あまい匂いの吸血鬼

 

 早く、早く見つけないと――。
 帰路に就く者で溢れかえる道のなか、彼らを避けながら急いていく。しかしどうも足元が覚束かない。しっかりと歩いているつもりなのに、地面を踏みしめている感覚がひどく遠いのだ。
 しかし、それでも歩みを止めるわけにはいかない。そうして急く気持ちに比例していくよう、呼吸が乱れていく。
 はあ、はあ、と荒い息遣いはすれ違う相手にとっては耳障りだったようで、風邪かと思ったのか、うつすな、迷惑だ、とでも言いたそうにすれ違い様に一睨みされた。
 申し訳なく思うことすらできず、無意識に開いてしまう口を閉じて歯を食いしばる。
 身体が熱い。全身の血がざわめいている。激しい運動をしているわけでもないのに心臓がばくばく鳴って、今にも汗がにじみ出そうだ。
 神経が過敏になっていくのに、けれども意識は熱に浮かされているようにはっきりとしない。
 ――畜生。
 すっきりとしない気分に舌打ちをしたくなる。
 顔を上げると、並ぶ高いビルの間に明るさの残る空が見える。しかし端からゆっくりと、確実に夜は忍び寄ってきていた。
 早くしないと。だが、どこにあるだろうか。頑丈で、物が少なくて、ちょっとくらい騒いでも許される場所が――
 ひとつのことに意識を捕らわれ視界が狭まっていた洸は、目の前まで迫った相手にも気がつかず、ついにぶつかってしまった。
 前屈みになっていた頭が衝突に弾かれ、踏ん張りのきかなかった身体は後ろによろける。転びそうになったところ、目の前の相手が腰を引き寄せ助けてくれた。

「あ……す、すみません」

 普段であれば、前後不覚になっていてでも無意識に相手の気配を嗅ぎとり、避けることができていた。どんな人ごみでも、不注意でぶつかってしまうことはなかったのに。
 それほどまでに今の自分は逼迫しているのかと焦りを覚えながらも、前方不注意でぶつかってしまったことと、支えてもらったことへの謝罪と感謝を混ぜた言葉を口にして、顔を上げる。
 視線の先の男は、迷惑そうにするでもなく、にこりと微笑んだ。その笑みに、息苦しさも忘れてつい見惚れてしまう。
 肩につきそうな男にしては少し長めの髪は黒く艶めいていて、男がわずかに顔を傾けただけでさらりと流れる。異国の血が入っているのか、その容姿はどこか日本人離れしていて、すっと通った鼻筋が整然とした美しさをより際立たせていた。垂れがちな目尻が柔和な雰囲気を出している。長い睫毛に縁取られた瞳は、まるで蜂蜜のようにとろりと甘くも透き通った色をしている。それもまた彼から異国を感じさせられた。
 緩やかな弧を描く口元はいくらか不健康そうに色が薄いものの、やけに艶めいていて、同じ男である洸もどきっとしてしまうほどの色気があった。
 じいっと男を見つめてしまっていることに気がつかず、洸は無意識に鼻を動かしていた。
 彼から、とても甘い匂いがするのだ。香水でも、柔軟剤やなにかの移り香でもない。きっと彼自身が生来持つ体臭だろう。
 砂糖などのお菓子的なものでなく、花の香りに近いように思えるが、しかし嗅いだことのない不思議なものだ。そもそも、甘い匂いの体臭の者に会ったことすらない。
 甘いものが苦手な洸だが、不思議と彼が放つその甘さは嫌いにはなれなかった。
 男は瞬きした後、口元の弧を深めて人懐こそうな顔をした。

「こっちこそごめん。怪我はない?」

 唇の色が薄いせいか、ゆっくりと開いた隙間から見える男の口の中がやけに赤く見える。
 言葉をかけられ、そこでようやく我に返った洸は、男に支えられていたままであったことを思い出して、慌てて体勢を整えた。

「大丈夫です、すみません」

 自分の力で立ってはいても、まだ男の手は腰に添えられたままだ。距離はほとんどなく、もう少し詰めれば恋人のように密着してしまうほどだ。
 一礼してそのまま離れようとするが、それよりも早くさらに腰を抱き寄せられた。

「え? あ、あの」
「ちょっとこっちに」

 不自然に密着したまま、引きずられるように路地裏へと連れ込まれる。無論抵抗したが、大した力が入らなかったのと、男の腕力が細腕のわりに強くて引き剥がせなかったのだ。
 通りを避けて暗く湿った場所に入ると、大通りから投げ込まれたのか、下にはあちこちに空き缶などのごみが散乱していた。一気に人の気配は遠くなり、自分たちだけになる。
 それでも少し戻れば先程の道に出るので、ここからでも十分往来する人々の姿が見えた。
 腰を支える手が緩んだ隙に逃げ出そうとしたが、あっさり手首を掴まれてしまう。

「――なんですか、離してください。急いでいるんで」

 強引な行動に、さすがに警戒を露わに睨みつければ、けれども男は飄々とした様子を崩さず微笑んだままだ。 

「きみは変わった匂いがするね」

 思わず抵抗する力を弱めてしまう。それに増々、男の目は愉快そうに細くなる。
 自分自身に逃げ出せ、早く逃げ出せと命じるが、想いとは裏腹に男の指はしっかりと絡んで離れそうもない。

「匂いって……そんなにおれ、汗臭いですかね。朝から一日中歩き回っていたし」

 掠れる声に己の動揺を知る。だからこそせめて声が震えぬように睨む眼差しに力を籠めて気丈に振る舞う。

「そういうわけじゃない。そうだな――これは獣の匂いだ。それも、そう。狼の匂い」

 確信しているような男の言葉に、表情に、いよいよ洸は背中に冷や汗を流した。

(やばい。なんだこの人。なんで――)

 得体の知れぬ相手に、無様でもいいから尻尾を巻いて逃げ出したくなる。
 自分が対処できるほどの相手でないことを、なにか底知れぬものを感じさせる琥珀の瞳の奥を見て気がついた。そしてようやく、彼が〝どちら側〟であるかを思い知った。
 勘のよさと鋭い嗅覚を持った洸は、これまで〝こちら側〟の人間にはよく気がついていた。けれど、この男は密着するほど傍にきたのに今までまったく気がつくことできなかった。それは彼がそれだけ人に紛れる術に長けている玄人であるということ。そして洸の匂いを確実に嗅ぎ取る嗅覚の持ち主――その情報で同種かとも思ったが、彼の放つ甘い匂いはそれではないとだけ確信を持せる。
 薄く笑う男は、再び洸の腰を抱き寄せ、数センチ高い位置から顔を覗き込んできた。

「もうすぐ満月だ。こんな町中で狼が現れたら、皆驚くことだろうね」

 まさか時間が来るまで拘束する気か。そして町に自分を放つつもりか。
 思惑を探ろうとするうちに険しくなった視線を躱すよう、男は口元の弧を深める。

「そんな顔しないで。意地悪をしようというわけじゃない。きみと取引がしたいんだ」
「取引……?」
「そう。ぼくは血が欲しいんだ。こう見えても吸血鬼でさ」
「きゅっ――!?」

 吸血鬼、と言おうとして言葉がつかえたのか、思わず喉が鳴ったのか。男の正体を知ってしまった自分がどちらの意味で声を出したのかよくわからない。
 吸血鬼。それは一般にも広く知られている、その名の通り生命の源である血を吸う怪物だ。
 多くの伝説を残してはいるが、架空の存在として扱われている。しかし彼らは〝こちら側〟の生き物であり、確かに実在している者たちだ。だが数はとても少なく、出会うことは稀である。まさか自分が遭遇することになるとは想像すらしたことがなかった。
 〝人間側〟の伝説では、不死とされながらも多くの弱点が存在しており、有名なものでは心臓を杭で打ち抜くことや、銀の弾丸などによって殺すことができるという話もある。日光に晒されると灰になるだとか、ニンニクや十字架に弱いだとかいう説もある。しかしながらそれらは人間の脚色であり、実際はまさに不死の王として、彼らにとってそれらは大して害のないものだという。
 恐ろしく強くそして頑丈で、千年は生きていると噂されるほどの長寿の彼らは、〝こちら側〟としては、エリート中のエリート、と言ったところか。
 二十代後半くらいに見える男だが、実際のところはきっと、二十歳にみられる外見年齢より倍の年齢である洸のさらに何十倍も年上であるのだろう。
 伝説級の超人を目の前にすっかり怯えてしまった洸を宥めるよう、吸血鬼はその匂いのように優しく甘い声をかける。

「最近の人間の血はどうも口に合わなくて。不健康な者が増えたのか、薄いんだよね。生命力が足りていない。その点きみの血は少々獣臭いようだけれども、健康そうで美味しそうでさ」

 顎を取られ、狼狽えているうちにぺろりと頬を舐められた。どうやら汗を掻いていたらしく、それを口に含んだ彼は満足げに、味見でこれとは、と感心する。
 ただの味見であったらしいが、それでも見知らぬ男に突然肌を舐められ受け入れられるわけがない。しかし、不思議と嫌悪感はなく、それよりも戸惑いが強かった。

「あ、あの、おれ、でも……」
「ちょっと血を分けてくれるだけでいい。その対価に今宵の居場所を貸すよ。満月の今日、自宅に引きこもっていないところを見ると、安寧の場を探していた――そうだろう、狼男くん?」

 するりと顎を撫でられると同時に突きつけられた現実に、洸は獣耳があったらきっとぺたんと下げていたよう、しおしおと肩を落とした。
 そう、洸は狼男である。そのため、満月の夜になると強制的に狼の姿になってしまうのだ。
 ただ姿が変わるだけならいい。問題なのは、狼になると理性も失ってしまうという点だ。
 獣になっているときの記憶は一切ないが、すべてが過ぎた後、自室が暴れ回った形跡に埋め尽くされる惨状を見れば、どれほど騒いでいたのかがよくわかる。アパート暮らしのため他の住民にも物音で迷惑をかけてしまっているし、大家さんにもこの前の変身後、きつく注意をされてしまっていた。暴れ回っていたことは勿論のこと、動物を連れ込んだだろう、と。どうやら遠吠えをしてしまったらしい。
 次に同じことをやったら追い出すから、と言われていた。一夜のこととは言えあの惨状になるほど騒げば周りが怒るのも仕方がないし、動物不可の物件であるから、本来なら契約違反で即刻退去もあり得たのだ。それにも関わらず、もう一度チャンスを与えてくれた大家には感謝している。
 格安のアパートを追い出されるのは困るのだ。かつかつの生活をしているので、引っ越し費用を捻出できるかも怪しかったし、同じ条件で家賃も変わらない物件を探せるかもわからない。
 獣姿のときに外にいるのもひとつの手だが、昔と違って今はちょっとの時間でも出歩けば即保健所に通報されてしまうし、なにより日本の、さらに町中で狼を発見されるのは困った事態になりかねない。かといって山の方へ出ればその広さと自由につい気分が高揚するのか、どこまでも駆け回ってしまう。以前まったく知らない場所で目を覚まして、帰るのにとても苦労したのだ。
 なにより狼の最中は全裸である。以前一度、身体に鞄を巻きつけてみたが、窮屈を感じたのか自分からはぎ取ってしまっていた。朝目覚めれば全裸なのに、外でその姿を晒すのは非常にまずい。
 だからこそ室内でいられて、かつ騒いでも許してくれて、動物を入れてもよくて、さらになるべく安く済ませられる場所を探していたのだが、なかなか見つけられずに今に至る。
 もうじき満月が顔を出す。そうすれば嫌がっても強制的に狼になってしまう。しかしいつまで経っても理想の場所は見つからないままだった。
 正直、吸血鬼の持ちかけてきた取引はとても魅力的だ。彼に食事の血を提供すれば、狼になってもいい場所を提供してもらえる。
 躊躇うのはこの男をよく知らないから。理性と記憶を失うので、その間なにをされるかわかったものではない。
 同じ〝こちら側〟の者であっても、伝説的有名人の吸血鬼であっても、それが善人である保証になるわけではなく信用などできるはずがない。

「ありがたい話ですけど、おれ、狼になると暴れちゃうんですよ。理性もなくなるし、なにするか自分でもわからなくて……あなたに、怪我をさせるかも」

 やはりここは断ろうと、いい断り文句を探していくが、なかなか見つからない。

「連れていくのはぼくの家だから、いくら暴れても構わないよ。ペット可の物件だから吼えても問題はないし、いざというときはぼくが取り押さえる」
「でも……おれ……あんたのこと信用できない」

 満月が近いのだろう。意識が混濁してきて、考えるゆとりがなくなっていく。ついに本音を口にしてしまうが、吸血鬼は不愉快にするでもなく、むしろ楽しげに洸を見つめる。

「そうだろうね。でもきみにもう選択肢はないようだけどね」

 背中に手を添えられて、そっと抱き寄せられる。出会ったときから感じていた甘い匂いに誘われるように、気づけば男に身体を預けてしまっていた。
 ああ、身体が熱い。痒い。服が邪魔で、今すぐにでも脱ぎ去りたい。けれども身体に回る男の腕がそれを拒む。

「今すぐにでもほしいくらいだけれど、意識のない相手はつまらないからね。きみが目覚めるまで待っているよ」

 直接耳元に吹き込まれた言葉は、甘く艶めいていて、ねっとりと鼓膜に絡みつくようで。
 いつの間には洸は男の腕の中で気を失ってしまった。

 

 ふわふわと心地よい雲を掻き分ける。
 そのなかをただひたすらに駆け回り、時折雲の上で飛び跳ね遊び、どこかにいるはずの仲間に、ここに楽しい遊び場があるぞと叫んだ。
 それからまた走り回って仲間が来るのを待ったが、誰も来なくて、疲れて横になってさらに待ったがやはりなにも現れることはなかった。
 皆いつ来るだろう。早く来ないかな。独りきりはもう十分だ。もう、もう――

 


 


 何度も繰り返されたキスをされ、ここでようやくぼんやりしていた意識が少しだけ戻ってくる。

「折角なら、起きていてもらいたいから」

 キスのとき、ヴァジアードがなにかをしたのだろうことがその言葉でわかったが、だかからと言ってなにかができるわけでもなく、文句すら言う気力もなくただ顔を背ける。
 これで、今度こそ解放される。這いずってでもこの部屋を出て、家に戻ってゆっくりと寝よう。熱いシャワーを浴びてすべてを洗い流して、そして二度この男に会わないように注意すればいい。
 ただ今はもう少し体力を回復しないと動けそうになかった。息も荒く、身体もまだ芯に熱が残されたままだ。
 早く身体よ冷めろと念じていると、不意に足を担がれる。そして先程まで散々指を入れられていた場所にかたいものが押し当てられた。
 見ていなくてもすぐにそれの正体に思い当たったが、改めて下肢に目を向け確信する。

「え……うそ、なんで……っ?」

 張り詰めたヴァジアードのものが宛がわれていたのだ。
 だって、洸を背中から抱えていたときは反応していなかった。だから血を甘くするためだけにあんなことをしていたのだと思っていたのに。それなのに何故ヴァジアードのものは張り詰めているのだ。
 ヴァジアードの屹立を凝視して慄く洸に、ヴァジアードは額に宥めるようなキスを落とす。

「短時間に吸血を繰り返すとぼくも興奮してしまうんだ。洸も気持ちよさそうだったから、つい」
「ついで犯されてたまるか! も、もう血はいっぱい吸っただろ!」

 さっきまでのものは吸血行為の延長だとしても、これはそれだけでは済まない。ヴァジアードにとってはこれすらも吸血の一環なのかもしれないが、洸にとってはそうではない。
 男に抱かれるなんて、そんなの聞いていない。予想すらしてなかった。それなのに何故、自分に欲望の象徴が向けられている。
 逃げようとする身体は押さえつけられ、洸の抵抗虚しくヴァジアードは腰を押し進めた。

 

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