おいしい匂い

本編完結後



 家に入ったウォルは大荷物を床に置くやいなや、ふうと大きく息を吐いた。

「やっと家に着いたあ!」

「おかえり、ウォル」
「うん、ただいま。エンもおかえり」
「ただいま」

 同じく背負っていた荷を下ろしたエンの目尻に唇を落とし、外套の下でぶんぶんと尻尾を振った。ばさばさと揺れる外套が邪魔そうで、笑いながらエンが脱がせてやる。

 続いてエンも自身の外套をとり、靴も脱いで室内用のものに履き替えると、ようやく一心地着いた気分になれた。ウォルも裸足になって背伸びをしている。
 十日ほど空けた家の中をざっと見回すが、行くときと何も変わりない。埃が溜まるほどの期間でもないので、エンはいつも通りお湯を沸かしてお茶を淹れる。
 玄関には買って来た荷物が溜まっているが、まずは長旅の疲れを癒すのが先だとウォルにも休憩を勧め、二人は向かい合って席に着いた。
 お茶のお供に買って来たばかりのお菓子を添える。淹れたてのお茶を一口啜ると、ほっと身体から力が抜けるのがわかった。
 猫舌のウォルはふうふうと一生懸命に湯気の立つカップに息を吹きかける。そろそろいいかと一度飲もうとして、やっぱり止めてまずはお菓子を一口摘まむ姿にこっそりエンは口元を綻ばせた。

「それにしても、すごい人だった」

「そうだね。でもその分店も多かったし、欲しいものがだいたい買えたらよかったよ」

 今回買い出しに向かったのは、馴染ある近くの町ではなく、もう少し足を伸ばした先にある規模の大きな町だった。他国からの交易船がやって来ることもある港があり、そして人もたくさん集まっている。店は多く連なり、輸入品なども取り扱うので珍しい種類の品を手に入れることもできた。

 これまでにも年に一度、必要なものを買い出しに出ていたのだが、今回はウォルも一緒に連れて行き、今はようやく家に帰ってきたところだ。

「ばれなくてよかった」

「ほんとね。ウォルってばあっちこっちふらふら行くからひやひやしちゃったよ」
「美味しい匂いがどこからもしてたから、つい」

 すっかり人間の食事に味をしめたウォルは、獣の鋭い嗅覚で遠くから漂う食べ物屋の匂いにも興味を持ってしまうので、引き止めるのが大変だった。

 一度はぐれてしまったときには、幸いすぐにウォルがエンを見つけてくれたが、本気で手綱でも付けるべきかと悩んだくらいだ。
 さすがにそれはいやだったウォルは、その代わりに手を繋いでほしいと言ってきた。エンの手を取りむしろご満悦の表情になっていたが、エンとしては大の男同士が堂々と手を繋いで歩く姿を見る周りの目が気になってそれどころではなかったけれども。
 変な輩に構われることもなく、いつも顔を出す薬屋の店主には「仲がいいねえ」と和やかに言われたときにはウォルが嬉しくて尻尾を振りそうになったには慌てたが、そのくらいで済んでよかった。
 つがいであるエンに触れていることでウォルも落ち着いたらしく、その後は食べ物の誘惑にもつられず、人の多さにも慣れて落ち着いて買い物をすることができた。
 一応、ウォルの気配を薄くする魔法はかけていたし、フードも誤って外れてしまわないよう固定していたが、外套の下には獣の耳と尻尾がそのままだったので町から出るまでは心配は尽きなかったが杞憂で終わったことに安堵する。
 ウォルをつれていくことには間際まで悩んだが、いざという時のためにも森や近くの町以外も知っておいてもらいたかったことと、エンと離れることはできないという本人の強い希望もあって同行させることにした。結果として無事に帰宅できたし、ウォルも初めての場所に気疲れはしているもののそれなりに楽しめたようで、連れて行って正解だったと思う。
 一服したエンたちは、さっそく荷解きに取り掛かった。
 いつもは運べる荷物に限りがあり泣く泣く諦めていたものが多かったが、今回はウォルがいてくれたおかげで随分買い込むことができた。
 ウォルには頑張ってもらうお礼に、なるべく屋台の食事をご馳走したこともあって張り切って手伝ってくれた。たとえ見返りがなくてもつがいのためなら荷運びくらいいくらでも手を貸すと言ってくれたが、それではエンの気が済まない。なによりきらきらした瞳で屋台に並ぶ食事を凝視して、今にも涎を垂らしそうなウォルに、美味しいものを食べさせてあげたいというのもつがいとしてやりたかっただけというのもある。
 行きはどんな場所かエンに尋ねてばかりだったが、帰りはあれが美味しかったこれが面白かったと港町の感想を言うウォルを微笑ましく思ったものだ。
 日用品関連はウォルに任せ、エンは薬草や食材などの整理をしていく。
 先に終わらせたウォルが手伝いにやってきて、机に並べられたものを見てぴんと耳を立てた。

「エン、それ……」

「ふふ、気づいた?」

 視線の先にある黄赤色の身を手に取り、エンはつい口元に笑みを浮かべる。


「これ、前にウォルが甘酸っぱくて美味しいって言っていた果物だよ。季節的にもうないかと思ったけど、露店で見つけたんだ」


 この近くでは採れない果実で、少し前に行商人から購入した際にこの実でパイを作ったとき、よほどウォルの好みだったかいつもよりも勢いよく食べ終えて、滅多に作れるものではないと知ってとても落ち込んでいたのだ。

 また食べさせてやりたいと思っていたが、運よく港町で仕入れることができた。後で驚かせてやりたい一心でここまで内緒にしていたので、驚いた表情と次第に大きく振られていく尻尾を見せるウォルの反応に、エンとしても大満足だ。

「多めに買ったから、ジャムにでもしようか。そうすればゆっくり食べていけば長く楽しめるだろうし、明日にでも作ってあげるね」

「それ、ウォルも手伝っていい?」
「いいよ。それなら種をとるの手伝ってもらおうかな」

 この果実は皮ごと煮詰めるのでそんなに手間はないし、まだ刃物に慣れていないウォルでも作業に問題はないだろう。


「ううん、全部手伝う」

「全部って……ジャムは火を使うから、無理はしなくていいんだよ?」

 これまでにも他の果実でジャムを作ったことがあるので、大まかな工程はウォルも知っているはずだ。だからこそエンは火にかける前の下準備をお願いしようと思っていた。

 ウォルは最近まで野生の狼として生きていたこともあり、火を恐れている。これまで調理の手伝いも、火の傍には寄れずに申し訳なさそうにしていたくらいだ。
 エンは慣れているし、別にウォルが火を使えなくても問題はない。その代わり力仕事を積極的に担ってくれているので、むしろ生活は楽になったくらいだし、適材適所で担当していけばいいのだから。
 火が使えたら何かと便利ではあるが、いざとなればウォルの生活には不要で過ごせるくらいだし、別に克服させる必要もないのだから、本能が恐れるものを無理矢理扱えるようにならなくてもいいとエンは考えていた。

「火は怖いけど、でも頑張る! エンと一緒に作りたい。食べたい」

「わかった。じゃあ、明日は一緒に作ろうか」
「やった!」
「その代わり、無理はしちゃだめだからね。本当に駄目だと思ったら素直に止めること。挑戦するのはいつだってできるんだから」
「わかった。でもエンにおいしいジャム食べさせてあげたいから頑張る」

 健気なことを言うつがいに相好を崩しながら、エンは大事な果実を丁寧に籠に移していった。






 鍋の中で煮詰まりとろりとした艶の出たジャムを味見したエンは、大きく頷いた。

「うん、おいしくできたね。ウォルのおかげだ」

 明らかに緊張した面持ちで様子を伺っていたウォルは、エンの言葉を聞いてぴんと耳を立たせた後に豊かな毛に覆われた尻尾をぶんぶんと振り回した。

「おいしい? 本当に?」
「うん。ほら、ウォルもどうぞ」

 まだできたてで熱を持つジャムに息を吹きかけ、十分に冷ましてから一口分を差し出す。
 躊躇わずそれを咥えたウォルはしっかりと味わうのにもごもご口を動かしたが、答えを聞くよりも早くその表情と感情豊かな耳と尻尾が感動するように震える姿に、大満足していることはわかった。

「ね、おいしいでしょ。ウォルが焦げないように鍋を見てくれていたおかげだよ」
「エン、もうちょっと食べたい。今日のおやつにしよう」
「いいよ。ビスケットも冷めたみたいだし、このままおやつにしちゃおうか」

 もともとできたてのジャムを楽しむために、ジャム作りより先に取り掛かってビスケットを焼いていた。もう熱は取れていたので籠に入れて、ジャムもいくらか皿に移してテーブルに並べる。
 濃いめに淹れたお茶も用意して、二人は向かい合わせに座って早速できたてのおやつをひとつ堪能した。
 たっぷりの砂糖で煮詰めたジャムは果実の持つ酸味を和らげつつ程よく混ざり合い、甘酸っぱい。バターの風味がきいたビスケットとよく合い、口に残る甘さをさっぱりとしたお茶で流すのがちょうどよかった。
 ウォルが手伝ってくれたことで、エンもいつも以上に丁寧に作ろうとしたこともあり、また果実がよく熟していることもあって本当にいつもよりも美味しくできた気がする。
 鍋を掻き混ぜるために火の傍に行くとき、ウォルの耳がぺたりと寝て後ろに流しつつ、ちょっと腰が引け気味だったのは可哀想だったが、こうして本人も満足のいくできになったのはよかった。努力の様子もほどよい隠し味になっているのだろう。

「エン、もっと食べて」

 つい口元を綻ばせながら味わうエンの様子をじっと見ていたウォルは、新しいビスケットを手に取り、ジャムをつけてそれをエンに差し出した。

「ありがとう。でも、ウォルも食べな。なくなっちゃうよ」

 受け取ったビスケットを口に入れて味わいながら、エンも同じようにジャムを乗せてウォルに差し出す。

「はい、どうぞ」

 身を乗り出して顔を伸ばしたウォルは、大きく開いた口から人間よりも鋭く長い牙が覗くが、エンの手を傷つけないよう気をつけながら直接食べた。

「おいしい!」
「自分で作るとなおのことおいしいでしょ」

 エンにとっては料理は日常の一部で、毎日のことに手間に思うことも少なくない。時々思ったよりも美味しくできた時は気分が上がることもあるが、自分の手料理に感動することはすっかりなくなってしまっていた。今ではウォルがなんでも美味しそうに食べてくれるので作り甲斐があるが、一人暮らしのときには適当に済ますこともよくあったくらいだ。
 でもウォルはまだ料理に慣れていないので、作ること自体が楽しいと思ってくれたら嬉しい。

「自分で作ったのおいしいけど、いつもおいしいよ。エンの作ったのも大好き。でも、エンに食べさせてもらったら、もっともっとおいしい」

 まだウォルの正体を知らなかった時からも薬はエンの手からのみたがるなどあったが、エンからすれば何が変わるのかまったくわからない。
 それでもエンの肌ごと味わうことが好きなおねだり上手なつがいは、目線だけで訴えてくる。
 苦笑をしながら、エンはもう一度ビスケットを指先でつまみジャムを乗せた。

「ほら、どうぞ」
「ん! エンも!」

 ウォルは食べながら同じようにエンにビスケットを差し出してくる。
 交差する互いの腕に変なことになっていると思いながら、ウォルがしたがっているので大人しく食べさせ合う。
 期待する眼差しを受け、今度はエンもウォルの手づから口に入れると、ウォルはますます嬉しそうに表情を緩めた。

「おいしい?」
「うん、おいしいよ」

 ビスケットにジャムを乗せただけなのだから、ここにあるものを何度食べても味わいはそう変わらない。だが確かに、尻尾を振っているウォルに見守られているとより甘みを感じておいしいような気がした。
 ウォルに食べさせてやることはたまにあるが、自分がしてもらうことはそうあることではない。ウォルに食べさせてもらうのはなんだかむず痒さを覚えて身体の熱が上がるような気がするが、それ以上にまだほんのり温もりを残す菓子と一緒に身体に入ってきたあたたかさが心地よかった。

「エン! もっと食べて! 次!」

 再び用意しようとしている菓子もエンに食べさせるつもりのウォルは、張り切りすぎてジャムがたっぷりになっている。
 あれは甘そうだと思いながら、エンも同じように、自分で食べるためではなくウォルに食べさせるためのものを準備した。

「ほら、ウォルも」

 ウォルは時折じゃれてエンの指ごと甘噛みしながら、もしくは舐めながら、つがいとののどかな昼下がりは過ぎていく。

「はあ、おいしかったね。次はパイにして食べようか」
「うん! 次も一緒に作る」
「じゃあ他にもミートパイも作って、ルティウルナさまたちにもおすそ分けしようか。ウォルが作ったって言ったらみんな喜んでくれるよ」

 パイならエンが作っているのを何度も見ているし、それほど難しくはない。ジャムほどつきっきりで火の傍にいるわけでもないし、次に作るものとしてもちょうどいいだろう。
 時折狼たちには彼ら用に調整した食事を差し入れることがあるが、ウォルは少し手伝いをするくらいだった。次回パイを作る際にはエンも補助するが、ウォルが主体となって作ってもらってルティウルナたちを驚かせてやりたい。
 ウォルも気合いを入れて今から張り切っていた。その口元に食べかすがついていて、指先でちょんと突いてやる。

「今日は満足できた?」

 指摘されてぺろりと口の周りに舌を伸ばして舐めとったウォルは、すぐに頷くかと思いきや、しばしじっとエンを見つめてなにやら考え込む素振りを見せた。

「――足りない」
「え、足りなかった?」

 エンとしてはしっかりとした甘さのあるジャムとビスケットで十分腹が膨れていたが、エンよりも食べていたウォルは確かにどこか物足りなさそうにエンを見つめている。

「それなら他に何か出そうか? 夕飯もあるし、ちょっとだけね」


 さすがにたっぷりの砂糖で煮詰めたジャムをこれ以上食べるのは身体によくないと思い、炒った木の実があったはずだと腰を浮かせたエンとともに、何故かウォルも席を立った。


 「どうしたの」と問いかけようと開きかけた口を、隣にやって来たウォルの顔が近づき、べろりと唇の端を舐められた。


「え、もしかし、っん……」


 ぼくにも食べかすがついていた? と聞こうとしたができなかった。ウォルが今度は唇を舐めると、そのまま開いたエンの口に舌を差し入れてきたからだ。


「ぅ、ん……」


 驚いているうちにぐいぐいと押されて背が仰け反っていった。

 器用な舌先が口内を丹念に舐めとっていく。少しでも残るジャムの甘さを味わうようなそれは、口づけというより食われている、とエンに思わせた。
 押し返そうとすれば咎めるようにより深くウォルが入り込み、あやすように舌先が優しく上あごを撫でていく。

「は、ぁ……ん……っ」


 いい加減エンの呼吸と体勢が苦しくなってきたところで、ウォルは唇の繋がりを解いた。

 息を吸い込むのも束の間、ふわりとした浮遊感に咄嗟に近くのウォルの身体にしがみついた。
 どうやらウォルに横抱きにされたらしく、軽々とエンを腕に抱えたまま、まっすぐと寝室に向かう。
 寝台にそっと置かれると、そのまま首筋に鼻先を寄せてきた。

「エン、いい匂い。甘い匂い」


 ジャムを作っていたので匂いが移ったのだろう。だがそれはエンだけではなく家中にまだ濃く漂っているし、何より覆い被されっている男からも香ってきている。


「ウォルだって同じだろう」

「同じじゃないよ。エンの匂いと混ざってる。ウォルとは違う。もっと甘くて、でもさっぱりしていて、エンらしくて」

 言葉を区切ったウォルが耳裏に鼻を突っ込み、深く息を吸い込む。ぞわりと身体を震わせたエンが逃げられないよう押さえつけながら、頭を起こしてエンの顔を覗き込んでくる。


「おいしそうな匂い――」


 間近で見る金の瞳は、欲に濡れ滴るような雄の色気を纏っていた。


「うぉ、ウォル……?」

「足りないよ、エン。もっと欲しい。エンが欲しい」

 口を重ね、再び潜り込んできた舌がエンの舌と絡み合う。

 するりと服の下に手が入り込んできても、抵抗することはなく、エンは服従する獣のように無防備に腹を曝け出してウォルを受け入れた。
 カーテンを引いているがまだ外は明るく、互いの姿がはっきり見えた。それに羞恥は強くあったが、太腿に当たるウォルのものがすっかりその気になっているのに止めるのは可哀想だと思ってしまったのもあるが、なによりつがいに触れられて喜ぶ身体はもう受け入れる準備を始めている。
 ウォルの熱にすっかりあてられてしまった。エンだって火がともった身体をここで放り出されても困ってしまう。
 いったいどこにそんな気分になるところがあったのか、聞きたいところではあるが、それは後にしよう。今はただ、ウォルに触れられる喜びを素直に受け止めたい。
 自分は淡白なほうだと思っていた。物欲も少なく、何かを求めることはあまりなかった。でもつがいに関してだけは違うらしい。
 ウォルは豊かな愛情表現でいつだってエンを満たしてくれている。けれど満足しているはずなのにいくらでもウォルがほしいし、それが叶う好機はなるべく逃したくないとも思う。ましてや求められるのであれば、自分が明け渡せるものならいくらでも与えたいとさえ願う。
 ウォルの首に腕を回し、自分の胸に抱き寄せた。素直に肌に額を寄せたウォルの髪に、いつも自分がされるように鼻先を潜り込ませて深く息を吸い込む。
 果実の香りの中に、森と陽の匂いがする。いつも日当たりのいい場所で日向ぼっこをしているからだ。それと、獣の匂いも。エンにはないもの。
 エンには自分の匂いがわからないが、ウォルの匂いならわかる。
 落ち着き安堵できるものでいつでも傍にあってほしいと思う。そしてこれに汗の匂いが混じり出すと反対に身体がざわめき、本能が理性を押しやっていく。もっと感じたくなる。触れたくなる。舐められ、齧られ、そうしてエンがウォルを味わいたくなる。
 ウォルの匂いをおいしそうと思ったことはない。けれども、今は少しだけその言葉の意味がわかる気がした。

「きれいに食べてね、ウォル」


 返事をする代わりに、ウォルはエンの喉元に舌を這わせて、肌をじっくり味わっていった。

 おしまい

 



2023.10.20