真誇さま

『きみのこころ』の同人誌を作るにあたり校正のお手伝いをしてくださった真誇さまへのお礼の作品になります。
リクエスト内容は、『きみのこころ』で、デクもしくはユールが動物(ペット的な)に嫉妬する話です。
付き合い出してその後の二人なので、少しは恋人っぽい雰囲気が書ければいいな~……とは思います。


 

【あまえあうふたり】

 巨人も住めるほどの広い家の中に、二人の明るい笑い声が響いた。

「やめろよ、くすぐったい~っ」
「こいつほんと人の顔舐めるの好きだな。――っわ、わっ、ぷっ」
「兄貴だっせえの! ミルに押し倒されてる!」

 テイルを眺めていたユールだが、それまで少年の腕の中にいた影がそこから自身の胸に飛び込んできたことで、予想していなかった勢いに後ろに倒れ込んだ。
 一連の様子を逃すことなく見ていたテイルは、咄嗟に見せた兄の驚きの表情にけらけら笑う。

「うるせえよ、油断してたんだ。……くそ、舌入った」

 床に敷いた絨毯に背を預け、うへえと薄ら開いた唇の合間からべろんと舌を出したユールは渋い顔を作りながらも、けれども嫌そうなそぶりは見せず、むしろまんざらではなさげに手に持った小柄な存在に目を向ける。それはへっへっと自分を抱えるユールと同じように舌を出して弾んだ呼吸をしながら、なあにどうしたの、とでも言いたげな純粋な眼差しを向けていた。くるりと丸まった尾はぶんぶん振られていて、気づけばユールは相好を崩した。
 傍らで眺めていたテイルも横向きにころんと転がり、兄の腹の上に下されお座りをするそれに手を伸ばし、ぴんと立った耳の間をがしがし撫でる。それは嬉しそうにテイルの小さな手に頭を押しつけて、もっともっとと全身を使ってねだっていた。

「なあミル、今日はお泊りなんだぜ! 寝るまでいーっぱい遊んでやるし、明日起きても一緒!」

 実に嬉しそうに笑うテイルの言葉に、わんっ、と弾んだ鳴き声が応えた。それにユールは瞳に優しげな色を灯し、夜更かしするなよ、と険のない声音で注意をする。
 そんな傍から見れば微笑ましい光景を生んでいる兄弟たちは、離れて椅子に腰かけ様子を見るデクに一向に目を向けない。かれこれずっとこの調子だった。
 二人の心はすっかり、愛らしい一匹の犬に奪われてしまっているのだ。
 それほど距離はないはずなのに、随分遠くを見るかのようにデクは長く垂れた前髪に隠された蒼い瞳を細める。兄弟たちは当然それには気が付かず、小振りな尻をぷりぷり振って自分たちの周りを走る犬に顔を向けて追いかけていた。
 初めはなんの問題もなかった。よく家に遊びにくる兄弟が、その犬ミルを可愛がってくれるのはむしろ有り難かったのだ。ミルも二人によく懐き、こうして構ってもらえて幸せそうなのだから、問題はない。
 問題はない、はずだが。
 じっと蒼い瞳で笑う二人を、ユールを盗み見る。破顔しているといっても差し支えないそれは、本来滅多に見られないものであったはずなのだ。しかし、貴重だったはずのそれは、ユールの素の部分を晒したその笑顔は、彼女が訪れてからというもの大盤振る舞いの日々だった。
 胡坐を掻いたユールの上に乗り出したミルが、顎先をちろりと舐める。くすぐったいと顔を押し退けながらも笑うユールは楽しそうで。
 いつも無表情なデクだが、いつもよりもいささかむっつりとした顔で彼らを眺めた。

 

 

 

 事の始まりは、先日。現場に足を踏み入れたばかりのデクに、先に仕事場に来ていたグンジが困り顔を見せたのがきっかけだった。
 以前とは違いデクの方からも話しかけることが出来るようになっており、だからこそ自ら寄ってきたグンジに問いかけたのだ。何かあったのか、と。
 グンジはいつもの快活な様子はなく、どこか困り顔のまま苦笑した。

「いやな、遠い町から親戚が遊びに来てんだ。それでうちに泊めているところなんだが、どうも犬が駄目なやつがいてな。いやな、駄目というか、本人は犬好きみたいなんだが、どうにも一緒の空間にいると、くしゃみが止まらねえようでよ」

 グンジの家には二年ほど前に子供が森から拾ってきたという雌犬がいることを以前聞いていたデクは、ようやく彼の困り顔の理由を悟った。
 詳しい理由はわからないが、稀にいるのだ。犬や猫に触れるだけでくしゃみが出たり、涙が止まらなくなったり、身体が痒くなることもある者が。ひどい者では呼吸困難に陥ることさえあるという。
幸いグンジの親戚の症状は軽い方で、命に別状はないのだろう。だがそれでも犬好きであるというその人物にとっては十分苦痛の日々であるはずだ。
 自分がくしゃみを連発し、目を真っ赤にして鼻水を垂れ流す姿を想像してみる。そして近くには好きだが触れぬ愛らしい存在。身体は勿論のこと、精神的にも、考えただけで気持ちがしょんぼりしてしまいそうだった。
 デクは小鳥や森の動物たちから好かれる男であり、なによりそれはデク自身が彼らを好いているからである。かつての孤独な日々はそれらの癒しによって慰められていたところもあり、その彼らとの接触を断たねばならない事態は考えたくもなかった。
 眉をやや下げたデクだが、しかし相変わらずその表情は乏しい。それに問題を抱えたグンジが気付いてやれる余裕はなかった。それどころか手の届かないデクの肩を掴む代わりにその軽く腹を叩く。

「そこで、だ。デク、悪いんだがおまえ、うちの犬を四日ばかし預かってくれないか? 親戚が帰る間だけでいいんだ。人懐こい子だし、躾はちゃんとしているつもりだし、おまえはほら、動物に好かれやすいらしいしな。頼む」
「構いませんよ」

 デクはあっさり頷いた。これが人の子を預かるとなれば話は別だが、動物相手ならば多少気が楽だからだ。それにグンジの愛犬とて、仕方のないこととはいえ他人に害を及ぼしていることは本意でないだろうと思ってのことだった。
 デクの返答にグンジはようやくいつもの表情に戻る。

「恩に着る! お礼に今度昼飯奢ってやるよ。それに酒もやる! おまえ最近飲むんだって聞いたぞ」
「――ありがとう、ございます」
「まったく、おまえさんは。それはおれの台詞だろ」

 いつもであれば別にいい、と返事をしていたはずだが、酒という言葉にデクは素直にお礼とやらを受け入れる気になった。
 デクはあまり酒が得意ではないから、飲むとしても精々一杯程度。むしろ一口舐めるだけでも十分だ。それでも貰っておきたいと思ったのは、単に酒好きのユールを思い出したからである。
 ユールは酔えば普段に比べて驚くほど素直になる。気が緩むのか、表情がふにゃふにゃになり、ときにデクに甘えてくることもあるのだ。とはいっても身体をすり寄せてくる程度だが、照れ隠しの不機嫌な表情を見せるでもなくそんなことをするのは酔ったときだけだった。
 酒を飲まぬからデクにはそれの味もわからない。だがよく飲みに行っているグンジならば詳しいだろう。以前彼から貰った酒をユールが飲んだときにはその味を褒めていた。だからデクは彼の舌に頼ろうと思ったのだ。
 うまい酒を飲ませれば、それだけユールは上機嫌に酔っぱらう。そしてほのかに熱くなった身体が――そんな、下心だった。

「早速で悪いが、今日から預かってもらえるか? 仕事が終わったら連れて行く」

 のっそりとした動きでデクは頷く。それが後に下心も忘れて悩みの種になるとも知らず、顔は相変わらずの無表情ながら頭の中は花畑だった。

 

 

 

 デクの家には森からやってくる野生の動物たちが時々訪れる。基本的に窓は開けておき、扉も天気がよければ隙間を少し開けておく。そうするとそこからいつも早朝に餌をやっている小鳥やら、いつの間にか懐いた動物やらが家の中に入ってくるのだ。
 ユールとテイルは始めいつの間にか来ていた彼らに驚くこともあったが、なにせデクがデクなものですぐに受け入れたらしい。今では動物たちも慣れ、ときには接してデクのように生き物から得られる癒しを感じているようだった。
 デクは森の動物たちに特に何かをしたというわけではない。小鳥たちは餌をやっているが、他は草食動物や小型の動物が主で、自ら餌を採ったり狩ったりしているためやる必要がないのだ。それでもデクの周りに来るのは、単に無口な半巨人の傍らが安堵できる場所であるからだ。巨体ではあれども、彼らは本能でデクの性質を見抜いている。自分に害がない存在であるのをわかっているのだ。その他に以前怪我した所を助けられた動物も多く、それで懐いたという経緯もある。
 始めこそ威圧ある見た目と存在感には身がすくむようではあるが、寡黙で、動作もほとんどなく、することがなければ樹木のようにじっとしているデクだからこそ怯えずに済む。しかし力を持ち、獣でなく人であるデクの住処は町の中にあり、おいそれと山犬をはじめとした獰猛な動物はやってこない。そういった事情もあり、束の間の休息の場として巨人の家に訪れることもあるのだ。
 デクと遭遇した大抵の動物は、まず逃げる。そして後々離れた場所から様子を窺ってくる。デクが木に背を預け昼寝をすれば、その隙に近付いてきて、目を開ければ弾かれたようにまた逃げて。それを繰り返し、いつしか動物は半巨人の隣で眠りにつくまでに信頼を寄せるのだった。
 始めのうちは声をかけることは愚か、視線を向けることさえないから、動物たちにとってデクはじっくり観察するにはちょうどよかったのだろう。
 デクはそうして森の動物たちと親しくなっていった。だからこそ、すぐにとはいかないまでも、グンジの愛犬とそれなりに上手くやっていけるのではないだろうか、と思ったのだ。それに預かるのは四日間。しかも後半の二日はデクとユールが以前から泊まりにくる約束をしていたし、犬の遊び相手になってくれるだろうと気楽に考えていた、と言っても過言ではない。
 デクは失念していた。野生の動物には好かれやすいことは身を持って体験していた。しかし、人に飼われている動物にはよく唸られ吠えられていたことを。
 グンジが愛犬のミルを連れてきたとき、顔を合わせて早々に彼女はデクに向かって真っ黒な目を細め、鼻面に皺を寄せて低く唸った。はっきりと威嚇してきたのだ。
 グンジが去った後はきゅんきゅん鳴いて、閉じた玄関の扉を引っ掻いていた。あまりに悲痛な声を哀れに思ったデクは干し肉をやろうとしたが、ミルはデクが一歩傍に寄っただけで瞬時に振り返り、身を低くして唸るばかりだ。その後も様子は一切変わることはなかった。
 グンジの愛犬というから、つい意識を向けてしまったのがいけなかったのだろうか。それともデクの巨体に驚いてしまったか、もしくはただ単に相性が悪いのか。ミルはデクが立っただけで、息を吐いただけで、指先を動かしただけで不愉快そうに唸るのだ。
 あの人のいいおおらかなグンジの愛犬にしては随分と器量の狭い犬であると、ミルの態度を見た他人はそう思ったことだろう。しかしデクはミルを疎ましく思うわけでなく、自分の一挙手一投足に唸る姿にただただ困っていた。日に一度グンジが顔を見せたときだけ、ミルは全身で喜びを露わにして彼に甘えていたが、その様子のひとかけらもデクに向けることはなかった。
 そんな風に一向に懐くどころか警戒を軟化させる様子のないミルと二日を過ごし、兄弟が泊まる日がやってきた。
 家の外でミルの事情を説明したデクは、彼女が飼い主と離され相当不安がっていることも伝えた。噛まないとグンジから説明されていたためそれほど心配はいらないだろうが、無理に構い過ぎればどうなるかもわからないと、特にテイルに注意する。
 兄弟たちは了承し、そして家の中に入ったわけだが。これまでの散々な態度を取られていたデクは勿論、それだけの忠告を受けていたユールたちもまた予想していなかった展開がその後に待ち受けていた。
 つまりあれほどデクを警戒していたミルだが、ユールとテイルの二人にはあっさりと懐いてしまったのだ。それどこか初めて会うはずの二人に丸まった尾をぶんぶん振って飛びつくと、まるでグンジを相手にしているかのようにべろべろ顔を舐めていた。
 グンジ曰く、ミルはとてつもなく人懐こい犬であり、ユールたちにとったそれこそが本来の彼女である。しかしデクだけが、そんな彼女にどうも激しく嫌われてしまったらしい。その事実が兄弟たちの訪問によって突きつけられたのだった。
 ユールたちは動物好きながらも何も飼ってはおらず、動物の癒しを欲しているときがある。しかし時折デクの家に訪れる森の動物たちはそれほど自ら近づこうとはしてこず、たとえきたとしても寄り添う程度だ。ミルのように熱烈に自分から飛びついてくることもなく、全力で構って! とねだられることもこれまでなかった。だからこそ、二人はすぐに愛嬌のいいミルに夢中になってしまったのだ。
 嫌われているらしいデクが傍に寄ればミルはどちらかの腕の中で牙を見せるため、デクだけが離れて彼らの様子を眺める。
 本来の明るさを見せるミルは、それはもう熱烈だった。兄弟の間でひたすらに彼らの顔を舐め、グンジが持参した玩具で構ってもらい、身体をすり寄せて。デクを気にしたユールが顔をそちらへ向ければ、わたしを見ろと言わんばかりに胡坐を掻いた膝に手を乗せ自分の存在を訴える。甘え上手な彼女はすっかり二人の心を奪い、心ゆくままに構ってもらっていた。
 遊ぶだけならまだいい。飼い主と離され寂しがっていることを知っている。自分では駄目だが、ユールたちなら存分に甘えられるようだから、好きなだけそうするといいとデクは思っていた。
 だが、果たして。あそこまで顔を舐める必要はあるだろうか。あまつさえ舌が入ったとは、どういうことだろう。
 普段はあまり動かぬはずの表情筋が、きゅっと顔の中心に寄りそうになるのを無意識にデクは押さえる。
 相手は犬だ。本能で喜びを表しているだけで、舐めるという行為は好意のしるしである。むしろ歓迎すべき態度だ。それはわかっているが、なぜこうも、心の奥がくすぶるというのだろう。
 視線の先では、差し出されたユールの手をぺろぺろ舐めて、頭を押し付けるミルがいる。撫でろという促しに応えたのはテイルだったが、それでもとても嬉しそうだ。
 ――ああ、またあんなにも身体をすり寄らせて。匂いでもつけているのだろうか。ユールは自分のものだとでも言いたいのか。
 ユールも何故ああも笑っているのだろう。彼の笑顔は好きだ。人前で貼りつけているものでなく、親しい者の前にだけ見せる飾り気のないそれが、きっといつまで眺めていても飽きないだろうくらいには好きなのだ。しかし今見せているものはどうも心穏やかにはいられない。あれも心からの笑みだとわかるのに、何が違うのかデクにはよくわからなかった。自分には時々しか向けられていないせいだろうか。
 何時ものしかめっ面が嫌なわけではないが、ミルに振りまいているその半分でもデクに見せてくれてもよいのではないだろうか――そう思いつつ、それだけのことをしてやれない自覚もあるデクは、内心で肩を落とすしかできない。
 ミルのように全身で愛情表現なんて出来るわけもなく、彼女のように尾をぶんぶんと振ってやるわけも、ふさふさの毛もない。髪の毛はふさふさしているつもりだが、それではきっと駄目だろう。それに軽く抱き上げられる身体であるわけでもなく、愛想もよくはなく。
 ユールの胡坐の上からぴょんと飛び降りたミルは、それまで身体を預けていた膝に身体を押し付ける。テイルが名前を呼べばすぐにユールから離れて、今度はテイルの狭い腕の中に飛び込んだ。
 犬を見つめる兄弟たちの視線は楽しそうで、優しくて。出会って間もないというのに、ミルは彼らからそんな眼差しを向けてもらえるのだ。
 恋人とその弟の腕に抱かれ可愛がられている、自分の対極にいるかのような愛らしいミル。それを遠くから眺める自分。
 同じ家の中というのに、見える範囲にいるというのに。まるで自分一人だけが切り離されたかのように、彼らをとりまく温もりは感じられなかった。

 

 

 

 デクの家に来てからというもの、玄関先で与えられた毛布に包まり眠っていたミルだが、どうやら今日はテイルとユールとともに寝ることにしたらしい。
 ミルと一緒に寝たいから寝台上に乗せてもいいか、とテイルがデクに頼み込できたのだが、頷こうとしたデクより先にミルは自ら飛び乗っていた。
 これまでにも兄弟が泊まりに来ることが幾度かあったが、そのときは客室を貸している。そこはデクの寝室にある、かつては巨人の父と町一番の長躯だった母が寝てもゆとりあるものよりは随分と人間寄りの、それでも十分な大きさのある寝台があるのだ。大人が二人並んで寝ても余裕があり、まだ少年であり寝相がすこぶる悪いというテイルと寝転がっても一向に狭く感じることはない。
 泊まりにきたときはそこに枕を並べて兄弟で眠る。ユールだけが泊まったことはこれまでに三度あったが、そのときはデクの寝室でともに寝ていた。しかし流石にテイルの前でそれをするのは憚られ、どちらが言い出したわけでもないが、ユールが個人で泊まる際にはデクとともに、テイルと泊まる際には兄弟で寝ることが暗黙の了解になっている。
 日中遊び倒したテイルとミルは余程疲れたのか、夕食の最中ですでにうとうとと船を漕いでいた。いつも騒がしいほどに明るい少年は口数が少なく、デクとユールは互いに苦笑し、今日はこれまでにないほど静かな食卓となった。
 どうにか食べ終わらせた頃にはもうテイルの瞼はくっつく寸前で、デクが抱え寝室まで運んでやった頃には案の定夢の中に旅立っていた。ミルも同じ有様だったが、デクが近づくだけでも気配を察し毛を逆立てるのでそちらはユールが担当する。
 一人と一匹をあらかじめ昨夜整えておいた寝台の上に横たえ、上から毛布をかけてやった。
 その後、ようやく向かい合ったユールがデクに何か言いかけたが、どうやらミルが夢うつつながらも起きたらしく、デクを見つけるなり唸ったために、ユールとは早々に挨拶を済ませて部屋から出て行った。
 寝室に戻り、デクは広い寝台に一人身を横たえる。無意識に深い溜息を零しながら、仰向けになり、目の上に腕を置く。
 折角兄弟たちが泊まりに来てくれたというのに、今日は明日を楽しみにして眠りにつくことが出来なかった。普段であればすぐにでも休息の闇へと落ちていくというのに、身体の奥から出てくるのは眠気よりもほのぐらいなにかだ。虚脱したような身体は動かすことさえ億劫で、何度でも溜息をつきたくなる。
 真っ暗な瞼の裏に見えるのは、ユールのテイルと、そしてミル。今日見た彼らが楽しげに遊ぶ姿だった。
 テイルとミルが一緒に部屋を駆け回っていた頃を思い出せば、自然と表情が緩みそうになる。しかしユールの顔をべろべろ舐めるミルを思い出せば自然と眉が寄りそうになった。どちらも微笑ましい光景であるはずだが、ユールのものの方だけはどうもおもしろくない、そんな風に思ってしまう。
 自分が除け者にされたから、とも考えたが、どうもそれは違う気がする。そうであるならばテイルのときもそう感じないとおかしいからだ。それに他人の楽しげな姿は見慣れている。だがそれは違うのだとはわかっても自身が抱く気持ちを説明は出来ず、持て余す感情にデクは戸惑っていた。
 自分は、この感情を知っている。知っているはずだが、どこで感じたことがあるものなのか、それがわからない。だがわかったところで気分が晴れることはないのだろう。
 寝つけず何度か無意味に寝返りを打っていると、遠くから忍ぶ足音が聞こえた。
 巨人の血を引くよく音を拾う耳でそれを知ったデクは身体を起こし扉に目を向ける。寝室の前で止まった足音の主は、夜の静寂の中で扉を控えめに叩いた。

「入っていい」

 姿の見えない相手をすでに知るデクが促せば、静かに扉が開く。そこから顔を出したユールが、窓から差し込む月明かりを頼りに近付いてきた。

「もう寝てるかと思ったけど、起きてたんだな」
「寝付けなかった。おまえもか?」
「ん? まあ、そんなもんかな」

 苦笑したユールは身体を翻し、寝台の端に腰を下ろした。

「まったく、随分嫌われたもんだな。おまえは動物に好かれやすい性質だと思っていたのに」
「――昔から、飼われている動物には嫌われやすい。人馴れしているからこそなんだろう」
「野生の動物に好かれる方が難しいってのに、不思議な話だな」

 ちいさく揺れるユールの肩を見つめながら、デクは内心では苦い汁を飲んだような気持ちになった。けれど相変わらずそれは表情には出てこない。

「それよりも、どうした。こんな時間に。眠れないなら白湯でも出すか」
「あー……いや、いい」

 歯切れの悪い返事にデクはようやく、ユールの様子がどこかおかしいことに気が付いた。
 がしがしと頭を掻く姿に思わず手を伸ばそうとしたところで、ユールが深く深く息を吐き出す。

「――よしっ」

 何やら気合の入れた声を出すと、ユールは振り返り、靴を脱いで寝台にあがった。四つん這で中心にいるデクへにじり寄ると、向かい合った場所に胡坐を掻く。
 行動を見守っているデクの目を睨むように見返して、両手を開いた。

「ほら」

 不本意そうな顔が何かを促すが、デクはユールの行動の意図がまるでわからず、困惑から僅かに眉が寄せる。暗がりのせいでそれに気づかなかったのか、ユールの眉間にもデクのものと似て異なる皺が刻まれた。
 しばしの間を置き、痺れを切らしたユールが苛立った声をあげた。

「はやく、甘えろよ」
「……あまえ……?」
「甘えろっつってんだよ」

 デクは目を瞬かせる。
 口の中で、甘える、と再度繰り返し、ようやくユールの言葉の意味を理解した。理解はしたが、それを告げた真意はまるでわからないままだった。

「それは、どういう――」
「ごちゃごちゃ考えんじゃねえ、聞こえてんならさっさとこっち来いよ」

 気長ではないユールは、デクの困惑が収まるのを待ちきれなかったらしい。
 広げていた右手をデクに伸ばすと、胸ぐらをつかみ、そのまま強引に自分の方へと引っ張る。踏ん張らなかった身体は前に倒れ、ユールの腕に頭が抱えられた。腰を曲げた体勢は息苦しさを覚えたがそれどころではない。
 咄嗟にデクが身体を起こそうとすると、ぎゅっとユールに頭を押さえつけられる。

「――今日は、ほっぽってて悪かったな」

 ぽつりと頭上に零れた言葉に、ようやくデクはユールの深夜の来訪の理由を察した。それを知ってしまえば想い奥底から溢れる。
 前屈みになった姿勢のままユールの腰と足にそれぞれ手を回し、頭を抱かれたまま彼を持ち上げ、強引に自分の胡坐の上に運ぶ。そのとき膝立ちさせられたユールだが、いつもなら強引なそれに吐き出される不満も今はなく、大人しくデクがしたいようにさせてくれた。

「謝らなくていい。それより、ミルの相手をしてくれて助かった」
「あんだけ愛嬌振りまかれたら構わずにはいられねえよ。それにおまえの恨めしげな眼差しも見れて面白かった」
「…………」

 遠目からでもわかるほどにあからさまに顔に出ていたのかと思うと、純粋に楽しんでいたミルたちに申し訳がない。
 デクの考えを悟ったユールは、テイルたちは気付いてないだろうよ、とからから笑った。その表情が見たくて、デクが胸に預けていた頭を動かそうとすれば、それを知ったユールが腕を緩める。
 顔を上げたデクは、相手の鼻先が触れそうなほど近くで緑の瞳を覗き込んだ。見たいと思ったさっぱりとした笑顔は早くも消えてしまっていたが、滲む優しげな光がまだそこにある。
 愛おしいと、垂れた目尻なのに柔らかな雰囲気よりも強い心を宿す瞳を見てそう思う。
 ユールをよく怒らせもするし、怒鳴られもするし、説教も未だに多い。だがそこには必ずと言っていいほど自分を想ってくれる気持ちがあり、そして自分を求める欲があるのを、デクはちゃんと知っていた。もちろんときには八つ当たりのような場合もあるが、他人には決して見せぬ甘えを曝け出しているのだと思えば苦笑いで受け止めたくもなる。それに、ユールが後でちゃんと反省していることも知っているから不快に思えないのだろう。それを告げれば、やっぱりおまえは馬鹿だと、以前ユールは苦い顔で言っていた。
 ユールとは正反対に、やや吊り目で一見尖ったような強い眼差しをするデクの目は、けれども宿すものは呆れるほどに柔らかで、すべてを包み込むかのように穏やかだ。
 デクが緑の瞳に吸い込まれていくよう、ユールもまたデクの蒼い瞳にのみ込まれていく。
 どちらからともなく顔を寄せ合い、そっと唇を重ね合わせた。
 すぐに離れて、デクはユールの両手を取り腹の辺りで握り込む。掴んだそれを揉みながら、少し下に引っ張り、前屈みになったユールの頬に自分の頬を押し付けた。

「――なに?」

 不思議そうな声に応えないまま頬をすりつけ、首筋にも同じことをする。もう片側にも同じように自分をなすりつけた。
 伸びたデクの髪が肌を擦ってくすぐったいのか、ユールは微かに笑い声を上げる。だが、どうやらそうではなかったらしい。
 明らかにこそばゆさを耐えたものでないことに気付いたデクがそっと頭を持ち上げれば、笑い声を噛みしめるユールがそこにいた。

「随分ミルに嫉妬したらしいな」
「……嫉妬」
「気付いてなかったのかよ」

 ようやく自身が抱えていたあの仄暗い感情の名を知ったデクは、だからこそ覚えのあるものだったのかと納得した。
 思い出すのは、魔女の家からの帰り道。ユールへの想いを自覚したあのときのこと。いずれユールの隣に立つのであろう彼の長年の想い人へ向けたものにとても似ていたから、だから知っていたのだ。
 あのときはユールを騙していた罪悪感も強い羨望も混じっていたし、どちらかといえば届かぬ存在であったがためにそれほど色濃いものではなかったが、今ではデクの立場は恋人である。純粋に、ユールに甘えるミルに嫉妬していたのだ。
 べろべろと顔を舐め回し、さらには事故といえども舌まで入ったというあの時を思い出し、思わず瞳が陰りそうになった。それをユールは目を細める。

「そんで、もう匂い付けは満足か?」
「……わかって、いたのか」
「おまえはわかりやすいからな」

 そんなことをデクに言うのはユールくらいなものだろう。そんな言葉を告げずに思い浮かべながら、デクはなんとも表しがたい顔をする。表情が豊かであれば頬が真っ赤に染まっていたかもしれないが、半巨人はただちょっぴり眉を垂らしただけだ。
 頭の下にある掴まれた手をユールは解かせ、改めて指先を絡めぎゅっと大きな手を握った。

「どうせなら、もっとちゃんとつけろよ。そうそう落ちちまわねえくらいに」

 それぞれの瞳に熱が籠るのを、デクとユールはしっかりと見つめていた。

 

 

 

 兄弟で泊まったとき、ユールはいつも先に起き出しているため、一緒に寝ていたはずの兄の姿がなくともテイルはとくに気にしなかったようだ。
 普段であればまだ寝足りなさげに目を擦りながら居間にやってくるが、今回はミルとともに駆け込んでくる。
 薄手の毛布を肩からかけ大人しく椅子に腰かけるユールを見つけたミルは、昨日出会ったばかりのときのようにユールに飛びつこうとした。しかし勢いよく回していた足は飛ぶ寸前で止まり、代わりに戸惑ったようにユールを見上げる。

「悪いな、ミル」

 くりっとした黒目に宿る困惑に、ユールは手を伸ばして頭を撫でてやることもなくただ言葉だけで謝罪する。後ろからやって来たテイルがミルの様子を見て首を傾げた。

「どうしたんだろミル。昨日はあんなに兄貴に懐いてたのに」
「昨日おまえが寝たあとにデクの部屋でちょっと酒飲んだんだよ。だから、酒臭いんじゃないか?」
「あっ、兄貴たちだけで楽しんだんだな! へん、いいもんね、おれがミル独り占めしちゃうから!」

 どうやらテイルにとって自分が参加できない大人の楽しみよりも、ミルを独占出来る方が嬉しいらしい。恨めしげな様子も一切見せず、兄がまったく酒の香りを纏っていないことも深く考えないままミルに笑いかける。
 そこへ、朝食を運んだデクが顔を出す。途端にミルは唸り、テイルの影に隠れてしまった。

「おはようデク」
「おはよう」
「なあ、朝ごはん食べ終わったらミルと外に行ってもいい? おれちゃんと見てるから」
「ああ」
「森にはいくな、町の広場の方に行けよ。あと、昼にはちゃんと帰ってくること」
「わかってるよー」

 兄の注意を聞き流しながら、挨拶もそこそこにテイルは用意された朝食を掻き込む。今日ミルが飼い主のもとに帰ってしまうと伝えてあるから、少しでも長く遊んでいたいのだろう。
 憮然とした表情で弟より遅れて朝食をとりはじめたユールに続き、その隣に腰かけるデクもパンを口に運ぶ。
 デクたちが半分も食べ終わらぬうちに食事を腹に収めたテイルは、最後に杯に注がれた水を一気に煽り、湿った口元を袖で拭う。

「ごちそうさま!」
「よく噛んだのかよ」

 自身の早食いを棚に上げ呆れた目を向けたユールだったが、それを気にも留めないテイルは流しに空になった皿を置きに行き、その足でミルとともに巨人の家を飛び出した。

「いってきまーす!」
「おう、いってらっしゃい」
「気を付けて」

 朝から元気なものだと、弟が消え静かになった家の中でユールは湯気の立つ茶を啜る。同じく杯を手にして水を飲んだデクは、食事を再開したユールを伏せ目がちにしばらく窺い、ようやく声をかける。

「昨日は、その……無理、させたな。すまない」
「おかげで身体がだるくってしかたねえよ。テイルたちのあと追えそうにもねえ」

 昨夜を思い出したデクが巨体を心なしか小さくさせていく。その姿を見ながらユールはこっそり笑った。

「だから、今日は責任もっておれの面倒見ろよ」
「――よろこんで」

 珍しいデクの返答にユールが口元を緩めれば、そこを見つめていた蒼い瞳がすうっと細くなる。
 静かに顔が落ちてきて、長い黒髪が頬を撫でた。
 ユールもそっと目を閉じようとした、そのとき。

「水筒忘れた! デク、貸して!」
「……っ、あ、ああ」

 突然開いた玄関の扉に、咄嗟にデクが立ち上がる。その勢いを受け止めきれなかった椅子が大きな音を立てて後ろに倒れた。
 派手な音に驚いたミルがわんわん吠えて、珍しいデクの同様にテイルはきょとんと瞬き、そしてユールは声を上げて笑ったのだった。

 


 ミルが何故ああもデクを嫌うか、最後まで誰も知ることはなかったが、それは飼い主のグンジに原因がある。
 ユールの助言によりようやくデクが心を許し始めてくれたことが嬉しくて、一時ばかりデクのことばかり話していた時期があった。そのときにミルを蔑ろ(遊ぶ時間が少し減っただけ)にしてしまったがために、ミルはすっかり飼い主の心を奪ったデクを嫌いになってしまったのだ。
 その事実を知る者は、誰一人としていない。


 おしまい

 

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デクが嫉妬する話、を書かせていただきましたが、いかがだったでしょうか?
少しでも楽しんでいただけたのであれば幸いです。

とりあえず動物相手に嫉妬する、ということで即マーキングが思い浮かびました。
自分のものだと主張するための匂い付け……個人的には大好きです。
今回もまた結局ユールが手を引いてくれましたが、もうあれはあのふたりには仕方のないことなのだと生温かに見守ってくださると嬉しいです。

少しは恋人らしい雰囲気が出ていたでしょうか。
自身はあまりありませんが、とりあえずその後の二人はあんな感じであり、テイルも無垢に育っております(笑)
仕事仲間とも順調、幸せな日々です。

真誇さま、今回は同人誌に掲載する番外編の校正をしていただき、本当にありがとうございました。
自分では案の定見落ちしていた誤字やら文法の誤りやら、読みづらい箇所やらご指摘いただけてとても助かりました。
そのお礼と言ってはささやかなものですが、こちらの作品を捧げさせてください。

どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

2014/02/07