呪いの影響を受けやすい立場にあるガルディアスは、暁月の君に定期的に様子を診てもらっている。
 代身がいないことはガルディアスにとって最重要の機密事項であり、その場に立ち会うのはその秘密を知る腹心の臣下のみであるため、同時に心より信頼のおける者たちを集めた密談を行うのも通例となっていた。
 今回は宰相でありガルディアスの叔父であるゼルディアス、側近で乳母兄弟であるロウェル、そして宮廷呪術師の暁月の君と彼らの主であるガルディアスの四名が集った。
 語り合う内容は、気軽な雑談や人々の噂話などから国政や各国の情勢に関することなど様々であるが、近年は呪いにまつわるものが多い。
 ガルディアスの手をとり、気の流れを見ていた暁月の君は静かに告げた。
 
「呪いが増しております。これは民からのものでしょう」
「……先日のフィデル領での大嵐の被害か」
 
 ロウェルがつぶやいた王都の西にあるフィデル領は天候が荒れやすく、今の時期では大嵐や竜巻による被害が起きやすい土地柄である。二週間前にも大規模な嵐が吹き荒れ農作物に甚大な被害が出たばかりであった。
 すぐにガルディアスは国として使者を送り状況の把握後、復興に人員を送り物資の運搬も行っている。減税の話も領主と話を詰めている最中で、責任を持つものとして民に沿った迅速な対応をしているはずだった。
 それでも民人たちはガルディアスに憎しみを抱く。
 災害は規模の程度こそ差はあるが、以前からよく起きているものである。そこに住む者にとっては幼い頃から身をもって体験しているはずの凶事だが、ガルディアスが王になってから頻度も被害も増えたと人々は密やかに噂をするのだ。
 
「やれやれ、おまえに天候を操るなどという大業な力はないというのに、天災さえも赤髪の王のせいになってしまうとはな」
 
 ゼルディアスの憂いた吐息をガルディアスは鼻で笑い飛ばした。
 
「悪者を決めねばやってられんのだろうな」
 
 忌まわしき赤髪の者が王などになるのだから国に不幸が呼び込まれるのだと信じている者は少なくない。実際はガルディアスにはそのような力など何ひとないし、フィデル領の一件もむしろ被害でいえば例年よりはいささか少ない範疇である。しかし何かよくないことが起こればすべてがガルディアスの影響とされ、それが噂となって人々の口を駆け巡りそしてやがては呪いとなって返ってくる。
 いくらガルディアスが良いことをしても、たとえ誰もが認める完璧な善政をしいたとしても人々の心からガルディアスを恐れる心を消し去ることはできないだろう。だがもし、何か政策に失敗したり、それこそ大陸全土に流行病が蔓延して多くの人々の命が失われるような、そんな大きな凶事が巻き起こったとしらーーそれまでどんな善行を積み重ねていたとしても、一瞬にして呪い殺されることだろう。
 今はまだ大きな失態をおかしていないがために、首の皮一枚で繋がっているだけのようなもので、ガルディアスを巡る呪いの循環が立ち切れることはない。
 
「……やはり、羽衣祭を取りやめることはできないか? せめてあともう一年」
「できないな。兄上の喪が明けたばかりで、久方ぶりの祝祭だ。準備も進んでいるし、民の熱気も高まっている。止められるわけがない」
 
 羽衣祭とは別名で、正式には天女降臨祭のことである。かつて一人の農夫のもとに天女が舞い降りた日であり、彼女の導きによって男は国を興しこのロノデキア国が誕生した。そんな彼らの出会いを記念して天女がまとっていたという羽衣に見立てた淡い色合いの布を町中に垂らし飾るのだ。
 女たちは天女に扮し、男たちはあえて顔に泥をつけ農具を担いだ農夫の姿となり、伝説の二人の出会いを祝うとともに自らも互いの愛を確かめる、もしくは胸にある想いを伝える日でもあった。とくに年若い者たちは浮き足立ち、相手がいない者は勇気を出して、恋人がいれば蜜月のように甘く過ごして、長く連れ添った夫婦も祭りを期に互いへの感謝を思い出す。想う相手すらいない場合には飲み食いに精を出し、幸福な二人組を冷やかしたり羨んだり、ときに妬ましく思いながらも彼らを祝福するための花びらの雨を降らしてやる。
 国王の喪に服す期間は二年間と定められているため、年に一度あった降臨祭りもその間行われることがなかった。喪が明けて久方ぶりの国をあげての大規模な祝祭ということもあり、国民もはりきって準備をしているのだ。
 ガルディアスの耳にさえも侍女たちが天女の衣を手作りしただの、祭り用に飾り細工を大量に生産しているだの、忙しなくも楽しげな話が入ってくるほどだ。開催も間もなくと迫っており、正当な理由もなしに今さら延期などできるわけもない。
 それはゼルディアスとてわかっているが、それでもなお口に出さずにはいられないのだろう。
 
「この赤髪を民衆の前に晒すのも戴冠式振りか」
 
 単なる事実であって自虐的な意味を含んでいるわけではないが、あえてゼルディアスの懸念を口に出してやればわかりやすく彼は顔を歪んで見せた。
 実兄であり前国王の喪に服することを理由に、ガルディアスはこの二年間ほとんど顔を出さずに過ごしてきた。やむを得ない公務で表に出なければならない時はあったが、隣国との外交のためや領地の視察程度で民衆に対するものではなかったため、国民がガルディアスを公の場で見ることになるのも久方ぶりである。
 
「当日、陛下の警備は気を引き締めなければな。宴の騒ぎに乗じた馬鹿が現れるとも限らない」
 
 ガルディアスが赤髪であることは周知の事実ではあるが、改めてまみえることで再び噂が駆け巡ることは必然のことだ。恐らくはろくでもない尾ひれがついて回り、ガルディアスにのしかかる民からの呪いが一時的に強まることが予想されており、ゼルディアスが対応に悩まされているところでもあった。その一方で、直接的な干渉も十分にあり得る。ガルディアスに対する偏見は根強く、たとえ問題なく国を治めていたとしても快く思っていない者のほうが多いのだ。国王に対する暗殺者への警戒はさることながら、自国の民からの石つぶてにさえも気を配る必要があった。
 すでに祭り期間中の警護については入念に打ち合わせされているが、いくら案を煮詰めたとしても悩みが尽きることはない。
 
「明日にはナルティアが復帰予定です。これで陛下の警護は万全のものとなるでしょう」
「ああ、明日だったか。彼女が戻れば頼りになることだな」
「私は少しばかり憂鬱ですがね」
 
 自分から切り出したというのに浮かない顔のロウェルは小さく肩を竦める。
 もう一人の側近の姿を思い出し、つい彼女とのことを思い出してガルディアスは苦笑した。 
 育児のため現役を退いていたナルティアはロウェルの実姉である。諸事情によりガルディアスの側近一人が離脱するためその空席を埋めるべく復帰予定であった。
 前王と半年ほどガルディアスの側近を務めていた彼女の実力は申し分なく、経験も十分にあるので実に頼りになる存在であるのだが、母性が強いというべきなのだろうか。世話好きで構いたがりなところがあり、幼い頃からロウェルことはもちろんのこと、ガルディアスのことも実の弟同様に大層可愛がってくれたものだ。しかしガルディアスたちが成人になっても、その立場が王と侍従と変わろうともその過多な愛情は相変わらずのままであっていささか辟易することも少なくはない。
 そんな彼女が我が子を産んだとなるとその赤子に一心に注がれるかと思った愛情は、むしろ枯れぬ泉のごとく溢れに溢れて、止まらぬ母性は増しているのだという。
 ナルティアが現場を離れ、ガルディアスも多忙で顔を合せてものはほんの二、三言程度で別れてばかりだったので、噂に聞く激しさをまだ身を持って体験していない。姉に挨拶に行った翌日は決まって食べ過ぎて胸焼けを起こしたようにうつろな顔になるロウェルを思うと、明日からの日々は実に賑やかになりそうである。
 
「先日休暇中に呼び出されたと思ったら、早速稽古の相手をさせられましたよ。現場は久しぶりだからと体を鍛え直しているようで、まだ本調子でないなどと言っておりますが……」
「はは、その様子だとナルティア嬢にまた遊ばれたようだな?」
「笑いごとではありませんよゼルディアスさま。あやうく肋骨が折られるところでした」
 
 基本的にはおっとりと優しいのだが、いかんせん大雑把な性格でもある彼女は加減というものが苦手なのである。実際に幼い頃には強く抱きしめられたがために失神したことのあるロウェルと似たような経験があるガルディアスは渋い顔をするが、幼い頃から姉弟とガルディアスを見守ってきたゼルディアスは他人事のようにからから笑う。
 しばしナルティアの話題で盛り上がり、区切りのよいところで隣から声がかかった。
 
「陛下……」
 
 それまで置物のように一人ひっそりと佇んでいた暁月の君がわずかに頭を下げた。
 
「お守りを見せていただいても、よろしいですか?」
「ああ、よろしく頼みます」
 
 懐に手を入れて、服の下に仕舞っていた首飾りをとり出した。それを首から外すことはせず、身に着けたままガルディアスは暁月の君が見やすいように腰を屈めてやる。
 
「失礼します」
 
 伸ばされた指先は細い鎖に繋がれた白い玉に触れ、表面を撫でるように形を確かめた。
 眠っている間も湯あみの時でさえも肌身はなさず身に纏うこの首飾りは、ガルディアスを呪いから守ってくれる強力な魔具である。前任の宮廷呪術師の逝去とともに役目を引き継いだ暁月の君が初めてガルディアスと顔を合せた際、決して外すことがないようにと渡されたものだった。
 前任の宮廷呪術師は暁月の君の師であり、そしてガルディアスを呪いから守る強大な盾でもあった。その人がいなくなればガルディアスはすぐに呪いによって殺されてしまうだろうと人々は影ながら噂していたものだが、そうはならなかったのは暁月の君もまた優秀であったが、それに加えてこの首飾りの守りがあったからである。ガルディアスが受けるべき呪いの身代わりになりその身を削り、かつては目玉くらいの大きさはあったそれは、今では三分の一にまで擦り減ってしまっている。年々小さくなっていたが、ガルディアスの即位後は急速に縮まり今の大きさになってしまった。
 何を元に作られたか暁月の君に一度尋ねたことがあったが、教えてはもらえなかった。代わりにこれは二度とは作れないものであると彼は言った。そしてガルディアスの命綱であるその玉は、間もなく砕け散ろうとしている。
 以前は七日に一度、今は二日に一度の頻度で暁月の君に首飾りのお守りに異常がないか確認をしてもらっていた。いつもであればお守りの要である玉を二撫でほどしてすぐに離れていく手が、念入りに調べているのかなかなか離れない。そろそろ腰の痛みを訴えるべきかと中腰のガルディアスが悩み始めたところで、ようやく暁月の君は玉を手放した。
 
「なにか問題でもあったか?」
 
 腰を伸ばしながら問いかけたガルディアスに、暁月の君は淡々と答える。
 
「恐れながら……砕ける日は、もう間もなくかと思われます」
「そうか。なに、わかっていたことだ。仕方がないさ」
 
 突きつけられる事実に、しかしガルディアスの心は凪いでいる。首飾りのお守りは消耗品で、遅かれ早かれ壊れる日が来る。初めからわかっていたことで、何年も前からその日に怯えてやってきた。
 毎夜のように玉に触れては、一人震えてきた。もう十分恐怖した。その日が間近に迫っているからとしても今更何を怖がる必要があるというのだろう。
 だからすでに覚悟は出来ている――いや、これはきっと覚悟ではない。諦めだ。どうしようもない自分の宿命なのだと受け入れるしかないからだ。そのために、何年もかけて自分自身に言い聞かせてきた結果なのだ。
 気弱なのか潔いのかわからぬ自身を笑うガルディアスに、ですが、と暁月の君は言う。
 
「ですが、呪いは増しているはずですが、わたくしの想定していたよりも陛下のご負担が軽くなっているように思われます」
「それはまことか?」
 
 素早く反応したゼルディアスに暁月の君は小さく頷く。
 
「わずかではございますが、守り石の消耗が軽減されているのです。何か、お心当たりはございませんか?」
「特に、思い当たる節はないが……」
 
 これまでと違う行動があったか、ここ最近の出来事を思い返してみるが該当しそうなものはない。むしろ先日呪いの影響で倒れたばかりである。とはいえ日々の政務と祝祭の準備に追われて寝不足が続いていたことが重なっていたため、一概に呪いだけが原因ではなく、むしろそちらの面が大きいと言える。
 よりにもよって直人のもとを訪れている時に激しい眩暈に襲われ、そして倒れたところを彼に強く抱きとめられた――。
 
「……もしかして、あの子のもとに通っているからではないか? 呪いも、気の持ちようが多少なりとも影響するだろう」 
 
 ガルディアスが至ろうとしていた答えに、先にゼルディアスが辿り着く。それにロウェルも同意した。
 
「私もそう思う。ガルディアスは彼を気に入っているようだし、あの彼もまんざらではないのでは。昨日は床に誘われていたことだし」
「は……その報告は聞いていないぞ?」
「する必要はないと思いまして」
「いや必要はあるだろう。いつの間にそんなに話が進んでいたんだ?」
「叔父上がそう面白がるかと思って、ロウェルにはおれから口止めしていたんだよ。誘われたと言っても、恐らく先日倒れたものだから心配して休むようにとでも促そうとしたんだろう。色気もなかったしな」
 
 ガルディアスの腕を引き寝台を示した直人の瞳は、艶やかに潤みしなだれかかるように身を寄せるでもなく、ただただ不安げに揺れていた。数日前に倒れた男が顔色そのままに現れたものだから、さすがの反抗心も萎えて心配をしてくれたのだろう。
 怯えるか、それを隠すために怒りを表すか、それとも見えていない振りをして無視をするか。そんな態度ばかりであったのに、昨日は自ら手を伸ばし、なんの険も抱くことなくガルディアスの身を案じて腕をとった。初めて直人からガルディアスに触れたことに、彼自身は気がついているのだろうか。
 その感情は実に不安定であるのに、どんな意地を張られたとしても彼の心根がお人好しである証拠だ。
 そしてなかなかの強情でもある。ガルディアスの手土産は決して一人で食べきろうとはしないし、昨日はセオリのために紅茶を淹れようとさえしたそうだ。しかしいざ行動しようとしても見よう見まねだったらしく手つきは危うげで、早々にセオリが止めに入ったという。報告を受けたときはおかしなことをしているものだと思った程度だったが、思いの外その話が気に入ったことは、夜には夢でその場面が再現されたことで思い知らされたものだ。
 夢の中でこれが夢だと理解しつつも笑ったものだと思い起こした時、ふと気がついた。
 
「そういえば、ここ最近悪夢を見る回数が減ったな」
 
 悪夢も呪いの影響である。その内容は様々なものではあるが大抵はろくなものではなく、夢に追い詰められて飛び起きるということも珍しくはない。
 今の時期は祝祭のこともあり多忙で、そういう時には疲労がたまり呪いへの抵抗力が弱まってしまい、悪夢を見る回数が多くなるのが常であったのに、ここ数日恐ろしいものを見た記憶がなかった。
 暁月の君はしばし思案するよう沈黙をして、やがて静かに口を開いた。
 
「彼のお方は青を纏いし者……もしかしたら、何か……陛下の身に関わる、特殊なお力があるのやもしれません」
「あの子の影響で呪いが弱まったかもしれないと?」
 
 ゼルディアスが浮かび上がった可能性を声に出す。
 
「断言はできません。しかし、不思議なお方ですから、何かを起こしたとしてもおかしくはないでしょう」
「ですが彼は物珍しい黒髪と黒い瞳ではありますが、赤と金でない以上あなたのような″赤月(あかつき)の民″ではない。赤月の民の他にそのような力を持つ者がいたと聞いたことはありませんが」
 
 ロウェルの言う赤月の民とは、呪術師となる者が産まれる血筋のことだ。赤月の民からのみ呪術師は輩出されるものの、必ずしもなるわけではなく、呪術師となる才能を持つ者はほんの一握りである。民の血が混じっていれば呪術師となる可能性はあるが、血が薄いほどに力は弱まってしまうのだという。
 赤月の民には特徴があり、彼らは皆、褐色の肌に月のような金色の瞳、そして鮮やかな赤い髪を持っている。赤月の民の血が流れている者にはいずれかが身体的特徴として現れるため判断がしやすい。
 今はフードの下にある暁月の君の素顔も、そのみっつのすべてが揃っているそうだ。暁月の君というのはあくまで呼称であり、ガルディアスの父である二代前の王が、彼の瞳が暁の空に浮かぶ月のようだったことから名づけたのだという。ガルディアスはまだ瞳の色どころかその顔すら見たことがないが、それは美しいものだったと、以前見かけたことがあるというゼルディアスは言っていた。
 ガルディアスも鮮やかな赤髪を持つ者。つまりは、呪術師が産まれる一族の血を引いていることを証明していた。ガルディアスの母が赤月の民だったのだ。そして父親が王だった。そのため王族のみが継承してゆく青い髪こそないものの、もうひとつの証である緑の目を持っているがために出自が保証され、赤髪を持ちながらも王族として受け入れられた。そしてそれが故に、人々から赤髪の王として、呪術の王として恐れられているのだ。
 実際にガルディアスは人を呪う力などひとつもないし、暁月の君がいなければ呪いから自分を守ることすらままならない。しかし人々がその事実を知ることはない。民間では赤月の民の誰が呪術を扱えるか判断がつかず、その一族であるガルディアス警戒するのは当然のことだ。下手なことをして呪われでもしたら敵わない、そう思う人々のその恐れをガルディアスは利用して、安易に呪術をかけられないように自身の力については公言を控え周囲を惑わしていた。
 呪術を扱えるのは赤月の民の血を引く者だけ。一族の特徴をひとつも持っていない直人が力を持つことは考えられず、ロウェルも疑問を口にしたのだった。
 
「天女さまは、赤月の民ではございませんでした」
「それは、そうですが……」
「天から訪れた謎多きお方、ならばこそ天からのお人かもしれません」
 
 天女の姿は様々な説がある。身の丈を超すほどの長い黒髪であったとか、眩き陽射しのようにきらめくものであったとか。きらめていていたのはつるりとした頭部で、ただし顔は誰もが言葉を失うほどの美女であったとか、素朴な親しみやすい愛嬌ある笑顔の少女であるとか。果てには、天女ではなく男であったという説まである。ただしその中で、赤月の民であったという言葉だけではどこにもない。赤い髪も、金の瞳も、褐色の肌も、そのどれもが言い伝えには存在していないのだ。以前から存在している赤月の民の者であったのならば、そう言葉が伝えられていたとしてもおかしくはない。
 この国のおこりである天女の伝説だが、それにまつわる正式な文献は存在していない。人々の口伝で語り継がれてきたものであり、王族であるガルディアスやゼルディアスさえも正確な話を知らなかった。
 ガルディアス自身はあくまで国の誕生を彩る夢物語だと思っている。天から麗しき女が降りたち、そして一人の男を選び王となるよう支えていくなど、そんな都合のいい話があるわけがない。何より、空の上に人が住んでいるということがどうしても信じがたかったのだ。もしいるなら彼らが住む土地は空のどこにあるというのか。今まで天女以外に現れた記録がロノデキア国以外にどこにもないのも不自然であるし、真の話であればそれを記した資料が国にひとつもないなどあり得ないだろう。
 だからこそ暁月の君が天女を持ち出したとしても、そもそも直人が天人という可能性すら想定などしていなかった。
 
「あれはあくまで伝説でしょう。本当にあったか、誰も確証を得てはいないではないですか」
「夢幻かわからないからこそ、真の物語であったかもしれません」
 
 そうでないと証明ができない以上、そうである可能性も捨てきれはしない。信じてはいないが、あり得ないと断言できるほどの資料もないためガルディアスは口を閉ざした。
 せめて直人本人から話が聞ければと、これまで何度も考えたことに小さく息をつく。彼から出身地の話が聞ければ、天の生まれでないことは断言できるし、そもそも何故空から落ちてきたのか謎も解けるというのに。
 
「あなたはやけにあれの肩を持つ。そして、わたしにとって良いものであると信じているようだ」
「わかりません。ですが、そうであってほしいと願っております。彼が、あなたさまのお力になってくださると」
 
 いつであっても嘘偽りのない暁月の君の言葉は、常にガルディアスを見守り、支えようとしてくれる。
 ガルディアスが暁月の君と初めて顔合わせをしたのは、まだ物心のついたばかりの幼い頃だった。そのときから彼は目深くフードを被り、今に至るまでその顔を見たことはない。だが初めて会ったあの日から、いつだって暁月の君はガルディアスのために動いてくれた。ガルディアスが王になるはずがないと思われていた頃から、他の兄弟よりもことのほか気にかけてくれていたのだ。ガルディアスを赤月の民の血を引く者として疎む者が多く、ひときわ呪いを惹きつけやすいというのもあったが、それでも呪いに対抗しうる力を唯一持った頼もしい味方であったことは間違いない。
 長い付き合いになるが、いつも首飾りのお守りの調子を確認するばかりでまともに会話をしたことがなく、ようやく話すようになったのもガルディアスが王となり、呪術師として協力を仰ぎたい内容があるからできているようなものだ。だからなのか今でも彼に何かを語りかけようとするときはいささか緊張する。呪術師として恐れているわけではないが、常にゆったりと話す彼はまるで俗世から隔離された神秘的なもののような、穢してはならない領域に住まう者のようで近寄りがたいのだ。それに顔が隠れてしまっていて表情がまったく見えないから考えがまるで判断つかず、どう接すればよいのか掴めずにいるせいかもしれない。
 前に一度、何故そんなにもガルディアスに尽くしてくれたのか聞いたことがある。普通の王族であるよりも厄介な宿命を背負ったガルディアスを守るのは容易ではないはず。ガルディアスは深く暁月の君に感謝するようになったが、国を担う役目は兄であって、弟である自分は王族であっても大した権限もない。恩を売りつけたとしても何にもならないのに、暁月の君はガルディアスになにかあればすぐに駆けつけてくれた。
 その理由が知りたかった。だから、兄が即位したあの日、彼に尋ねたのだ。
 ――それは、あなたさまが、あなたさまであったからです。
 いつものように淡々と、ただそれだけを答えて暁月の君は帰ってしまった。どういう意味か聞き返すこともできず結局のところよくわからないままだ。
 暁月の君が残した言葉を考え抜いた結果、赤月の民の血を引く者同士として、親近感でも湧いてくれているのではないか、ということで無理矢理落ち着かせた。赤月の民は呪術師が輩出される一族だからこそ、偏見と差別によって苦しめられてきた者たちでもある。だからこそ彼らの結束は強いのだという。はっきりと暁月の君から仲間意識があるからと言われたことがないが、そうであるならば彼が尽くしてくれようとするのも納得だ。
 そんなガルディアスのために動く彼が、未だ正体の知れない男を寄り添わせようとする。
 初めて直人を見せたその時から、暁月の君はずっと直人を気にかけているようだった。そして、ガルディアス自身も気にかけるようにと言うほどに。
 
「……暁月の君よ」
「なんでしょう」
「慈しむとはなんだろう」
 
 暁月の君はガルディアスを見るように頭を上げた。
 
「あなたはわたしに言ったな。あれを――彼を、慈しめと。そしてわたしの素直な心を注げと」
 
 当時はまだ名前もわかっていなかった直人の処遇を決める際、暁月の君から願い出た言葉だった。直人はガルディアスの敵でも味方でもなく、まださだめは示されていないからと、やや遠回しながらも大切にしろと言ったのだ。
 
「窮屈な思いはさせているだろうが、人道的に保護しているつもりだ。しかし、慈しむことができているかわからない」
 
 得体の知れない者に対しては高待遇で面倒をみているはずだ。十分な衣食住を提供した上で、中庭に興味がありそうなので気まぐれながらに花もやっている。息抜きに差し入れも用意している。ガルディアスがそうしたいと思ったから、周囲の目が止めたがっていることを知りながらも自ら部屋に足を運んだ。
 だが、すべてがガルディアスが望んだことだ。直人から話が聞けないことをいいことに、彼の意見は一切とりいれてはいない。言葉がわからなくても帰りたがっていることも、外に出たがっていることもわかっている。だが自由にはしてやれないから閉じ込めたままだ。
 それは、慈しんでいるといえることなのだろうか。もし自分が直人の立場であったなら、現状を受け入れていただろうか。それとも狭い部屋に押し込んだ相手を恨んでいただろうか。考えれば考えるほどわからなくなる。
 
「陛下。もしあなたさまの目の前に、傷ついた小鳥がいたとして、どうなさいますか。治療して、再び飛び立てるように尽力なさいますか? それとも、苦しみが続かないように首を手折ってやりますか?」
 
 唐突な質問にガルディアスは考え込んだ。
 小鳥の望む通りにしてやることが一番だろう。生きたいならば生かそうとするだろうし、死を望むのであればそれを叶えてやろう。しかし小鳥の言葉を理解することはできない。
 怪我をしたのが羽だったら? 飛べなくなった小鳥はそれでも地上で生きたいと思うのだろうか。飛びたいと思うのに飛び立てぬ苦しみに苛まれるのだろうか。
 もし、傷ついた小鳥がここにいたら。自分はどうする。拾い上げて、怪我の具合を確かめて、それから?
 ガルディアスが答えに至る前に、先に暁月の君が言った。
 
「そのどちらもが、慈愛であり、慈悲であるのです。慈しむとはあなたさまの優しさを与えるということ。あたたさまの御心を注ぐこと。手段は人それぞれなのです。その結果がどうであれ、一方的で身勝手なものであれ、あなたさまが小鳥を思って行動した優しさに変わりはありません」
 
 暁月の君は祈るように両手を合わせて指を組む。
 
「わたくしからはお答えできるのはひとつだけ。ただ、あなたさまの御心にお従いください」
 
 身体に巻きついた金糸のような細い鎖が重なりあって、しゃらりと鳴る。それは暁月の君の口から零れるもののように小さな音だったが、ガルディアスの胸の奥にまでしみるよう響いた。
 
 

 
 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
 
 

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