呪術師の恋薬

 

「ラジルよ、わたしのためにセツに惚れてくれ」

 敬愛してやまない主の第一声に、ラジルは一瞬思考が停止した。

「――へ、陛下……今、なんと……」
「わたしのために、おまえにセツに惚れてほしいのだ」

 求めた詳細は悲しいほどに先程と変わらず、ラジルは耐えきれずに頬を引きつらせた。
 普段であれば決してそんなことはしなかった。動揺を顔には出さず、恭しく国王が直々に告げた命に頭を垂れていたことだろう。しかし今は状況が状況なだけに、どうも理解が追いつかない。
 事の発端となる王とてそれは重々承知の上なのだろう。騎士である己の立場を忘れて戸惑いを隠しきれないラジルに苦言を呈することはなかったが、突拍子もない自分の発言からか、もしくはいつまでも呆けているラジルの態度からか、研ぎ澄まされた精悍な美貌をわずかに歪ませて苦い顔をする。
 主の変化にようやく我に返ったラジルは、一言詫びて尋ねた。

「陛下、よろしければ理由をお聞かせいただけるでしょうか。その……何故、わたしが、彼に……惚れなければならないのでしょう……」

 ちらりと、隣に立つ人物に目を配る。
 彼も始めからこの場にいたのだが、あまりにもひっそりとして存在感がなかったし、ラジルもあえて触れぬようにしていたのだが、そうは言っていられなくなってしまった。
 これまで主従のやりとりを沈黙にて見守っていた、というより、興味なさげにただ立っているだけの男は唯一、三人のなかで表情を変えることをしなかった。今も王とラジルの二人の視線を受けてもなお、我関せずという態度を崩す様子はない。
 このとき初めて、ラジルは彼の顔をまともに見た。普段は視界まで覆っているのではないかと思えるほど目深く黒いローブを被っているから、表情が見えなかったのだ。しかし今は国王の前ということで、さすがに首の後ろに落としている。
 纏う黒のローブのように真っ黒な髪だ、とラジルは思った。他の一色も混ぜてみても、すべてその黒にのみこまれてしまうであろうと思えるほどに、深い。
 噂で聞いていただけで初めてまみえるが、周囲と決して馴染もうとしない彼のように、背後の風景に溶け込むことなくはっきりと視界に映る。場違いにも、あれでは夜の闇でさえ及ばないだろうと考えた。
 何故彼がここにいるのだろう、と王に呼び出され、王の執務室に足を踏み入れたときには思っていたものだ。男はラジルよりも先にいて、入室した際にのっそりこちらに目を向けてきたとき以外動いていない。そのときすでに人払いは済んでおり、部屋には王とラジル、そして男の三人だけだった。
 今ならラジルと同じく彼も呼び出された理由がわかる。
 何故なら彼も今回の当事者であって、ラジルが恋をしなくてはならないというセツだからだ。

「その、だな……以前に話したことがあると思うが……わたしが懇意にしている男がいるだろう」
「はい。パン屋の青年のことですね」

 それは以前より話に聞いていた相手のことだ。

「実はその――彼に、惚れてしまってな」
「そっ……そうだったのですか」

 思わず言葉を詰まらせながらも、王の気分を害さぬ程度にはとり繕えて、ラジルはほっと胸を撫で下ろした。 
 実は王は政務に疲れてしまったとき、護衛の目を盗んでは城下の町にくだって散策するという困った悪癖がある。青年と出会ったのも、お忍びで行った町中であったという。
 一年は前のことだ。買い食いを趣味とする王は、ふらりと立ち寄ったパン屋でとてもうまいパンと巡り会ったのだという。そしてそのパンを作ったのが件の青年であった。
 普段、青年は奥の工房に籠ってパン作りに勤しみ、販売は妹に任せているのだという。しかしそのときは妹が風邪を引いて家で休んでいたらしく、店番も青年がこなしていたのだ。
 事情を知らなかった王が彼のパンを絶賛すると、そんなに手放しに誉められたのは初めてだと青年ははにかんだそうだ。
 今は他の客もおらず手は空いているからと、青年は王を店先まで見送ってくれた。そのときについ話し込んでしまっているうちに、背後から忍び寄っていた男に王は財布をすられてしまったのだ。
 すぐに王は走り去る男を追いかけようとしたが、それよりも早く青年が動いた。
 彼はあっという間に盗人に追いつくと、易々と拘束してしまったのだ。そして笑顔で王に財布を返してくれたのだという。
 そうして王は純朴そうなはにかみ顔と、彼の勇敢な姿との差に心を射抜かれた、というわけだ。
 以降、王は執務の合間を見ては彼に会いに行くようになった。
 青年との出会いを語る王の瞳はとても穏やかで、彼を深く愛しているのだと十分に伝わるようだ。そして切なそうでもあった。友人の立場にはなれたが、きっと彼はそういった意味での好意を抱いてくれることはないだろう、と。
 この国で同性愛は一般的ではない。他の国ではその限りではないが、この国では同性婚も認められてはいなかった。
 歴代の王のなかには男色家もいて、過去には後宮に男が入ったこともあるが、今の国王であるアズウェルにそんな話は噂でさえ耳にしたことはない。それどころか王族であるのに女性と閨をともにすることがなく大臣たちが、妃が、世継ぎがと嘆いていたのを耳にしたことがある。
 そのときラジルは、王族といえどもみだりに女性に手を出さぬ硬派な王に増々敬愛の念を抱いたのだった。
 結局のところの事実はどうであれ、これまで王は情事に関しては爛れたこともなく、また色恋の話など口にしたことはなかった。
 そんな王が今、己の恋心を吐露している。それも人払いをしてまでだ。
 普段であれば、王の信頼を得られたのだと感動したかもしれないが、隣に何故かいるセツと、冒頭の王の台詞によって素直に喜べずにいた。

「それで、わたくしがセツ殿に、その……恋をするということとどう繋がるのでしょうか?」
「これだ」

 これまで手に持っていたのだろう、王はそれをラジルに見せる。
 それは硝子の小瓶だった。中には紫色の液体が入っていて、まるで絵の具のように色が濃い。

「それは……?」
「惚れ薬だ。セツに頼み作ってもらった」

 その一言でようやく、ラジルは王の求めるものを理解した。

「その薬の効果をわたくしが試せばよいのですね」
「ああ、そうだ。セツのことだから副作用の心配はないが、投薬実験もなしに彼に飲ませるわけにはいかない。事前にどれほどの効果であるかも知っておきたいが、かといって話を広めたくはない。そこでおまえだ。おまえならば口も堅く、健康であるし、適材と思ったのだ。なにより、わたしのことを応援してくれると思ってな……」
「陛下……っ!」

 ラジルは王から口にされた信頼に瞳を潤ませる。
 同性に恋をしてしまったことには驚いたが、それでも相手は王が決めたのだし、もとより身近にそういった人たちがいなかっただけで偏見もない。なにより王の言葉が嬉しかったので、驚きなど一瞬にして彼方へと飛んでいってしまった。
 ラジルの反応に安堵したのか、これまでいささか緊張した面持ちだった王はようやく小さな笑みを見せた。
 が、それもすぐに曇ってしまう。

「愚かな行為をしようとしていることは重々承知の上だ。彼の気持ちを誰より踏みにじろうとしているのだからな。だがそれでも、彼だけはどうしても諦めたくない。しかしきっと、わたしの正体に気がつけば離れてゆく。そんなやつなのだ。だからそうなる前に離れられなくしてしまおうと考えた」

 自分がなにをしようとしているのか、もし相手がそれに気がつけばどんな風に思われるのか。それをすべて熟考した上で、それでも王は想い人を手放したくないと願ったのだ。
 本当であれば、暴走しようとしている主を止めなくてはならないのだろう。王が私情に動き、一人の人間の感情を狂わせようとしているのだから。しかしそれでも、苦しげに顔を歪ます彼に否定の言葉をかけることはラジルにはできなかった。

「ラジル、やってくれるだろうか」
「陛下――」

 縋るような眼差しに、ついなにも考えないまま首を縦に振ろうとするも、しかし小瓶の中の色を見て思わず引いてしまう。真紫の液体はどう見ても飲んでいいものには見えない。
 なおかつそれも作ったのはあのセツである。王はセツを信用しているらしく、それを疑うつもりはないが、それでもやはりラジルの個人的主観で、ますます勇気は萎んでいく。

「頼む。わたし個人のためを想ってくれるならば」

 王の言葉に、はっとラジルは視線を上げて彼の顔を見た。
 王たるもの安直に頭を下げることはなかったものの、その顔つきはいつもの威厳ある姿で民の行く道を示す先導者の影はなく、恋に臆病になるただの人だった。
 ラジルは彼を王だから尊敬しているのではない。アズウェルという一人の男が王であっただけのことで、彼自身を深く敬愛しているのだ。そんな相手から直々に声をかけられ、そして自分を信じて頼み込んでくれている。
 答えなどはじめから決まっていた。

「わかりました。このラジル、御身のために尽くさせていただきます」

 深く頭を垂れて、心の底からの本心で誓った。
 断れるはずもない。ましてや命令でなくお願いであるのならば、なおのこと。

「ありがとう、ラジル。恩に着る。私個人からとなるが、後で褒美をやろう」
「いえ、そのお言葉だけで十分にございます。陛下のお役に立てるのであれば、それ以上の誉れはございません」

 ようやくまみえた王の笑みに、つられてラジルの頬も緩みそうになった。
 が、それも紫の液体を見て引きつってしまう。
 ちらりと隣に視線を流してみれば、相変わらずセツがぼんやりと立っている。王とラジルが傍らにいても、話をしても、一切気にかけてはいないようだ。
 何故彼がここにいるのか、ラジルのほうは疑問に思わずにはいられなかった。
 彼が惚れ薬の開発者であることは理解している。だが王が秘密を打ち明けられるほど信用に足りる人物でないように思う。ましてや、セツは仕事熱心ではあるものの、王や国への忠誠心には欠けるところがある。
 しかも、だ。

「――陛下。ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ」
「その……何故、相手がセツ殿なのでしょう?」

 ちらりと横目で、隣に立つセツに目を向ける。
 相変わらず、前は向いているがどこを見ているのかわからないおぼろげな眼差しだ。自分の名を出されたというのに、聞いていなかったのかまるで無関心である。
 他の者であればさほど気にかけなかったかもしれないが、よりにもよって指名されたセツは冷淡として有名な男なのだ。優秀な呪術師であるという話は聞くし、王宮付き呪術師であり、王も信頼しているのだから薬の効果は確かだ。だからこそ恋をすることも確実で、しかし相手のセツはきっと迷惑に思っていることだろう。王の手前は大人しくしているかもしれないが、陰ではすげなくされることなど目に見えている。
 いくら薬の効果とはいえ、恋をする相手にまったく見向きもされないのはつらいものだろう。多少こちらに気を使って、期間中だけでもそれなりの対応をしてくれるならまだいいが、セツ相手にそれは望めそうもない。
 なにより、ラジル自身がいささか彼に気まずさを感じていた。

「この話を知る者をそう増やしたくはないことが第一ではあるが、おまえたちはあまり仲がよいと聞かないのでな」

 そうは言うが、そもそもセツと仲のよい人間などいるのだろうか。
 そんな言葉が喉の奥から出かかったが、既のところでのみ込む。王の人選に異を唱えるつもりなどない。
 ラジルは納得したという意味を示すべく、頭を垂れる。
 王から小瓶を受け取り、ラジルは中身の色を見ないようにして一気にそれを煽った。
 惚れ薬を飲み干し、そのなんとも言えぬ味わいと口に残る後味に顔を歪める。
 そのとき、ほんの一瞬だけセツがこちらを向いた気がした。

 

 

 ラジルは王を深く尊敬している。
 幼き日に即位したアズウェルの姿は、彼よりももっと幼く、物事の判断もしっかりしていないような自分の瞳に鮮烈に焼きつき、今もなお目を閉じれば思い出す。
 王族のみに継がれるという緋色の髪を靡かせて、ただ真っ直ぐに未来だけを見据えるその姿は、決して十二の子供には見えなかった。周りに立つ大人たちの誰よりも尊く、そのはるか上に座している者であるのだという認識をさせられたものだ。強烈ななにかを、子供ならではの純粋な直感で彼から感じとった。
 その日からラジルは一方的に信者のごとくアズウェルを慕い、これまで彼の役に立つ日を夢見てきた。
 王であるアズウェルの騎士となるため、つらい訓練にも耐え抜き、厳しい礼節を身につけ、ときに挫けそうになりながらもここまで突き進んできたのだ。
 夢は叶い、ラジルは晴れて騎士となり、さらに幸運なことにより近くで王の守護をすることができる立場となった。
 昇格したときには誇らしく、初めて王にかけられた言葉はたった一言でも、今でも大切に胸に響かせている。生涯この忠誠を貫こうとかたく心に誓ったものだ。
 しかし、まさか王に仕えていることでこんなことになろうとは、一体誰が思おうか。
 視線の先にいるセツは、城内に与えられている彼専用の小さな作業部屋の中で、積み重ねられた書に埋もれるようにしてそれらを読み耽っていた。先程から頁をめくる手ばかりが動き、時折瞼を上下に動かす程度で、後はずっと同じ姿勢のままだ。椅子の上でやや猫背になっている姿勢は、見ているこっちが身体を痛めそうである。
 そうして呪術の研究をすることが彼の仕事であるのだろうが、よくもああ飽きずに読み続けられるものだ。あまり座学には明るくないラジルは、賢明に学びはしているが、自分には到底できないと感心するような、呆れるような気持ちだった。
 王の耳にさえ入っているよう、ラジルとセツはそれほど仲がよくはない。とはいえども一方的にラジルが突っかかることが多いだけで、セツには相手もされていなかった。それに過去にそうした接点が数度あっただけで、以降セツのことは気にしないようにしているため、今ではまったく接触していない。
 はじめはただ、辛気くさい男がいると思った程度だった。
 呪術師は総じてそんな者たちであって、生気のない顔をしていたり、意地の悪そうな顔をしていたり、覇気がなかったりするのが大抵だ。
 しかし唯一、セツだけが若かった。王から深い信頼を受けているように、彼は呪術師としての才覚に秀でたとても優秀な男である。これまでの歴史の中で、最年少で王宮付きの称号を得たのがその証拠だ。
 大抵王宮に仕える呪術師は、蓄えた知識と経験によって陰ながら王の力になるものであって、若くても白髪が混じり始める頃にようやく役目を与えられるのがほとんどだ。しかしセツは異例の十九という若さであった。
 当時は皆、才ある彼に注目していたそうだが、愛想の欠片もなく、挨拶をしても一瞥しただけで無視をされるばかりで、次第にセツに声をかける人間はいなくなっていった。
 実のところラジルは、セツをあの噂の、優秀であり冷淡な若き呪術師のセツ、ということを初めのうちは知らなかったが、周囲と同様につれない反応をされて彼と関わらないようになったうちの一人だ。
 ぼうっとセツを眺めながら、ラジルはセツに初めて声をかけた日のことを思い出す。
 あれは近衛兵に選抜された日のことだった。焦がれて止まなかった王の護衛につくことが叶った喜びから、いささかラジルは浮かれていたのだ。
 誰彼かまわず、ごきげんよう、などと挨拶をしてしまったのを覚えている。今ではさすがに調子に乗りすぎたと頭を抱える過去ではあるが、ラジルの浮かれように皆は苦笑をひとつするだけで、後は目をつぶって祝福してくれた。もとより社交的な性格から、友人は多く、先輩からも可愛がられていることもあっただろう。
 そんななかただ一人、ごきげんよう、よかったね、と挨拶を返さなかった者がいた。それがセツだった。
 以前から時折見かけることがあり、どんな役職の者であるかは知らなかったが、その存在は認識していた。城内で目深く被ったフードを決して下ろそうとしない人間など、その人くらいしかそもそもいなかったから余計に目立っていたのだ。
 有頂天だったラジルはいかにも陰を好むその人にも挨拶をした。けれども彼はかろうじて見えた黒い瞳で一瞥しただけで、まるでなにも聞こえなかったかのように、足取りさえも変えずに背を向け歩き去ったのだった。
 そのとき初めて垣間見た彼の無感情な瞳に、ラジルは冷水をぴしゃんと顔にかれられたような衝撃を受けた。
 幼いころからラジルは、強烈に胸に焼きつくものがまれにあった。それが初めて起こったのは、セッカの実を食べたときだ。赤子が食べると腹を下しやすくなるという言い伝えがある赤い実は、歳が五つになった日に食べる風習がラジルの地元ではあった。祝いとしてラジルもセッカの実を食べたのだが、そのとき胸に雷が落ちたような衝撃を受けたのだ。
 なんだこの美味しい実は、と。
 セッカの実は酸っぱく、喉の奥がきゅうっとなるのだが、その後に舌の上でとろけるような甘さに変わるのが特徴の実だ。その味わいが苦手だと言う者もいれば、癖になると言う者がいるよう、好みが真っ二つに割れる果物でもあった。ラジルは後者で、初めて口にして以降、今でもセッカの実は大好物のまま頻繁に口にしている。
 初めて王を目にした日のこともそうで、大抵その衝撃は生涯愛し続けられるものに対して働く直感であった。食べ物であったり、風景であったり、尊敬できる人物であったり、その直感が働くものは様々であるが、どれも抱くのは好意的な感情ばかり。
 だがそのときばかりは違った。ラジルはセツに衝撃を受けた。だがそれは、好意的な感情というよりも彼に対する強い反感だ。
 人を見下すような態度に好感など持てるはずもなかった。
 あれから二年も経っているし、当時の自分の浮かれようは煩わしく思われても仕方なく、騎士の品性も疑われる行為だったと今では深く反省している。それにセツがあの天才呪術師と知り、高慢である理由にも納得がいった。若手の騎士になど興味はないのだろう。
 なによりあの後身勝手な怒りはすぐにしぼんでいき、残ったのは、なにもそんな対応でなくても、というちょっぴり拗ねた感情。そしてもうひとつ、無関心そうなセツの瞳だった。
 その後も時折見かける彼の眼差しは、ラジルだけではなく、いつだって誰も映すことはなかった。なにかの話で盛り上がっていても見向きもしないし、自分が胡乱げな視線を集めても、どんな類のものでも興味がなさそうだった。
 もうあの出会いは忘れよう、彼とは関わらないようにしようと思うラジルだったが、どうしてもセツのあの瞳に吸い込まれてしまうのだ。
 それは今でも変わらない。
 相変わらず興味なさそうに、けれども熱心に本を見つめるセツの眼差しから目が離せなくなっていることに気がつかないまま、ラジルはただじっと彼を見ていた。
 かあん、と鐘が鳴る。その音を聞いたラジルははっとして、部屋の隅から動き出してセツのもとへと向かった。
 鐘が鳴るのは起床の時間、午前の休憩、昼食の時間、午後の休憩、終業の時間の五つである。先程の鐘の音はそのうちの午後の休憩の合図だった。

「休憩だぞ」

 返事がないどころか、目線のひとつすら寄越すことはない。
 それ以上声をかけることはなく、ラジルはやや憮然とした表情で元の立ち位置に戻った。
 普段ならば仕事中、表情に出すことなど決してしないが、やはり一言もなく自分の好きに振る舞うセツを見ていればあまり面白くはない。ましてや本来ラジルが傍にいるのは王のはずであって、彼ではないのだ。
 しかしセツの傍らにいるのはその本来の主である王からの命であるため、諦めざるを得なかった。
 王は薬の効果をより詳細に知りたいと言い、ラジルにしばらく自分のもとから離れ、代わりにセツの警護にあたるよう命じたのだ。
 惚れ薬の効き目は不自然がないよう遅速性にしているようで、ゆっくりと相手に惚れていくらしい。そのため今のラジルはまったくセツにときめく様子はないのだが、はたして本当に効果は現れるのだろうか。
 もし薬が効いて、本当にセツに恋をしてしまったとして。ちゃんと呪いを解いてもらえるかもいささか不安であった。
 完全に恋に落ちるまで一週間かかる、と宣言されていた。
 すでに解毒薬は用意されているので、効果のほどが確認できたらすぐにもとに戻してやると王は約束してくれたが、その薬そのものが失敗していることもあり得る。
 今抱くこの不安も、もしセツに恋をすれば消えてしまうのだろうか。彼を愛する自分を忘れたくないと、自らそう願うのであろうか。
 この状況を本当に把握しているのかと疑いたくなるセツは、ラジルの視線に気がつく様子もなく、読み終えた本を閉じ山に積み重ねると、別の山から新たな本をとり出してまた読み始めた。

 

 

 これまで一度も姿勢を崩すことなく書物を読み耽っていたセツが、不意に顔を上げて本を閉じた。
 机上に置いていた鞄に読みかけの本を仕舞うと、立ち上がり、首の裏に下げていたフードを被る。
 鞄を肩にかけそのまま部屋を出ていこうとするので、慌ててラジルは彼の行く先に身体を滑り込ませて道を阻んだ。

「ちょ、どこに行くんだよ」
「帰る」
「はあ? 帰るって、こんな時間にかよ」

 午後の休憩の鐘が鳴ってしばらくは経つが、終業の鐘はまだ響いてはいない。窓から覗く空も澄み渡る青空のままで、日暮れが近いというわけでもなかった。

「王から許可は下りている」

 頭を上げることもなく、独り言のようにぼそりとセツは答えた。
 もういいだろうとでも言いたげに、ラジルの脇を避けて廊下に出て行く。
 仕方なく溜め息をひとつついて後を追いかけると、ほんのわずかにセツが振り返る。

「一応期間限定ではあってもあんたの護衛だからな。家に送り届けるまでがおれの仕事なんだよ」

 そんなものはいらない、とでも言われるかとも思ったが、セツが口を開くことはなかった。
 納得したのか、不満に思いつつもラジルと同じで王の命に従っているだけなのか。その顔さえ見られずに判断はできなかった。

 

 


 正門を出て跳ね橋を渡り、城下へ続く曲がりくねった阪道を下りていく。ようやく町の入り口に辿り着いたところでセツに住居を尋ねてみたが、案の定返事はなかった。
 てっきりセツには城内での部屋を与えられていると思っていたが、外に出てきたということは違うのだろう。城を出て右に向かうともなれば、騎士団の宿舎もある、城勤めをする者が多く住まう区画でもない。せめて行き先を知りたかったが、教えてくれないのであればただついていくしかない。
 歩けども歩けどもセツが足を止める気配はない。
 結婚をして宿舎を出ていく者もいて、あまり遠い場所であれば馬を利用することもあるが、セツが乗馬をするなどという話は聞いたことがないので、いつも徒歩で登城しているのだろう。
 どんどん城から遠ざかるにつれ、次第に町の景色は変わっていき、町の端に位置する貧民層の者たちが集う区画に近づいてきた。
 城内でも目立つ何色にも染まらぬ黒衣のセツは勿論のこと、ここでは王家の紋章が刻まれた騎士服を身に纏うラジルさえも注目を集める。それは一流の腕を持つ騎士に対しての尊敬と眺望だけでなく、成功者への妬みも入り混じる、決して居心地のよいものではなかった。
 ラジルはそのすべてを跳ねのけるように胸を張って歩いた。王紋を背負っている以上、ラジルの一挙手一投足すべてが国への評価に繋がるからだ。しかし前を歩くセツの猫背を見ていると、どうもつられてしまいそうになる。
 早く彼の家に辿り着いてくれないだろうか、とラジルが内心で溜め息をついた、そのときだった。
 視界の端で動く影に、ラジルは咄嗟にセツを自分の背後に押し込んだ。
 ひゅんと投げつけられた小石を手で払い、攻撃してきた者を睨むが、その姿に拍子抜けしてしまう。

「子供、か……」

 そこにいたのは十歳くらいの少年だった。
 浅黒い肌の身体はとても痩せており、腕は骨と皮だけのように細い。身に纏う服も薄汚れていて、裾など襤褸になっていた。髪も適当な長さに雑に切られていて、一目で貧民層の子供であるというのがわかる。
 ラジルと目が合うと、少年はさあっと血の気を引かせて走り去ってしまった。
 追いかけようとして、服の裾が掴まれ引き留められる。
 振り返ると、すでに進行方向に身体の向きを戻したセツがいた。

「行かなくて、いい」
「……いいって言ったってな、あの子はあんたに石を投げようと――」
「護衛なんだろう。離れるのか?」

 ちらりとだけ、真っ黒な瞳が向けられる。本心では護衛などどうでもいいのだろうが、わざわざ口を開いてまでどうしてもラジルに後を追わせたくはないようだ。

「――わかったよ」

 小さく肩を竦めて、ラジルは身体の力を抜くとともにセツの手をそれとなしに払った。
 そのまま歩みを再開させようとするセツの背に、おい、と声をかける。

「その……大丈夫か?」

 庇ったものの、咄嗟のことで足を捻るなどの怪我をしているかもしれない。なにより精神面での心配が大きかった。
 明らかにセツは先程の少年に狙われていた。自身が対象となり行われようとした感情的な暴力に、平然としていられる人間などそういるわけがない。
 わずかに言い淀んだラジルに、セツは普段のように振り向くことなく平然と答える。

「いつものことだから」

 


 


 恐る恐る舌を伸ばし、触れる。するとラジルのほうも動いてきて、裏側を舌先に撫でられる。

「ん、っ……」

 押し返されるように口内にラジルの厚い舌が入り込み、奥で縮こまってしまったセツの舌と絡む。
 息苦しいのに、口の中を擦られると気持ち良くて、その心地よさを返したいとセツも自ら舌を伸ばしていく。けれども経験不足からか、ラジルに翻弄されるしかなかった。
 服に手がかけられる。ラジルは一度顔を離して、セツの上着を脱がした。
 露わになった半身に目を細めた彼の視線が注がれる。

「大分肉がついてきたな」
「うん……」

 脇腹をなぞられ、くすぐったさにセツは身を捩る。

「でもまだまだだ。もっとおまえを肥やしてやるからな」
「――その分、おまえの料理が食べられるなら」

 ラジルの影響で食事の大切さ、そして楽しさを知ったのだ。そのおかげで順調に体重を増やしてきたし、これまでの食生活には到底戻れそうにもなくなってしまった。もうふかしただけの芋では物足りない。

「……あんたが喜ぶなら、健康でいてくれるならいくらでも作るさ」

 セツに振る舞うまでは長らく調理場から離れていたラジルだが、今では調理器具一式がセツの家にあるように、頻繁に料理をするようになっていた。次第に忘れていた感覚も取り戻し、今ではセツを太らせることと兼ね合わせた趣味となっている。
 ラジルの作るものは栄養面を考えているだけでなくとても美味しいので、セツは彼が食事を作ってくれるときがなによりの楽しみになっていた。以前はとりあえず腹になにか入れなければと思っても、区切りのいいところまでとつい長引いていた読書が、彼に飯だと声をかけられればどんな場面でも中断できるほどだ。セツの中では革命が起きたと言っても過言ではない。
 しかし、それでもまだ貧相な身体つきから抜け出すまでとはいかない。

「やっぱり、その……そそられないか?」

 病的に細い、というほどではなくなったが、それでもまだ骨が浮き出ている。それは随分魅力に欠ける身体だと、最近他人の色恋について興味を持つようになってから知った。
 いくら小柄といえどもセツは男で、身体はもとより骨ばっている。女のように柔らかくもなければ丸みもなく、もともと異性に興味があったラジルの心が離れてしまわないか心配していた。

 

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