日中で、なおかつ人通りの多い通路に面していることもあり、道行く人々の話声が二階の部屋にまで届くのだ。窓から差し込む光の十分で、部屋全体が温まっている。直接日差しを浴びることのない位置にいるリアリムも、毛布を被らずともまどろみそうなほどだった。
けれども、どんなにほどよい気温になっても、小さな友の体温があったとしても、芯が冷え切った身体が温められることはない。
それでもリアリムは自分を慮ってくれた勇者の気遣いに感謝する。あの路地から前回の宿屋と大して距離は変わらないが、あちらは閑静ななかに建っており、こちらは人の気配が多い。リアリムのために移ってくれたのだろう。
やがて、そう時間を置くことなく勇者が戻ってきた。身体を起こせば、彼の手に自分のものと勇者自身の荷物があることに気がつく。
「あの……」
「あいつが回復するまで、おれたちはこちらに泊まる」
荷物を壁際に置きながら勇者は答える。あいつとは寝込んでいるラディアのことだろう。
予想はしていたため、勇者の言葉に驚くことはなかった。ただ一言、荷物を持ってきてもらったことを感謝せねばと思うのに、それでも重たい口は動きそうにない。
勇者は再び部屋を出て、今度はすぐに戻ってきた。その腕に抱えられた桶に、リアリムは目を向ける。
勇者はリアリムのいる寝台の近くの床に桶を置くと、人差し指を立てた。宙を掻き混ぜるようにくるくると円を描いていると、やがて指の上に水が集まりだした。
初めは豆粒のようなそれは、次第に大きさを増していき、最後には両手で支えるほどの球体に膨らんだ。
納得のいく大きさにまですると、勇者は人差し指で桶を差す。それに従うように水も降下していき、自ら桶に入り、ただの水のように平たい水面になった。
溜まった水の中に、手にしていたらしい手巾を沈めて、水気を絞ってからリアリムに差す。
そろりと伸ばした手でそれを受け取ると、勇者は窓際に行き、リアリムに背を向けると、直接床に座り込みもうひとつの寝台に寄りかかった。
まるでいつも眠るときのように腕を組む。それにより、彼はしばらく動くつもりはないことを察した。
手にある絞られた手巾に目を落とし、しばらくそれを見つめてから上着を脱いだ。
生ぬるい感触が残ったままの肌を強く擦る。肌が赤くなっても気にせず、時折爪を掠めて筋を描いても、這いずりまわる手を忘れるほどに拭い続けた。
痛みを覚えても手を止める気にはなれない。濡らされた手巾に身体は冷える。かえってさっぱりとするが、いつまで経っても感触が、気持ち悪さがとれない。
「――っ」
胸の奥からこみ上げるものを吐き出したくて、でもそれはあまりにも情けなくて。
飛び出しかかった声をどうにかのみこむ。
目を逸らしてくれてはいるが、勇者はすぐ傍にいる。肌を擦り続ける音ですらきっと届いていることだろう。それなのに叫んで、暴れて、これ以上惨めな様など晒したくない。
だがそれなら、抱える衝動はどうしたらいい。どうしようもない嫌悪は、吐き出せぬ呪いのような感情は、どこにぶつければいい。
布を握り締めた手が止まる。力を込めるあまりにぶるぶると震えた。
なぜこんな目に遭わねばならないのだろう。なぜ、男の自分が、同じ男に襲われるなど。
自問したところで、答えなど出るはずもない。リアリムはあの男たちではないのだから。同じ男を相手に欲情しないし、相手の意思を無視して乱暴などもっての外だ。
もしあのとき勇者が来なければ、一体どうなっていただろうか――。
想像してしまい、吐き気がこみ上げる。どうにか堪えたものの、顔面は真っ青になっていた。
リアリムは、勇者の存在を感じながら、己の感情をひたすらに抑え込み続ける。
やがて狂いそうな激情の波が過ぎ去り、残ったものは荒らしがすぎさったあとのような音のない世界だ。
まるで無だ。なにも考えられず、気力すら起きず、ただ肌寒さを感じた身体が本能的に脱いでいた服を着込む。
強く握りこんでいた両の拳を解けば、はらりと手巾が滑り落ちる。なにも入っていない左手のてのひらには、自分の爪が食い込み痕を残していた。力がまったく入らない。
ついと窓を見れば、空にはすっかり紫が滲んでいる。
どれほど耐え忍んでいたというのだろう。事が起きたのは昼時をやや過ぎた時間であったはずが、すっかり陽も暮れかけていたようだ。
あれからリアリムは身体を拭い続け、ひたすらに己を抑えつけて。その間に勇者は身じろぎすらせず、リアリムに背を向けたままでいた。
遅すぎる清めを終えたことを告げようかとも思ったが、起きているのかわからぬ相手に声をかけることは憚られた。もし寝ていたとして起こしてしまうし、そうでなかったとしてもきっと、リアリムは話しかけることなどできなかっただろう。
夕食をとる気にはなれないし、腹も空いていない。もし無理に押し込めば、これまでのかけた時間をすべて無駄にしてしまうような気がして、リアリムはなにもせず毛布の中に滑りこんだ。
頭の先をわずかに残して、あとはすべて覆った。すこし息苦しく思えるほどに身体を丸めて、そっと目を閉じる。
桶は明日片付けよう。だから今はそのままにすることを許してほしいと、誰かへの弁解のように心で告げる。
ひどく身体は疲れていた。なにをしたというわけでもないのに、むしろひどくされるところを助けられ、大した怪我もしていないというのにどっしりと重たい。それなのに眠気は一向にやってはこず、自分自身を抱いても去らないうすら寒さにリアリムは苛まれる。
肌が真っ赤になるほど、擦りすぎて痛むほどに拭ったのに、それでも気を抜けばあの手の感触が蘇りそうで。
堪らず息をのんだそのとき、ふと気配を感じた気がした。
勇者は足音を鳴らさない。そのため彼が動き出したとしても音がたつことはあまりないのだが、そのとき確かにリアリムは、自分に向けられる彼の意識を感じた気がしたのだ。
そろそろと毛布から顔を出し、振り返る。勇者は先程と変わらぬ姿でいたが、ほんの少し、寄りかかる寝台の上に整えられている毛布にわずかに皺が寄っていた。少し前に見たときはなかったものだ。
リアリムが寝たと思って、様子を見たのだろうか。
しばらくぼんやりと勇者を眺めて、リアリムはそろりと立ち上がった。
毛布を肩に巻き、胸の前で重ねた部分を押さえる。ずるずると端を引きずっていることに気づかぬまま、勇者の背後に向かった。
「あの……起きて、いらっしゃいますか?」
言葉はなかったが、すぐに頭が持ち上がり、なんだとでも言いたげな視線が向けられる。
「すこし、お聞きしたいことがあるのです」
勇者はなにか探るように一度目を細め、ふいと逸らすと床にある身体をわずかに横にずらした。
彼の意図を察して、リアリムは躊躇いを残しながらも一声かけてから隣に腰を下ろす。
窓際にある寝台に背を預けたからか、すっかり夜になった空が窓枠から見えた。雲に遮られることもなく月光が差し込み、二人を照らしてくれる。
外からは日中とは違った賑やかな声が遠くから聞こえた。酒場で男たちが盛り上がっているのだろう。
豪勢な笑い声を聞きながら、リアリムは対照的な声音で問うた。
「なぜあのとき、あちらにいらしたんですか?」
普段用がない限り勇者は宿屋の外に出ない。他人に触れてしまうことを警戒しているからだ。だからこそ情報を集めるためにリアリムたちが出ても彼だけは留守番をしているし、それが当たりまえだった。今まで一度としてついてくることも、その情報収集の間に外に出ることもなかったのだ。
それなのに勇者は、リアリムの窮地に現れた。おかげで救われ大事に至ることはなかったが、あの場所に勇者がいることは不自然だった。
ちらりと勇者に目を向ければ、彼の視線は控えめに光を放つ半月に向けられていた。だが一度目を伏せ、懐に手を差し入れる。
取り出したものを手渡され、リアリムは受け取る。それはリアリムの財布だった。
「なぜこれを勇者さまが……?」
鞄に入れていたはずだ。宿を出るとき確認したのだから間違いない。
しかししまい込んでいたはずのものは、確かに勇者の懐から出てきた。
「階段の傍に落ちていた。だから、届けにいった」
勇者の言葉に、ラディアを支えたときのことを思い出す。もしかしたらそのときに弾みで落としてしまったのかもしれない。
思い返してみれば、荷物は確認したものの、しっかりと閉じたかまでは曖昧だった。
ならば勇者が追いかけてくれたのは、なんという幸運だったのだろう。もし財布を落としていなければ、彼が現れることはなかったのだから。
受け取った財布を大事に握りしめる。
尋ねたいことはまだあると、布地の感触を確かめるように手に力を込めた。
「そ、の……勇者さまはあのとき、彼らになにをしたのですか?」
飛び散った血が黒の刻印と姿を変え、三人の男たちを苦しめていた。脂汗まで滲んでいたのだから相当な苦しみを感じていたに違いない。そしてそれをやったのは勇者である。
勇者自身も相当な魔術の使い手である。魔術を専門とするリューデルトよりも、その技術は高いとされていた。そんな彼であるならば、“呪い”をかけることも可能だろう。
直接的に人間を苦しめる禁呪とされるもの使用したのか、気にかかっていたのだ。彼は他ならぬ勇者であるのだから、もしかしたら許されている行為なのかもしれないが、一市民の立場からして見れば勇者だからこそ認め兼ねるものでもある。
「あれはおれに対する悪意にのみ反応をする封印術の一種だ」
「悪意、ですか?」
「おれに害意を抱けば、激しい頭痛と、血で描いた魔法陣が身の内を捻り上げたような痛みを起こす。効力は半年ほどで消え去るが、しばらくは事あるごとにおれを思い出すことだろう。そうしているうちに悪事を行う気力すらなくすはずだ」
肌に直接刻まれた印は勇者の意思がない限り消えることはないのだという。肌を切らねば生涯残るものだそうだ。
話を聞いたリアリムはほっと気が抜けた。そこでようやく、男たちの話題を自ら持ち出したというのに、それに身体が強張っていたことに気がつかされる。
彼らに会うことはきっとないだろう。わかっていても、自分が襲われることはもうないのだと安堵する。それだけでなく、他の人が今後自分と同じ恐怖に、痛みに遭うのではないかと心配する思いもあったのだ。
あんな恐ろしい目を味わいたい者などいないし、あっていい人間がいるはずもない。彼らが行おうとしていたことは、紛れもない暴力なのだ。理不尽で、数を揃えて逆らえそうにない相手を狙った非常に下劣な。
男たちは実に手慣れていた。もしかしたらこれまでにも他に被害者がいたかもしれない。過去に起こってしまったことはもはや変えようがないが、これ以上増えないだけでもよかったと言えるだろう。
「そうですか。それなら、よかった」
本心を告げれば、少しだけ気持ちが楽になる。
勇者は、リアリムをまじまじと見て目を眇めた。彼の視線に気がついたリアリムが振り返ったとき、そっと目元をてのひらで覆われる。
「勇者、さま?」
「もう眠れ。身体を休めろ」
じんわりと温かくなっていく目元。落ち着いた勇者の声音に、先程まではまったくなかった眠気がそうっとリアリムに降りてくる。
すぐに勇者の手は離れていった。けれども瞼は重たいままで、横になれば今すぐにでも寝つけてしまいそうだった。
もしかしたら、魔術を使われたのだろうか。そうでなければこの唐突な眠気に説明はできないが、勇者の強制的な行為に嫌な気持ちはまるでなかった。それはきっと、リアリムを労わる想いを理解しているからだろう。表情や声音はどこも柔らかくないというのに、触れてきた手の優しさがすべてを教えてくれる。
リアリムは目を閉じ、勇者の肩に寄りかかった。
「おい」
「すみません、少しだけ」
それ以上勇者が口を開くことはなかった。だからリアリムも、自らの体重を彼に預けたままにした。
服越しにほんのりと伝わる体温。いつもともに寝ていたからか、少し遠くに感じはすれども馴染んだ温もりが傍らにあることが心地いい。
隣に傾けている頭に、重みが加わる。柔らかな感触がして、勇者もリアリムに身体を預けたことを悟る。
膝の上にはいつの間にか姿を消していたヴェルがかけ登ってきた感覚があった。そういえば餌をやっていなかったな、と思ったが、彼がてのひらの上に入り込み大人しくなったのを知って、後になるのを許せよと心の中で呟く。
あれほど消えなかった生々しい手の痕たちが、ひとつひとつ剥がれ落ちていく。その度にリアリムの意識は深いところへ沈んでいく。だがそれには決して、うすら寒くなるような恐怖はつきまとわない。
瞼の裏で感じる月明かり。その光さえも遠ざかり、やがてリアリムは静かな寝息を立てていた。