おれなんか、不安で不安で仕様がない。だって、ここがどこだかわかんないんだぞ? 携帯電話も繋がんないし、変なメールが来て壊れるし。それにおれと岳里の二人しかいない。
 どこか遠くで、鳥の鳴き声が響き渡り、一斉に羽ばたく音が木霊す。なんとも情けなく、おれは大きく身体を震わした。
 空は晴れ晴れとしてるけど、森から零れる音は不吉に思えてならない。
 岳里の顔を窺ってみるけど、やはり無表情で、まったく動じてない。今のおれにとって、岳里のその落ち着きようは少し安心できるように思えた。

「な、なあ、岳里。さっきお前が言ってた、その……でぃ、でぃざいあって?」

 少しでも胸に渦巻く不安を取り除きたくて、おれは岳里に再び声をかける。岳里がさっき、メールの画面を見て呟いた言葉の意味を尋ねる。
 確か、こう言ってたと思ったけど……。

「でぃざいあ? ――ああ、ディザイアのことか」
「あ、そうそう、それのこと」

 どうやらおれの発音が違かったようで、一度眉を顰めた岳里だったけど、すぐに何のことを言ってるのか理解したようで、眉間の皺を解す。
 ……どうせおれ、英語の成績悪いさ。発音も苦手だしさっ。
 岳里の反応に少しショックを受けながらも、おれは頷いてみせる。

「願うという意味だ」
「それじゃ、ホープやウィッシュ、と同じ?」

 “Hope”、“ Wish”は確か願う、希望するって意味だ。一般的なやつだし、間違ってない自信はある。Desireも願うって意味なら、つまりは希望と同じだろ。
 だけどそこには自信はなくて岳里に確認を取ってみる。その方がおれも覚え易いし。

「同じというわけではない。その二つが純粋な希望、願いという意味だとすると、Desireは欲望や、強い願いという意味だ。どちらかといえば、人間の本質的なものだろう」

 人間の本質的なもの、の意味がよく分からなかったけど、とりあえずおれはほぉ、と嘆息の息を吐く。
 HopeやWishは純粋な願い。Desireは人間の本質的なもので、欲望や、強い願い。……分かったけど、分かりきった自信はない。

「よく知ってんなあ。おれでぃざいあって言葉すら知らなかったし」

 さっぱりだ、なんておれが言えば、岳里は造作もないように、普通はしないことを言ってのける。

「まえに英和辞典を本代わりに読んだときに覚えた」
「……へ、へぇ。やっぱり、おまえ、すごいな……」

 区切れ区切れで言葉を繋げながら、やや引き攣りつつも頑張って笑顔を作る。そんなぎくしゃくしたおれの笑みを見た岳里は、何も言わずに顔を背けた。それはおれの作り笑いに気付いて気を利かせたのか、それとも単に顔を逸らしたかっただけだったのかは分からない。
 岳里はそのまま寝転び、再び大きく欠伸をし瞳を閉じた。どうやら食べたあとに眠くなったというやつで、昼寝でもするつもりらしい。そんな岳里を横目で見ながら、おれは空を見上げる。やっぱり、雲ひとつない憎ったらしいぐらいの晴天だ。
 普通は辞典を本代わりに読まないし、そんな一気に沢山の英単語を見たんなら、その意味をほぼ明確に覚えるなんて、ありえない。少なくとも、おれには到底真似のできない芸当だ。
 言いたいことは沢山あった。けど、あえてここは口を閉ざしておく。岳里とおれの仲がよかったら、きっと大笑いしながら、お前は凄い、なんて言ってたかもしれない。だけどなんだか岳里の表情が読めなくて、しかもなんだかそれが当然というように言ってみせる姿は、どう反応していいか分からない。
 ここまで愛想がなくて、反応もなくて表情もないやつなんて初めてだ。
 ――正直、扱い方が分からない。
 思わず参ったなあ、と溜め息を吐きそうになったところで、突然岳里が勢いよく起き上がった。

「うわっ! ね、寝るんじゃなかったのかよ!?」

 驚きに上擦るおれの声なんて気にせず、岳里は眉間に皺を寄せ黙りこくる。それはなんだか集中してるようで、邪魔をした気がして、おれは口を噤んだ。
 妙に真剣な雰囲気が流れ、おれはそれに飲まれながらも岳里を見る。その視線はあちこちへ移動して、何かを探ってるようにも見えた。
 おれも周りを見てみるけど、やっぱり木ばっかりで他に何もないし何も感じない。
 いったい何なんだよ、と疑問を浮かべていると、ようやく岳里が口を開いた。

「――足音、がする」

 それだけを言うと、また口を閉ざして黙り込んだ。さっきよりも、眉間の皺は深まってる。視線の鋭さも増した気がした。
 岳里のいうような足音はおれの耳には全く届いていない。目を閉じて聞くことだけに集中してみても、草を踏みしめる音もしなければ、鳥の声一つない。
 よく考えてみれば鳥の声が一つもないってのはおかしいことだったけど、おれはそこまで深く考えてなんてなくて、そのことに疑問を浮かべることはなかった。
 おれは足音なんて岳里の聞き間違いかと思って、今まで邪魔にならないようにと閉ざしていた口を開いた。

「なんも聞こえな――っむ!?」
「静かにしていろ」

 耳元にある岳里の口が囁いた吐息のような言葉に、全身の産毛が総立つ。今のたった一言で、おれの身体は鳥肌だらけになってしまった。
 口を岳里の手で塞がれ、おれの右手は同じく岳里が捕まえる。そのせいでとっさに身体が反応してもそのおかげで動かすことができなかった。
 その用意周到さに驚きつつも、おれは全身のむずがゆさにかきむしりたくなるのを必死で抑え、一瞬にして背後に回った岳里を睨み上げる。
 程良い低さの岳里の声が気持ち悪いとかじゃなくて、なんだか身体の芯から何かがこみ上げ震え出しそうな気がして、おれはたまらず岳里の話を無視して暴れた。
 おれを押さえる拘束をふりほどこうにも、まずぴくりとも動かない。どんなに激しく腕を振ろうとしても、平然とした顔をする岳里によって静止することを強いられる。
 おれはどこにでもいるような男子高校生だ。だから別に力が弱いって訳じゃない。でも、この明らかな腕力の差には驚きさえ忘れそうだった。いくら力が強かったって、同い年の、しかも男が本気で暴れてんのに。それなのにこいつは、身体一つ動かさない。疲れも知らないのか、おれの腕へも一定に強さを変えず握り締める。身をよじっても、ほかがまったく動かないんじゃおれが痛くなるだけだ。
 冗談じゃない、本当に化け物かっての!
 一度は疲れておれも暴れるのをやめたけど、少し気力も戻ってまた抵抗を再開する。口はふさがれてるから鼻で息するしかなくて、やや興奮気味の今じゃ呼吸が苦しい。でもそんなの気にせず、おれは空いている左手で後ろにいる岳里の身体を殴りつける。けど、確実に鈍い音もしたのに、感触も確かにあるのに、岳里は呻き声一つ上げず、身動きもせず、表情さえも歪めずにおれを拘束し続ける。
 それはまるで、おれの攻撃がまったく効いてないと思えるくらいに無反応だ。
 情けなんて微塵もなく、本気で岳里を肘で突いたりした。けれどここまで反応がないのは、正直気持ち悪い。いくらなんでも反応がなさすぎだ。
 おれは暴れるのをやめて、身を捩じらせて岳里を見た。やっぱり表情は相変わらず仏頂面で、何を考えているかわからない。ただ辺りを窺う視線の鋭さだけははっきりしていて、それが異様に不気味に思えた。
 岳里に対する恐怖で、身体は硬直して血の気が引いていく。
 こ、いつ……おかしいんじゃないのか……?
 得体の知れない恐怖におれが不安を覚え出した頃、遠くで何か音がした。
 いったいなんなんだよと耳を澄ませば、草を掻き分けるような音も聞こえる。
 もしかして、さっきから岳里が言ってた足音って、この音のことか……?
 その音は随分まだ遠くだ。ようやく聞き取れるぐらいで、時々途切れたりする。それを岳里は大分前から聞き取ってた。
 それに対しても、岳里に対する不信感が深まってく。
 岳里は辺りを、おれは岳里を。窺っているうちにも、足音の人物は次第に迫ってくる。もう足音が途切れることはなくなって、身近で聞こえてくるようになった。その間にも、おれは岳里に口を閉じさせられて黙るほかない。
 おれたちは何もしないまま、足音の主はすぐそこまでたどり着く。だけど、おれたちとご対面の一歩手前で、足音はぴたりと止まった。

「――誰かいるのか」

 それは男の声だった。声音からして、まだ若い、でもおれたちよりは年上の男。見えてないはずなのにその男は声を殺してたおれたちに気付いたのか、固い声でおれたちに声をかける。
 それにどう返事をするのかと岳里を横目で見れば、ちょうど岳里が口を開いてるところだった。

「いたとして、どうする」

 あくまで普段と変わらない岳里の口調。緊張のかけらもない。

「もしお前らが我が国へ危害を加えるつもりならば、その命を絶たせてやるまで。もしそうでなければ、我が国王の御意志により、歓迎してやるさ」

 岳里の問いかけに、声は嘘をつく様子もなく正直に答える。その時、男が動いて服が掠れた音がした後に続いて、金属の音がした。
 ……その命を、絶たせる? それってつまり、殺すってこと?
 それならここまで固い男の声音の理由も理解できた。もし敵なら、殺すぞーってやつってわけだ。――駄目だ、おれ。パニック大きくて逆に冷静だ。
 ここが今どこだかわからない。もしかしたら、日本じゃないかもしれない。もしかしたらおれたちの常識が通じない場所なのかも知れない。
 さっきからおれは冷や汗を掻きっぱなしで、今度は命の危機に、思わず面白くも楽しくも何ともないのに引き攣った笑みが口の端に浮ぶ。傍からは岳里のでかい手に隠されて分からないかもしれないけど、もし誰か今のおれを見てたらきっと引くと思う。いや、普段のおれだったら確実に引いてる。だって殺されるかも知れない状況なのに笑ってるんだし。
 一人パニックに陥っているおれを他所に、姿のない男と岳里の話は続いていく。あくまで岳里は変わらずに落ち着いていた。

「ならおれたちの命は保障されるというわけだ。おれたちはこの森に迷い込んだだけで、困っているただの人間だ」
「――それを信じていいか」

 岳里の言葉に、やっぱり男はまだ疑いを持ってる。信じられないのは当然だ。
 いきなり知らない人が現れて、必ず返すからお金を沢山貸してくれ、なんて言われてるも同然だ。おれだったら絶対何が何でも貸さない。貸すのはお人よしくらいだ。
 どうすれば信じてもらえるんだろうかとおれが頭を捻らせていると、岳里は突然おれの口を塞いでいた手と押さえつけてた右手を離して、拘束を解いた。
 そしてそのまま、何で急に離してくれたのかと疑問を持つ前に。おれは、

「証明はこいつがする」
「ちょ、へっ、うわあっ!」

 岳里に思い切り背中を蹴飛ばされた。
 おれは岳里に背中を蹴飛ばされ、前のめりになりながら、目の前の低い木の枝に視界を遮られた緑の壁の中につっこむ。
 顔の前に腕をやる暇なんてなくて、おれは顔面を思い切り枝や葉に鞭のように叩かれる。緑の壁はそこまで厚くはなくて、バランスを立て直せないままおれは開けた視界へ飛び出した。
 葉や枝から目を守るために閉じていた瞼を開かせれば、目の前には鮮やかな赤が映る。だけど目を奪われたのはほんの一瞬。

「うわああっ!」
「は、ちょ、のわぁっ!?」

 もの凄い衝撃が頭を響かせるのを感じながら、おれの目の前は真っ黒に染まっていった。

 

 


『いたい、いたいよ……』

 ぐずぐずと涙を流しながら、ひとりの少年が頭を抱えしゃがみ込んでいた。小さな手が押さえた頭部からは、涙と同じように止まらない赤い血が溢れる。少年の身体は自分の血に染まり、半ズボンから覗いた足を伝って乾いたコンクリートに血溜まりを作っていた。
 他にも晒される肌につけられた傷は少なくはない。

『おかーさぁん、おとーさぁん! いたいよぉっ……にいちゃ――』

 少年は家族の名を嗄れだした声で悲痛に叫ぶも、その声に応える返事はない。それでも少年は、大いなる絶望の中、僅かな希望を呼ぶ。何度も、何度でも。嗚咽に阻まれようが、ただひたすら呼び続けた。
 濃い煙と、天に届かんと伸びる赤い舌のように燃える炎が、少年の歪む視界に映るつぶれた二つの車体を飲みこんでいく。近づきたいと身体を立たせようにも、打ち付けた全身に、流しすぎた血に次第に意識はまどろみに掻き消されていく。
 それでも、懸命に手を伸ばした。この先にいるはずの、まだ車の中にいるはずの家族へ。

『――かぁ、さ……とぉさ……』

 突然、大きな音をたて爆発する車。少年の掠れた声は掻き消され、その風圧に身体を後ろに倒される。
 固いコンクリートの上で、もう指先すら動かせずに倒れたままの姿で、少年は視界に辛うじて映る燃えさかる炎を見つめた。
その間にも、止まり始める涙と対照に、頭から流れる血は溢れるばかりだ。

『にい、ちゃん――』

 もう、この声は届いてはくれないのだろうか。
 もう、この声に応えてくれる人はいないのだろうか。
 もう、誰にも――

『っ真司!』

 ――ああ、まだいるんだ。
 少年は炎を見つめながら、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

 

 

 右頬にぬめりを帯びた温い何かが這う。左の頬には、大きな手が添えられていて、親指で目尻を拭われた。

「ん……」

 薄っすらと目を開けてみれば、さらさらとした黒髪が目に入った。おれの髪にしては随分と傷みも少ないし、心なしか――いいや絶対長い。それにおれの前髪は鼻に掛かるほどながくないし、視界のほとんどを埋め尽くすほどないはずだ。
 ないはずなんだけど、寝起きのおれに常識や見慣れない景色なんてものは関係ない。
 あー……なんか、全身がだるいなぁ。ってか、なんかすげぇ頭痛いんだけど。なんでだっけ?
 いつも以上に朦朧とする寝起きの頭でぼんやりと考えながら、その倦怠感に身を任せる。今まで自分が寝ていたってことは分かるんだけど、その前に何をしていたかがいまいち思い出せない。
 それでも時間が経つにつれ、次第に目は冴えてきた。おれの中で眠っていた意識も目覚め始め、ようやく疑問っていうものが浮びだす。
 ――そういえば、何で寝転がってるのに目の前に髪の毛が見えるんだ? それになんでこんなに身体が重――はっ!
 おれがまさかの予想と立ち上げたところで、綺麗な黒髪の、その持ち主が顔を上げておれと目を合わせた。

「起きたか」

 間近に出てきたのは、整いすぎと言えるくらいに鼻筋の通った綺麗な岳里の顔。小さく開いた口からは、僅かに出された赤い舌が。はっきりと感じる重みと温かさに、湿った頬。

「――――!」

 さっきまで悠々と伸ばしていた身体が、一瞬にして硬直した。ぴきん、という音が立ってもおかしくはないぐらいに、毛先まで針金が廻ったように。

「……どうした」

 おれの身体が固くなったのに気付いたのか、岳里が小首を傾げてやや身体を浮かす。その分重みは軽くなったけど、おれは緊張を解かすことはできなかった。
 それでも、なんとかかたく閉じた口を根性で開かして、おれの思いを精一杯伝えるべく言葉を紡ぐ。

「お、おま……な、ななななに、を……おれに――!」

 どうしても哀れなほどにどもったけど伝わったはず。いや、伝わってなかったらおれが困る!
 おまえはおれが寝てる間、何してたんだ!
 滅茶苦茶な言葉はどうにか通じたのか、岳里はおれの上から退いて立ち上がり、それから手を差し出した。まだぎくしゃくとしながらもその手を受け取ると、助け起こされる。
 おれは今まで寝かされてたらしいベッドの端に腰掛け、その隣に岳里も座った。その間にセーターの裾を引っ張って、未だに外気で冷える濡れた頬を拭う。
 何で濡れてるのかは考えたくない……。
 そうは思うけど、おれはもう岳里に答えを求めたから、少し遅れたものの、理由はすぐに教えられる。

「――泣いていたからだ」
「っ、は?」

 おれが、泣いてた……?
 思わず隣に座る岳里のほうを向けば、おれを見ていたらしいやつとばっちり目が合った。
 何故か身体が動かなくなって、顔を逸らしたいのにそれができない。
 岳里の手が顔に伸びてくる。反射的に咄嗟に身体が後ろに動くけど、長い岳里の腕はおれの顔に届いて、温かく大きな右手が頬を包んだ。

「悲しいのか」

 かなしい?
 親指に目尻を拭われ、温もりが離れていく。ようやく視界に入った指には、確かに濡れていた。

「あ……」

 自分でも目尻に触れてみれば、濡れた感触がした。窪みを辿りながら目頭に移っても、その感触は変わらずついてくる。
 岳里の言ったように、確かにおれは泣いていた。
 その事実が急に恥かしくなって、慌てて袖で目元を擦る。

「は、ははは、なんでおれ、泣いてんだろっ?」

 誤魔化すようにいつまでも擦りながら、ようやく岳里から視線を逸らすことが叶った。
 けど、またも岳里の行動がおれを悩ますことになる。
 いつまでもごしごしと力強く目元を拭き続けてると、次第に痛くなってきた。でも岳里が目の前にいる状態で止めることもできなくて、おれは、あはははと変に笑いながらずっと目を布で擦った。
 だけどさすがに本格的な痛みを感じてきて、仕様がなく擦るのを止めようと腕の動きを緩め始めた瞬間、動かしていた腕を岳里に捕まれてしまう。
 なんだ、と思った時には既に遅しというやつで。おれは隣から身を乗り出した岳里に押し倒されて、再びベッドへ寝かされてしまった。掴まれた腕は片手で頭の上で縫いつけられる。
 咄嗟に突っぱねようと身体が動いたけれど、それは岳里に簡単に抑えつけられてしまった。

「が、がく――」
「赤くなっている」

 岳里、と名前を呼びかけた途中で当の岳里に遮られる。空いている方の手がおれの顔に伸びると目元をそっとなぞった。
 力加減なんて考えないで擦ったんだ。そりゃあ赤くだってなるさ。でも、だからって、なんで押し倒すんだよ! と、喉元まで出かかるも、到底言えるような雰囲気じゃない。
 ぴりぴりしてるんだ。岳里の周りの空気が。無表情で分からないけど、なんだか岳里が怒っているように見えるんだ。

「がく、り……なんか、怒って――っう!?」

 怒ってるのか? と聞こうとした時、岳里の顔が迫ってきて、おれは言葉を自ら途切れさせた。
 ろくな抵抗も許されないまま、ただ身をかたくしたおれの赤くなった目尻を舌でべろりと舐められる。擦れた肌にその行為は随分と滲みて、堪えられず避難じみた声を小さくあげた。
 そこでようやく、忘れよう忘れようとしていた、寝起きのこともそのお陰で思い出す。
 ……やっぱあれ、涙を舐められてたってやつだよな……。
 自然と引き攣った笑いが浮びそうになるも、また感じたひりひりとした痛みに、今もまだ似た行為をされてるんだということを思い出す。
 よし、と心の中で意気込んだおれは、捕まってない自由な両足を岳里の身体に当てて、力一杯押し上げた。

「はーなーれーろー!」

 もう我慢できるか!
 渾身の力を籠めて岳里の身体を押すけど、向こうはびくともしない。それどころか、さっきまで目元に置かれてた岳里の手がおれの腰に回って、だんだん距離を詰められていく。

「く、ぬおーっ!」

 おれもさらに踏ん張って顔を赤くするぐらいに力を込めるけど、岳里は顔色ひとつ変えずに、そのお綺麗な顔を鼻先まで迫らせてきた。
 いくら良い顔だからって、男とこんな密着なんかしたくない!
 もういっそのこと鳩尾でも蹴り上げてやろうかと岳里を睨みつけたところで、部屋の扉が音をたてて開いた。
 驚いて音のした方に振り返ると、そこには赤い髪を腰くらいまでに長く伸ばした男がひとり立っていた。どこかその赤い髪に見覚えがあるような気もしたけど、こんなに目立つ姿のやつなら、一度見ただけで一生覚えていられそうだ。

「――邪魔、したか?」

 気付いたときには、相手の目が呆れた色を写し映し、腕組みしていた。
 その目を見て、おれは改めて自分の置かれている状況を思い出し、慌てて首を振る。

「っ、ぜんぜん!」

 おれが否定すると、ほんの少しだけ腕を拘束する岳里の手が緩んだ。これ幸いにとその隙をつき、渾身の力で岳里の腹を蹴飛ばす。もうそこに遠慮もなにもない。また効かないんじゃないか、と思ったけど、どうやら無事今回は上手くいったようで、岳里はベッドから背中を下にして床に落っこちた。
 どすん、と重たい音と同時に、おれはベッドから飛び降りて、そのまま縋るように赤髪の男の後ろに隠れた。

「…………」

 岳里はすぐに起き上がったけど、怒るわけでもなく、痛がるわけでもなく、打ち付けた頭をぼりぼりと掻くだけだ。――やっぱり岳里は相当痛みに強いのかも知れない。それか、すんげぇ鈍感か。
 たとえ岳里が痛みに強かったとしても鈍感だったとしても、腹を蹴っ飛ばしたのは多少後ろめたく思うし、何より怒られるかもしれないって怖いのもある。だからおれは岳里の視界に入らないように、赤い髪の男には悪いけど、その背後を勝手に貸させてもらった。岳里が起き上がる前にはちらちら様子を窺ってたけど、起き上がってからは完全に男の後ろに身を潜める。
 畜生、この人も大きいな……。
 身を縮めれば、おれはすっぽりとはいかないまでも、大部分が赤い髪の男の背に隠れられてしまう。それは男としてはどうも悔しさが滲むけど、今は隠れさせてもらってるってことで我慢だ、我慢。

「……あー、おれに何をしろと? つか睨むなよ、怖えな」

 はじめはおれに対して言ってるのがわかった。だけどその次のは岳里に言ったんだ。
 今岳里は睨んでる。睨んでるってことは、やっぱ……怒ってるっ。
 後悔するなら、はじめからしなきゃいいなんてわかってる。わかってるけども、やっぱりあの状況からは逃げたかったし、何より男として思う節があるわけで。いや、今隠れてるのも男としてどうたらこうたらなんだけどもさ。

「そいつから離れろ」

 低めだと思っていた岳里の声は更に唸るように重さを増さして、おれはぞわぞわと鳥肌を立たせた。反射的に身体が命令のような強い言葉に従いそうになるけど、どうにか踏ん張って思いとどまる。
 だって、離れればおれ殴られる……かもしれないじゃんか。
 岳里の怒れる姿は想像できないけど、もうその声は聞いてしまった。今怒ってるっていうのは十分伝わってくるし、仕返しされないとも限らない。
 おれは念のためにと目の前の背中にしがみつこうとしたその時、頼りしていた目の前の壁がふっと消えてしまう。

「ほら、退いた」

 そんなため息交じりの男の言葉が終わるよりも早く、おれと岳里の目がばっちっと合う。
 一瞬、どす黒い何かを放つように凄く険しく見えた気がしたけど、一度瞬くとそこには相変わらずの無表情な岳里がいた。そこに荒ぶる怒りは見えない。

「こっちに来い」

 淡々とした声音で、おれに傍に来いと手招きをする。
 おれはまだ怒ってんじゃないか、と疑っているはずなのに、考えとは反対に勝手に身体が動いて、岳里のもとへ足を向けた。数歩もたたないうちに、おれは岳里の目の前に突っ立つ。
 近寄れたとは言っても目線を合わすことまではできなくて、視線がどうしてもふよふよ泳ぐ。そうして気まずく感じていると、頭にぽん、と岳里の手が置かれた。その手はそのままおれの頭をよしよしと撫でる。

「なっ……」

 なんでいきなり子供扱いすんだ、と思ったけど、思いのほか手つきが優しくて気持ちいい。
 おれよりもでかい岳里を自然と見上げてみると、やっぱり表情はなかった。ただ無表情でひたすらなでなでとおれを撫で続ける。
 ……おれ、どうすればいいわけ?
 おれ自身もただただされるがままになっているしかない状態で戸惑ってると、やや困り気味な苦笑を交えた声音で、赤毛の男が声を割り込ましてきた。

「――あー、そろそろいいか?」
「あっ、はい……」

 岳里に未だなでなでとされ続けながら、おれは小さく笑っている赤毛の男へ向き直った。
 改めてみるその人は、だいだい二十代そこらに見えた。赤毛に対しての偏見かもしれないけど、なんとなく見た目は軽い軟派な印象を受けるが、しっかりとした話し方からはどことなく頼りがいが窺えた。
 正直、そんな外見の中でも一番目立っているのはやっぱり見たこともないくらい真っ赤な髪だった。素直に表現するなら、原色の赤。それがしっくりくる。腰までと長く流れを作る赤ばかりにおれの目は向いてしまう。
 そんなおれに気付いたのか、赤毛の男は自分の髪を一房摘んで、自分のそれを眺めた。

「おれの髪が珍しいか? おれにとっちゃ、お前らのその黒い髪の方が珍しいんだけどな」

 視線を自分の赤毛から逸らした男は、今度はおれの頭を見る。髪と同じく赤い瞳と目が合ったおれは、なんだか気まずく思えて、堪らず視線を下へ向けた。
 あんまりにも真っ直ぐ見てくるもんだから、生粋日本人のおれは照れないわけがない。しかも、相手の顔立ちは岳里みたいに整ってて、おれの特徴のない顔で見詰め合っても負けている気がして、そもそも目を合わせ続けるなんてことができなかった。
 ……そもそも百人いたら全員が向こうの方が格好いいって断言するだろうけど。
 やや考えが卑屈になっていたところに、突然おれに影が差す。
 ん? とおれが疑問にするまでもなく、その影が言葉を発したから正体を知る。

「あまり見るな」

 ……何やってんだよ、岳里。
 おれの前に立ったのはさっきまで頭を撫で続けていた岳里で、いつの間にか手を退けたのかと思ったら、この通り。赤毛の男の視線から逃げられたのは嬉しいけど、この庇うような体制は悔しい。

「あー、はいはい」

 後姿でも分かるくらいどんより黒いオーラを流す岳里に、男はやれやれといった感じで身体の向きを変えて、おれから視線を逸らした。

「これでいいんだろ? とりあえず、そいつに説明はさせてもらうぞ」

 その言葉を了解と取ったのかどうかはわからないけど、岳里は何も言わないまま半歩分だけ横にずれておれの前から退いた。その時ちらりとおれに視線を寄越したけど、それは明らかに動くなと威圧してくるから、結局岳里に半分隠されたままの状態で赤毛の男と向き合うことになった。

「まずは名前だな。おまえは真司っていうんだろ?」
「は、はい」

 恐らく岳里が話したんだろうけど、おれとしては全く知らない相手に名前を呼ばれて、少し戸惑いながらも返事をした。

「おれはレードゥだ。よろしくな」
「よ、よろしくお願いします、れーどぅさん」

 にっと愛想よく笑いかけられて、おれもどうにかぎこちない動きで笑い返す。教えてもらった名前を早速読んでみるも、どうも覚束ない。
 そんな心細いおれの発音が可笑しかったのか、れーどぅさんは吹き出して、ははっ、と笑い声をあげた。

「呼び辛かったらレドでもいい。そう呼ぶやつは少なくないしな」
「あ、ありがとうございます……レド、さん」

 まだぎこちなさは消えなかったけど、今度はちゃんとレドさんと、しっかり呼ぶことはできた。

 

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