緤那さま2

同人誌『呪術師の恋薬』の校正作業をお手伝いしていただいたお礼に書かせていただきました。
『呪術師の恋薬』でラジルの嫉妬話です。
※本編、同時収録番外編その後です。


 

【話をしよう】

 食事を終えたラジルは席を立つ。
 そのまま仕事場に戻ろうと食堂の出入り口に向かうと、そこでセツと出くわした。
 二人で端に寄って足を止める。ラジルはセツに声をかけた。

「飯、今からか?」
「うん」
「あー……おしかった。もうちょいおれの休憩が遅ければ一緒に食えたのに」

 ラジルの昼食の時間は仲間たちとの都合の兼ね合いで交互に昼食をとるため、そのときの仕事の進み具合によって多少前後することがあった。セツのほうは個人での作業のため、食事の時間は自由にとっていいことになっている。以前はなにも食べずにそのまま仕事を続行する有様だったが、ラジルに教育されて以降しっかりと昼食をとるようになっていた。しかし個人の進み具合によるため、その時間はラジルよりも不確定だ。
 そのため大抵は、昼食の時間が半分ほど重なるか、もしくは掠りもしない。まるまる一緒にとれたことはセツが食堂で食事をとるようになった始めのほうだけだ。あの頃はまずセツを食堂に慣らさせることを目的としていたので、職場に引きこもるセツをラジルが自分の時間に合わせて連れ出していた。
 最近は今日のように顔を見ることすら稀で、なかなか家にも寄れぬ日々が続いていたので、セツから得る癒しが足りていないラジルは本気で悔しがる。

「仕方ないだろう。またの機会だ」

 出会ったのが食堂でなければ、どこか物陰に連れ込んでちょっとの間セツを堪能できたかもしれない、などと不埒なことも考えているラジルに気づかず、セツが宥める。

「なあ、今日の献立はなんだった?」
「ああ、根菜のスープに鵞鳥のパイだ」

 セツはふと口を閉ざして思案する。

「どうかしたか?」
「いや……ここのパイは美味しいけれど、この前おまえが家で作ってくれたやつのほうが好きだったなと思って」

 セツが口にする無意識の言葉に、ラジルはきゅんと胸を締めつけられた。
 そんなことを言われて喜ばない者がいるだろうか。少なくとも嘘をつけないセツの本心であるその言葉に、ラジルは一気に気分を上昇させてつい表情をだらしなく緩ませる。

「また作ってやるって。なあ、今度の休みにさ――」
「あー、セツじゃん!」

 ラジルよりもひとつ大きい声が言葉を遮る。
 声の主に振り返るよりも早く、その相手は飛び掛かるようにセツに肩を組んだ。

「っ――」
「おいヤンズ、セツが驚いているだろ。飛び掛かるのは止めろっていつも言ってるだろうが」

 驚いたセツは硬直してしまう。ラジルは闖入者を静かに窘めた。

「はは、悪い悪い」

 ヤンズは軽い調子で謝るが、ろくに聞く気はないのだろう。セツに密着したまま離れようとはしないので、ラジルが強引に引き剥がし、それとなくセツを自分の隣につれてくる。
 そこへ、ヤンズとともに食堂にやってきた他の二人の騎士が遅れて合流した。

「よ、ラジル。それにセツも。もう飯終わったのか?」
「いや、おれは終わりだけれどセツはこれからだ」

 ラジルの言葉に合わせてセツは頷く。
 以前はセツの噂を信じ切っていた騎士仲間たちは、ラジルがセツを紹介したばかりのときはまだぎこちなかったものの、今ではすっかり緊張を解いている。セツのほうはまだ完全に気を許すことができてはいないようだが、徐々に慣れつつある状態だ。
 セツの過去はかいつまんで説明してあるので、それに同情した二人の騎士の他にも、友人や同僚たちは人馴れしていないセツとの適切な距離を守ってくれている。セツが自ら動けるようになるまで強引に詰め寄ろうとはしないのはとても助かった――ただ一人を除いて。

「ならセツ、おれたちと食おうぜ!」

 普段から声量の大きさのとおり、明朗な性格のヤンズは嫌いではない。むしろ暗くなってしまう状況下で彼の根拠のない明るさにときに助けられたこともあるし、彼の長所だと思っている。
 しかし今はそれが、いささか厄介であった。
 これまで物静かな場所で引きこもることの多かったセツにとってヤンズはより接してこなかった人種らしく、その大声に驚いてしまうのだ。本人はそんなことないと意地を張るが、今も思わずといった様子でわずかにラジルのほうに寄ったのがなによりの証拠だ。

「ヤンズ、がっつき過ぎだろ。もう少し落ち着けと隊長から言われているだろうが」
「あ、悪い悪い」

 ラジルと同じくセツのことを考えてか、やんわりと仲間の一人がヤンズを窘める。
 またも同じ調子で謝るところみると、ろくに反省はしていないようだ。

「なあ、セツもそれでいいだろ? どうせラジルもいなくなるし、ひとりで侘しく食うよりもおれたちと一緒のほうがいいじゃん」
「そうだな。こいよセツ、ただ飯食うくらいならラジルいなくても大丈夫だろ」

 ヤンズの加勢、というよりも補助にもう一人の騎士仲間が言葉を加えると、セツは少しの間を置いてから、うん、と小さく頷いた。
 早速席に向かおうとした三人の後をセツが追おうとする。咄嗟にラジルはその腕を掴んだ。

「悪い、ちょっとセツと話あってさ。先に席とっといてやってくれよ」
「わかった! 早くしてやれよー」

 ヤンズが大きく手を振った。

「話って?」
「あー……ヤンズのことなんだけどな。誰にでもああだから、注意はしているんだけどあんまり聞かないんだよ」

 ヤンズは人、当たりはとてもよいのだが少々臆病のきらいがあって、単純であるがゆえに他人の噂を信じてしまいやすい。そのためラジルが説明するまでセツのことをおおいに誤解していたし、仲間内でも一番呪術師セツを恐れていたのも彼だった。
 だが一度セツの真実を知れば、真っ先に同情したのもヤンズだった。調子に乗りやすく喜怒哀楽が激しいが、きちんと話せば相手の痛みを理解できる優しさもある。

「それに今まで自分より背の低い奴がいなかったから浮かれているところもあってさ。一応、おれからまた言っとくから」

 気分のムラは上司からも指摘されることがあるが、正直で愛嬌のある彼は、低い背もあってか周囲からもよく可愛がられていた。騎士というものは身体を張るので体格がよい者が大抵で、ヤンズも鍛えているので筋肉はあるが、どうも男として小柄なほうである背が気になっているようだ。
 ヤンズよりも低いのは侍女くらいなものだと周囲にからかわれていたところへ、同じ男で自分よりも少し低いセツが現れたものだから少し優越に浸っているところもあるのだろう。
 他人との距離がまだいくらか必要なセツにとって、ぐいぐいと無遠慮に来られてしまえば戸惑いは避けられない。そう何度もヤンズに注意はしているのだが、本人はセツに会うとうっかり忘れてしまうようだった。

「ちょっと吃驚しただけだから、大丈夫。それよりもうおまえは戻らないといけないだろう?」
「あー……そう、だな」

 思っていたよりもあっさりとした様子に、なんだか拍子抜けしてしまう。セツのことだからそれが本心なんだろうが。

「あんた一人で本当に大丈夫か?」
「ラジルの友達もいるから、一人じゃない」
「そうだな……悪い。もう行くわ」

 曖昧な態度にセツはなにか物言いたげにしていたが、声をかけられるよりも早くラジルがその場を後にした。
 持ち場に戻るだけで急く理由はないのに、無意識に進む足が速くなる。
 セツから離れがたかったはずなのに、今では早くあの場から離れてしまいたくて仕方がなかった。
 今頃運ばれてきた食事を皆で頬張っているところだろう。
 どんな話をしているのだろう。セツを気にかけ、きっと話しかけてくれているのだろうが、その内容が他愛ないものであっても気になってしまう。誰の隣に座っているのだろうとか、楽しげにしているのだろうかとか、そんなことばかりを考えてしまった。
 セツが一人ぼっちでなくなることは歓迎しているはずだった。ラジルと食事が摂れないときは一人きりで食べている彼を見かけるたびに、寂しげなその姿に、きっと心の内にその想いを仕舞い込んでいるセツに胸が締めつけられる。だからこそ今日のような日があるのは嬉しいはずだったのに。
 慣れてきたとは言えまだラジル抜きでは距離感のある彼らとの食事を不安がる様子もなくて。なにより普段と変わらぬ鉄仮面を着けていたセツは、ラジルとの別れを惜しむ姿を見せることはなかったことに、苛立つ自分がいることに気がついてしまう。
 寂しい、とでも言ってもらいたかったのだろうか。行かないとでも。――そんなことをセツが言うはずがない。彼はきちんと仕事として割り切っているのだ。
 ヤンズは誰にでもああだから、と言ったのは、本当にセツに向けての発言だったのか。ラジル自身に言い聞かせていたのではないだろうか。
 誰とでも肩を組むから仕方がない。誰とでも距離が近いから仕方がない。だからセツが特別なわけではない――。
 唐突に足を止めて、ラジルは壁に寄りかかる。

「はあ……ままならないもんだな」

 この感情の名を知っている。
 嫉妬だ。気軽にセツに抱きつき、また邪険にされることのないヤンズに嫉妬しているのだ。
 別にセツを慕っているわけではなく、ただ仲良くしてくれようとしているだけだ。ヤンズは触れあいが好きだから、ラジルだって何度も突撃されている。肩は身長差があって組めないが、もし同じくらいならきっとラジルにだってされていた。
 今からこれでどうするのだろう。これからセツがもっと人慣れして、自分以外の誰かに笑いかけるようになれば、この黒い感情がどうなってしまうか。

「思っていたよりも重傷だなあ……」

 周囲に慣れてほしいのに。今このときばかりは本当にそう望めているのかわからない。
 ぽつりと呟いた言葉が情けないほどか細かった。

 

 

 

 前日のもやもやを抱えたままのラジルが食堂にやってくると、端の席にセツを見つけた。真っ黒なローブで、フードも被っているから目立っている。ラジルがいるときは外すようにさせているが、今でも人目を避けるためのフードは取りづらいらしい。
 てっきり一人でいるのかと思ったが、ふとセツが顔を横にする。そこではじめて、彼の隣にヤンズがいることに気がついた。
 今日は二人だけらしく、周囲に他の騎士仲間の姿はない。
 なにやら二人は顔を寄せ合い、ヤンズが小声でなにかを話す。いつも声量の大きなヤンズにしては珍しい行動だ。
 周囲に聞かれたくない話なのかもしれないが、それにしても顔が近くないだろうか。あと少し前に身体を傾ければ、触れあうほどだ。
 そんなに距離を詰めてなにを話しているのだろうと考えていると、不意にセツが顔を赤くした。
 珍しく動揺にあたふたした様子を見せると、ヤンズになにか言われて、笑った。
 それは、これまでラジルとて数回しかまみえたことのない極上のもの。微笑よりももっと大きな花を咲かせたものを、まだ数度会っただけのヤンズに見せている。
 甘くて、温かくて、可愛くて。自分のすべてをかけて守らねばいけない至宝、だったはずなのに。
 ――ああ、駄目だ。
 なにを話している。なんでそんなに顔が近い。なんで、その顔を他のやつに見せるんだ。
 理不尽な怒りにも似た感情がぶわりと心のなかに広がっていく。咄嗟に近くの椅子を蹴り飛ばしたくなったのを、握った拳で耐えた。
 ラジルの凶悪なまでの強い眼差しに気づかぬまま、食事を終えたヤンズが先に席を立つ。
 咄嗟にラジルは物陰に隠れて、ヤンズが通り過ぎ去ってからセツのほうへ足を向けた。
 まだ食べ終わっていなかったセツは、一人でもくもくと食事を再開する。
 声もかけずに隣の席に座ると、小さく肩を震わせたセツがゆっくりと目を向けてきた。
 明らかに不審げな眼差しだったが、ラジルだと知るとすぐに安心したように表情が緩んだ。

「ラジルか。今から昼食か?」

 安堵しきった顔に、つい勢いで出そうになる言葉は引っ込んだ。
 愛おしく柔らかい光からふいと顔を逸らし、ラジルはぶっきらぼうに答える。

「……ああ」
「――あの、今日は魚だぞ。なんて言う名前だったかな。以前におまえが焼いてくれたやつなんだが、白身のやつで――」

 むくむくと膨らんだ嫉妬心は萎んでいき、ただ小さくなって心の隅で燻る。それはセツの想いがまだラジルに傾いていることがわかったからだが、それでも先程の光景を思い出すと苛立ちは募っていく。

「――ラジル?」
「……悪い。ちょっと考え事していた。やっぱ昼はいらないや」
「体調でも悪いのか?」
「違う。腹が減ってないだけだから」

 気遣う声に首を振って席を立つ。
 ラジル、と名を呼ばれてに引き留められるが、振り返ることなくセツのもとから逃げ出した。
 セツが不貞を働いているとは思っていない。だが、自分の心に鈍いセツが、ラジルよりもさらに表情が豊かで快活なヤンズに無自覚に心惹かれていることがないとは言い切れなかった。少なくともラジルの次に信頼を寄せているのではないだろうか。でなければあの笑顔を引き出すことができるはずもない。
 こんなにも気が高ぶっている今、彼と冷静に向き合える自信がなかった。あの愛らしくも憎たらしい笑みが頭にちらついて、口を開けばきつく詰め寄ってしまいそうで。
 こんなくだらないことでこれまで積み重ねてきた信頼を失いたくなどない。
 初めて振り回される感情を前にすれば、抑えつけるのがやっとだ。あまりの無力さと精神の未熟さに苛立ちは余計に増していく。
 ようやく想いを通じ合せたのに、いつか誰かに奪われてしまうのだろうか。そんなのはいやだ。
 しかしこれからセツの世界は広がっていく。人を気遣える優しい彼の本来の姿に変わっていくのだ。その手伝いをしたいのであって、邪魔をしたくない。けれどもどこかに閉じ込めて、自分の目だけに触れられるようにしてしまいたいとも思ってしまう。
 なにも知らず、頼れる者もラジルただ一人。
 ――違う。そうしたいわけではない。セツが笑ってくれればいい。幸福を与えられるのは自分一人ではない。この世には悪人もいるが、善人もいる。セツの孤独を知り同情できる、ヤンズのような者が。
 セツの良さに気付けるのがラジルだけではないからこそ、多くから選んでもらえる自信がないのだ。最もセツを愛しているのはおれだ、と言えるのに。最もセツから愛されているのは自分だと、あのヤンズに向けていた笑みを見てしまった今は言えない。
 一度陥った負の感情は収まらず、のみ込まれぬように抗うのに必死になることしかできなかった。

 

 


 昼休憩が終わるまで中庭の木陰で頭を冷やしたラジルだったが、腑抜けた仕事をすることはなかったものの、顔色までは誤魔化せなかったようで、敬愛する王に心配させてしまった。
 私事に振り回されるなどもっての外で、ましてや主に気遣わせてしまうなどあってはならない。失敗こそなかったが、深く反省すべき点は多かった。
 だが一度仕事を挟んだお陰で、高ぶっていた感情を落ち着かせることができた。
 冷静を取り戻したラジルは、とにかくセツと話をしなくては、と思った。
 鈍器で頭をなぐられたような衝撃的な場面を見てしまったが、あれが浮気でないということは断言できる。だが、ヤンズに向けられた笑みの理由まではわからないままだ。
 なにを話していたかだけを聞かなくては。ただ笑いかけただけのところを目撃しただけで、全身を覆うほどの嫉妬心を膨れ上がらせた狭量な男とは思われなくない。
 いつだってセツのすべてを受け入れられるような、懐の広い男でいなければならないのだ。そうでなければセツがいつか離れて行ってしまうのではないかと不安だった。
 まだ休みは先だ。ならば明日辺りにでも捕まえて話をしよう。早朝待ち伏せるか、それともどうにかして昼を合わせるか――。
 考えているうちに、鐘がなる。終業の合図だ。
 今日はこのまま帰宅できるラジルは、交代の者に後を任せ、手早く荷物をまとめる。同じ時間帯に仕事を上がるヤンズと他の騎士仲間数人と帰路をともにすることになった。みな帰る場所は同じ宿舎だからだ。
 城を出て正門を抜けたところで、背後から声をかけられた。

「ラジル」

 聞き慣れた声に振り返れば、そこにはやはりセツがいた。門の影に隠れるよう、隅にいた。
 ラジルが口を開くよりも早く、同じく振り返っていたヤンズが声を上げる。

「おーセツじゃん。珍しいね、こんな時間にいるの。いつも帰るの早いだろ」
「うん。……ラジルと話がしたくて」

 セツは俯き、もごもごと言った。

「悪い、先に帰っててくれ」
「わかった。それじゃなー」

 セツが用件を口にしたこともあって、ヤンズたちはあっさりと離れていく。
 彼らが声も届かぬ場所まで遠ざかったのを見送ってから、ラジルは振り返る。

「どうしたんだよ。もうとっくに帰っている時間だろ?」

 責めるような声音にならぬよう、優しく問いかけた。
 セツの家は城からかなり離れた場所にあるので、わざわざ王から許可を得て早く帰宅するようにしている。それはいつも終業の鐘よりも早く、皆が帰るこの時間帯にいることは稀だ。あるとすれば、ラジルの住む宿舎にセツが泊まりに来るときだけだろう。
 しかし今日は約束などしていない。
 いつまでも俯くセツを待っていると、やがてぼそりと言った。

「――おまえのことがわからない」
「……は?」

 質問の答えではない言葉に、理解が遅れる。

「なにも言ってくれない」
「なにもって……」
「おまえは、声にすることが大事だと言った。でも、今日はなにも言おうとはしれくれなかった。もうおれが嫌になったのか」
「……もしかして、昼のこと?」

 俯いたまま、こくんとセツは頷いた。

「様子がおかしかったから。体調が悪いというのは嘘だろう。本当ならちゃんと説明してくれていた。前はそうだった。でも今日、おまえは逃げるように離れていった。振り返ってもくれなかった」

 だんだん尻すぼみになる声。肩にかけた鞄の紐をぎゅうっと握り締める手は、今にも震え出しそうだ。
 自分を拒絶しているから声に出さないのか――以前の己がそうであったから、セツは結論付けてしまったのだろう。
 ラジルは今すぐ、あーっ、と叫びだしたくなった。自分の心にあった靄を吹き飛ばし、愚かな自分を叱咤し一発殴ってやりたい。
 だが今はそれよりも、なによりも愛おし者の手を掴む。

「セツ、ちょっとこっちに」

 強引に一歩を踏み出せば、初めは抵抗したセツだが大人しく着いてくる。
 一度潜った正門のなかに戻り、そのまま塀伝いに奥へと進んでいく。角の奥の木陰に隠れるよう身を潜り込ませて、振り返りセツを抱きしめた。

「ら、ラジル?」

 強く抱きしめられ苦しかったのか、セツはラジルの腕の中でもぞもぞ動いて顔を上げる。
 わずかに抱擁を解き、自分を見上げる小さな口に唇を重ねた。

「んっ」

 離れては何度も、軽く吸い付くように、じゃれつくように口づけを繰り返す。
 はじめは目をとろんとさせて身を預けていたセツだが、舌を入れようとしたところではっと我に返りラジルの肩を押し返す。

「ら、じる……ここでは……」
「大丈夫、ちゃんと周りは見ているから。それにこんな暗がり誰も来ないさ。みんな早く帰りたいんだから」

 戸惑う表情を浮かべる顔を押さえて、うっすら赤くなる目元に口づける。
 セツは身を捩り、背を反らしてラジルの唇から逃げようとした。

「ご、誤魔化されないぞ。こんなことをしても、おまえに気持ちがないのならお互い不毛だろう……」

 強引にセツの顔を自分に向けさせて、鼻の頭に音を立ててキスをする。
 口付けられることが好きなセツは、物欲しそうに唇をきゅっと結んだ。先程重ねあわせたからか下唇が濡れている。

「――本当に、気持ちがないと思った?」

 ゆっくりとセツは首を振る。
 ラジルは再びセツの小さな身体を胸に収めて、きゅっと抱きしめる。
 優しくうなじを撫でながら、情けない顔を見られない今だからこそ真実を打ち明けた。

「あんたの世界はこれから広がっていく。おれがそうしたんだからな。でも、そこでおれ以外のやつにつかまっちまわないか心配なんだよ」
「心配?」
「今まではおれくらいしか知らなかっただろう。これまではあんたに冷たく当たるようなやつらばっかりだったかもしれないけれど、でも、いいやつなんてたくさんいる。ヤンズみたいなさ」

 顔を起こそうとしたセツを、うなじを撫でていた手でそっと抑えつける。

「あんたに、もっと周りに馴染んでほしいと思うんだ。でもおれだけを見ていてほしいとも考える。あんたの笑顔はおれだけに向けばいいって。でもきっと、本当にそうなったら悲しいんだろうな。折角出てくるようになった笑顔、きっとなくなっちまう」

 手を緩めると、セツが顔を上げた。
 頬に手が伸びて、支えるように触れてくる。

「言いたいことは、それだけか? 他にはない?」

 口を開いて、一瞬ためらう。けれども続きを促す優しい眼差しに、ぽつりぽつりと呟くよう答えた。

「……ヤンズとあんま、くっつかないでほしい。そういうつもりじゃないんだって、わかっていても不安になる」
「うん」
「それと……あいつと昼、なに話してたの」
「えっ」

 それまで穏やかだった顔つきを一変させて、セツはかああっと頬を真っ赤に染めた。
 なんとも可愛らしい表情ではあるが、ヤンズのことを持ち出した途端にこれとなると素直にでれっとしていられなくなる。ヤンズに見せていた笑顔の件もあり、反対にラジルの顔からは色がなくなる。

「その反応、もしかして……」
「ちっ、ちがう! そうじゃなくて、ヤンズとは……その、おまえのことだったんだ」
「おれの?」

 観念したように肩の力を抜くと、セツは恨めしそうにラジルを見た。暴かれる真実を気まずく思っているようだ。
 そんな半端な情報でラジルが許すはずもなく、セツは再び俯いた。

「や、ヤンズに頼んで……聞かせてもらったんだ。おまえの騎士見習い時代のことを。それと、その。惚れ薬の一件が終わった頃のこととか、最近の様子、とか……」

 どんな内容だったのかとさらに問い詰めると、当時の王への憧れが騎士見習い仲間たちの誰よりも強かったと聞いた、と言った。その影響で立派な仕事馬鹿となり、浮ついた話などなかったのに、とあるセツとの一件以降とても穏やかな顔つきをするようになった。そしてセツの護衛が終わるとこれまでにないくらい二人は休息に親密になり、これまで話す内容は仕事のことか王のことかくらい極端な男が、これまで触れてこなかったセツのことを話すようになり、自分たちに紹介するまでになった。そしてセツに必要以上にくっつけば実にわかりやすく内心で苛立っている。これはもう、二人が付き合っていることは明白で、いつラジルから打ち明けられるのか、今騎士仲間の間で賭けているらしい。
 ヤンズたちはなにをやっているんだと頭を抱えたくなる一方、まさかすでにセツとの関係を悟られているとは、しかも自分の態度で気づかれていたとは思ってもいなかったラジルは深い溜息をついた。
 セツと周囲が今よりも馴染んだから、二人の関係を話すことを相談し合い決めていたが、ラジルもセツとの恋に随分と浮かれていたらしい。
 昼間、食堂で見せていたあの極上の笑顔のときには、いかにラジルが鼻の下を伸ばしてセツを語るかを聞いていたときだったという。セツの笑顔は間接的にラジルに向けられていたものだったのだ。嬉しくもあるが、そんな情けない話をされていたとなると素直に喜べない。
 しかしこれで抱えていた問題が解決したことに安堵する。
 今回振り回してしまったセツにどう詫びようかと頭を掻いたところで、不意に胸ぐらをつかまれた。
 完全に油断していたラジルはされるがままに引き寄せられると、その先で待ち構えていたセツのほうから唇を合わせる。
 すぐに離れていった真っ赤な顔を、ぽかんと眺める。

「こ、こんなことをしたいと思うのは、ラジルだけ。ラジルが不安になるなら、何度だって伝える。おれが好きなのはおまえだって。愛しているのはラジルだ。口づけしたいと思うのも、触れ合いたいと望むのも――身体を、重ねたいとも願いのも、ラジルだけ」
「セツ――」

 守りたいと思った。
 一人で孤独に、多くの侮蔑の眼差し耐えぬいてきた彼にもうつらい想いをさせたくないから。そのためにラジルは強くあらねばらないと自分に言い聞かせてきた。
 しかしそれは、とんだ思い上がりだったようだ。
 セツは不器用で、世間知らずで、放ってはおけないような男だ。しかし彼は決して弱い者ではなかった。
 孤独も、周囲のいわれない冷たい視線を受けても、それでもすべてを受け止めて。邪魔にならぬようにといつも背中を丸めて、目線のほとんどが消えてしまうのにフードを深く被って。
 そんなことをする必要はないのに。それでもセツは腐らず生きてきた。
 そんなにも忍耐強かった彼は、強くもないけれど弱くもない。もしかしたらラジルよりも、うんと器の広い男なのかもしれない。

「あー、もう!」

 耐え切れず、ラジルは声を上げた。大声に慣れないセツはびくりと身体が跳ねた。

「今日、あんたの家にいくから」
「え……だけど明日も仕事だろう。部屋でゆっくり休め。それに、それならおれがおまえのところに」
「周りに聞かせられるかよ、あんたの声を」
「声?」

 ラジルがなにを思って家に行きたがるのか、まったく理解していないセツは小さく首を傾げた。
 脳内でどんなあられもない姿にさせられているかも知らないその純粋さ。普段はつんとしているのに、ラジルの前ではこれほどまでに無防備だ。
 今はまだ物静かな男であると周囲はセツを形作っているが、実はわりと天然で、どんくさい面があって、色ごとにはまるで疎くて、そんな本当のセツを知ればラジルのように心射抜かれる輩がいないはずがない。これは恋人の贔屓目ではなく、絶対の未来だ。
 今のセツは自覚がなさすぎる。自分がどう周囲に映るか、どれ程の魅力を隠しているのか、ひとつひとつ教え込もう。男女ともに警戒してもらい、その上で友人関係を築けるようになってもらわねば困るのはなにも恋人のラジルだけではない。本人もだ。
 セツの世界はこれからどんどん広がっていく。もともと知ることが好きな男であるから、きっかけさえつかめばあっという間のことだろう。その分、周囲も彼を知っていくことだろう。
 本職は国を、王を守る騎士ではあるが。同時にラジルは恋人としてセツの騎士でもある。
 不埒な者や悲しませる者、傷つけようとする者、セツに害なす者、害であると思える者は徹底的に排除しよう。
 いくら恋人といえども無償とはいかない。活力をもらうためにも、愛を確認し合うためにも、今宵たっぷりと報酬をもらおうと、ラジルはセツを抱えて駆けだした。
 周囲の視線も気にすることはない。むしろもっと見てくれ、と思う。
 今だけは羞恥に染まる赤い顔を見ることを、戸惑いラジルを呼ぶ声を聞くことを許そう。この人はこんなにも愛らしい人なのだ。恐ろしい呪術師などではない、驚きもするし、不安にもなるし、恥も感じる、そんな普通の男なのだと。
 なにより、セツはおれのものなのだと、周りに知らしめる。

「ラジル、歩く、自分で歩くからっ」
「やだよ。それより早く帰ってあんたを堪能するんだ。急ぐから舌を噛むなよ!」

 騎士の体力を前にすれば、セツの痩躯など藁の束のよう。
 軽やかな足取りで走るラジルは、振り落とされないようにとしがみつくセツを強く抱きしめた。

 おしまい

 

戻る main

 



緤那さん、ご協力ありがとうございました!