事中陽光に晒される職人たちで、屋根のない作業場でわざわざ弁当を拡げる者はいないのだ。
 陽光のもとで働く男どもとは違い、日中は常に店内で作業するユールはむしろ外に出たくなるのだろう。それに加えてこの場所は東側にある森と町の境にあたる。町の東南側にある橋が老朽化で建て替えることになり、職人たちはそのための木材を調達している最中だった。傍らにはただ森が広がるばかりでそうそう人は訪れない。現にデクの作業中現れたのはユールだけであり、騒音もなく静かだ。日光を浴びながらゆっくりと昼食をとるには確かに打ってつけだろう。
 ふと、閉ざされていた緑の瞳が開かれる。
 戻ってきたデクに気がついたユールは、咀嚼していたものをのみ込んだ。

「おやっさんたちは昼飯食いに出てんだろ。いい加減おまえも一緒に行けばいいじゃねえか」
「――後でいい」

 ユールはつまらなさげに鼻を鳴らしたが、口数の少ないデクはそれ以上告げることはせず、担いでいた丸木を地面に下した。
 仲間たちは羽根を休めに現場を離れているが、デクだけが作業を続けている。一人だけ休憩に入る時間を遅らせてもらっているからだ。無理を強いられているわけではない。デグ本人の希望であり、親方からもそんな勝手を認められているからだった。
 別に、深い理由などない。単に和気藹々としている仲間たちの輪の中にいることが苦手で、それを避けるために時間ごとずらしているだけだ。一人遅れて休みをもらう代わりに、誰もいないこのときにも作業を続けているにすぎない。
 デクは決して愛想がいいほうではなく、口下手で、そもそもが寡黙な男である。それを理解しているからこそ、自分がいないほうが仲間も気が楽だろうし、美味い飯が食えるだろうと思ってのことだった。
 これはデクの身体が誰よりも丈夫で、たとえ炎天下で肉体労働をしたところで然程疲れを感じないからこそ許されることでもある。それ故にこれまでもずっとそうしてきたのだ。
 仲間たちが捌けた後の現場によく訪れるユールは、いくらかの事情を知っているため、いつも親方たちと飯を食えと言ってきた。だがその数だけデクは同じ言葉を返し続けていた。
 一人きりで静かに食べたいがために邪魔者を追いやろうとしているのかと初めは思っていたが、デクが作業する傍らで開けた大口にパンを運んでは、時折自分に声をかけてくる様子を見てみると、そういうわけではないのだろう。とはいってもろくな会話などはなく、一方的にユールがあまり好意的でない、効率悪いのろま、だとか、相変わらず根暗だとか、そんな言葉を並べるだけだ。だがそのすべてが事実であるために、デクは反応のひとつも返さない。ユールはそれがあまり面白くないようで、最後はいつも、つまらねえやつ、と締められる。そこで飽きればいいものの、それでもユールは訪れる度にデクに声をかけるのだ。
 今日もまた手軽な昼食を片手に、ユールはデクに絡んでくる。

「この日差しのなかよくやるもんだぜ。調子乗って暑さにやられてぶっ倒れるんじゃねえぞ。おまえみたいなデカブツ、そこら辺で転げられりゃ何人かかっても引きずるのだけで大変だ」

 暑さで倒れるほど自己管理は怠っていないと、今回ばかりは内心で返事をする。それと同時に、だが確かに、と思い止まった。
 己を過信過ぎてはそれに足元を掬われてしまうだろう。いくら身体が丈夫といっても自覚がないうちに疲労が溜まっていることもある。それで倒れてきた仲間を幾人か見かけ、介抱したこともこれまでにはあった。
 またも丸木のもとへ向かおうとした足を返して、デクは近場に置いてある自分の荷物のもとへ向かう。近場の民家の影に置いていた鞄から水袋を取り出すも、その軽さにようやく前回の小休憩のときに飲みきってしまっていたことを思い出した。
 昼食をとる際に涼みがてら汲みに行けばいい、と考えていたのだ。ないと気がついてしまえば途端に喉が渇きを覚えた。
 噛んだのか疑問に思えるほど早々に食事を終え、指先についたパン屑まで舐めとったユールは、欠伸をひとつ漏らして腕を上に伸ばし、そのまま頭の後ろで組んだ。
 積まれた木材に背を預けて瞼を閉ざして、しっかりと眠る姿勢を整えた彼を一瞥し、声はかけないままにデクはその場から離れた。
 傍らの森へ足を踏み入れ、木々を避け、ときに屈みながら奥へと進んでいく。すでに現場から水場へと幾人の男が通ったため地面は踏み固められ、通行の邪魔になる枝葉はある程度切り整えられているが、それでもデクの頬には伸びた枝先が掠めた。
 現場から然程遠くない森の中に川がある。肉体労働に勤しむデクたちはほとんどの水分をそこで確保していた。仕事中に倒れては敵わないと、水分がなくなれば作業を中断していつでも補給をしにいっていいことになっている。
 川に行ったついでに少し顔でもゆすいで気分を変えよう、とも考えていた。ユールがこの日差し、と言ったように、確かに本日の陽光は普段に比べればいささか強い。日の下での労働で肌には汗が滲み、鼻先にかかるほど伸ばした前髪も張りついて鬱陶しくも感じていたのだ。
 親方にはいつも、ちょんと結わえている後ろだけでなく長たらしい前髪も括っちまえ、とは言われているが。たとえ今のような不快を感じたとしても、どうこうしようとは思えなかった。幼少より長くしているせいか、視界を覆うように垂れた黒髪が目元を隠してなければ心もとない気持ちになってしまうのだ。
 森へ足を踏み入れてみれば、天を覆うよう伸びた緑たちが陽を遮ってくれるおかげでいくらか涼しい。重たい荷物を運んでいるわけでもないため、ただ歩いているだけで次第に汗も引いていく。
 時折視界に現れる枝を手で払い退けながら進んでいけば、遠くから微かなせせらぎが耳に届いた。まだ距離はあるが、辿り着くまでそう時間がかからないだろう。
 黙々と歩き続け、もうじき川に差しかかろうとしたそのとき、ふと気配を感じてデクは右に振り返った。足を止めて目を凝らしてみるも、しかし見えるものは木々ばかりで動物の姿はない。
 気のせいだろう。そう思い顔を前に戻すも、どうしてか踏み出せない。片隅に引っかかる不確かな気配が消え去ることもない。
 しばし考え込んだデクは、やがて緩く鼻で息をつき、身体の向きを変えて気配を感じた右のほうへ歩み始めた。
 川へと繋がる道から一度外れれば、誰も通ることない足元には自然が波打っている。地中から顔を出す木の根に足を取られないよう、注意しながらも直感が告げるほうへと進んでいくと、ようやく感じた気配の正体を見つけた。
 木の影に隠れるよう横たわっている姿を背後から覗き込めば、それは重たげに頭を持ち上げデクを見返した。長い睫毛に縁取られた真っ黒な瞳が、真ん丸の中にデクを映して静かに瞬く。
 木の根元に蹲るよう身体を寝かせていたのは、角が生え変ったばかりらしい牡鹿だった。
 デクが背後から正面へと移動し、手前にしゃがみ込んでも逃げる気配はない。いや、立ち上がることすらできないのだろう。後脚の右太腿がなにかで裂かれたらしく、抉れた肉を晒しているのだから。これでは立ち上がることは愚か、身動きひとつとるにしても常に激痛が伴われることだろう。
 この樹木の下へ来てからそれほど時間は経過していないらしく、出血の割に赤は地面に広がっていない。だがここまでどうにか身体を引きずってきたのであろうことを示す点々と地に残された血痕、ましてやこれほどの出血ともなれば、そう経たずして匂いを嗅ぎつけた肉食の獣たちが目の色を変えてやって来るだろう。
 命と直結する足を怪我してしまったこの鹿はもう、何者からも逃げられまい。
 なにで怪我をしたのかは知らないが、放っておくしかないだろう。野生の鹿が逃げる術を失えば自ずと未来は決まってくる。そしてそれこそが自然の摂理なのだとデクは理解していた。デクとてもし今が仕事の最中でなければ、もし今空腹を覚えていれば、この牡鹿を見逃す気になれたかはわからない。これまでに鹿など、最早数え切れぬほどに仕留め、そして食らってきたのだから。
 己を見つめる視線に、鹿は諦観したように目を閉じた。だが彼をどうするつもりもないデクは立ち上がって背を向ける。
 手にした空っぽの水袋を握る手を強めた。
 本来の目的は川に行くこと。そして水を汲み、顔を洗い、済めば作業に戻らなくてはならない。わかってはいる。わかってはいるが、何故か、あの道の途中にふと気配を感じ振り返ったように、先人が残した道を辿れなかったように、デクは一向に踏み出せずにいた。
 放っておけばいい。自分に頭で言い聞かせるも、やがて薄い口からは溜息が零れた。
 振り返って牡鹿の手前に片膝をつく。手を伸ばすも、彼は片耳をぴんと動かしただけだった。

「――大人しく、していろよ」

 一声かけてから、傷に障らぬよう鹿を抱え上げた。
 角は生え変りでまだ枝分かれもしていないが、その身体は成熟した牡鹿そのもの。本来であれば大の大人といえども抱えることは難しい身体を、デクはしっかりと広い腕で支える。その体重によろめくことすらない。
 デクはただの人間ではない。数少ない巨人族の父と人間の母を両親に持つ、半巨人という稀な存在であった。そのため乾かしてもいない生木を軽々と運ぶほどの怪力であり、多くの人が通りやすいようにと作り出した道にも収まりきらず頭に枝葉が当たることもあったのだ。
 母の故郷の町に暮らしているため人間の中で過ごしているが、巨人の血が流れる身体は生粋の巨人族ほどでないにしろ、人間から見れば十分に逸脱した長躯である。
 二メートルを優に超すデクは、自分と目線の合う者に会ったことがない。せいぜい目の高さに相手の天辺がようやく並ぶ程度である。その巨体とそれに見合った筋力のおかげで今、決して小柄ではない牡鹿をたった一人で抱え上げることができていた。
 デクの腕の中がいくら常人に比べ広いとはいえ、決して収まりがいいとは言えない。それでも鹿は抱え上げられた瞬間に多少身じろいだものの、すっかりデクに身を任せていた。
 再び白目の見えない真っ黒な瞳を開けた鹿に問う。

「もしどこか、最期に行きたい場所があるのであれば。そこを教えてくれ」

 淡々とした声音を理解したかのように、それまで睫毛ばかりを動かしていた鹿はすいと東へと鼻先を向ける。その先を一心に見つめる横顔を眺め、デクは示される方角へとようやく歩き始めた。

 

 


 しばらく鹿が目を配らせたほうへと歩み続けていると、不意に木々の合間から一軒の小屋が見えた。そして、戸口にて向かってくるデクに微笑かける女が一人。豊かに波打つ黒髪を揺らしながら、まだ距離のあるデクへと緑の瞳を向け一礼した。
 女の背後をぼんやり眺め、デクは内心で首を傾げる。
 こんな場所に小屋が建っていただろうか。己の記憶を手繰り寄せてみるも答えは出ない。しかしそもそもそれほどこの森を知っているわけではないのだから、自分が知らぬ建物があったとしてもなんら不思議ではないだろうということで、今は強引に疑問を解決することにした。
 疲れ切ってしまったのか、牡鹿はデクの胸に頭を預けて気を失っている。しかし彼が望んでいた場所がついに見えたがために、進む足取りに迷いは生じなかった。
 玄関までの階段を上り女のもとへ辿り着くと、彼女はデクの巨体に驚くでもなく再び頭を下げた。

「テイナスを助けてくださり、ありがとうございました。申し訳ございませんがわたしでは彼を運ぶことができません。どうか、このまま中へと連れていってやってはくださりませんか」
「――ああ」

 テイナスというのは牡鹿のことなのだろう。
 愛想もなく用件のみに頷くデクに、女はただ顔に浮かべる笑みを深める。
 扉を開けた女は脇に避け、室内に入るように目配りした。長躯を屈めながら窮屈げに中に入ったデクは、彼女に指示されるがまま、火がくべてある暖炉の前に敷かれた毛布の上にそっと鹿を横たえさせた。わずかな振動が牡鹿にかかるも、睫毛が震えることさえない。
 森に入るまで暑いと思っていたはずの気温だったことも忘れ、近付くほどにふわりと肌に感じる熱に、寒くないはずなのにどこか心穏やかな気持ちになる。矛盾に気がつかぬままデクは暖炉に灯る明かりと、無事に鹿を望む場所へ送り届けてやれたことに安堵した。

「お礼をしたいところなのですが、少しお待ちいただけますか? テイナスの治療を先にさせていただきたいのです」

 一瞬仕事を思い出したが、デクは浅く頷いた。それは感謝を求めているわけではなく、単純に連れてきた鹿がこれからどうなるのか気がかりだったからだ。それに血を流すテイナスを抱えていた服は赤に濡れており、デクになにかしらの事情が発生したことは傍目からでも窺えるようになっている。もし仲間たちの休憩上がりに間に合わなかったとしても、説明をすれば納得はされずともなあなあにしてもらえることだろうと考えた。
 デクに椅子を勧めてから女は奥の部屋へと向かい、治療するための道具や薬を持って戻ってきた。その間に腰かけることなく立ったままでいたデクは、迷いながらも手伝いを申し出る。
 女はデクに困った様子も怯える姿も見せることなく、これまでの穏やかな顔つきのまま、では、と指示を飛ばした。とはいっても世の女性の平均よりかは幾ばくか背の高い女よりも、一回りどころか幾回りも大きなその手を見れば、到底繊細な作業を得意としていないことは察することができたのだろう。
 意識のない鹿の身体を支えたり、差し出した手を荷物置き場に使われたりしながら、デクは治療が終わるまでを見守り続けた。
 包帯を巻いている最中に鹿は一度目を覚ましたものの、寝ていなさい、という柔らかな女の声に再び眠りについた。浅かった呼吸は随分とゆっくりとなり、安らかな寝息へと姿を変えている。その姿にもう大丈夫なのだと、デクも顔にはおくびに出さないまでも一息ついていた。
 道具もすべて箱にしまい終えた女は、床に置かれた鹿の頭を一撫でし、ようやくデクへと向き直る。

「彼を助けていただき、本当にありがとうございました。あなたが通りかからねば、きっとこの子はここへ帰ることはできなかったでしょう」
「そいつが、自分の行きたいほうを教えてくれたから、だから連れてこられた。おれはただ運んだだけだ」

 真っ直ぐに見つめてくる視線に怯えるよう、デクは前髪に埋もれる目線を下げた。

「もし見つけたのがあなたでなく他の者であれば、憐れみだけで見逃していたことでしょう。野生の動物を助ける義理もありませんし、人によっては糧へと変えていたかもしれません」
「……おれとてそうしていたかもしれない。今回は偶然だ」
「それでもあなたはテイナスを助けてくださった。たとえそれは今回限りのことだったとしても感謝していることに変わりはありません」

 きっぱりと告げながらも、テイナスの背を撫でる細い手はとても優しげだ。
 助かった牡鹿を、自分が助けたのだと言われる命を、デクは目を細めて見つめた。

「あなたにお礼をさせてください」

 女の申し出にデクは緩慢に首を振った。長い前髪の先が揺れる。
 助けたと言っても気まぐれであり、なによりここへ運んだだけである。礼を言われるだけならまだしもそれ以上をされる筋合いはないと心から思っていた。だが彼女も引き下がるつもりはないのだろう。
女はデクと同じく首を振ると、鹿から手を離し、膝の上に両手を重ねる。

「そういうわけにはまいりません。こう見えてもわたしは魔女なのです。あなたが望む、大抵のことは叶えることができるでしょう」
「――魔女?」

 滅多に表情を変えることないデクは、このときばかりは戸惑いからわずかに眉を寄せた。
 魔女とは子供の絵本によく登場する存在だ。まじないや魔法を使って、善い者にも、悪い者にも描かれていたりする。どちらであっても言えることは、あくまで空想上の存在であるということだ。
 この世には多くの種族が存在するが魔法なんてものはない。善い魔女が使うたちまち傷を癒したり、花を咲かせたり、空を晴らしたりすることも。悪い魔女が使う呪いだったり、なにもないところから蛇を現したり、世界を曇天に変えてしまったり。そんなことは誰にもできないのだ。
 まだ夢見る子供であれば、女の話を信じただろう。しかしデクはもう子供ではない。
 からかわれているのだろうか。そうとも考えるが、しかし女は至って真剣な眼差しのままだった。

「ええ、魔女です。さあ、なにを望まれますか。お金ですか。それとも地位、名誉? そんなものでも構いませんし、人の心を動かしたり、賢くなれる薬を作ったり――あなたの身体を〝人間〟のくくりに収めた大きさに変えることだってできますよ」

 すらすらと候補が並べていくなか、耳を傾けていたデクの指先が無意識に動いた。それに気がついた魔女が目を細めたのを、俯いたデクは知らない。
 デクが反応したのは、恐らく魔女が核心を衝いたと思ったことではない。誰もが一度は願わずにいられない理想でもない。
 たったひとつ。デクの頭の中に彼女の一言が繰り返される。

「人の、心――」

 答えではないただの呟きの声。魔女は頷く。

「造作もないことです。相手を支配することも、心を変えることも、わたしならばできますよ」

 もう一度、心、と声なき言葉を唇で形作り、デクは口元を引き結んだ。
 ぱちりと暖炉の中で炎を纏った木が爆ぜる。
 しばしの沈黙を置き、ゆったりとした瞬きの後に俯いた顔を起こして、デクは隠れた切れ長の蒼い瞳を魔女へと向けた。

「――なら」

 思いの外掠れ出た声に引き留められるよう、恐れたように口を閉ざす。だが拳を握り、魔女へと願いの続きを口にした。

「ならば、愛が欲しい。孤独はもう、たくさんだ……誰かを愛したい。誰かに、愛されたい」

 誰よりも大きな身体のデクから出された、吐息に混ぜられたようなか細い声。それはこれまで内に秘め続けていたもの。初めて他人に口にする、心の底では常に渇望していた願いだった。
 暖炉の火の温もりが、誰にも言わぬようにと凍りついていた口元を溶かしてしまったのだろうか。
 あまり多弁でないはずのデクは、静かな声音で、これまでたった一人で抱え続けていた想いを吐露する。

「別に、この身体を嫌っているわけではない。これで仕事をしているし、今更変えてしまったところでどう生活すればいいかもわからなくなるだろう。だから、おれ自身を変えるのではなく、この身体でもいいと、受け入れてくれる人が、欲しい」

 誰にも言うつもりのなかったはずの言葉が、何故か初対面の、自らを魔女と名乗る得体の知れぬ女を相手にぽろぽろ零れる。そんな自分自身に困惑しながらも最後まで止めることはできなかった。
 再び俯いたデクの瞳に魔女の顔は写らない。それでも確かに、真っ直ぐ向けられる視線が肌を刺す。
 デクは孤独を感じていた。それは幼い頃に相次いで両親が亡くなってしまったことから始まり、それ以降は誰とも親しくはしてこなかった。
 子供といえどもデクが周りの大人どもに並ぶほどの背があったからかもしれないし、父親譲りの優しげとは無縁のきつい目つきのせいかもしれない。生来よりとんと無口で、感情が表に出にくい性分のせいかもしれない。それらすべてか、それとも他のものか。早くに両親を亡くしたデクを必要以上に構おうとする者は、大人も同じ年頃の子供もいはしなかったのだ。そもそもデクは友人と呼べる人間を持ったことすらない。
 巨人族の血を引くのだから、たとえそれが半分だけのもので個体差があるとしても、純粋な人間と同じ身体を持てるわけがない。面も生まれつきのものでこれもどうすることもできない。言葉が足りない己を変えようと人知れず奮闘したこともあるが、結局なにをどう伝えればいいのかわからなかった。誰かに教えを請おうにも両親はすでにおらず、それを相談できる相手もおらず。足掻いたところで今も多くを口にすることはないままだ。
 仕事の仲間はいるが、それだけで。同じ場所で働いてはいるがそこには必要最低限の連絡事項しか会話はない。家に帰ればいつも一人だ。森に出て動物たちと戯れることはあっても彼らは口が利けない。癒しはあっても話し相手はいない。所詮は野生だ、いつ牙を剥かれるとも限らない――繰り返される独りきりの同じ日々に、デクは自覚がないままに苛まれていた。
 デクは決して、望んで孤独であるわけではない。確かに寡黙ではあるがそれは話すことがないからで、苦手としているわけでもなければ、むしろ相手の話を聞くことは好きだった。凶悪げな顔に似合わずデクは至っておおらかな性格だが、それを理解できる傍らにまで誰も来てくれはしない。
 こんな変われぬ自分を、それでもいいからと理解をし、傍にいてくれる人が欲しい。語りかけ、笑ってくれる人が隣に来てくれることを願ってしまう。
 今はもうほとんどが朧となった過去の記憶のなか、唯一褪せることのない笑顔。あれをもう一度自分に向けてもらいたい――それが、なによりの願いだった。
 魔女はデクの言葉を受けると、床に直接下していた腰を持ち上げた。

「少し、待っていてください」

 デクに一声かけると、返事も聞かぬままに奥の部屋へと向かってしまう。その背を見送り、残されたデクはしばらく呆け、やがて一人内心で頭を抱えた。
 人の心さえも、と魔女は言ったが。やはり信じてはならなかっただろうか。そもそもそんな他人の想いを操ることなど望んではいけなかっただろうか――。
 我に返ったデクは、自分が何故あんな願いを口にしたのかさえわからずにいた。胸に渦巻くものは後悔で、それは魔女が戻ってくるまで延々と続くことになる。
 唇を引き結び、絨毯の上に胡坐を掻いた己を見下ろす。
 性別の違う魔女よりも、同じはずのユールのものよりも、人のなかでは規格外に大きい掌を、目を細めて眺める。作業の際についた細やかな傷、肉刺が幾度も潰れて硬くなった肌は、無骨な様を見せるものの、見た目だけならば他人とそう変わらぬはずなのに。

「――……おれは」

 ぽつりと漏らした声に重なるよう、小さな足音が耳に届く。
 顔を上げると、部屋の奥へ向かった魔女がその手に一本の矢を持って戻ってきていた。
 先程と同じように床に敷いた絨毯に直接座り込み、その矢をデクに見せる。彼女の掌に置かれたそれを覗き込むと、魔女は出会ったときのような柔らかな声音のまま説明をした。

「その矢を突き立てられた方は、それをした人物に好意を、恋心を抱くようになります」
「こい、ごころ……」
「望み通り、あなたを愛し、あなたが愛せる人を与えましょう」

 顔を上げたデクは、目を瞠って魔女を見た。

「これは矢の形をしておりますが、あくまで形だけです。どんな勢いで放たれようとも矢尻が誰かを傷つけることはありません。矢ではないので、手で投げるでもよし、直接突き立てるでもよし、とにかく対象となる方の素肌に触れれば効果を発揮します」

 言葉の最後ににこりと笑んだ魔女は躊躇いもなくデクの手を取り、掌を上に向けさせたそこに魔法の矢をそっと置いた。デクの視線は今度、己の手の中に落ちる。

「矢が相手に触れてから数秒で効果は表れるでしょう。たとえ相手があなたを嫌悪しているような間柄だったとしても、あなたを恋愛対象とし、あなただけに恋をしている状況になります」

 淡々と連なる声にデクは息をのんだ。だがすぐに、緩慢に頭を振る。

「そんな、こと……あるわけがない。こんな、都合のいいもの」
「信じる信じないはあなたの判断です。テイナスを救ってくださったお礼にそれを差し上げます。信じてもいいと思えたのであれば、そしたらどうぞ使ってみてください。そのとききっとあなたの望みは叶えられることでしょう」

 魔女の言葉はまるで真実のみが並べられているかのように、ただ真っ直ぐにデクの心の奥まで届く。それともデク自身が彼女を信じたいと思っているからなのか。
 デクの手に添えられていた魔女の手は、離れるとそのまま、未だ深い眠りにつく鹿へと向けられる。ほっそりとした白い指先で、デクが抱え上げた際にできた毛の乱れを梳かして、その後に掌を当てて撫でつけた。
 慈愛に満ちた手つきを垂れた前髪の隙間から眺め、デクは手渡された矢を握り締める。
 半巨人の迷いに気がついたのか、それとも単なる偶然か。

「あなたがいつか孤独を感じる必要がなくなることを、わたしはここで応援しています――」

 魔女はその手つきのように、丸くなる誰よりも大きな背を擦るよう、口の端に微笑を湛え温かな眼差しをデクへと向けた。

 


 

 デクは寝転がっていた身体を起こして寝台から立ち上がる。なにも告げぬまま、ユールを残して部屋の出入り口へと向かった。
 いつものように身体を清めるための道具を持ってくるつもりだろう。普段であれば不満を露わにしつつも見送るが、今日ばかりは違った。

「待てよ」

 ユールは気怠い上半身を起こして引き留める。
 扉に手をかけたデクはその姿で停止し、ただ首だけを回した。

「どうした」
「どうしたじゃねえよ。おまえこそそれ、どうするんだ」

 恥ずかしげもなく晒される引き締まった臀部に視線を向ける。だがユールが見ているのが尻でなく前の逸物だとわかっているデクは、明言されずとも悟り、気まずげに目を逸らした。

「いずれ収まる」
「また一人で処理するつもりかよ」
「――知ってたのか」
「当たり前だろ」

 情事後の不機嫌そうなユールの表情の理由が、受け身をして疲れたというそれだけではないことを理解したのだろう。
 デクは小さく息をつき、手がべたついているのも忘れて後ろ頭を掻いた。

「自分で、どうにかする。湯を持ってくる。大人しくしていろ」

  自分で、という言葉を強調するかのような声にユールは片眉を上げるも、デクは前に向き直る。そのまま扉の取っ手を回そうとしているが見え、ユールは咄嗟に手を伸ばした。

「ま、待てって言ってんだろ!」

 強引にでも引き留めようと寝台から飛び降りるも、先程までしていた行為のせいか思いの外身体に力が入らず、膝がかくんと折れる。
 これはまずいと思いぎゅっと目を閉じる。次に襲うであろう衝撃に身を固くするも、床に落ちる前にデクが支えてくれた。
 身体に力が入ったせいか、中に放たれたデクの精液が後ろから零れそうになる。
 ユールは情けない悲鳴を必死に噛み殺し、白濁を垂らさぬよう臀部に力を入れた。そうとは知らず、余程怖かったのだろうと勘違いしたデクは、強張る背を撫でながら寝台の端にユールを座らせた。

「危ないだろう」

 感情の起伏が感じられないいつもの平淡な声音であり、表情も眉さえ動いていないが、それでも陰る瞳は動揺を表している。ユール自身予想してなかった事態にデクも驚かされたのだろう。

「わ、悪ぃ。助かったよ」
「――いや。まあ……おれのほうも、無理、させたからな……」

 呆れるほど優しく抱いておきながら、なんの無理をさせたというのだろう。思わず顰めそうになった眉を寸前で堪えられたのは、しゃがみ込んでいたデクが立ち上がったから。そして目の前に勃つ男の中心をまじまじと見てしまったからだろう。
 先程のことで肝を冷やしたのか、デクのものは最後に見たときよりは萎んでいた。だが完全に熱が消え去ったわけではない。
 肝心な部分を晒していることに気がついていないのか、デクは無事だった恋人の姿に安堵の息をつき、改めて部屋を出ようとまず首を回す。それに一拍遅れて身体も捻ろうとしたところで、ユールは前にあるそれをがしりと握った。

「っ」

 痛みがないように加減して掴んだつもりだが、突然のことに十分驚かされたのだろう。デクは顔をユールに戻し、両手を伸ばしてくる。けれどもそこからどうしていいかわからないのか、それはあたふたと宙で戸惑っていた。
 頭の上で落ち着かない手の動きを感じながら、ユールは目線だけをデクに向ける。

「――満足なんて、できてねえんだろ」

 

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