第1章

 

 ――ここはどこだ? 何で、こんなとこで寝てんだ……?
 見渡す限りの深い緑たちはただでさえ寝起きで働かない頭に追い討ちをかけ、何も思い浮かばせてくれない。正面の青空は憎たらしいほど雲ひとつない晴天で、どこまでも澄み渡っていた。それなのにどんより曇る自分の心を見つめれば、それが嫌味にしか見えない。
 ……なんで、こんな場所で寝転がってんだろ。
 疑問が浮かぶ頭を抱えながら見える真正面は青い空。少し視線をずらせば周りは知らない森、というよりも鬱蒼と木々が生い茂るジャングルなんて言った方がいいかもしれない。緑に溢れてるからか、清々しいまでに空気はうまかった。
 きっと酸素が多いから気持ちよくてここで寝てたんだ。そうに違いない。きっとここは酸素の森って呼ばれてるんだろうな。空気はほんとうまいし。ああでも、そしたらここ以外の森も酸素が多いはずだから、全部が酸素の森になっちまうな。はは、ははは……落ち着け、おれ。さすがに無理あんだろ……。
 頭を冷静にさせるためにも一度深呼吸をする。空気がうまいのは事実だからすぐに気分は良くなった。

「よしっ」

 切り替えた頭で、ここがどこなのか改めて真剣に考えだしてみた。まずは場所を少しでも理解しようと周囲をぐるりと一周して見つめる。けれどどこを見ても風景に大差はなかった。
 まるで日本じゃないみたいだ。映画とかに良く出てくる木々が鬱蒼と茂る密林みたいだけど、そこよりはもう少しすっきり爽やかな感じの森。少なくともおれの住んでた近くには無い場所だ。
 そもそもなんでおれは森の中で寝てたんだ? 起きる前はどこにいたんだっけ?
 寝起きからひとつひとつ行動を振り返ってみる。
 確か、今朝はなんだか朝早くに目が覚めたからさっさと学校に行ったんだっけな。学校に着くと、まだ誰もいないような時間のはずなのに下駄箱にはもうの岳里(がくり)が背を向けて立ってた。
 岳里とは同じクラスだけど話したことはあんまりなくて、正直言えばちょっと苦手だった。いっつも無表情で何考えてるかよくわからないやつだから。でも挨拶は大事だと思って、はよーって声をかけて。そしたら岳里が振り返って、目が合って、それで……――それで、どうしたんだっけ?
 挨拶してからその後の記憶がない。曖昧とかじゃなくて、すぱりと切り離されたみたいに思い出すことができなかった。
 それからおれは、一体どうしたんだ?

「んー……」

 唸りながら真っ青な空を睨むように見詰めるけど、どんなに考えたところで何も思い出せなかった。
 見つからない記憶を探しているとふと、あの思い出せる範囲の最後に見た無愛想な男の顔が浮かぶ。
 そういえば岳里はどうしたんだろ。あいつもこの森のどっかにいんのかな。もしかしたら意外に傍にいたりして。
 がばっと身体を起こして周りを見渡してみるけど、やっぱりどこも木ばっかの風景が続くだけで人影は見当たらない。もしかしたら、なんて甘い期待してたけど、いくらなんでもすぐ傍に人がいれば気づかないわけないよな。いや、むしろ気づけなかったら気づけなかったでおれが傷つくんだけどさ。
 ふう、と溜め息をつきながらまた寝転がる。少し背丈の高い草に覆われて、頬をくすぐる緑がむず痒い。
 もしかしたらこれは夢かも。なんて思って、何気なく右頬を抓ってみた。
 夢なら痛みとか感じないはず。これが夢だったらきっと朝起きる前まで遡るんだろうな。早起きしたこと自体が夢だったんだ、きっと。
 そう考えたら少し気が紛れる。けど――

「……っ、普通に痛いし」

 抓った頬はじんと痛み出し、右手を添えて擦った。夢だと半ば確信してたから加減はしてない。
 涙目になりながらもふたつの結論を導き出した。
 とりあえず、これは夢じゃないってこと。それと現実を見ろってことだ。

「畜生、どうなってんだ……」

 頬の痛みもようやく引いてきて、安心しつつ背中を倒してその場に大の字になった。
 丁度いい具合の風がさらさら流れて、ちょうど木々が張った枝を避けて届く日差しが温いくらいで気持ちいい。こんな状況じゃきゃ日向ぼっこには最適な環境だ。
 頭じゃ寝てる場合じゃないとは分かってても、瞼はとろとろと勝手に下がり始める。思考も深く考えることを止め、まどろみ出す。そんな中でも思い浮かんだのは、記憶がなくなる寸前に顔を合わせた岳里のことだった。
 あいつはどうなったんだろ。同じく、わけ分かんない状況にいんのかな。
 岳里とはあまり話したことがなくてもあいつは学校では随分有名なやつだったし、クラスも一緒だったからある程度やつの情報を耳にしたことがある。
 成績は全国で一二を争うほどの秀才で、運動神経も抜群によく基本なんでもそつなくこなせるそうだ。全部断ってるにも関わらず未だに部活から勧誘されてるらしい。なんで平凡なうちの高校にいるのか常に疑問視されているほどの優秀さだった。それだけで十分だろ、って言いたくなるけど、さらに岳里は顔も芸能人たちが霞むほどよくっておまけに背も高い。
 岳里は何でも揃った、まさに漫画から飛び出てきたような違う次元にいた方がしっくりくるほどの超人だ。もう妬みを通り越して尊敬できそうなくらいの。
 実際おれも、少しだけ岳里に憧れてたりもする。それくらい揃ってればさぞかしモテるだろう、なんて邪な理由だけど。というか三拍子以上揃ったいい男に誰だってなりたい。
 同じ男からみても完璧に近い存在を女子がほっとくわけもなかった。案の定岳里は大人気で、しかも女子高生のみならず下にも上にもあいつのファンがいるそうで、その人数は三桁じゃきかないって噂もある。しかも県内に留まらず、県外にも多く岳里に熱中している人がいるなんとか。
 かといって、岳里自身の性格はそこまでいいというわけじゃない。当の本人は無口で無表情で無愛想で、一切周りを気にしない。どれだけ騒がれても我関せず、みたいな感じで、でも女子たちにとってはそこも含めていいらしい。一度も笑った姿が確認されたこともないという噂まであるのにだ。
 色々すごすぎて高嶺の花のような存在の岳里を周囲はただ見守っているだけの人も多い。それでも中には当然のように告白した強者もいた。けれどどんな美人でも器量のいいと言われている人もみんな例外なく全部断られてるみたいだ。理由は好きな人がいるから、らしい。もしかしたらただ断るだけの口実かもしれないけど、それでも女子たちは一体それが誰なのか結構検索し回ってるそうだ。単に岳里の好みが知りたいのか、それ以外に何か理由があるのかはわからないけれど。それに口ぶりからしてその相手は恋人ではないから、と虎視眈々とその隣を狙い続ける人もいるらしい。
 岳里がどんな子が好きかなんて別に興味ない。けど一人くらい岳里を好きな子がおれに回ってくればいいのにな、なんて思うことはある。どうせ、振られちまうんだからさ。
 なんて、あいつを好きになった子がおれなんかを相手にするわけないか。特に意味もなく息を吐き小さく笑う。完璧な岳里を見た後に普通のおれに目を向けてもらえたところで霞むのは当然だ。
 きっと岳里みたいな格好いいやつにあまーく口説かれた日には、女子どころか男どもまであいつにめろめろになっちまうかも。まあまず、甘く口説くやつの姿を見る日なんてこないと思うけどありえなくはない気がする。
 同じ男のおれが見惚れるといっても過言じゃないくらい、岳里は本当に顔がいい。まあ実際男に見惚れるとかありえないけど、そんな例えが思い浮かぶくらいに本当にやつは格好いい。
 そんな岳里に比べておれは、自他ともに認める平凡顔だ。スポーツも成績もまあ平均的。同じく身長も平均で低いわけじゃないんだけど、長身の岳里と並べばちょっと小さめに見えるかもしれない。
 男として、やっぱり妬ましいを通りこして羨ましいとしか思えない。あそこまで何でも揃ってるし、きっと家族も美形ぞろいだったりして。父親は厳しいけど、本当は優しくて。母親はいつも温かい眼差しで見守ってくれて、料理なんか凄く美味くて。
 誰もが羨む家族なんじゃないかな。そう、きっと誰もが望む――

「家族、か……」
「それがどうした」
「うわっ!?」

 寝転んでいた身体に不意に影が差す。突然かけられた声に、悲鳴のような声をあげ心臓を爆発させて跳ね起きた。
 声をかけてきた人物は太陽を背にして立っていて、逆光ですぐには顔が見えなかった。けどだんだん目が慣れてきて、ようやく認識できたそいつの顔を見て絶句する。
 相手は何でそんなに驚かれているのかわからないというように、怪訝そうな目を向けてきた。
 いつもならそんな視線に対し、失礼なやつだな! なんて内心で腹を立ててかもしれない。けど今は圧倒的に驚きの方が勝っていて不愉快さすら思い浮かばない。
 失礼な相手、もといそれは記憶が無くなる前に挨拶をしてた岳里岳人(がくりがくと)だった。
 突然のことにしばらく思考を停止させていたけれど、それも溶けてくるとようやく岳里の、なんだこいつ、という視線に我を取り戻す。今度こそ不快感を覚えて顔をむっとさせ、薄れていく驚きなんてとっとと吹き飛ばし岳里を睨みを返した。
 ――けれど、それだけ。何かを言葉を出すことなくすぐに視線を逸らす。
仕方ない。だって岳里の方が体格はいいし、力も強そうだ。もし下手に怒らせて取っ組み合いにでもなれば、こっち負けるに決まってる。そうなる自信だってあるさ。大したことで怒らなそうといえばそうなんだけど、意外に短気かもしれないし。よく岳里のことを知らないのに、挑発するような言動は避けたほうがいいはず。
 つい無遠慮な視線にかっとなったが、すぐに気を取り直す。

「お、おまえもここにいたんだな。――なあ、ここがどこか知ってるか?」
「知らん。気がついたらここにいて、おまえとともに倒れていた」

 素っ気なく言い返しながら隣にどかりと座り込んでくる。
 気がつかなかったけど、その手には腕に抱えるくらいの袋が握られていた。布袋は大きく歪に膨らんでいてぼこぼことしてる。中に何か入っているのは一目瞭然だ。

「食い物を見つけてきた」

 視線に気づいたのか、短くそれだけ言うと袋を真っ逆さまにして中のものを乱雑に取り出す。
 ごろごろと次々に中から転げ出てきたものは、多分果物。多分って言うのは、どれも見たことも無いような色形ばっかりだったからだ。
 林檎のような形をしているけど苺みたいな表面に小さな粒があって緑がかっていたり、かと思えば苺ぐらいの大きさの蜜柑っぽいのがあったり。大小様々色も形も様々だ。ものによっては、これ食えんのかって聞きたくなるようなのもあった。

「……見たことないけど、本当に食えんの? なんていうやつ?」
「おれもよく分からないが、食えることは食える」

 目を丸くしながら変な果物たちを見て尋ねると、空になった袋を放り投げて岳里は答えた。

「何でそう言えるんだ?」
「さっき会った狸に毒見をさせた。――おまえも食え」

 蜜柑大の、見た目はドリアンのようなものをひとつを手に取り、岳里は躊躇いも見せずにそれにかぶりついた。棘々してて固そうに見えるけど意外にも柔らかいらしい。むしゃむしゃと食べ進める姿を見ても美味しいかは無表情で読み取れないけど、食べられるのには変わりないようだ。
 動物に毒見させるなんて、なんて思いながらも、食べ物を目の前にして情けなくも腹が鳴り出す。今更身体が空腹を訴えてきて、気は進まないものの、背に腹は代えられないと言うことで有り難く貰うことにした。

「あんがと。じゃ、貰うな」

 一番近くに転がってきてたものを手に取る。
 果物は赤い色をしていて、形はさくらんぼに似ていた。ただ、さくらんぼの実より四倍近く大きい。それでも山になる果物の中でも既視感が大きさが違うだけからか、不味そうには思えない。むしろ美味しそうに見えた。
 試しに軽く袖口で拭いてから歯を立て齧ってみれば、口の中には程よい甘みのある酸味が広がった。
 さくらんぼというよりも蜜柑に近い味だったけれど、無意識に口元が綻ぶ。
 岳里そのことを言おうかとも思ったけど、無表情で次々に口に果物を放る姿を見て、言うのは止めといた。
 二人して黙々と食べてると、ふと岳里の視線がじっと向けられていることに気がつく。
 もしかしたら顔に何か付いてるのかと思って慌てて腕で口周りを拭ってみるけど、どうやらそうじゃなかったみたい。

「おまえは、誰だ」
「……は?」

 無表情で尋ねてくる岳里の顔からはそれを本気で聞いてるのかはわからなかった。とりあえず思ったのは、顔を合わせてからしばらく経った今のこの時に聞いてくるのは、なんと言うべきか……物凄く、マイペースだと思う。
 さっきから隣に座って存在も知ってて、なのに今頃名前の話。普通なら顔を合わせた時点で聞くべきなんじゃないのか。
 突っ込みたい気持ちを抑えながらも、妙な空気になる前に名乗ることにした。

「野崎真司(のざきしんじ)だよ。これでも、おまえと同じクラスなんだけど?」
「悪いが、記憶にない」
「……あっそ」

 端から思い出そうという気もないらしい。
 相変わらずの無愛想な面から目を逸らし、内心で溜息を吐く。今朝挨拶したはずだけど、この様子じゃそれも覚えてなさそうだ。

「おまえは知ってるようだが、おれは岳里岳人だ」

 無表情のままの愛想を欠片も見せようとはしない自己紹介。その口から出た名は、初めて聞いた時に一度で覚えた。単純に岳人って響きが格好いいなあって思ったんだ。でも何より何より岳岳と続いてたから覚えやすかった。
 色々とすごいことで有名だしいやでも岳里岳人の名は目についたからな。でも確かな情報で知っているのは名前くらいなもんだった。
 同じクラスだったけど、一緒にいる友達とかまったく違うし、接点もそんなにない。岳里について知ってたとしてもそれは誰でも知ってるような信憑性の低いうわさで。でも、岳里と今少し話してわかったことがある。
 女子たちは岳里のこと美化し過ぎてるってことだ。きっと、いや間違いない。断言できる。

『あの優艶で憂いを帯びた瞳。多くを語らない、閉ざされた唇。誰に対しても冷たくあしらい、まるで一匹狼のように一人で過ごす孤高の存在――。嗚呼、まさにわたしたちが求めていた人物!』

 その言葉を小耳に挟んだ時、あんたら何求めてんだ!? なんて実際に叫びたかったけど、それは女子が恐ろしくて到底できなかった。けど、ただ単に岳里はいつも眠たそうで、ただ無口で無愛想なだけだと思う。というよりそれが真実だろ。
 無意識に吐き出しそうになった溜め息を、慌てて飲み込んだ。いくら岳里みたいにぼうっとしてそうなやつでも、目の前で溜め息を吐かれれば嫌な気持ちにさせるだろう。
 気づいてないよな、と岳里の方を目線だけで窺えば、未だに淡々と果物を食べ続けていた。次から次へと手にとって迷わず口に入れていく姿を見ていれば、なんだかこっちが腹がいっぱいになくる。でも実際にはおれだって腹は減ってるんだ。
 岳里に全部食われちまう前に食べないと。
 そう思ってようやく果物の山があった場所に目を戻す。だけどもう、あれほどあったものの半分以上が岳里の腹の中に納まった後だった。
 ……化け物かっての。

 

 


 果物を食べ終わったおれたちは、特に何をするでも、話すわけでもなく、お互いただぼうっとしてた。
 周りをどんなに探り見ても、木に草に、毒々しい色の花だったり、先が捻れてる枝のようなものが地面から生えてたり、よく分からない場所だってことには変わりない。いくら眺めたって、景色が変わることなんてもっとなかった。
 何もすることもないから、おれはその場にごろんと寝転んだ。目の前は、少し前に見た真っ青な空。それだけはおれの記憶にもあるもので、何となく、少しはほっとした気がする。
 満腹感からか、横になったおれはすぐ眠気に襲われる破目になった。瞼がとろとろ下がってきて、勝手に欠伸が出てくる。
 ――流石に、寝るわけにはいかないよなぁ。
 まだここがどこかも知らないし、もしかしたら危ない場所かもしれない。それに岳里しか傍にいないのに、無防備に寝るのはちょっと、なぁ。
 眠気を紛らわすためにも、何かないかと服の中を探してみる。

「んー……ん?」

 上着の右ポケットに手を突っ込んでみると、硬い長方形に触れた。さらさらと滑る面には、覚えがある。
 四つの丸角の一つに、チェーンのストラップがついているそれは、そう。
 おれはそのチェーンを鷲掴んで、引き抜くようにポケットから出して目の前にぶら下げてみた。

「け、ケータイ!」

 おれの目の前に揺れるのは、若者の必需品、携帯電話さま。
 藍色をするそれは、間違いなくおれの携帯電話で、これで連絡が取れるとおれは一人心を弾ませる。どうしてもこの喜びを分かち合いたくて、この際誰でもいいとすぐ傍らでぼうっと木々を見る岳里の服を引っ張った。

「岳里、ほら、ケータイあった!」
「そうか」

 な? な? と携帯電話を岳里の方へ向けるも、岳里はおれの方なんて見向きもせず、つまらなさげに欠伸を噛みしめる。

「…………」

 やっぱり言わなきゃよかった。
 あまりにつれない岳里の態度に浮上していた気が滅入り、おれは隠れて唇を尖らす。けれどもう一度視界の端に入れた携帯電話を見て、にやり口許が綻んだ。
 たとえ森の中でも圏外じゃなければ助けを呼べる。そしたらここから出られるんだ。
 そんな期待を胸に、おれは急いで携帯電話を開く。画面の左上に出る、電波状態に目をやった。
 だけど――

「……はぁ」

 そこに見慣れたアンテナマークはなかった。代わりにあるのは”圏外”の二文字だけ。
 大いに裏切られた淡い期待に、落胆のため息をつきながら携帯電話を閉じた。けど次の瞬間、おれがメール着信に設定していた歌が携帯電話から流れる。一直線に引かれたラインがちかちか点滅して、青と黒からなる光も、おれがメール着信に設定したものだ。
 もしかして、繋がったのか!?
 メールが着たということは、圏外じゃないってことだ。一度は裏切られた希望も蘇り、おれは再び携帯電話を大慌てで開く。
 また左上のアンテナマークを確認するも、やっぱりそこにあったのは圏外の文字。どうやら一瞬だけ繋がった隙に、一通だけなんとかメールが届いたらしい。
 再び裏切られた思いにため息を吐きながら、おれは待ち受けに表示されている手紙のマーク、つまりはメールのマークをクリックして、メールを開いた。
 返事はできないけど、圏外が続く間に運良く届いたのが誰からのメールか気になる。
 ずらっと並ぶ既読のものの一番上に、まだ開いていないさっき届いたばっかのメールが表示されていた。けれど、宛先は登録されていたメールアドレスじゃない。ただDesireとだけ、表記されていた。他には機種もなにもなくて、ただその言葉だけだ。
 おれは不審に思いつつ、メールを開いて内容を見てみる。

「――この、世界に……?」

【この世界に選択を。奇跡を起こせ】

 とだけ、画面には映し出されていた。

「なんだよ、これ……」

 訳も分からずただ呆然とその言葉の羅列を眺めていると、ふっと突然画面が真っ暗に染まる。淡く光っていたはずのボタンも光が消えていて、まるで電源が落ちたみたいだ。
 確か五分間、まったく携帯電話をいじらなかったら画面が消えるように設定したはずだから、それが実行されたのかもしれない。だけど、おれは五分間もぼうっとしてたのか……?
 いくらなんでもそこまで呆然としてたつもりはなかったんだけどなぁ、なんて思いながら、またさっきの文章を見直してみようと適当なボタンを押して画面を点ける。けどいくらボタンを押しても画面は真っ暗なままで、どこも光りもしなければ映し出しもしない。
 もしかしたら本当に電源が落ちたのかもと電源を入れる動作をしても、携帯電話は何の反応も示さなかった。
 さっき見たときは電池はほぼ満タンだったし、電池が切れるなら充電しろと指示があるはずだし、電池がなくなったわけじゃないと思う。
 ということは、残るはつまり――

「こ、壊れたぁっ!?」

 嘘だろ、まだ買って半年も経ってない新品なのに、早速壊れたのか!? ど、どどどどうしよう……!
 怒られる、という発想が瞬時に脳内を巡り、真っ暗な携帯電話の画面に、鬼のような形相でおれの携帯電話を握りつぶすみたいに持って睨んでくる人影の幻影が映る。
 や、やばい……絶対に拳骨だけじゃ済まされないっ!
 今まで何度か浴びたことのある制裁をおれの身体は思いだし、その痛みまでもを甦えさせる。途端にじんじんと頭のてっぺんが熱を持って痛み出した気がした。
 もしかしてこの間落としたのがいけなかったのか? それともちょっと雨に濡れたのが原因? あ、それとももしかしてあの時の――
 おれが独りで悶々と後悔していると、ふと岳里の掌が目の前に出される。

「貸してみろ」

 思わず差し出された掌を辿って、岳里の顔を見上げる。そこにあったのは相変わらずの仏頂面があったけど、心なしかその動じてない顔が頼もしく思えた。
 素直に開いたままの携帯電話を岳里に渡せば、手に取り直していろいろボタンとかをいじり始める。
 だけど何をやっても駄目だったみたいで、一度閉じて、また開いていた。
 すると、岳里の仏頂面が僅かな変化を見せる。

「ディザイア? ――この世界に選択を……奇跡を起こせ?」

 次の瞬間岳里の口から出た言葉に、おれはあっ、と声を上げた。

「それ、さっき届いたメールの内容だ」

 その言葉は間違いなく、おれの携帯電話が駄目になる寸前まで映し出されていたものだ。立ち上がって岳里の後ろに回り携帯電話の画面を見てみると、やっぱり宛先がDesireで、内容が変わらないメールが開いてる。
 けれどまたそれが見れたのはほんの一瞬で、すぐにまた画面は真っ暗になって消えてしまう。
 岳里はまたおれの携帯電話を閉じてから開いたけど、今度は何も映されることなく、画面も真っ暗なままだった。
 するとそれを見た岳里は、自分の制服に手を突っ込んだかと思うと、懐から携帯電話を取り出した。真っ黒な機体のそれは多分、いや間違いなく岳里の携帯電話だろう。
 持ってたんならさっさと出せよ! なんて胸の内で悪態をついてると、突然岳里にその携帯電話を投げ渡される。

「ぅわっ!?」

 あまりに突然のことだったが、身体は咄嗟に動いて、顔面間際の位置で何とか投げ渡された携帯電話を掌に収める。それなりの勢いを持っておれの許へ飛び込んできた機体は固くて、パシッと小気味いい音を立てて掌に熱を生ませた。

「――っ、てぇ」

 携帯電話を無事に捕まえた右手の平が思い切り叩かれたみたいにじんじんと痛む。これでもしストラップなんかあったら、きっとそれは鞭のようにしなっておれに追加ダメージを与えてくれてたんだろうな。だからこそ、飾り気の一切ない岳里の携帯電話さまに、おれは密かに感謝した。
 でも本当に無事捕れてよかった。もしあそこで反応が遅れてれば、もれなくこの掌の痛みは今顔面に、しかも鼻で強烈に感じてたんだろうな……。
 小学生のときに一時期野球チームに入ってたから、もしかしたらそのお陰で今反射的に携帯電話を捕れたのかもしれない。意外なところでその経験が役立って、ほんっとうによかったよ。
 驚きのあまりむしろ逆に冷静になった心情で、おれは静かな怒りを籠めて岳里を睨みつけた。
 いきなりケータイ投げつけんな! とでも一言言ってやりたいけど、そこらへんは流石に、穏便に済ませたいし伏せておくけど、でも表情でそれをはっきり伝える。
 けれど、マイペースを貫く岳里にはおれの睨みもまったく意味をなさず、謝罪の一つもなしに、ケータイを見てみろ、と言った。
 一体なんなんだよ、ケータイ投げつけてくるし。
 未だに収まらない怒りを抱えながらも、おれは岳里の言うよう、さっき投げ渡された岳里の携帯電話を開いた。もしかしたら、岳里の携帯電話は圏外じゃなかったのかもしれない、なんて淡い期待が心の隅で浮びあがったからだ。
 開いて出てきた画面は待ち受けじゃなくて、メールを開いた画面になってた。宛先は、“Desire”。おれの携帯電話が駄目になる前にきたメールの宛先と同じだった。機種も何も他にない、それだけのアドレス。そして内容は、題名はなくて、本文に二言だけ。

【世界を照らすは眩き光。光を降らせ、神の使者よ】

「な、なんだよ、これ……」

 そこにあったのは、おれに届いたメールと似てるようで似てない言葉。
 自分の携帯電話に届いたメールを見たときのように、呆然と画面を見詰める。けれどしばらく経つと、画面は真っ暗になった。
 それでもまだ見詰めていると、いつの間にか目の前に来ていた岳里が、ひょいと携帯電話をおれから取り上げる。

「おれのケータイも、お前のと同じだ」

 取り上げた携帯電話を仕舞いながら、岳里はおれの携帯電話を返してくれた。今度はちゃんと手渡しだ。
 おれはそれを受け取って、掌ごと胡坐を掻いた足の上に置く。視線も合わせて下を向かせ、携帯電話をじっと見詰めた。

「――なあ、岳里」
「なんだ」

 隣に座り込んでいる岳里の方へ向き直らず名前を呼べば、無愛想な声で返事が返ってくる。きっと、顔も同じくらい愛想のない顔をしてるんだろうな。

「ここ、どこなんだよ……」
「知らん」

 なんでそんなにおまえは冷静でいられるんだよ?

 

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