無乳さま

『きみのこころ』の同人誌を作るにあたって、校正のお手伝いをしてくださった無乳さまへのお礼の作品になります。

リクエスト内容は、人外美形×嫌われ裏有平凡の切ない→甘いで、さらに条件を指定していただき攻は吸血鬼、文体は一人称とさせていただきました。
今回はツンデレ?風×クール(もどきの卑屈)です


 

【なみだの約束】

 夜の闇が訪れた世界。屋内を照らすのは火が灯る蝋燭のぼんやりとした柔らかい明かりだけ。本来ならばそんなもの必要としないだろうに、人間に寄り添う生活を続けている結果、習慣となってしまったのだろう。
 そして人間のために今もまた閉ざしていた窓を彼は開け放ち、光源となる月明かりが部屋に招かれる。きっと、自分の行動を意識していないのだろう。そうでなければ窓が開けられることはなかったし、なによりあんな顔をしていないのだから。
 垂れ幕をまとめ振り返った彼と目が合う。暗がりの中でも異様にはっきりと見える、濡れたように光って見える金の瞳。人ならざる者の象徴をきつく細め、外に向ける直前に見せたもののようにおれを睨んだ。
 恐ろしく、美しい男だ。陶器のように滑らかな肌は白く闇を寄せ付けず、切れ長の目を縁取るまつ毛は長く、そこに冷たい色が滲んでいなければまるで人形のようだったろう。すうっと通った鼻筋の下、薄い唇は今にもへの字に曲がってしまいそうだったが、もしもそれが弧を描いたとするならば。きっと、それを見た誰もが心を捕らわれてしまうに違いない。
 うなじにひとつに結ばれた長い銀髪が揺れる。身体をこちらに向けた彼は凜と背筋を伸ばしたまま堂々と歩みを進め、部屋の中央に置かれた赤い革張りの椅子に腰かける。長い足を組み、机上に置かれ注いであった盃を手に取り、それを一口ばかり口に含む。
 深い息をしながら机に戻すと、肘掛けに凭れるように再度おれに目を向けた。


「それで。もう女はいないと言うのか」
「先程述べた通りです。該当する女は皆、一度はヴァイレさまのお傍に寄らせていただきました。残るは村を去った者、もしくはもはや死人となった者だけです」

 ただでさえ不機嫌そうにしている美丈夫の眉間に、ついに皺が刻まれた。

「嘘をついてはいまいな。誰一人として漏らしていないか」

 その表情すら彫刻のように絵になると見惚れながら、それを露にも滲ませぬよう気を引き締めて頷く。
 射抜くようにおれを見据えていた視線は逸らされ、代わりに部屋のどこでもない場所をヴァイレさまは眺める。その瞳に見えているものはきっと、内装などではなく、己の心中なのだろう。

「村を去った女たちに連絡致しましょうか?」
「――……彼女たちが、亡くなった者も含め、使用していた道具が家に残っていれば、それを持って来い。道具が残っていない者は出来る限り呼び戻せ」
「わかりました。それでは申し訳ありませんが、しばしお時間を頂きます。その間にヴァイレさまのお世話はおれがさせていただきます」
「……なに?」

 ただでさえ疲れたように暗かった声音に、明らかな険が入る。逸らされていた瞳が再度向けられ、おれは満月のようなそれに捕らわれそうになった。

「申し遅れました。おれはユエンと申します。今後はよろしくお願いいたします」

 頭を下げるも、眼光のような鋭く冷たい声が耳を突く。

「名などどうでもいい。世話は必要ない。道具だけ持って来い」
「長からの命です。これまで彼女たちがしてきたこと、そして道具の運搬もおれの仕事になります」
「道具だけ持って来い」
「ヴァイレさまのお世話も含めた仕事になります。果たせなければ長に何と言われることか」
「……ならば好きにしろ。だが、余計なことは決してするな。何かひとつでも妙な真似をしてみろ、即刻この屋敷への立ち入りを禁じてやる」

 了承の意味を込め、さらに深くこうべを垂れる。きっと、ヴァイレさまは今迷惑そうな顔をしているのだろう。
 おれがヴァイレさまの身の回りのお世話をするのは、誰にしろ、まだ彼に面会したことのない女性が村に戻ってくるまでだ。一番近い町に出た女性で、帰ってくるには早くて五日はかかる。その日が来たならばその女性が世話を引き継ぎ、そして道具を持ってきたとしても彼女に渡すことになるのだろう。そうすればもうヴァイレさまにお会いすることはない。
 ただでさえ日中は引きこもっている方だ。かといって夜も出歩いているとも言えないが、少なくともまた何かない限り顔を合わせることはない。最後に見たのは今から半年ほどまえだったか。それだってその時世話係をしていた女性が風邪をこじらせ寝込んでいるということを伝えに来ただけで、用件を済ませばすぐに森の深くのこの屋敷に帰っていった。そのとき仕事で村から離れていたおれは話を聞いて慌てて戻ってきたものの、見かけたのはほんの一瞬だった。それも銀髪の流れが揺れる後ろ姿だけ。

「――そういえば、“お食事”はどうしましょうか? 気に入っている方がいるのであれば、その者を連れて参りますが」

 頭を上げれば、ヴァイレさまはまるで不貞腐れたようにまた何もない方を見つめていた。
 一度ちらりとおれに目を向けるも、眉間のしわは刻まれたままだ。

「いらん。喰わずとも生きていける。それよりも出ていけ。おまえはくさい」
「……普段は、花の油を採取していますから。匂いがついているのでしょう。おれは屋敷に通いで越させていただくので、本日は失礼させていただきます。明日の昼頃にまたお伺いさせていただきます」

 もう返事はなかった。目を向けられることもないまま、一礼し、もう一度挨拶をしてから部屋を出ていく。
 廊下に灯された蝋燭の火が、おれが通り過ぎる度一本一本消えていく。誰がいるわけでもなく、自ら。
 早く帰れと追い立てられているようだ。いや、実際そうなのだろう。誰の目から見てもわかるほどにヴァイレさまは酷くいらだっていらっしゃったのだから。

 

 

 

 重たくなる足を無理矢理動かし、速度を緩めることなく大きな扉から屋敷の外に出る。そこでようやく止まり、空を見上げた。
 視線の先には猫が引っ掻いた爪痕のような細い三日月が浮かんでいる。あれが満月になる頃まで傍にいるは出来ないが、毎日夜を照らす美しい黄金を眺められたのだから贅沢は言わない。むしろ今日のことだけでも、おれには身に余るほどの幸福なんだから。
 後ろでばさりと何かが飛び立つ。振り返っても何も見えなかったが、何が飛んだかはわかっている。恐らく蝙蝠たちだろう。
 そういえばここから村に帰るとき、蝙蝠に見送られたと村の女性たちは言っていた。これもまたヴァイレさまの身に染みた習慣のようなものなんだろう。
 ヴァイレさまはそれだけ多くの女性を屋敷に招き、そして見送ってきた。だからたとえ呼ばれていないおれのような男相手でも慈悲を見せてくれるのだろう。きっと、あまり意識なされていないだろうが。
 もしくは監視。妙な真似をやらしないようにと。
 そんな自嘲を胸に抱きながら、離れて聞こえる羽ばたきを耳に帰路に就いた。

 

 


 森の屋敷に住まうヴァイレさまは、以前村が野盗に襲われたとき、その窮地から救ってくれた恩人である。
 彼は豊かとは言えない村から謝礼金を受け取らない代わりにひとつの条件を出した。

『七日に一度、十五歳から二十五歳までの未婚の女を屋敷に寄越せ。わたしが望むのはそれだけだ』

 はじめ村人はその申し出に恐怖した。それもそうだろう。男である彼が望んだのが村の女性。つまりは、そういうことなのだと。数十人いた野盗の群れをたった一人で蹴散らしてしまったヴァイレさまに首を振ることなどできるわけもなく、村はどちらにせよ助かる運命にはなかったのだと誰しも絶望した。
 しかし皆の顔に浮かぶ色を見たヴァイレさまは、おれたちの内心を悟り首を振ったのだった。

『血を分けてもらい、七日間わたしの世話と屋敷の手入れを頼むだけだ。無体なことをするつもりはない』

 その言葉に今度は誰もが安堵したと同時に、皆首を傾げたものだ。当時を思い出しても、ん? とそのとき一度記憶を遡った者はおれ以外いなかっただろう。
 村人たちは、世話に手入れにならば理解できたが、血をわけてもらう、というそれがどうもわからなかったんだ。
 もしもあの夜、ヴァイレさまが姿を偽っていらっしゃらなかったのであれば、その台詞に誰かぴんとくる者もいたかもしれない。だが当時ヴァイレさまは本来の銀髪金眼を黒髪黒眼に変えてしまっていた。恐ろしく美しい容姿と野盗を追い返せる腕前は人ならざる者を感じさせたが、一見はそれでも人間に見えていたのだ。
 本来はひとつにまとめられた闇を跳ねる銀髪に、異形を示す金色の瞳。そして成人男子を片腕で持ち上げられるほどの膂力に、纏うどこか研ぎ澄まされた雰囲気を持ち。肩にとまる一羽の蝙蝠に、話す際に時折見え隠れする鋭い歯――そして求めるは女の血。
 野盗が残した喧騒が消え失せようやく本来の姿に戻ったヴァイレさまは、その変化に唖然とする村人に、なんてことないように自身の正体を明かした。
 わたしは夜を生きる者、吸血鬼なのだ――と。
 ……まあつまりはそういうわけだ。吸血鬼であるから血を欲し、野盗を一人で追い払うだけの力も持っている。それどころか手を使わずして蝋燭に火を灯すこともできるし、その身を蝙蝠に変えてしまうことだって、髪や瞳の色を染めてしまうことだって出来てしまうのだ。人に限りなく近しい姿を持っておられたとしても、その内はまさに人間とは一線を引いた高潔な血筋の方である。
 ヴァイレさまは村の近くの森にいつの間にか新しいはずなのに古めかしいという不思議な洋館を建て、そこで暮らすようになった。そして村に求めた条件の通り屋敷に七日に一度女性が向い、七日間を過ごせば次の者と交替し、それを繰り返した。
 説明通り、村の女性は誰一人として無体なことをされることはなかった。血を吸うと言っても伝承のように首筋にがぶりというわけでなく、ただ指先にちょんと傷をつけぷっくり浮いた血の玉をヴァイレさまが指で掬って舐める程度だという。その程度の傷であるから数日で治るし痕だって残らない。
 初日に血を捧げ、その後は屋敷に尽くす。その間にヴァイレさまと時折話をして、時がくれば村に戻ってくる。もしもヴァイレさまと相性が悪かったり、体調を崩したり、何かしらの用事があるときは引き留められることなく、七日間の途中であっても帰ることが許されていた。
 たった七日のことであるし、血を取られるといっても一滴だし、ヴァイレさまは紳士的であるし。野蛮なことはされず、屋敷では村暮らしでは到底味わえないような、どこから採ってきたのかわからない材料が調理された美味な食事もつくと言う。屋敷の手入れといってもほとんど掃除だけだし、そもそもそれほど汚れてはいないし、随分と楽な仕事である。さらには世話をする相手はこの世の者とは思えない美丈夫であり、未婚である女性たちは色めきだち、初めこそ不審に遠巻きしていた彼女たちだが、二三人先に行った女性が帰ってきて興奮気味に感想を伝えれば次はわたしだと野獣のように目をぎらつかせ、御役目を買って出たものだ。吸血鬼といってもやはり髪色と瞳以外は人間にしか見えないということも抵抗感を薄める理由のひとつになっただろう。
 多くの女性が屋敷に向かい、そして七日後に帰ってきた。だが誰一人としてもう一度呼ばれることはかった。
 やがて出向ける未婚の女がいなくなると、既婚者でもいいとヴァイレさまはおっしゃった。不貞は決してないと誓い、不安な夫がいれば妻以外の誰かを一人ならばつけていいとまで許されたのだった。
 そして既婚未婚もなく条件にあった女性は皆ヴァイレさまのお世話をしてしまった。その連絡に遣わされたのがおれであり、村の外に出た女性が呼び戻されるまでの繋ぎでもある。
 ヴァイレさまが何故女性を望み、けれども七日で区切って屋敷に招くか誰も知らない。実際ヴァイレさまと触れ合った者もその理由を尋ねても皆はぐらかされたという。だが女の勘というのは侮れず、ヴァイレさまは誰かを探しているのではないか、と彼女たちは噂した。
 年齢を指定したのは、若い女であってほしいから。血を舐めるのはその味を品定めするため。そして七日の期間は、屋敷の手入れはただの口実であり、女性と直に話しをしてその人を知るため――つまり、伴侶を探しておられるのだと。
 もともと色恋沙汰を好む女性は、自分たちがヴァイレさまに選ばれるということは端から夢見ることなく、どこの姫君なら彼のとなりになって謙遜ないかと鼻息荒く語り合っていたのを遠くから見ていたが、こういうときは老いも若きも関係ないものだと心底思った。
 結局のところ真の理由はわからないが、村の恩人であるし、要求は損のあるもののわけでもないし、村長は可能な限りヴァイレさまの望みを叶えるつもりらしい。
 おれに与えられた期間は、女でないからこそ五日程度。女性の到着が遅れればもしかしたらそれよりも伸びるかもしれないし、もしかしたら早まるかもしれない、そんな確定されていないあやふやなものだ。
 だが、それでいい。もし明日もう行けなくなったとしても構わない。昨夜の一時だけでいいんだ。あとはまた時に後ろ姿だけでも見かけられたのなら、もういい。
 そんなことを思いながら、昨夜は月明かりもろくになかった暗い道を、今は日の下で辿っていく。
 腕にはヴァイレさまに頼まれた女性たちの使用していた小道具たちを詰め込んだ袋があり、それを落とさぬよう大事に抱える。
 恐らく今行ってもヴァイレさまには会えないだろう。なぜならあの方は夜を生きる者、太陽は好まぬからだ。
 吸血鬼といえば太陽の下に出れば灰になると言われているが、どうやらヴァイレさまは始祖だのなんだのらしく、陽光に晒されてもなんてことはないらしい。とはいってもこれは女性たちの話していた内容で信憑性は低い。何せ彼が来て長らく経つが、誰も日中外を出歩くヴァイレさまを見たことがないからだ。吸血鬼の始祖だなんて話もあの美貌につけた伝説であるだけのような気もする。
 ヴァイレさまが日中眠っていらっしゃることは間違いない。ならば起こさないようそうっとわかりやすい場所に荷物を置いておくのがいいだろう。どうせ夜にまた来るのだから。
 道すがら、屋敷のどこにおいて置こうかと頭を捻らす。預かったものはどれも大切なものであるため、床に適当において置くことなどできない。そのためにも机がある屋内に足を踏み入らねばならないが、しかしヴァイレさまが眠っているところに訪れていいものなのか。
 昨日の不機嫌そうな彼の姿を思い浮かべていれば、すぐに目的の場所に辿り着いてしまった。
 扉の前でノックしようか散々に悩んだ挙句、その音で起こしてしまっては申し訳がないと、口先で小さく挨拶を呟きながらそろりと扉を開ける。

「随分な来訪だな」
「――っ!」

 そろりと隙間から中を覗くと同時に声をかけられ、そんなことまったく想定もしてなかった身体が大きく跳ねる。反射的に声のした方へ顔を向ければ、そこには先程思い浮かべていたよりもさらに険しいヴァイレさまのお姿があった。

「ヴぁ、ヴァイレ、さま……申し訳ございません。ご就寝中かと、思いまして」
「入るときは必ず何かしら合図をしろ」

 不機嫌を顔にも声にも隠すことなくぴしゃりと言われ、自分が悪いとはいえ思わず背が丸まっていく。
 きっと、寝ていらっしゃったのだろう。伏せ目がちになる視線を持ち上げた先にいるヴァイレさまは、いかにも気だるげに前髪を掻き上げていた。無造作な仕草であるし服装もやや乱れているが、それすらも絵になると現金にも見惚れてしまう。
 普段はひとつに結んでいる髪も、今ばかりは背に拡げられていた。肩にかかっていた一房が落ち、しゃんと音を慣らしそうに美しく揺れる。

「それが昨日言っていたものか」

 声をかけられ、ようやく用件を思い出して慌てて袋を前に出した。だがここで中身を取り出すわけにもいかないと、ヴァイレさまにお伺いを立て、玄関から一番近い部屋に通してもらう。
 部屋にあった机の上に袋から取り出した荷物をひとつひとつ並べていく。個別に包まれたものの中身は様々で、櫛や服といったものだけでなく、当人がかつて使用していた湯のみもあった。壊れ物は特に厳重に布にくるんで欠けないよう注意しているが、個装した理由は他にもあり、それぞれの匂いを混じらせないためだ。
 並べ終え、扉の脇で腕を組み様子を窺っているヴァイレさまに振り返る。

「とりあえず今日は七人分お持ちいたしました。このうちふたつは遺品になるので、遺族から出来れば返却してほしいと願いが出ております。いかがなさいますか?」
「すべて確認を終えたら返す」
「わかりました。明日には確認は終わりますか?」
「これだけならば夜までに終わる」

 あくまで素っ気ない返答を聞きながら、おれは頷いた。

「ではまた夜に来ます」
「明日でいい」
「ひとつ、大きなものがあるのです。一日に一度運んでいたら終わりません」

 深い溜息の後、諦めたようにヴァイレさまは再び夜訪れることを許してくださった。それに内心で安堵する。

「そのときは今回のように出迎いはなさらずともよろしいです」
「出迎えたわけではない」

 じろりと睨むような目に、ただ肩を縮めるしかなかった。
 その言葉は照れ隠しでもなんでもなく、真実であるのだろう。すうっと細められた金の目は、おれを見つめたままとても冷たく光る。
 出迎えなどではなく、おれが妙な真似をしないか見張っている、ということなのだろう。そうでなければわざわざ本来は眠りについている昼に起きだすことなんてなかったはず。
 おれたち人間にとって活動時間である昼間は、けれど吸血鬼であるヴァイレさまにとっては休息の時間。夜こそがヴァイレさまの時間なんだから。
 理解はしていてもしょぼくれそうになる肩をどうにか持ち上げ、胸は張れないまでもしっかりと正面を向く。

「夜、また来ます」
「この部屋より先には入るなよ」
「お掃除させていただきたいのですが……」
「いらん」
「ですが、長からの命です」

 そう告げれば、ヴァイレさまははっきり苦い顔を作った。
 考え込むように目を閉じる。しばらくして深く息を吐くと、片腕を持ち上げ乱雑に後ろ頭を掻いた。それでも銀の髪が揺れ動く姿は美しい。

「ならば最低限に留めろ。その匂い、この屋敷に染みつかせれば即刻追い出す」
「……はい」

 どうやらヴァイレさまは余程おれのまとう花の香りが嫌いらしい。自分ではもう鼻が慣れてわからないが、それでもきっとそれほどまでに嫌がられるほど香りはしないはず。ヴァイレさまの鼻が有能過ぎるのだろう。
 だが、それほどまでに嫌いな香りを纏うおれを、長の命に動いているからと立ち入ることを許してくださった。あからさまな顔を晒してまでだ。
 窺えるその優しさに、複雑な思いはあれどもつい顔を綻ばせそうになる。それをどうにか堪えて、一礼して部屋から立ち去った。

 

 

 

 日が沈み月夜の時間になって訪れたヴァイレさまの屋敷に入れば、早々につぶらな一対の目の視線を合わせた。
 逆さになる彼はじっとおれを見つめていて、なるほど監視役かと納得した上で小さな姿に頭を下げる。この一羽の蝙蝠が、ヴァイレさまに代わる監視役なのだろう。ならば今夜はもうヴァイレさまが姿を現すこともないということだ。
 ヴァイレさまの代わりとなるのだからと、たとえ蝙蝠相手としても礼儀を尽くしたうえで、昼に通された部屋に荷物を運び入れる。
 机の端には、昼に取り出した女性たちの道具が包まれ直された状態で置かれていた。確認を終えたということなのだろう。
 開いている中心にそっと抱えてきたものを下す。ようやく重荷から解放された腕を振っていると、出迎えた蝙蝠が中へと入ってきた。
 机の上に降り立った彼に念のため説明をする。

「こちらの化粧台が今回の遺品となるものになります」

 今日は一つだけだから他のものと匂いが交わることもないと、ぐるぐるに巻きつけていた大判の布を取り払い、その姿を見せる。蝙蝠は豆粒のような目でじっとそれを見つめていた。
 手にした布を折り畳み傍らに置き、先にヴァイレさまが一度目を通したものたちを鞄にしまう。それを机の上に改めて置いて、ようやく腕を捲ることができた。

「ではお掃除をさせていただきます」

 部屋から出ていこうとしても蝙蝠は止めることなく、ただ後をついてくる。監視の目を感じながら、屋敷にあらかじめ置かれている掃除用具を持ち出し、廊下の床磨きから始めることにした。
 屋敷はとても広い。掃除をするといっても一晩中かけるわけにもいかず、ましてやおれ一人だ。到底今晩の内にすべてを回りきることなどできず、結局一階の三分の二の掃除を終えたところで今日は仕舞とすることにした。続きはまた明日だ。
 それを蝙蝠に伝え、道具を片付ける。部屋に戻り荷物の入った鞄を背負い、屋敷を後にした。
 その夜、ヴァイレさまにお会いすることは一度もなかった。 

 

 

 

 ヴァイレさまのもとを訪れて四日目になる。初めて道具を持ってきて以降昼に顔を出したことはなく、夜に来るようにしている。そのときに荷物を運び、そして掃除をして帰ることを繰り返していた。
 今夜も蝙蝠の監視のもと二階の階段周りの部屋を綺麗にし、後は帰るつもりで水の入った桶を片手に持とうとしたところで、手を滑らせて中身をぶちまけてしまった。
 せっかく拭き終えた床も、一瞬にして水が広まっていく。急いで桶を起こして手巾で水気を拭き取っていった。たっぷりと入れていた水を戻し終えるのにはなかなかに骨が折れ、ようやく終わった頃には直接床につけていた膝が痛んだ。
 大きく息を吐きながら立ちあがり、今度こそしっかりと片手に桶を、もう片方にほうきを持つ。
 歩き出そうとしたとき、開けっ放しにしていた扉の枠にぶら下がっていた蝙蝠が肩にやってくる。昨夜あたりからそこにくるようになった小さな姿に一度目を向けてからようやく足を踏み出す。
 階段を下りもう二三段で一階に辿り着く、というところで、うっかり足を踏み外してしまった。

「――ぁ」

 微かに上がった自分の声はよく聞こえなかった。ただ一気に目前に迫る床に息を止め、手にしていた桶など放り出して腕を前にやって身体を小さくする。それでも訪れるであろう逃げようのない衝撃を覚悟すれば、腕よりも顔よりも、腹がぐっと押された圧迫感に呻く。
 吃驚して目を開けると、目の前に床があった。鼻先が今にもつきそうで、結んでいたはずの髪が解け、肩につくくらいのそれが床に垂れ弧を描いている。
 ごくん、と生唾を飲み込んだ瞬間、腹の圧迫感は消え、そしておれはそのまま床と額をぶつけ合った。
 ごんっと鈍い音が仄暗い屋敷に響き渡る。

「ったた……」

 額を擦りながら起き上がれば溜息が聞こえ、慌てて振り返ればそこにはヴァイレさまがいらっしゃった。
 階段を一段上がった高い位置からおれを見下ろし、呆れた視線を向けている。その肩には直前までおれの肩にいた蝙蝠が身を置いていた。

「おまえは掃除にしに来たのではないのか」
「あ……いえ、掃除に。申し訳ありません」

 冷たい眼差しを受け止めながら立ち上がり、埃が付いているわけではないが膝を払う。打ち付けた額や膝は多少痛んだが、時間を置けば痣にもならないだろう。
 顔を上げれば、おれが見事に床にぶちまけた水をヴァイレさまは見ていた。

「――その、助けていただき、ありがとうございました」

 返事はない。だがそれでもおれは深く腰を折り曲げ、頭を下げた。
 自分が階段を踏み外し顔面から床に落ちそうになったあのとき、ヴァイレさまが腹に腕を回し助けてくれたんだ。実際見たわけでないし、それどころでなかったけれど、これまでいなかったヴァイレさまの存在に、助かった自分自身に、あのときの腹の痛みを思い出せればそれしか答えはない。だから確証はないが確信を持ち、再び感謝の言葉を口にした。
 蝙蝠の目を通し見ていられたのだろうか。それとも偶然通りかかったのだろうか。なんにせよ身体を強打することを免れたのは助かった。変に怪我をしてしまえば仕事に支障が出る。ただでさえ男手が少なく頼りにされている仕事場で使い物にならなくなるのは避けたかったのだ。

「これ以上屋敷を荒らす前にもう帰れ」
「はい。掃除に終わったので、この場の片づけをしたならば帰ります」

 頭をあげると、なんだか複雑げに片眉をしかめるヴァイレさまがいた。何か変な態度をとったかと不安になったが、おれは頭を下げていただけだ。理由もあるし、何もおかしなことはしていないはず。
 気まずさを感じながらも、とにかく再度水びだしにしてしまった床をどうにかしなければ先へは進まないとしゃがみ込み、一緒に放り出されていた布をとって起こした桶のなかに水気を絞っていく。
 上から降り注ぐ視線を感じながらも二度目となる後片付けをどうにか終えた。
 道具を手に持ち身体を伸ばしたところで振り返る。

「あの……それでは、今日は失礼します」

 ろくに顔を見ることなく向きを変え一歩踏み出す。が、二歩目を出す前に腹に腕が回った。
 ぐいっと後ろに引き寄せられ、咄嗟に手にしていた道具たちを強く握って脇を締める。足が宙に浮き、転んだ時のように腹に圧迫がかかった。だがそれも一瞬のことで、すぐに足裏は一段だけ高くなった場所に立つ。

「――っ」

 背後からまるでおれを取り囲むよう、輝く銀髪が舞った。それにすべてを悟る。そして同時に混乱する。
 ヴァイレさまに抱き寄せられたのだ。だが、何故。理由がわからず、ただただ息を呑む。
 不意に顔の横に気配を感じ目を向ければ、そこにはヴァイレさまの顔があった。おれの首元に鼻先を寄せ、すんと匂いを嗅がれる。それに、ぎくりと無意識に身体は強張った。

「――……この匂い……」

 呟く声とともに、僅かに腹に回された腕の拘束が緩む。その隙に強引に前に出たおれはヴァイレさまの腕から逃れ、声も上げられないままその場から逃げ去った。

 

 

 

 早朝から花の油の採取の仕事をし、日が暮れてからそちらを止めてヴァイレさまの屋敷に向かう。そして荷物を運び入れ、広い屋敷の手入れをし、整えて。それから家に帰って眠るが、当然その頃にはとっくに日付が変わっている。だが次の日も仕事のために朝日が昇るとともに起床して、働いて、また夜にはヴァイレさまの屋敷に――
 そんな生活をすれば、そりゃふらふらにもなってしまうだろう。自分でも無茶をしている自覚はあったが、おかけで昨夜はヴァイレさまの前で失態を犯してしまった。
 水をぶちまけたくらいでお怒りになるような方ではないとは思うが、真面目に掃除をする気力がないと思われてしまっては困る。ヴァイレさまの屋敷に向かうために日々頑張っていたと言うのに、これでは本末転倒だ。
 自分から無理を言ってヴァイレさまのもとに訪れる権利をもらったのだから、本来の仕事とて蔑ろにするわけにいかないと思っていた。だから花の仕事も休みをもらわなかったし、夜も通い続けた。若いしなんとかなると思っていたが、しかし実際は寝不足になり、花の仕事も、ヴァイレさまのお屋敷の仕事もどちらも半端な状況になってしまっているだろう。
 結局おれは上司に頼み、花の仕事を二日ばかり休むことにした。もうじき村を出ていた女の人たちが集まり出す頃でもあるし、おれがヴァイレさまのお屋敷に通う時間ももうその程度しか残っていない。だからそちらに集中させてもらうことにしたのだ。
 失態を犯した次の日、朝一番に休みをもらったその後はひたすらに眠りこけた。自分が思っているよりも疲れていたらしく、夜まで一度も起きることはなかった。
 起きてすぐにまず身を清め、それから軽く食事を済ませる。家に届けられていた女性たちの道具を鞄に詰めて、それから屋敷を目指した。
 屋敷で出迎えてくれたのはいつもの蝙蝠だ。とはいっても蝙蝠の見分けなどつかないから、本当は別の子なのかもしれないが。
 その子にじっと見つめられながらいつものように掃除を進める。
 もしかしたら途中ヴァイレさまが現れるかもしれない。そう思ったが、最後まであの方が姿を現すことはなかった。
 屋敷を出る間際、一度振り返る。すべての窓に垂れ幕がかかるなか、一カ所だけ。初日にヴァイレさまとお会いしていたあの部屋だけ窓が空いていた。窓辺に人の姿は見えなかったが、恐らくあの場所にいるのだろうと予想する。
 また血のように赤く、芳醇な香りのするワインでも飲まれているのだろうか。
 ここに通った女性の中には、ヴァイレさまとともに酒を飲んだ者もいたという。しかし誰一人として、彼が酔ったところはみたことがないそうだ。なんでもヴァイレさまは酒には酔わず、血に酔うのだとか。なんとも吸血鬼らしい話である。
 美味しい血とはどんなものなんだろう。文献にあるような、柔肌の処女の血だろうか。それとも案外見目も大事で、妖艶の美女のものか。心根優しい女性のものか。浮かぶものは、そんなものばかり。
 歩みをゆっくりと止めて自分の身体を見下ろしてみる。毎日見るそれに変化はなく、これといって特徴のないごく普通の男の肉体があるのみだ。贅沢もないゆとりもない生活では肉もつかず、日々身体を使っているといっても筋肉隆々とは程遠く、けれども柔らかさとも無縁だろう。

「……童貞の血はどうだろうか」

 ぽつりと零した言葉は、ただ自分を惨めにするだけだった。

 

 

 

 今日もきっとヴァイレさまはいらっしゃらないのだろう。
 出迎えられた蝙蝠に挨拶をし、そう思いながらまずいつもの部屋に行けば、そこにはいないと予想していた麗人の姿があった。
 窓辺にいた彼は振り返り、すうっとその黄金の目をおれに向ける。しばらく呆けたようにそれを見詰め、やがてようやく我を取り戻した。

「あっ……お邪魔、しております。今日もよろしくお願いいたします」

 返事はなく、ただじっと真っ直ぐな視線だけが向けられる。それを居心地悪く感じながらもいつものように今日持ってきたものを並べ、前日運んだ道具を鞄に仕舞う。そしてヴァイレさまに一礼をしてから、掃除道具を取りに部屋を出た。
 歩いてみるが、何故だか視線をまだ感じる。そろりと振り返ってみれば、足音も立てずヴァイレさまが後ろからついてきていた。
 足を止め、身体ごと振り返る。

「何かご用でしょうか?」
「――いや」
「そう、ですか」

 ついに目を逸らされ、戸惑いながらもおれも前に向き直った。
 外から水を汲んでくるときも、二階に上がって掃き掃除をしているときも、水に沈めた布を絞っているときも。いつも姿を現さないはずのヴァイレさまは、何故か今日は傍らからおれの作業を見つめている。時折手を止めて顔を向ければ目を逸らされるため、おれに用件があるというわけでもないのだろうが。
 最後にお会いしたのは、桶をひっくり返してしまったり階段を踏み外してしまったり、寝不足で失敗を重ねた日のことだ。だから、また何かやらかさないか見張っているのだろうか。
 昼間の仕事は今休みをもらっているし、その間にぐっすり眠っているからもう寝不足ではない。意識もすっきりしているし、心配されるようなことはないが、なにひとつ事情を説明していないのだからヴァイレさまが不安に思うのも仕方のない話だろう。
 だが、こうも視線を感じるとやはり動きづらい……。
 かといってどうすることもできず、無言で床を磨いていれば、これまで沈黙を続けていたヴァイレさまからついにお声がかかった。

「おまえは――」
「はい」

 手を止め振り返れば、さっと顔を逸らされる。

「いい、手は止めず答えろ」
「はい」

 再び床に目を落とせば、背中に強い視線が戻ってきた。
 手を左右に動かすおれに、ヴァイレさまはどこか戸惑い気味に言葉をかける。

「おまえ、姉が妹いるか」
「いません。一人です」

 求められた真実を答えれば、ヴァイレさまは沈黙する。ちらりと様子を窺えば、何か考え込むよう下を見ていた。
 しばらくすればまたヴァイレさまから声がかかった。

「今日は、花の匂いはしないのだな」
「はい。初日と昼間に伺った際には仕事の終わりや途中でしたので、時間にゆとりができず身なりを整えている間がなかったのですが、その後はここへ訪れる前に身体を拭うようにしています。今日は花に近寄ってさえいないので、いつもより匂わないのでしょう」

 床を拭いていた手を一旦とめて、汚れた手巾を水で揉み込む。とはいってももともと人気も少なく、手入れが行き届いている屋敷の床だ。大して埃もつかず、すぐに絞ることが出来る。
 軽く畳んだそれを桶の端にひっかけ、もうひとつ用意していたまだ水が澄んでいる桶から別の手巾を取り、それを絞って窓を拭く。
 窓硝子に微かに反射し見えるヴァイレさまの姿に、隠れて胸を高鳴らした。こっそり見ていることなど知らずに、この世を憂いているようにヴァイレさまは遠くをどこか見ていらした。

「忙しいのであれば、この屋敷のことなど変えてもらえばいいだろうに」
「これも仕事のうちですから」

 嘘だ。
 自分の吐いた言葉に、手にした手巾を隠れてぎゅっと握る。
 おれは自ら望み、ここに来た。もう一度ヴァイレさまにお会いしたいと言い募る女性たちを押しのけ、男である自分なら公平だからと周囲を説得までして。
 どうしても、会いたかった。ヴァイレさまに、無理を押し通してもどうしても。せめて一目だけでもと、声をかけてもらえなくてもいいから、気にかけてくれなど望まないから、と。
 思わず口から溢れそうになった秘めた想い。だがそれをここに来る前に必ず繰り返していた誓いで塞ぎ、代わりに別の言葉を声に出す。

「――……おれ、ここに掃除に来るのは最後になります。明日には村を離れていた女たちが帰ってくるので、彼女たちが順にヴァイレさまのお世話をさせていただきます。まだ道具が残っているのでそれを持ち込みに来ますが、もう、この屋敷に足を踏み入れることは、ないです……」
「そうか」

 あっけない一言。惜しむでもないそれは、当然である。もとより花の香りのせいで、あまり好かれていなかったのだから仕方がない。それにヴァイレさまが求めているのは男のおれでなく、女性たちだ。だから引き留められるなど、端からありえないのだとわかっている。
 窓に映るヴァイレさまは、一度としておれをみることはなかった。

 

 

 

 朝からどんよりと曇っているような一日だった。
 日が暮れる頃、予定していた通りに一軒の家を尋ねる。戸を叩けば、すぐに扉は開いた。
 顔を出した彼女ともに互いに頬を緩まし合う。

「――久しぶり」
「本当久しぶりね、ユエン。おっきくなっちゃってまー」
「あんたはちょっと……ふと、ッ」

 言いかけたところに強烈な一発が腹にぶち込まれる。女性の腕力ながらにくの字に曲がり咳き込めば、頭上からは涼しい笑い声がかかった。

「本当、身体ばっかり大きくなったみたいね。そんなんじゃ女の子に嫌われちゃうよ」
「別に、いいし……」
「はあ、相変わらず愛想もないままなのね」

 わざとらしい溜息をつき、彼女はちょっと待っててと言って一度家の中に戻った。それからそう間を置くことなく肩に荷物を担いで戻ってくる。女なのだから手で持ちなさいおしとやかになさいと彼女の母がよくたしなめていたが、どうやら結果は出なかったようだ。
 当然のように持ってきたそれをおれに押し付けそのまま歩き出す。荷物持ちとしてその後におれも続く。

「えっと、ヴァイレさまだっけ。おばちゃんたちがえらい美形なお兄さんって言っていたけれど、そうなの?」
「……まあ、うん。とてもきれいな方だよ」
「ふうん。それでいて、吸血鬼ね。えっと、お酒をよく飲まれるんだっけ」

 四年ぶりに村に帰ってきた三つ年上の幼馴染は、これから自分が世話を担当するヴァイレさまについてのあれやこれをおれに尋ねる。それにひとつひとつ答えながら、屋敷に向かい歩いている途中に出てきた月をそっと見上げた。
 真っ暗な空に浮かぶのは、以前見上げたときと然程変わらない細い三日月。あれからたった五日しか経っていないのだから、太らないのも当然だ。
 おれは、そんな時間しか傍にいられなかった。そしてこれからはまた戻ってきた女性たちが順に、七日毎のヴァイレさまの世話係となる。その一番手はかつておれの家のとなりに住んでいたこの幼馴染だ。彼女のために、ひいてはヴァイレさまが快適に過ごせるように、おれが渡せる限りの情報は伝える。
 もとより親や久方ぶりに会った友人たちに話は聞いているだろう。小さなことを尋ねてくることはあっても、あまり関心がある様子はない。吸血鬼と聞いてまず恐れ、そして美形と聞いて食いついていた女性は多いのだが、彼女は昔から肝が据わっていて、なおかつ地味顔が好きだったことを思い出した。たとえ村の女性たちが騒ぐヴァイレさまのもとに今から向かうと行っても、どちらかといえば面倒とでも思っているかもしれない。
 おれとしても久しぶりに会う幼馴染だ。彼女は始めは義務的に尋ねてきていたヴァイレさまの話題から、次第におれの話へと変えていく。だがおれの意向もあり、話は脱線しながらもヴァイレさまに戻した。
 恐れているような様子はないからこそ、事前に決してぞんざいに扱っていいような方でないことを教え込む必要があるだろう。もし彼女がなんらかの粗相をしたとき、ヴァイレさまは余程のことでない限りお許しになるだろうが、そもそも許される立場の態度が酷ければ温情ある反応がかえってくるわけがないのだ。
 だからこそ、どこかヴァイレさまを軽く見ている風の幼馴染に、ヴァイレさまの成し遂げた偉業を語った。
 突然現れたヴァイレさまが、村を蹂躙しようとやって来た野盗を蹴散らしたあの夜のことだ。あれならばヴァイレさまの素晴らしさだけでなく、吸血鬼としての恐ろしさもともに説明ができるからだ。
 おれの話を聞いた彼女の反応は、期待していたように大きくはならなかった。話しをする前と大して変わった様子もなく、ふーん、と興味なさげに鼻を鳴らす。

「それにしても野盗をたったひとりで追っ払っちゃうだなんて、すごい人ね。もし何かあったら逃げ出せなさそう」
「――ヴァイレさまは酷いことなんてなに一つしないよ。とても綺麗で、とても優しい方なんだから」

 恐ろしさを伝えるつもり……だったはずだが、やはり実際そう思われている言葉が出されると反論してしまう。
 あの夜、月明かりに銀髪を輝かすヴァイレさまを思いだし、しみじみ伝えた。

「まあみんなそう言うんだよね。でも男でそんなにヴァイレさまに肩入れしているの、あんたくらいなんだって?」
「まあ、女の人ばっかりと関わってるからな」

 そう答えれば彼女は笑い声を上げた。湿っているわけではないそれはヴァイレさまをどう思っているのか十分わかるが、多分、どちらかといえばおれの反応に対するものなのだろう。
 おれにでなくヴァイレさまに興味を抱いてほしいのに、彼女はどうも気が乗らないままらしい。それも仕方がないのかもしれない。彼女には溺愛してやまない夫がいるのだから。今回は村長に直々に頼まれ仕方なく七日ばかりの苦行、というものに耐えるつもりなのだろう。
 既婚未婚問わずであるから彼女も来ざるをえなかったらしいが、こんなことでもない限り滅多に実家に帰ってこないのだからいい機会だったと明るい笑顔で笑う。

「ねえ、そういえばユエン。あんた昔、月の精のような男に――」

 彼女の言葉は、村の方角から甲高く放たれた鐘の音によって遮られた。
 かんかんと、二連続に叩いた音が四回。お互いそれがどういう意味を成すのか知るおれたちは、互いに驚愕の表情を作り顔を見合わせた。
 口を閉ざし、耳を澄ます。すると遠くで微かに男たちの怒号のような声らしきものが聞こえた。それよりも大きな家畜の鳴き声も。

「ユエンっ! あれは……!」

 目を閉じ音を探っていたおれは腕を引かれ、咄嗟に顔を上げ夜空を睨む。
 黒く染まったそこに、薄らとした煙が立ち上っていた。
 声も、その煙も、おれたちがゆったり歩いてきた村の方角からだ。
 おれは持っていた荷物と松明を、本来の持ち主に押し付けた。

「ヴァイレさまの屋敷まで走れ! そうしたらヴァイレさまの結界が守ってくださる。絶対に屋敷から出るな!」
「ユエンはどうするの!?」
「村に戻る!」

 即座に答えれば、彼女は掴んだおれの腕に込める指先の力を強めて首を振った。

「駄目、危ない! あんたも一緒に屋敷へ行きましょう。村に行くより近い!」

 さっきまで浮かべていた笑顔はすっかり消え去り、暗がりでもわかるほどに蒼くなる彼女の顔。いや、単におれにそう見えているだけなのかもしれにないが、その顔にはくっきりと焦りと戸惑いが浮かんでいる。そして、純粋におれの身を案じてくれていることも窺えた。
 腕を掴む手を、そっと剥がさせる。籠っていた力強さとは裏腹に、彼女はすんなり手を放した。

「ユエン……」 
「大丈夫。すぐにヴァイレさまも駆けつける。もしかしたらおれよりも早くな。だから、大丈夫」

 先程の警鐘は村人たちに危険を知らせるのは勿論のこと、屋敷にいらっしゃるヴァイレさまに向けてのものでもある。ならばきっと、音を聞いたヴァイレさまは村にいらっしゃる。
 それは確信だ。だからおれの心に彼女のような焦りもないし、不安だってない。ヴァイレさまがいらっしゃる。それだけで、おれの心は鼓舞されるのだから。
 それでもすがるような目を向ける彼女に、にっと歯を見せ笑う。その後の顔を見ないまま、おれは踵返し村へ駆けた。

 

 

 

 鳴った警鐘の意味は、“侵入者アリ”。つまり、村を襲う何者かが訪れたということだ。滅多に鳴らないその合図だが、おれは過去に一度聞いたことがある。村が野盗に襲われ、そしてヴァイレさまに救われたあの夜だ。
 懸命に暗い夜道を駆け、村を目指す。距離が詰まっていくほどに騒がしい音とものが焼ける匂いがした。視線の先はほのかに赤くなっている場所がある。村の中心部だ。恐らく家に火をつけられたのだろう。
 早く消化せねば家々に飛び火する。それだけでなく森にまで移ってしまうかもしれない。そうなってしまえば村の再建どころの話ではなくなってしまう。
 ただでさえ急がせていた足は既に疲れていたが、それでも身体に鞭打ち少しでも早く村に強く回し続ける。
 やがて、村の端が見え、その奥で鍬を持った寝着の村人と、裾が解れ、何日も洗ってないかのように汚れた襤褸の服で剣を持っている男が対峙していた。男は頭に赤い頭巾を巻いている。
 おれはどちらにも気づかれぬうちに一旦背丈の低い木の影に身を顰め、地面に目を配らす。手を伸ばせば届く場所にある小枝を見つけ掴んだ。
 もう一度二人を見れば、見知った村人は鍬で剣に応戦していた。互いの表情は剣呑で、侵入者と村人との気迫に違いはない。たとえ剣を持っていたとしてもむしろ男は鍬の振り被られる勢いに押され気味だった。
 木陰から飛び出し、手にした小枝を男の頭目がけ投げつけた。

「っ誰だ!?」

 所詮はそこらに落ちていた軽い小枝。大した痛みなど与えられるわけもないが、おれという第三者の存在に気付かせるには十分だった。
 それまで前に集中していた男は頭に当たった感触に咄嗟に振り返ると同時に、今度こそその頭上から鍬の峰うちもどきを食らい、ぱったり倒れてしまった。
 鍬を下した村人とともに伸びる男に駆けより、顔を覗き込む。

「――しんでねえよな?」
「たぶん……? まあ、気絶しているだけだろう」

 必死な状態から解放された彼は、不安げに男を見下ろす。
 男の赤い布を被った頭は変形していないから、恐らく大丈夫だろう。
 近くの家の壁につるされていた縄で、気を失った男をきつく縛り上げ、その家の中に押し込んだ。中にはいかにも肝っ玉が据わった女が、恐らく子供であろう息子を抱きしめかたい表情をしていた。彼女に事情を説明し捕まえておいてくれと頼めば、快く承諾してくれる。
 家から出て、改めて鍬を担いだ仲間と向かい合った。

「なあ、こいつらってもしかして」
「ああ。前回の残党だろうよ。何人かがあの時の雪辱を果たしてやるーって言ってたしな」
「頭は捕えたし、幹部もほとんどヴァイレさまが捕まえていたから、もう下っ端しか残っていなかったと思ったんだけどな」

 そして盗賊頭は各地で悪さをしていたこともあり、すぐに王国に引き渡してしまっている。逃げ出したという話も聞いていないし、今回の襲撃の際に姿を見ていないと彼も言っているし、やはり前回の捕まえきれなかった野盗の残党が今回村を襲っているのだろう。

「ヴァイレさまはまだ?」
「ああ、だがもうじき現れるだろうよ。それまでおれたちで持ちこたえるんだ。相手は武器を持っているがそれほど数は多くないし、統率者もいないみたいだし、むしろヴァイレさまのお手を煩わせる必要もないかもな」
「とりあえず他に加勢しよう。おれは西を見てくる」
「それならおれは北に行くとするか」

 おれたちが話し合っている最中も、見知った声と知らぬ声の雄たけびが聞こえる。皆家を守っているんだろう。
 彼との別れ際に火を纏った矢が一軒の家に当たったらしいが、それ以外はどれも外れて被害は少ないと教えてもらった。その家までは詳しくはわからないらしいが、他に火が移る心配はないという情報が回っているそうで、その点には安堵する。
 男からもうひとつの鍬を借り、互いに気をつけてと声を掛け合い別れた。
 すぐに住宅が密集する西に走る。そうすればすぐに二人の人相の悪い男に追い詰められた丸腰の三人の知った顔を見つけた。一人が怪我を負わされているらしく、濡れる左肩を押さえている。それを庇うようにふたりの男が前にたちはだかるが、なにせ何も身を守るものを持っていないのだから、二人の野党の表情は追い詰められた鼠をいたぶる猫のようだった。
 周囲に他に人がいないことを確認し、前ばかりに夢中になっている男たちの背後にそっと周り込む。そして、今にも剣を奮いそうな特に血の気の多そうな片方目がけ、鍬を振り下ろした。
 男は短いうめき声を上げかたまる村人たちの方に倒れ込む。鍬を裏返して棒の部分で打ったため、先程の男のように死に至るほどの致命傷にはならないはずだ。
 もう一人の野党がすぐさま振り向き反撃してきた。おれは彼に背を向け、慌てて駆ける。それを男は当然のように追ってきた。

「待てこのやろう!」

 傍らで仲間が倒されたことに憤っているのだろう。不意を突かれたこともあるのかもしれない。
 男は誰かの血に濡れた剣を振りまわす。先程の村人の肩を抉ったのはあれなのだろうか。それとも、誰か、他にも。
 傷を負ったあの人から男を引き離すつもりで走って逃げてはみたものの、どうやら他の野盗にも見つかってしまい、今度はおれが追い詰められる。近くで仲間の村人がいたが、彼らも応戦中で、おれに気づいていても助けてもらえそうにはない。歯がゆそうな視線が何度も向けられ、その表情には焦りが滲んでる。おれよりもよほどおれの危機を悟っている顔だった。

「こいつ、どうしてくれようか」
「さっさと殺しちまって次行こうぜ。こいつらみんなして歯向かってきやがって埒が明かねえ。早く終わらしちまおう」

 みんな必死に抵抗しているのだろう。この村には狩猟や田畑を耕すための道具ばかりしかないが、それを手に武器を持った野盗と対峙している。それも当然だ。自分たちの場所を守るための戦いなのだから。だが、おれたちの勇気を支えるのはそれだけではない。
 前回の奇襲ではまともに抵抗すらできなかった。剣を相手に腰が引け、女子供ばかりでなく男だって震え上がっていた。それにその時には頭となる男がいたし、人もいた。今回のように敵がばらけて攻撃を仕掛けてきていることはなく、大勢に攻め寄られ村は赤い頭の集団にどんどん飲み込まれていった。人も、多く亡くなった。
 村は絶対絶命だった。自分たちだけではどうしようもなかったのだ。それまで周りに野盗が出たと言う話もなく、平穏だったがために油断していたのもあった。だからこそ覚悟も耐性も準備も、何もかもが無く、ただ村が踏み荒らされるのを、傷つけられるのを見ているしかなかったのだ。だが、ヴァイレさまが駆けつけてくれた。
 ヴァイレさまはたったおひとりで野盗全員を相手にし、そして主犯格と中心にいる人物を次々に倒し拘束して、向こうの統率を乱し、恐怖を与えていった。野盗はやがて散り散りになり村は救われたのだった。
 村は助かり、それから有事の際に備えての対策をきちんと練っておくことにしたのだ。時折村の男たちは剣を扱わないまでも農具等での戦闘を見よう見まねとは言え訓練してみたり、女たちは家の中に賊を入れない術を考えた。そうして、自ら鍛えていったのだ。
 だがおれたちを支えているのはこれまでの経験だけではない。何よりも、ヴァイレさまの存在あってだ。また何かあればヴァイレさまは助けてくださるとおっしゃった。事実一度は助けてくださった恩人であるし、その実力はだれもが知るところ。ヴァイレさまという後ろ盾の存在に励まされ、だからこそおれたちは奮闘できているのだ。
 ヴァイレさまがいらっしゃる。完全に野盗を追い返すことはできないまでも、耐え抜けば、あの方がどうにかしてくれる。だから、それまでの間だけに全力を尽くせる。
 それが、おれたちのなかにゆとりを生み、怯えなくてもいいのだと言ってくれているのだ。だから、甘く見ていた野盗たちを見返すことが出来ている。
 村人たちはそれぞれの役目を果たしながら、誰もが願っていた。
 あの、美しい人の登場を。

 

 

 

 何度も頬を軽く叩かれ、おれはようやく目を開けた。
 霞む視界の先には白っぽい何かが浮かび上がるも、よく見えない。
 抱え上げられているのか、足が宙に浮いている。背中とひざ裏にはしっかりと腕が回されていて、落とされそうな心配はなかった。
 腹に置いていた手で目を擦る。そして何度か瞬き、再び顔を上げ。ようやく見えた白っぽい存在の正体に気が付き、身体が硬直する。

「目覚めたか」
「……ヴぁ、ヴァイレ、さま……」

 戸惑う声を上げれば、ヴァイレさまは溜息をついた。
 どうやらおれはヴァイレさまに抱えられていたらしい。しろっぽく見えたのは、ヴァイレさまの陶器のように白く滑らかな肌と、そしてうっすらとした月明かりにも輝く銀髪だったようだ。

「よかったユエン。起きたのね」

 ヴァイレさまの顔があるのと反対から声をかけられ振り返ると、そこにはあのとき別れた幼馴染の顔があった。

「あれ……なん、で」
「なんでじゃないでしょ! もう、あれだけ駄目って言ったのに! 何が大丈夫なの!」

 顔のすぐそばで喚かれ、その声量に耳を塞げば、手を剥がされた挙句に耳を引っ張られ、そこに口を寄せられる。

「この馬鹿! なんて無茶をするの!」
「――っ」

 彼女は、相当怒っているらしい。だがその根底にあるのが単純な怒りでないことがわかるからこそ、きーんとする耳に唇を尖らせることもなく、素直に頭を下げた。

「その、すみません」
「すみませんで許されると思ってるの!? 人に散々心配かけた挙句、こんな大怪我までして!」
「……大怪我?」

 謝ったにも関わらず、彼女の形相はさらに激しいものに変わる。普段のおれであれば幼心に刷り込まれた記憶にただ小さくなるばかりだったかもしれないが、引っかかる言葉に首をかしげた。だがその反応に、彼女は眉根を寄せる。

「足、痛むでしょ……? もしかして感覚がないの?」

 困惑する表情に同じ顔を作りながら抱えられる自分の足を見る。そこでようやく自身の惨状を知り、一瞬考えて顔を盛大に顰めた。

「み、見たら痛みがぶりかえしてきた……!」

 ううー、とあえて唸れば、彼女は憐れむ目をおれに向けた。

「そりゃ痛むよね……待ってて、今治療してあげる」
「いや、わたしがやろう。あなたは外にいる男たちと今日は村に帰りなさい。彼は預かる。また改めてわたしがそちらに出向こう」
「えっ!?」

 ヴァイレさまの言葉に驚いた声をあげたのは、何故かおれだけだった。
 彼女はそうですか、ではお願いしますとあっさりと頷く。

「え、ちょ、おれも、村に帰る」
「その大怪我で何言ってるの! それにあんたは今家に帰れないし、しばらくの間ヴァイレさまのお館にでも置いてもらいなさい! それじゃあね!」

 半ば強引にすがろうとするおれを引きはがし、彼女は部屋の外へ行ってしまった。そこでようやく自分が戦場のようになっていた村でなく、ヴァイレさまの館にいることに気が付く。
 いつの間に来たのだろう。そう悩むよりも先に、ふと思い出し、慌てて後ろに振り返る。

「あ、あのヴァイレさま、申し訳ございません。抱えてもらって。その、その辺に置いてもらって構いませんので」
「その足でか」
「え、いや、その、あの」

 じっと金の瞳が向いたのは、おれの右の太ももだ。そこは大量の血に濡れ、今も乾いておらず肌に服が張り付いていた。
 意識を失う前、おれはそこを剣に刺された。その痛みに気絶してしまい、気付いたらヴァイレさまに抱えられてここにいたのだった。

「何故怪我をした」

 平坦な声音は、何を考えているのかわからない。おれは自分の足を見つめまま、小さくなって答えた。

「二人の野盗から逃げ出そうとして、そのときに……」

 男たちは躊躇いもなくおれを殺そうと凶器を振りかざした。だからおれは、逃げようとしたのだ。
 片方の男に当て身をくらわし、そのまま走り去ろうとした。だが追いかけてきたもう一人に肩を掴まれ、そして足に激痛が走った。

 痛みに悲鳴を上げながら倒れ、背中にのしかかられ、頭を殴られてからの記憶がない。恐らくその衝撃で気を失ったのだろう。拳がぶつかった頭は激しく揺れて、顎を強く地面に打ち付けていたことも思い出す。だが今ではもう殴られたはずの頭もぶつけた顎も痛みはなかった。刃が突き刺さったはずの太ももも同様だ。
 普段は気丈な幼馴染でさえ顔を歪ます有様を見せる足は、部屋が薄暗いこともあり、ただ血に濡れているようにしか見えない。だからこそおれはわざと顔をしかめてみせる。

「あの、村に、家に帰ります。ヴァイレさまのお手を煩わすわけにはまいりません。その、出来ればこのまま運んでくださると、助かります……」

 視線の先にある自分の足を見つめ、返される反応に今から畏縮しながらも張り付く舌を動かし願い出る。自分で歩けたが、それを言える程太腿の傷は浅くないはずだからだ。だが、それだけではない。――本当は、細身でありながらもしなやかな肉体に抱かれていることに、こんな状況でありながらどきどき胸を高鳴らせていた。だから少しだけ、邪心を抱いてしまったのだ。
 もう少しだけ、今の状況が、こんなに傍にヴァイレさまを感じたままでいられはしないものか、と。
 図々しい申し出だということは重々承知の上だ。貴き方に抱き上げられているだけでなく、さらには離れている村まで運んでほしいなど。常人であれば困難なことであれども、ヴァイレさまであればその人ならざる膂力と体力で、運ぶこと自体は問題にはならないだろう。それどころか片腕でだっておれを持って行けるかもしれない。だが、それで手間が変わるわけではない。
 返事はなかなか返ってこなかった。視線は次第に下がっていき、居場所がなく腹に乗せた手を見る。
 やはり気分を害されてしまっただろうか。このまま外に放り出されたとして文句は言えない。そうされてしまったら、自分で歩いて帰ろう。
 むしろ自分から遠慮すべきだと、おれが口を開いたとき、それにヴァイレさまが言葉を被せた。

「彼女に言ったはずだ。おまえはわたしが預かると。今宵村に返すつもりはない」

 憤る幼馴染を宥めるための台詞だと思っていたのだが、どうやら本気だったようだ。だがそれに素直に頷くわけにはいかない。何にせよ、おれは今すぐ家に帰らねばならないのだ。
 もう現状を長引かせようとする気など頭から吹き飛び、今度はどうこの腕から逃れるかに懸命に思考を巡らせる。それを頭上からヴァイレさまが眺めていたことに気が付かなかった。

「言っておくが、村には戻れても、おまえは家には戻れないぞ」

 咄嗟に頭を上げれば、まるで造形された彫刻の美しさを持つ顔と見える。思わず見惚れるも、内心で頭を振るった。

「あの……それは、どういう意味なのでしょう? 先程も家には帰れないとあいつが言っていましたし」

 幼馴染とヴァイレさまの中にあるのは、恐らく同じ認識。村には行ける、でも、家には行けないようなことがあるのだ。
 話しぶりからして村はやはりヴァイレさまに救われ、野盗から守られたのだろう。ではなぜおれは家には帰れないというのか。
 その答えを、問いかけるまでもなくヴァイレさまは教えてくれた。

「おまえの家は燃えた。奇跡的にも一軒だけで済んだようでな。村は多少踏み荒らされたが無事だ」
「それはよかったです。…………えっと、燃えた、んです……?」
「全焼ではないが、とても人の住める状態ではないな。それに消火したがために水びだしだ」

 しばらく言葉を失い、ようやく頭が理解しかけた頃、はっとして背を浮かせ、ヴァイレさまに詰め寄った。

「あの、家族は……!」
「皆無傷であり、無事だそうだ。しばらくは西の親戚の家に厄介になると言っていたぞ」
「そう、ですか……」

 一瞬にして強張っていた身体が、今度は急速に脱力していく。だが確かな安堵が胸に広がった。無意識に胸に手を置くと、不意に身体が揺れた。
 ヴァイレさまが歩きだし、揺れた身体は咄嗟に近くのヴァイレさまにしがみついた。今支えてくれている腕は故意でない限りおれを落としたりしないということは知っていたが、それでもぶらつく足に慣れずに身体は硬直する。

「ヴァ、ヴァイレ、さま」

 前だけを見る金の目がおれに向けられることはない。
 一人で扉は開き、両腕が塞がっているヴァイレさまの道が阻まれることはない。階段をあがり、これまでの世話係の女性たちも含めて誰も入室を許可されたことのなかった一番奥の部屋に向かっているのだと気づいたときにはもう、ヴァイレさまに抱えられたままそこに入っていた。
 大きな窓から差し込む微かな月明かりに照らされたそこは、大人が優に三人は横に慣れる広い寝台とびっしりと詰まった本棚がひとつずつあるだけの殺風景な部屋だった。

「ここは――」
「わたしの寝室だ」

 おれは広い寝台を眺め、二度ほど瞬く。

「……棺桶じゃない」
「棺桶があるのは地下だ」

 吸血鬼といえば寝起きは棺桶、という想像からぽつりと漏らせば、おれの頭の中をよく理解しているらしいヴァイレさまは呟きに答えてくださった。
 地下があるだなんて知らなかった。階段を見かけたこともないし、ここに訪れた女性たちからも聞いたことはないし、道は隠されているのかもしれない。ヴァイレさまは長身だし、やはり大きく立派な棺桶が置かれているのだろう。――じゃなくて!

「えっと、なぜ、この部屋に?」

 そろりと顔を向ければ、ヴァイレさまは高い位置からおれを一瞥すると、今度は答えてくださることはなくそのまま止めていた足を動かす。
 大きな寝台の傍らまで行くと、そっとそこにおれを横たえた。だからおれは慌ててヴァイレさまにしがみつき、柔らかなその場所に下されないよう抵抗した。

「血、血が付きます! 汚れてしまいますっ!」
「それくらいすぐに落とせる。気にするな」

 足の傷口から流れた血はまだ乾き切っていないし、そうなっていたところで結局のところ汚してしまうのに代わりはない。血は洗って簡単に落ちるものでないし、だからこそ御身にしがみついてでも抵抗したが、ヴァイレさまがいうのならば本当にあっさり落としてしまえるのだろう。
 吸血鬼とはいったいどこまで万能なのだろう、と悩みつつも、そろりと掴んでいた服を離す。そっと寝台に横たえられると、肩から零れ落ちた銀髪が頬を撫でた。その闇を跳ねる毛先に相応しくない黒い色が染まっていることに気が付き唇を噛みしめる。

「――あの、ベッドも、服も、御髪までも汚してしまい、申し訳ありません」
「気にするな」

 出血したおれを運んでいたのだから、ヴァイレさま自身が汚れていないわけがなかったのだ。服は深い色のものだし、暗がりだし、よくはわからないが、きっとそこにだっておれの血がついてしまっているだろう。だがヴァイレさまは一向に気にした風ではない。服はまだしも髪も汚れてしまっているのに、それでもおれを許してくださった。だがそれは寛容な御心というより、単に頓着していらっしゃらないのだろう。
 ヴァイレさまの視線が、下半身に流れていく。だがおれは銀の髪を染めてしまった一点をただ眺める。
 不意に足を持ち上げられ、その時になってようやく顔をヴァイレさまへ向けた。

「痛がらなくていいのか」
「――ぁ」

 掬われた膝を持つ手に僅かに力が込められ、ようやくヴァイレさまのお言葉を理解したおれの顔からは血の気が引く。
 顔色の変化などわからないだろうに、ヴァイレさまの金色はすうっと薄まった。

「まあ、傷がないのに痛がってもしかたがないだろうが」
「……気付いて、いらっしゃったのですか」

 覇気のない声を吐き出す。ヴァイレさまはそろりとおれの足を置いた。

「あれだけの猿芝居を見せられればな。まあ、暗がりであったし、気が動転していたこともあって、彼女は気付いていなかったようだな」

 その言葉だけで、ほんの僅かばかりではあるが心が軽くなる。
 おれのことを、本気で心配してくれていたから。だから、拙い演技までして傷がそこにあるよう痛がってみせたのだ。これで悟られてしまっていたのならばもうこれまでのように幼馴染の彼女と触れあうことはなくなってしまうかもしれない。たとえ彼女がどんなに人がよくともだ。
 おびただしい血を流したあとを見せるおれの太ももに今傷はない。気を失っていたのがどれほどのときかわからないが、未だ夜が明けていないのだからそれほど時間は経っていないのだろう。いや、もし仮に何日かが経っていたとして、それでも痕すらのこらず消える傷ではなかったはずなのだ。言い逃れしようにも刺された瞬間を見ていた村人が傍にいたし、どれほどの深さの傷をおれが負ったか、すでに村には広まっているはずだ。
 惨い傷だと称してもいいそれが肌を抉っていなければならないのに、血は確かに流れたのに、服も裂けヴァイレさまを汚してしまったのに、それなのに。この現状を招いたものはどこにもないのだ。そんな奇怪な話はまず普通の人間の身に起こるわけがない。
 もしあるはずの傷が消えてしまっていると、たとえ村人一人にでも知られてしまえば、いずれは他にも広まっていく。そうすればおれはあの村にいられなくなる。だから、だからこそ、まだたった一人を除いて気づかれていないことにささやかな安堵に息を吐く。――それも、ヴァイレさまの御心次第ではあるのだが。


「もう……お気づきなのでしょう。おれが、何者であるのかも」
「ああ、そうだな。これまでは花の匂いに邪魔され気づけずにいたが、これほどまでの血に触れれば十分だ」

 あくまで平坦な声音は、恐らくもとより確信じみた疑惑でも抱いていたからこそなのだろう。だから驚くこともないし、むしろ当然のことのように今おれを見下ろされているんだろう。
 目を逸らしていたおれの視界に白い手がすうっと見える。そして、そろりと頬を撫でられた。

「探したぞ、我が光」
「……っ」

 ついに知られてしまったと言うのに、触れられたことに全身が悦びに震え上がる。だがそれを悟られぬよう、手を避けるようにして身体を起こした。

「お、おれは、ヴァイレさまの、光、などでは……っ」
「いいや、おまえだ。この血の香り、間違えるわけがない。――我が光が男であったとは、道理で女性を集めても見つからぬわけだ」

 ヴァイレさまの手は少し伸びたおれの髪を耳にかけさせる。何を望まれているのかわかっているが、でも顔を上げられるわけもなく、ただきゅっと唇をかみしめる。

「――何故、名乗りでなかった。わたしの顔を覚えていなかったわけでも、誓いを忘れたわけでもないのだろう。おまえを探していたのだと勘付かぬわけもない。それなのに何故」

 ヴァイレさまの言う通りだ。おれはヴァイレさまを、あのときより片時も忘れることはなったし、誓いは常に胸にあったし、ヴァイレさまが何故屋敷に女性を通わせているか、その理由を知らないわけでもなかった。
 心の奥底にしまったものを溢れ出さぬよう、胸のあたりをぎゅっと握りしめる。
 たった一目だけ、はじめはそれでいいと思った。だが彼のもとに通う女性たちが羨ましくて、気づかれなければ、もう少しお傍に行っても許されるかもしれないと、そんなよこしまな願望を抱いた。そしておれは実行してしまった。そんな浅はかにもさらけてしまった欲の代償が、これなのだろうか。
 どう言えば見逃してくださるだろう。どうすれば、これまで通りでいてくださるだろう。
 無い知恵を絞りぐるぐる考えたところで答えなどでない。ただでさえ窮地においやられているような精神状況ではもとよりろくに思案などできるわけもなかった。
 必死に言葉を探しても見つからず、ながらく続く沈黙を求めるおれの願いをヴァイレさまが打ち砕く。

「もう何ひとつとしてわたしの前で偽るなよ。もしすれば、そうだな。その傷が完治してしまっていることを村人たちに教えてやろう」

 おれが恐れているもので脅されれば、無駄な足掻きさえも許されない。
 考えることは諦め、ただただ深く項垂れる。

「質問するから、正直にそれに答えろ。わたしを忘れていたのか」
「い、いいえ」
「わたしがおまえを探していたと、わかっていたな」
「――は、い」

 声が掠れる。心臓が破裂しそうなほどに高鳴っていた。拳を作る胸の下から今にも飛び出してしまいそうだ。もしかしたら、この鼓動が聞こえてしまっているかもしれない。

「……あの日、あのとき交わした誓いを、覚えているか」
「――……っ」

 顔を見ていないのに、頭上から圧力を感じ、おれはおずおずと小さく頷いた。
 わかっている。もう言い逃れなどできないことを。
 おれは見つけられたのだ。自分の浅はかな欲望のせいで、我慢が足りなかったせいで。
 何よりも美しい夜の人。誰もの目を奪うそのお姿は多くの者を魅了する。そして聡明で心優しく、捨て置ける他人を守ることさえ手間と思わず救いの手を差し伸べるような方。ヴァイレさまと触れ合った者は皆その人柄に感銘を受け、尊敬する。きっとおれの幼馴染とて、ヴァイレさまに恋愛感情を抱かなかったとしても、触れ合っていくうちに彼の良さを知っていくことだったろう。
 ヴァイレさまは、人々から畏怖され、そして敬愛もされる方。人ならざる者ではあるからこそ、人とは一線を引きその性によって夜を生きる方。
 おれは、どこにでもいる男だ。小さな村で花の油の採取をしているだけの。顔もぱっとするわけでないし、人々の中心に立つような性格でもないし、何か抜きんでた才能があるわけでもない。だからこそその他大勢に埋もれているような、そんな平凡な人生でいいんだ。
 だから、だから。おれは、普通の人でしかないから。だから。

「誓い、は……果たせ、ません。おれは、おれではだめです。ヴァイレさまに、相応しくなんてっ。おれはヴァイレさまのとなりにいることなどできません……っ!」

 俯く視線の先に見えるのは、握り震える拳。その脇をぱたぱたと水滴が落ちていく。
 ずっと昔に封じたはずが、懐かしい記憶とともに溢れ出す。
 あの日、あの夜――今より、十四年前。忘れもしない、恐ろしい夜の森のこと。
 当時六歳だったおれは、両親と喧嘩をして家を飛び出した。強い憤りを胸に周りも見られぬままに走り、そして気づけば子ども一人だけでは入ってはいけないと言われていた森の中にいたのだった。
 しばらくは興奮していたこともあり、恐れなどなかった。親に対する怒りを確か適当な木を蹴ることで発散していた。だがそれが済み次第に冷静を取り戻すと、真っ暗な森に恐怖した。
 正気になったおれは、両親への不満を抱きながらも、とにかく帰ろうと思った。だが振り返ってみても真っ暗な世界が続くばかりで、自分がどこから走って来たのかわからなくなっていた。
 おれは夜の森に飛び込み、そして迷子になってしまっていたのだ。その事実に気づいてしまえば、それまで当たり散らしていた木に縋るよう、その根元にしゃがみ込みどうしようかと途方に暮れた。
 夜の森では獣が闊歩する。現在でこそヴァイレさまの加護により出歩けるようになっていたが、当時はだからこそ子どもが一人では入ってはいけないし、余程の用が無いかぎり大人だってこの時間に森に来ることはない。もし万が一足を踏み入れるときには、獣避けの松明と道具、武器は必須だった。それをおれは知っていたが、気づいたときにはもうどうしようもできない状況だったのだ。
 一人震えていたおれはその後現れた山犬に襲われかけ、そして、そのときこの世で最も美しい人と出会った。
 山犬に迫られ、咄嗟に身体は逃げ出したものの、人間の、それも子供の脚力などたかが知れている。それに直前まで身を縮まらせていたことも、恐怖に震えあがっていたこともあり、あっさりとおれは転んでしまった。無防備だった膝はかたい地面に裂かれ血を吹き出したが、その痛みよりも死への恐怖が勝っていたから、痛みなどそのとき感じていなかった。でも身体は倒れたきり動かせず、ただ全身を強張らせるしかなくて。
 ぎゅうっと目を閉じ身体を小さくすると、おれを痛みが襲うよりも先に、襲ってきていたはずの山犬の悲鳴が耳に突き刺さった。
 恐る恐る頭を抱えていた腕を解き振り返れば、そこに、新たな存在がいたのだ。

「うまそうな匂いがすると思って来てみたら、随分と騒がしいことだ」

 すでに遠くに、山犬たちは尾を足の間に挟みながら逃げ帰っているところだった。輝く銀の髪を持つその人は何の荷物もてにしておらず、おれと大差ない丸腰だ。だが、彼が追っ払ってくれたのだと、助けてくれたのだとすぐにわかった。
 そう、自分は助かったのだ。その事実に強張っていた身体は一気に脱力し、いつしか詰めていた息を吐き出した。
 銀の髪を持ち、満月のような瞳を持つ男は、おれの傍らにしゃがみ込むと倒れていた身体を起こしてくれた。木の幹に寄りかからせてくれる。
 何も言えぬおれに何も言わず、ただ膝の傷に目を向ける。すると彼はおもむろにそこを指先で触れると、血の付いたそれを顔の方に持っていき、躊躇いもなくぺろりと舐めた。

「ああ、やはりうまい」

 どこからどうみても普通の人間のすることではない。だがおれは彼の奇行とも言えるそれには気がつけず、腹の上に置いていた手をぎゅうっと握り締める。
 堪えようと思った。だが、気付けば瞳からは涙がこぼれていた。

「――おい」

 あまり代わりはしなかったが、どこか狼狽えた色が混じる男の声。だがそれが引き金となったのか、今度は殺しきれない嗚咽で肩を震わせた。
 服を握り締めていた拳を解き、目の前にいる見知らぬ男に縋りつく。

「こ、こわが、っだあっ…」

 細身ではあるがしっかりと鍛えられた胸板に顔を押し付け、服が汚れるのもお構いなしに鼻水まで垂らす。だが彼はそんなおれを剥がそうとはしなかった。
 しばらく好きなようにさせてくれて、ようやく少しだけ気持ちが落ちついた頃に肩に手をかけられる。
 隙間なく抱きついていた身体を僅かに起こせば、その隙間から差し込められた手に顎を掬われた。
 そうっと持ち上げられ、おれはぐしゃぐしゃの顔を上げる。涙で滲みよく見えない視界のなかで、彼の輝きだけは失われない。
 曖昧な世界であっても見惚れる美しさに気づけば心を奪われていた。だから、それが近づいてきていたのにもわからず、気づいたときには目尻に生暖かいものが這う。
 彼の舌だった。涙を舐めとられ、正気を取り戻しつつあったおれは硬直する。だがそんな様子に気づいていないらしい彼は恍惚の表情で笑んだ。

「ああ、涙まで美味とは――」
「あ、あの……」
「おまえ、名はなんと言う?」

 おれの動揺など気にする風もなく、目元に残る涙を指で拭いながら彼は尋ねた。

「名前? ――ユゥ」

 このときおれは、両親や周囲が呼ぶ愛称を答えた。それは別に彼を不審に思い本名を隠していたわけではない。周りの誰もがユエンよりもユゥと呼ぶから、自分の名前はユゥなのだと言う方がしっくりきていたからだ。

「そうか、ユゥか。わたしの名はヴァイレだ」
「ヴぁいれ?」
「そう」

 おれが呼べば、彼――ヴァイレは嬉しそうにほほ笑んだ。その姿があまりにも綺麗だったから、おれは涙を舐められたことも忘れてまた見惚れてしまう。
 懐から手巾を取り出し、汚れるのも厭わずにそれでいろいろな汁に濡れるおれの顔を拭ってくれた。

「ユゥ、おまえを村に返してやろう」
「本当っ!?」
「ああ。さあ、おいで」

 手を伸ばされ、おれは躊躇いもなくそこに飛び込んだ。
 抱え上げられると、父に抱かれたときよりも高い視線になる。ヴァイレの顔がぐっと近くなり、おれは遠慮もなく傍から眺めた。
 ヴァイレは自分の顔をよくわかっているのだろう。視線に煩わしそうにするでもなく、恥ずかしそうにするでもなく、なんてこともないようにおれを見返した。
 歩き出しながら、彼はまたも口元に優しい色を滲ませる。

「ユゥ。おまえは良い香りがするな」
「いいかおり?」
「そう。陽の香り、だろうか。わたしの好きなものだ。――わたしは生まれながらに太陽には嫌われていてな。あまり傍にない香りでもある。羨ましいかぎりだ」

 そう呟くように言うヴァイレの顔があまりにも切なげで、おれの小さな胸がぎゅうっとなった。だからその表情の理由も、胸の苦しさの意味もわからないまま両手を振り上げる。

「ならユゥがヴァイレにいーっぱいお日さまとどけるよ! ひなたぼっこいっぱいするから、そうしたらにおいもいっぱいつくかな?」

 おれの言葉にヴァイレさまは足をとめ、きょとんと目を瞬いた。
 だがおれが名を呼べば我に返ったようにもう一度瞼を動かし、そして突然笑い出す。
 これまでの美しい芸術のようなそれとは違い、明るい、からりとした笑顔だった。

「ああそうか、そうだな。たとえ太陽に焦がれていようとも、所詮わたしは夜を生きる者。それは叶わぬ夢。ならばわたし自身の、わたしの太陽の見つければいい話だったのか」

 ヴァイレの言葉の意味がちっとも解らない子供のおれは、ただ首を傾げるしかなかった。
 ようやく肩を震わすほどの笑いが収まったヴァイレは、その名残を顔に残しながらおれに金の瞳を向けた。

「なあ、ユゥよ。おまえがわたしの太陽になってくれないか。暗闇を照らし、この孤独……寂しさを癒してはくれまいか。きっとおまえとなら、永遠さえ生きられる」
「……うん。いいよ。さみしいなら、ユゥがヴァイレといっしょにいてあげる。いっぱいおひさまのにおいとどけてあげる」

 話はほとんどわかっていなかった。ただ自分がヴァイレに求められているということくらいしか。ヴァイレが、笑みながらもさっき見たようなさびしそうな顔をしていることくらいしか。
 だからおれは、またさっきみたいにいっぱい笑ってほしくて頷いたのだ。
 大笑いこそしなかったものの、おれの返事にヴァイレは目を細め、嬉しそうにする。

「ああ、いますぐにでもおまえを攫ってしまいたいが、それはおまえの家族にも申し訳ない。それに、わたしにはまだなさねばならぬことが残っている。ここには留まれないし、先程のようなときに守ってやることができるとも限らない……だから、保険をかけさせてくれ」
「ほけん?」
「わたしの見えぬところでまた夜の森に飛び出し、命を散らされても困るからな」

 命はわかるが散るの意味がよくわからなかったおれは頭を捻らせるが、出せもしない答えを煮詰めるよりも早く、ヴァイレがおれを片腕に抱き直した。
 顔を上に上げられたときのように、また顎を掴まれる。

「口を開けろ」
「……あーん?」

 素直に大きく口を開ける。顎にかかったヴァイレの指先がそうっと下唇を撫でる。それがくすぐったくて、背筋がぞくっとした。
 ヴァイレは突然自分の唇を噛み裂いて、血を滲ませる。何をしているのだと驚き問いかけようとおれが口を動かすよりも早く、顔が寄せられて。
 開いたおれの口にヴァイレのものが重なった。
 大きく開けていたとしても、所詮は七歳の子供だ。大人であるヴァイレに覆われたそこに驚いて身を引こうとするも、背を支える腕が、顎を掴む指が許しはしない。不意に奥に行こうとしていた舌の先に鉄の味がした。けれど、ほんのり甘い。
 すぐにおれはさっき見たヴァイレの血を思い出す。だから舐めたものの正体に気づいたが、本当に血であるのかよくわからなかった。自分の血を試しに舐めたことがあるが、甘く感じたことなどなかったからだ。
 すぐにヴァイレは顔を離してじっとおれを覗き込む。けれど、おれは自分の身体を抱きしめ、その視線から逃れるように丸くなるしかなかった。
 からだが、熱い。喉の奥から、中心に向かい、そして指先まで巡っていき。
 はあはあと、何もしていないのに息が荒くなる。汗が滲み、息苦しくて。気づけば傍らのヴァイレの身体にしがみついていた。
 どれほど悶えていただろう。
 汗に張り付いた髪が耳にかけられる。名を呼ばれ、薄らと目を開けた。

「これでおまえは陽の者でもあり、月の者でもあるようになった」
「――どういうこと?」

 疲れからか、いつも以上に舌足らずになってしまう。

「つまり、こういうことだ」

 ついとヴァイレの視線がおれの足に向かい、それに導かれる様自身もそこへと目を向ける。
 つい少し前まで、そこは転び傷ついたせいでじんじんと痛んでいた。けれど、気づけば悶えている間に痛みは消えていた。それだけじゃない。膝からは血が流れた痕を残しながらも、傷そのものさえもなくなっていたのだ。
 何度も瞬き、目を擦ってみても、おれの見間違いというわけでもなく、何をしたって事実は覆らなかった。

「きず、が……」

 呆然と呟いたおれにヴァイレはくすりと笑うと、片腕だけにおれを収めたまま、自由はもう片方で血が残る膝を掬い上げる。何をするのだろうと見守っていると、そこに顔を寄せ、ぺろりと舐めはじめた。

「ひっ、くすぐったっ」

 生暖かく湿ったそれが肌を這い、背筋がぞくりと震える。
 慌てて頭を押しのけようとするもヴァイレは動かず、汚いからと言ってもやめてくれない。
 流した血が綺麗に消えてしまうまで、ぺろぺろと犬のようにヴァイレはついていた土ごとそこを舐めとってしまった。

「これでおまえに傷跡が残ることはなくなるだろう。だが心臓を貫かれたり、病になれば死からは免れぬ。決して無茶はするなよ」
「……どういうこと?」
「つまり、多少の傷ならばあっという間に痕すら残らず治ってしまえる身体になったということだ。だから膝の傷も消えてしまったんだ」

 よくわからずにいるおれに笑みを見せたヴァイレは前を向き、両腕におれを抱え直して歩みを再開した。

「ユゥ。いつの日かおまえを迎えくる。それまで誓いを――約束を忘れず、わたしを待っていてくれるか?」
「……いっちゃうの?」

 ああ、という短い返事。それが、よりいっそう離れる距離を教えているような気がした。
 だからおれは答えに詰まり、俯いて握っていたヴァイレの服に込める力を強める。
 約束をしたくないわけではなかった。ただ、もうヴァイレと離れなければならないことが途方もなく寂しかったのだ。
 いつまでとは言わなかった。だから、いつまでかわからないのだろう。どれほど待ちぼうけを食らうのか。本当に、迎えに来てくれるというのか。その時間と不安を考えると、まだ幼い子供ながらに安直に頷けなかった。
 ヴァイレはそれを悟ったのだろうか、おれの小さな手に応えるよう、身体を支える手に同じようにわずかながらに力を込める。

「必ず迎えにくる。わたしの太陽よ、それまでどうか健やかに育っていておくれ。再びまみえたそのとき、今度こそ本当にわたしの光となっておくれ」

 再び足を止めたヴァイレは、おれの右手を取ってじっと目の中を覗き込む。だからおれも、満月のように美しい金の瞳に魅入らされる。
 きらきらするものに心を満たされ、不安なんて消え去る。おれは今度こそ頷いた。
 その後ヴァイレさまに村の端まで送っていってもらい、名残を惜しみながらも別れた。家に帰る道を進み何度も振り返れば、おれを見送るヴァイレさまが微笑んでくれる。それが嬉しくて、悲しくて、姿が見えなくなった頃には泣き出していた。
 今でも会ったばかりのヴァイレが何故ああも自分の胸の内を占めてしまったのか、よくわからない。人ならざる者の美しさに魅入られたのか、それとも何か運命的なものを感じたのか、それともまた別の何かか。
 あの夜のことがきっかけで、おれは狭間の者としての肉体を手に入れ、そして彼を待つようになった。
 だがおれは当時、失念していたことがある。後々になって、彼――ヴァイレさまが村を訪れそして野盗から救い、その礼と称して女性を集めだしたことでそれを知った。
 ヴァイレさまはあの夜出会っていたおれを、女の子と勘違いしていたのだ。だがそれは無理もない話だった。なぜならおれはあの時、いわゆる女の子の服を着ていたのだから。
 流石に下はちゃんとズボンにしていたが、上はフリルがささやかについたもの。少なくとも少年が好んで着るようなものではない。そしてそれことがあの夜両親と喧嘩した理由でもあった。
 当時のおれは、隣の家に住む年上の幼馴染のおさがりばかり着させられていたのだ。性別が同じならともかく彼女は女の子で、であるからして男であるはずのおれは女ものばかり着せられていて。
 六歳ともなれば自分の性別を理解しているし、周りの友人たちからもからかわれだす。それが嫌なのに、それなのにすぐに大きくなってしまうからとかそんな理由でおさがりの女物の服を押し付ける両親とぶつかり合ったのだ。
 あの頃は周りからユゥと呼ばれているせいもあり、自分で自分をそう呼んでいたし、一人称として一度もヴァイレさまの前でおれなんて使っていなかったし。髪ももうじき切らないとならないと少し伸びがちで、まだ六歳ということもあり顔立ちも中性的で、だからこそヴァイレさまも勘違いされていたのだろう。
 ヴァイレさまは、あの夜ただの泣いている子どもであったおれと約束をした。そして、それを果たすために再び村に訪れ、そして名乗り出ないおれを探すために女性を集めた。だがそれでも見つからず、普段冷静であるヴァイレさまはおれに当たるような態度を取るほどに焦燥を感じていらっしゃったのだ。
 だがおれはなるべく影に隠れ、万が一にでも怪我などして血を流さぬよう注意もしていた。ヴァイレさまはとにかく鼻がよく、特に血や体臭に敏感だからだ。幸いなことに仕事柄纏う濃い花の香りがおれ自身の匂いを覆ってくれて助かった。
 ひっそりとし続ければいずれヴァイレさまは諦めるだろう。かつて約束をした子どもはもうこの村にいないか、もしくはもう――そう、判断されると。おれはそれを遠くから見つめながら待った。でも抑えていた気持ちが堪えきれなくて、少しだけなら、ばれないように気を付けていればと、ほんの一時の世話係に名乗り出てしまった。だがそれはやはり間違いだった。
 ……本当なら、約束を、あの時交わした誓いを果たしたい。あのときからおれの心の深くにヴァイレさまは根付き、ずっと再会を待ち望んでいた。またあの微笑を向けてくれることを願っていた。遠目から久方ぶりに見た後ろ姿であってもすぐに気づいたし、離れているのにそこにいるとわかっただけでも胸が痛いほどに高鳴ったものだ。
 でもだめだ。おれじゃ、だめなんだ。
 あのとき無謀にも夜の森に飛び込んで泣いた子供だったが、大人になり、様々なことを知った。純粋にただ目の前のものだけを見つめていられたあの頃とはもう違う。もう女の子の服だって着なくていいし、自分のことは名前で呼ばないし、そう簡単に泣きだってしないんだ。太陽の香りだって、もうきっとしない。それにおれは男で、初めてヴァイレさまを見たあの時の感情が何であったかももう知っているのだ。
 一目惚れだった。月の精かと思うほどに美しい人。でも儚いわけではなく、強くて、優しくて、笑顔が素敵で。おれを支えてくれた手は揺るがなくて。
 憧れかと思っていた。でも、年を重ねていく毎に想いは確かになり、再会して確信した。
 おれは、ヴァイレさまに慕情を抱いていたのだ。最初から幼いながらに恋をしてしまっていた。だがだからこそおれは傍にいられない。ただの敬愛の気持ちなら、よこしまな感情がなかったのならきっといられたのに。
 ヴァイレさまがどんな想いを抱き、おれを焦がれてやまない太陽と呼び、そして必ず迎えにくると誓ったか。それはわからない。もしかしたら、似た気持ちを抱いてのことかも、しれない。でもやっぱりおれではだめだ。
 たとえもしおれが、本当に女の子だったとしても、それでもやっぱりヴァイレさまのお傍にはいられない。おれという中身そのものが彼に相応しくないから。
 彼のとなりにどれほど自分が似つかわしくないか分かっている。何度も想像し、その数だけ打ちのめされてきたのだから。
 月の化身と称しても構わないぐらいのヴァイレさまと違っておれはありふれた顔立ちだし、これといった特技もなければ、愛嬌もなく、話し上手でもないし、不器用だし要領は悪いし、頭はそれほどよくないし。いつかヴァイレさまのためにと訓練しても何一つ身につかなかった。
 何の取り柄もないおれが、誰もから尊敬の眼差しを向けられるヴァイレさまにつりあうはずもないのだ。その隣に立っているだけでも、自分で自分を許せるとは思えない。
 だから誓いは果たせない。おれではだめだから、相応しくなんてないから。
 拒絶を口に出したおれに、ヴァイレさまは低く唸った。

「おまえは、自分がわたしに相応しくないから、だから誓いを違えるというのだな」
「……は、い」
「おまえはわたしとともにいると、あのとき――」

 ヴァイレさまは言葉を途切れさせると、目を閉じ、深く息を吐き出した。

「おまえには僅かながらにわたしの血を与え、すでに半分は人の理からはずれてしまった」

 そして与えられた生命力は、刺された足を数時間足らずで完治させてしまえるほどのものだ。恐らく腕を切り落とされても、きちんと合わせて置けば時間の経過とともに再び繋がることさえできるだろう。
 まさに人ではない。おれがただの人間であれば、今頃痛みに苦しめられていて、話しどころではないのだから。
 もし村人たちに知られてしまえば、いくら昔から住んでいる場所とは言え異端扱いされてもおかしくはない。そうすれば村にはいられないだろう。ヴァイレさまの血を分け与えられたと言えばまだ反応は違うかもしれないが、おれを取り巻く状況は大きく変わることに違いない。
 ヴァイレさまとてそれは承知の上だろう。ヴァイレさまについていかないと言った以上おれは村に留まる。しかし、それを周りに知られてしまえば村を去らねばならない。だからさきほどもそれで脅しをかけてきた。きっと、そんなつもりは始めからないのだろうが。

「だが、だがいまならまだ、おまえは“人”で在れるだろう。与えたのは超越した回復力だけだ。それ以外は何ひとつ他の者と変わりはしないのだから」

 ああやはり。心の中でそう呟く。ヴァイレさまはやっぱりおれの抱えていたその秘密を周りに話すつもりはないのだろうと確信する。
 つまり、そう話すということは、ヴァイレさまも納得されたということだ。

「人の中にいたいのであれば――いや、それが本来あるべき姿なのだろう。人は人だ。昼と夜が交われぬのもまた、運命というものなのだろう」
「ヴァイレ、さま」

 向けられたその瞳は、いつもは静寂に輝くそこは、とても寂しそうで。
 言葉を失っているおれの頬に、ひんやりと冷たい手が添えられ、そして流した涙を舐めとった。まるで子供のおれにしたあとのときのように。
 一舐めしただけですぐに顔は起こされ、そして目が合うと、ヴァイレさまは小さく笑む。あの夜もそうだった。でも、そんな切なげじゃなくて、もっとあのときは楽しそうで。こんな、胸がぎゅうっと痛くなんて、苦しくなんてならなくて。

「しばらくここにいるといい。せめて歩ける程度にまで回復したと思わせる必要があるのだろう。せいぜいそれまでに演技力でも身に着けておくことだ」

 くるりと背を向け、離れていく後ろ姿。咄嗟におれは手を伸ばし、ヴァイレさまの服を掴んでいた。

「あ……」

 弾かれたように振り返ったヴァイレさまに、けれど言葉は出てこなくて。でも代わりにまたぽろぽろと、目尻から雫が零れていく。
 視線の先の表情は困惑していた。困らせてしまっている。それはわかっていた。でもどうすることもできなかった。
 離さなくちゃ。早く、でないと迷惑になる。
 でも、でも。
 あの夜、おれを抱えてくれた腕の力強さは変わっていなかった。
 探しているユゥがいつまで経っても見つからず苛立っていても、嗅覚を鈍らせるきつい花の匂いを疎んでも、それでも自己管理が出来ず転びそうになったおれを助けてくださった。
 約束を、守ってくれた。本当に迎えに来てくれた。おれ、ずっと忘れないでいてくれた。
 でも、でも。

「おれ、は。太陽では、ありませ、ん」

 月の化身のような、美しい夜の人。その隣にあれる人は、それこそ太陽のような方であるべきなのだろう。
 凡人でしかないおれは相応しくない。後ろ向きで、いつも後悔ばかりで、悩んでばかりのおれじゃだめだ。
 ヴァイレさまの役に立つことも何もできない。ヴァイレさまは世話係なんて本当はいらなくて、なんだって一人でできてしまう。おれには何もやることなんてない。だっておれは、どこにでもいるただの人間だ。吸血鬼であり、野盗の集団ですら一人で蹴散らせてしまうヴァイレさまの助けになることなんて、なにも、ひとつも。
 おれは、こんなおれでしかないから。冴えない男だから。だから、ヴァイレさまの一緒にいたいだなんて。そんなの。
 だめなんだ。やっぱりおれじゃ、だめなんだよ。
 胸の内ではたくさんの言葉が溢れるのに、口はただ引き結んだまま、それらの代わりに涙が零れていく。一粒一粒が情けない自分をさらけ出す。
 ヴァイレさまはやんわりと服を掴むおれの手を解けさせ、寝台の傍らに腰を下ろした。近い目線になった瞳をただただ見つめると、白く長い指先が伸びてくる。
 幾筋にも濡れる頬に手を添え、涙が溜まる目じりをすうっと親指で撫でた。

「ユゥ。おまえは、わたしが嫌か。わたしとの約束は、この十四年間、重荷でしかなかったか」
「い、いやじゃ……! いやじゃ、ないですっ、重荷だなんて! ずっと、ずっと、おれはあなたに、ヴァイレさまにまた、会いたくて……っ」

 ヴァイレさまの手を添えたまま強く首を振る。
 実際お会いして、思い出が美化された記憶でないと、本物の貴き方なのだと知って、だから諦めて。でも諦めきれなくて。一目だけでも、ほんの少しでも、一時だけでもと欲を膨らまし、気づかれてしまう危険を冒してまで世話係に自ら名乗りでて。それなのに重荷であるはずがない。それは、おれの方で。

「わたしもおまえに会いたかった。たった一時しか過ごしていないが、わたしの太陽はおまえしかいない。他の誰でもない。おまえだけだ。もしおまえがわたしの傍にいられないというのなら、それならばそれでいい。だがわたしはもう二度と太陽を感じることはないだろう。そう、わかるのだ」

 ますます涙が零れ落ちる。ヴァイレさまの指にも流れていくが、止めようがなかった。

「おれ、は……ただの、どこにでもいる、男です。血は美味しい方かもしれませんが、でも、それだけです」
「そうだな。だが、わたしの心はおまえだけだと告げている」
「おれは、でも、おれは」

 瞬くとまた一筋垂れていく。顎まで伝ったそれは落ち、敷布に吸い込まれていく。その脇で震える程強く握っていた拳を掬いあげられ、ヴァイレさまの唇が触れた。

「わたしは、おまえがいい。あの夜わたしを癒してくれたのは、間違いなくおまえだ。だから。おまえが嫌だと言うのなら強制はしない。だが、おまえに――ユエンに、傍にいてほしいと願っている」

 拳を緩めれば、半ば強引に解かされ、指を絡められる。ぎゅうっと震える手が握られた。
 弱い力ながらもおれも握り返し、もう片方の手で恐る恐る指を伸ばし、陶器のような滑らかな肌に触れる。絡めた手とは反対の手でそこを支えられ、ヴァイレさまの頬が押し付けられた。

「ヴァイレ、さま……っ」

 溢れ出す想いに堪えきれず名を呼べば、嬉しそうに、蕩けたようにヴァイレさまは微笑んで。
 頬に添えたおれの手を包んでくれていた手が離れていき、それはそのままおれの頬へと重ねられる。

「ヴァイレさまじゃない。ヴァイレだ。さあ、かつてのように呼んでみろ」
「……ヴァイ、レ……」
「そうそれでいい。さあいい加減雲など退かしてしまえ、わたしの太陽よ。折角の愛らしいおまえの顔がよく見えない」


 愛らしいという言葉は似つかわしくない普通の男の顔だと言うのに。けれど冗談を言った様子はなく、本気でそう思っているのだと、堪らずおれは頬を緩めた。
 おれの顔を見ていたヴァイレの目がすうっと細められたと思ったら、ゆっくりと顔が近づいてきて。
 わけがわからないうちに、唇に柔らかいものが触れる。それがヴァイレの唇だと気づいたのは、顔が完全に離れてしまった後だった。
 ようやく行為を理解したおれが顔を真っ赤に染め上げると、ヴァイレはくすくすと笑う。

「ようやくおまえを迎え入れることができたな。ならば残る誓いはあとひとつ」
「あと、ひとつ?」
「ずっと一緒にいて、そしていっぱいのおひさまのにおいを届けてくれるのだろう?」

 瞬くと、まるで悪戯が成功したような子供のような笑みを浮かべるヴァイレ。だが、初めて見るそんな表情さえも芸術品のように美しい。そしてそれはおれに向けられたものであると思うと、なおさらかけがえのないもののように思える。

「今度こそ、ちゃんと約束を守ります。どうかこれからは、お傍にいさせてください」

 抱き締められて、おれは自ら広い胸にすり寄った。
 ヴァイレのためにたくさん太陽の日差しを浴びよう。そしてこの腕に抱かれ、その香りを届けよう。そして毎日、この方の笑顔が保たれるよう、願い、そして努力をしていこう。
 おれは凡人で、これといって得意なこともないけれど。後ろ向きで、約束さえ守ろうとしない愚か者だけれど。
 でも、ヴァイレがおれでいいと言ってくれるなら。それなら、そのとなりでおれができるかぎりのすべてを渡そう。この血の一滴残さずヴァイレのものだ。この涙だって、彼のためだけのものなのだ。
 身に余る幸福ではあれども、不相応なものであるかもしれないけれども、それでも、おれは両腕を一杯に伸ばして力強く抱きしめた。

 おしまい

 

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書き終えたあとに気付いたのですが、折角の吸血鬼なのに吸血行為をしていないという……本当にうっかりしていました。申し訳ありません!
あのあと滅茶苦茶吸血したと脳内補完してくださるとありがたいです……。
(「おまえの血をよく味あわせろ」的な流れで」多分吸血の際は痛みが減るようヴァイレの体液には催淫効果的なものがあり、肌を一舐めして麻痺させたり妖しい雰囲気にさせつつからがぷりといくのかなと。さらにその後も色々想像してくださると嬉しいです)

嫌われ裏有平凡の切ない→甘いで書かせていただきましたが、その通りになったかは正直微妙なところで……。
とりあえず嫌われの部分は目的の人物が見つからない、もしかしたら死亡しているかもしれないというヴァイレの不安からの八つ当たりと匂いを覆ってしまう濃い花の香りが故にさせていただきました。

流れ上ショタな部分を勝手にいれてしまって申し訳ありません。もしも苦手だったらすみません。

こんな作品に仕上がりましたが、少しでも楽しんでいただけたのであれば幸いです。

無乳さま、この度は同人誌に掲載する番外編の校正を任されてくださり本当にありがとうございました。
誤字脱字だけでなく文法の誤り等、自分だけでは気づけなかった部分を指摘していただき本当に助かりました。
お礼としては拙いものですが、こちらの作品を捧げさせてください。

どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

2015/03/18
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