六年後のつがい


J庭54 無配本
完結から六年後のお話



 用を済ませたエンは町の広場まで足を運び、空いているベンチに腰を下ろした。
 抱えていた荷物を脇に置き、一息つきながら広場の中心に目を向ける。
 視線の先には広い遊び場を元気に走り回る五人の子どもたちと、そんな彼らを追いかける長身の青年がいた。
 青年が捕まえようとするのを、子どもたちはきゃあきゃあと楽しげに声を上げながら逃げつつ、協力して背後に回り込もうとする。
 子どもたちが狙うのは、青年の後ろに生えている立派な毛並みの尻尾だ。青年の髪と同じく灰褐色をした被毛に覆われた長い尾をいくつもの小さな手が捕えようと襲いかかるが、腰を翻して軽々と避けていく。
 尻尾を掴まえようと前のめりになりすぎて転びかけた子どもの身体を、青年がさっと抱え上げた。

「ティルとグレア、つかまえたっ!」

「きゃあ、つかまった!」
「たすけてー!」

 大きく上がる声は救いを求めながらもはじけるような笑い声を上げている。足をばたばたとさせるだけで抵抗らしい抵抗はなく、周りを取り囲む他の子どもたちも騒ぎながらもみな楽しそうだ。

 広場の端で子どもたちの遊ぶ姿を眺めながら憩う大人たちが穏やかに表情を緩める。
 エンも微笑ましい光景にふっと吐息を漏らすように笑うと、青年の頭上にある獣の耳がぴんと立ち上がり、振り返った彼の金の目がエンを捉えた。

「あ、エン!」

「あーっ、魔女さんだあ!」

 狼の耳と尻尾を持つ青年、ウォルがエンに気がつき、追いかけっこを中断して駆け寄ってきた。


「こんにちは、魔女さん!」

「こんにちは!」
「こんにちは」

 ウォルの両脇に抱えられたままの子どもたちに挨拶されて、エンも柔らかな笑みを浮かべる。


「エン、もういいのか?」

「うん。買い物は終わったよ」

 町には買い出しのために来たのだが、到着早々にウォルは子どもたちに取り囲まれてしまった。今日は買うものも少なかったので、ウォルのことは子どもたちに預け、エンだけで買い物を済ませてきたのだ。

 ちゃんと用を終わらせた証明である購入した荷物が詰まった大袋をぽんぽんと叩く。

「ぼくは休憩しているから、もう少し遊んでていいよ」

「いや、エンが大丈夫ならもう帰ろう」
「えー、ウォルかえっちゃうの?」

 エンから許可をもらい遊びの時間が増えたことに喜んでいた子どもたちだったが、静かに地面に下ろされて、不服そうにウォルを見上げた。

 小さな唇が愛らしくもつんと突き出る。

「もっと遊ぼうよ」

「まだウォルのしっぽ、つかまえてないのに!」
「エンが帰ってくるまでって約束だったから、もうおしまい」
「でもぉ」
「こら、わがまま言わないの」

 一緒に遊んでいた他の子どもたちも、遊びの輪から飛び出したウォルを追いかけやってきた。そのなかでも一番背の高い少年が「うー!」と不満気にうなりながらウォルの手を引いた子をたしなめる。


「約束は守らなきゃ。それにウォルは魔女さんが大好きなんだから、ふたりの邪魔しちゃわるいよ」

「え……そ、それは……」

 確かにウォルは、エンのことが大好きだし、公言もしているので間違いではない。だが自分の背の半分にも満たない子どもたちにそう言われてしまうと、なんとも気恥ずかしくて急に尻の座りが悪くなる。

 それまでぶうたれていた子は、年長の子の言うことにあっさりと同意した。

「そっか、ウォルの魔女さんだもんね」

「ウォルは魔女さん大好きだもんね」
「ならしょうがないかぁ」
「じゃあまた町にきたら遊んでね!」
「つぎは魔女さんもいっしょね!」

 各々納得すると、エンたちに手を振りながら風のように広場の中心へと戻っていった。

 年長の子も後を追おうとしたのを引き止め、荷物から取り出した小袋を手渡す。
 袋の中身を覗いた少年は、たっぷりと入っているクッキーを見つけてきらきらと瞳を輝かせた。

「あとでみんなで食べてね」

「ありがとう、魔女さん!」
「ウォルと遊んでくれたお礼。あ、食べる前にはちゃんと手を洗うんだよ」
「はあい!」

 元気に返事をした少年は、エンたちに大きく手を振りながら友達のもとに戻っていく。

 手を振り返して見送るエンの隣で、ぽつりとウォルがつぶやいた。

「遊んであげたのはおれなのに……」


 じっとりとした眼差しを向けられる。だが本当に訴えたいのが言い方ではないことをエンはちゃんと承知していた。

 狼として育ったウォルだが、エンと暮らし始めて人間の食事を摂るようになってからというもの、料理の味に目覚めた。今では生肉をかじるよりも調理されたものを好み、とくに甘い菓子には目がない。
 つまり食い意地の張ったこの人狼は、お菓子は子どもたちの分だけで自分にはないのか、と言いたいのだ。
 子どもたちに遊んでもらっていると言われることに実際は気にもとめていない。そういうことにはまったくこだわりはないのだ。

「ちゃんとウォルの分もあるよ。家に帰ったら一緒に食べよう」


 まだ町中ということもあり、控えめに尻尾を振りながらウォルは嬉しそうに頷いた。

 用意したお菓子が、子どもたちに与えた焼き菓子よりもちょっといいものにしていると教えたら、ウォルはどんな表情をするだろう。
 いつもなら差をつけたりしないが、今日は特別だから。
 どんな反応をするか、早く打ち明けたい気持ちもあってうずうずするが今は我慢だ。
 家に帰ってお菓子を目にしたウォルを思うと楽しみでたまらなかった。

「荷物、これで全部?」

「そうだよ」

 エンの隣に置かれている大袋を手にとったウォルは、さっとそれを肩に担いだ。


「わかった。じゃあ家に帰ろ」


 エンが立つのを待ち、二人は肩を並べて歩き始める。


「今日は時間にゆとりがあるし、もう少し遊んでいても別によかったのに」

「約束は守るものだから」

 少々ずる賢く立ち回ることもあるウォルだが、守れない約束はしないし、安易に破ることも、破らせるようなこともしない。それは子どもが相手であっても、日々の何気ない約束事においても大切にしていることをエンは知っている。

 それでも遊び足りなさそうにする子どもたちを見るとエンはつい甘やかしてしまいたくなるので、こういうところは彼を見習わなければいけないといつも感心してしまう。

「それに、エンのことが大事なのも本当」


 さらりと付け加えられて、何か言い返そうと口を開いたものの、結局なにも告げることができずにすごすごと顔を伏せた。

 ウォルの視線から逃げてはみたものの、きっとほんのりと熱を上げた頬の赤みには気づかれていることだろう。
 いつも真っ直ぐな愛情を向けてくれるウォルに、いつまで経っても慣れない反応をしてしまうのが恥ずかしい。時を重ねれば自分に自信もつき、素直に愛情を受け取れるようになるかと思っていた。実際につがいになったばかりの頃よりウォルの言葉を真正面から受け止められるようになったが、不意打ちにはまだ弱い。
 エンをからかって顔を覗き込もうとしてくるウォルから早歩きで逃げていると、向かいから歩いてきた町人がエンたちに気がついた。

「あ、ウォルくん。今度町に来たときにでも、この間の続きをやりたいから手伝いを頼めるかい」

「わかった。明後日また来る予定だから、声をかける」
「ありがとう。それじゃあまた。魔女さんも」
「ええ、また」

 その町人をはじめ、すれ違う人々は次々に声をかけてくる。


「やあ、魔女さん、ウォル。家に帰るのかい? 気をつけてな」

「魔女さん、この間は薬をありがとう。おかげさまで随分良くなったわ」
「帰るんだったらこれ持っていきなさいよ。荷物増えちゃうけど、ウォルがいるなら平気でしょ」
「ああ魔女さん、ちょうどよかった。あのときの礼を渡したかったんだ。また相談に乗ってくれ」

 エンたちが帰り際だということを理解している町人たちは引き止めることなくさっと別れていくが、不思議と二人の腕には町人たちから貰った荷物が増えていく。

 町から出る前に袋の空きがなくなり、手で持つにも限界がきたため、最後のほうは申し訳なくも断るしかなかった。
 これまでは一人で森の奥に帰るエンに遠慮していた町人たちだったが、ウォルと町を訪れるようになってからというもの、運び手が増えたことによりよくお土産を持たせてくれるようになった。
 エンは魔女としてというより、薬師として町に貢献しているし、ウォルも声をかけられれば嫌な顔ひとつせずあちこち手伝いをしているので、町の者たちは二人に感謝しているらしい。
 でも、本当に感謝しているのはエンたちのほうだ。
 本来は迫害の対象ともなりえる魔女のエンを善良な者として認めてくれた。そして何より、獣の姿を持ち、人の姿になっても獣の耳と尾を残す異形のウォルをこの町は受け入れてくれたのだ。
 当たり前に声をかけてくれて、笑いかけてくれる。幼い頃からこの町の隣人として育ってきているエンだが、これが当たり前ではないことを知っていた。ウォルも理解しているのでなおのこと町に馴染めるよう努力だってしてきた。
 その結果が笑顔で子どもたちと走り回るウォルと、そしてそれを微笑ましく見守るエンや町の大人たちの姿だ。大きな笑顔を見せるウォルの口元から人間よりも鋭い牙が覗いていても、たとえ狼姿で子どもたちに囲まれ、その小さな手に揉みくちゃにされていても、もう誰も止めに入ることはない。

「今日はずっと追いかけっこしていたの?」

「最初はおままごとしてた。そしたら子どもが増えてきたから、捕まえっこにした」
「ああ、だから尻尾追いかけられていたんだね」

 よく子どもたちとしている遊びのひとつに、尻尾追いというのがある。

 ウォルが尻尾を掴まれたら負けの遊びだ。ウォルは子どもを掴まえて妨害するのは許されているので、両脇に抱えて走り回るのだが、尻尾を追いかけるだけでなく雑に抱え上げられるのも結構楽しいらしい。しかも見事尻尾を捕まえた子にはそのままもふもふする権利が与えられるということもあって、時折本気の目で挑む子どももいた。
 ウォル対複数人の構図だが、なかなかにすばしっこく器用に立ち回るのでそう簡単には捕まえられない。体力も多く疲れ知らずで、それに狼姿もありなのであとちょっとのところで逃げられてしまう。子どもたちは頭を使いながら協力するので、意外といい学びになっているらしい。
 ただし狼姿になると人間の服は脱げてしまうので、獣になるのは姉から貰った自動で服の着脱ができる魔法具を身に着けているだけとしている。前に一度うっかりそれを忘れて全裸になってしまい、そのときばかりは町の大人たちから怒られたのでウォルも気をつけるようにしているようだ。
 エンも一度だけ子どもたちに誘われて混ざってみたが、速攻で追いかけられるはずのウォルに追いかけられて捕まり、そのまま膝抱きにされて振り回されて以降参加していない。子どもたちだけでなくウォルからも誘われているが、振り落とされないようウォルにしがみついてしまった姿を、「騎士とお姫さまだ!」なんてきらきらした羨望の眼差しを受けたことが記憶から消せない以上無理だ。

「おままごとはどんなの役をしたの?」

「最初は旦那さんやってって言われたけどだめって言ったら、お隣の格好いい思わせぶりな態度をとるお兄さんにされた」
「思わせぶり……?」
「最近の子はなかなか凝った話を作るよね」
「……別に、旦那さんやっても、いいんだよ?」
「おままごとでもできないよ。だっておれはエンのつがいだもん。エンがお嫁さん役してくれるなら喜んでやるけどね」
「まあ、それなら夫役は誰にも譲らないけど」とウォルはからりと笑うのに、エンはまた静かに顔を隠すよう俯くしかなかった。

 配役を決めた子はきっと、ウォルだから夫役をやってもらいたかったのだろう。次に与えられた役が思わせぶりな態度をとるお隣さんなあたりなかなかに露骨だ。

 狼は群れ全体で子育てするということもあり、ウォルも面倒見がいい。漲る子どもたちの体力に際限なく付き合えるし、大人としてではなく、同じ目線になって遊んでくれるウォルは随分懐かれている。なにより狼姿が大人気だ。
 エンとウォルがつがい、人間でいう夫婦のようなものであることは町の人たちはみんな知っている。子どもにも隠しているわけではないが、幼さ故に理解しきれないところもあるらしく、もう相手がいることを知らずにウォルに初めて恋をする子も少なくない。
 それに子どもに限らず、ウォルにたとえ獣の血が混じっていても気にしないという人もいた。精悍な顔立ちで人当たりが良く、愛嬌もあり、さらには働き者ということもあって密かに若い女性に人気もあるのだ。
 もちろん心に決めた人がいるウォルは一切なびくことはなく、つがいに関しては冗談でも子どもに合わせることもしない。エンがそこにいれば誰の目の前だって惜しげもない愛情表現をして見せつけることで、説明がなくても理解させる。
 ウォルが受け入れられて嬉しい反面、秋波を送る女性のみならず、淡い恋をする子ども相手でさえ、もやもやと胸がつかえるような気持ちになることがあった。それは嫉妬というよりも、自分に自信がなさすぎて、ウォルの心変わりを心配してのことだった。
 ウォルと出会い、あれから六年が経った。
 つがいになった日から枯れることのない愛情を注がれ続け、もうウォルの気持ちは疑いようがなく、心変わりの心配もしていない。不安がまったくなくなったわけではないが、愛されることで多少なりとも自分に自信をつけることもできた。
 ――だからこそ、今日はその感謝を伝えたいと思っているのだが、さっきから妙に甘い雰囲気を滲ますウォルにたじたじになっているだけにうまくいくか不安だ。
 そわそわと落ち着かないまま、二人で暮らす森の家に帰ってきた。
 荷物を運ぶときは楽だからと狼姿になっているウォルが背負っていた袋を預かり、買い出ししたものを協力して仕舞い込む。食品はエンが担当し、お菓子はもう少し後に出すため、ウォルの鼻に見つからないよう注意して奥に隠す。
 一通り整理が終わると、ウォルがエンの服の裾を掴んで軽く引いてきた。

「あの、エン。もう少し、散歩しない?」

「歩きたい気分なの? いいよ。荷物も片付いたし、今日は他にやることもないし、せっかくだからゆっくりしようか」

 素直な尻尾が背後でふりふりと揺られる様子に目を細めながら、エンはウォルと再び家の外に出た。

 ウォルは狼と人の姿を自在に操る。
 町中は混乱を起こさないためにも人の姿でいることがほとんどだが、元は野生の狼として生きてきたからか、家では狼の姿でいることが多く、うまく人と狼の身体を使い分けている。
 一人で森に散歩に出るときは移動が楽な狼になるが、エンと一緒に散歩をするときは決まって人の姿をとっていた。
 どうやらそれは、手を繋ぎたいかららしい。町では人の目を気にするエンがしたがらないが、森の奥ならまあいいかなと許すためだ。
 今回も人の姿を選び、エンの手を取って歩いていく。ほどけないようにきっちりと指を絡ませあう。

「あ。あれ、エンの好きなやつ」

「ああ、本当だ。よく見つけたね」

 エンの好きなものやほしいものを把握しているウォルは、時折足を止めて見つけたものを指差した。そこにはまだ青い果実があるが、赤く熟した実で作るさっぱりとした甘さのパイはエンの得意料理のひとつだ。ウォルも大好きで、時折ルティウルナたちにもおすそ分けすると喜んでくれる。狼たちにも人気の一品だった。

 ウォルは森に出るたび何かしらのお土産を持ち帰ってくるが、いつもこうして見つけてくれているのだろう。
 まだウォルの正体が曖昧だった頃は、蛙やら虫やら、腐りかけの果実やら、自分の興味のあるものや玩具となるものをよく持ち帰ってきていたが、人の暮らしに身を置いて六年も経てばもうそんなものは拾ってこない。
 木登りを覚えたので瑞々しい新鮮な果物を採ってきてくれるし、薬の材料となる薬草も摘んできてくれる。きれいな花は相変わらず根っこごと持ってくるが、家の周りに植えてエンの目の保養にといそいそと面倒を見ていた。愛情たっぷりに咲いている花はもちろんのこと、世話をしているウォルを見ているだけで癒される。
 でも、つがいの好みを把握しているはエンだって同じだ。

「あの枝、ウォルが好きそうだね?」


 エンが指差した先にあるほどよい太さと長さのある枝を見つけたウォルは、ぴんと耳を立たせた。


「本当だ! いい感じの枝!」

「持ち帰る?」
「……ううん、今はまだエンと歩きたいからいい。また今度来たときにする」

 ウォルは枝が好きだ。自分の身体よりも長いものを引きずったり、がじがじと齧ったりすることのなにが楽しいかエンにはわからないが、いい感じの枝を拾ってきてはこっそり森のどこかに隠しているらしい。拾ってきたものは一度見せてくれるので、なんとなくどういうのがいいのかは知っていた。

 ときには細い枝を投げてとってこいと遊ぶこともある。つがいとしてこの遊びはいいのかほんの少し悩んだことはあるが、ウォルが楽しそうにしているので深くは考えないことにした。
 犬――もとい狼らしいところも相変わらず多いが、六年という歳月でウォルも人として大きく成長したと思う。

「おれの好きなもの、エンわかるんだね」

「ぼくが好きなものをウォルが見つけてくれるのと同じだよ」

 そっか、とウォルは淡く笑み、尻尾をふりふりと揺らした。

 そういえば、もう自分のことを名前で呼ぶことはなくなった。いつからだったかもう覚えていないが、そんなところにも改めてウォルの成長を感じる。
 あれはあれで無垢な感じがして可愛かったが、エンのつがいは今でも十分可愛らしいと思っている。とくに感情豊かな尻尾と耳はお気に入りだ。
 ウォルに手を引かれて辿りついたのは、二人が出会った大樹の前だった。

「少し休憩しよ」


 いつも森を庭のように走り回っているウォルが疲れたというわけではないだろう。エンの体力もどれくらいか知っているから、きっとここで休みたい理由があるのだと悟って素直に頷いた。

 先に地面に座り込んだウォルは、エンの手を引く。

「抱っこさせて」

「ほんと、抱っこ好きだね」

 苦笑しながらも導かれるまま胡坐を掻いたウォルの上に収まった。

 家の中ならまだしも、開けた場所では恥ずかしい。でも包まれるように後ろから抱きしめられるのは好きなので、大人しく身を預ける。
 エンを腕の中に収めたウォルは、嬉しそうに鼻先をエンの髪に潜り込ませて深く息を吸い込んだ。
 しばしお互いの体温を馴染ませ合う。エンの手にふにふにと揉み込むように触れながら、ふとウォルが言った。

「ここでエンと出会ったんだよね」

「そうだよ。血だらけのウォルを見つけたときは本当に驚いたんだから」
「おれは覚えてない」
「大怪我だったからね。意識もほとんどなかったし」

 六年経った今もなお、腹と肩に負った傷は痕になりウォルの身体に残っている。どちらも深い傷だったので生涯消えることはないだろう。

 他にもウォルの身体には無数の傷痕が刻まれている。長いこと狼として剥き出しの自然のなかを生きてきた証であるが、この六年でもエンを守るために増えたものもある。
 六年経って変わったもの、増えたもの。それは決していいものばかりでもないが、今こうして身を寄せ合って穏やかに過ごせる時間があるのであればそれでいい。

「あれから、六年だね」


 今日はよくウォルと出会った当時のことを思い返していたエンは、ウォルの口から出た歳月にどきりと胸を鳴らした。


「――そうだね。出会ってから六年経った」

「おれ、あのときのエンと同じ年になったよ」

 ウォルの歳はルティウルナがきちんと数えていたらしい。

 出会ったときのウォルは十九歳で、エンは二十五歳だった。
 あれから六年。ウォルは二十五歳になった。
 結構抜けているところがあるエンより、よほどウォルのほうがしっかりしていて、よく手助けされていることもあってあまり年齢の差を気にしたことはなかった。
 エンからすればまだ若いなと思ったくらいだったが、どうやらウォルは違ったらしい。
 先程からウォルに揉み込まれていた指に、硬いものを感じて目線を落とすと、見慣れない金の輪がはまっているのに気がつきエンは目を瞬かせた。

「……え? こ、これ……」


 冷たさを感じなかったのはウォルの体温に染まっていたからだろう。

 左の薬指にある滑らかな光沢の指輪は、何度瞬きしたところで消えずにそこにある。

「え、どうしたの、これ? 指輪? なんで……」


 時間を置いても混乱する一方だったエンをひょいと持ち上げ、身体を反転させて向かい合わせに座らせたウォルは、指輪をはめたエンの左手を手に取った。


「エン。おれと、結婚してください」

「――っ!?」

 瞠目して言葉を失うエンを、ウォルはやや緊張した面持ちで見つめる。

 エンとウォルはつがいだ。つがいとは人間でいう伴侶であって、二人の間ではっきりと言葉にしていなかっただけでエンとしてはとっくに婚姻を結んだ間柄と同等だと思っていた。
 それがまさか今になって結婚を申し込まれるだなんて、これまでの関係は自分の早とちりだったというのだろうか。
 少なくともウォルの態度からも、夜もともにしていることからも、恋愛関係にあることは間違いない。
 ならウォルからすれば伴侶ではなく恋人だったということか。
 ――でも、奥さんとかお嫁さんとか呼ばれていたのに?
 その言動からも、同じ認識でいると思っていた。だが今の申し出は決してふざけたものでないことがわかる以上、やはり自分が先走っていたのだろうか。
 エンの顔からさあっと血の気が引いていく様子を見て、恐れたように三角の耳が下がった。何か言わなきゃいけないのに、ぐるぐると色々なことがない交ぜになってうまく言葉が出てこない。

「あ、あの……ぼくは、その、きみとつがいということは、つまり……もう夫婦のようなものだと、そう思っていて……でも、違がったみたいで、その……っ」


 ようやくエンの混乱の理由に気がついたウォルは、慌てて言葉を付け加えた。


「エンはウォルのつがい。だから奥さん。伴侶。ウォルの半身だ。でもそれは狼にとっての話だったから。人間としてのエンとは何もできていなかったから、ちゃんとしようと思って」

「それで指輪を……?」
「うん。本当は教会とか行ったほうがいいかなと思ったんだけど、でもどうしてもここで、エンにちゃんと言いたかったんだ」

 ここが二人の出会いの場所だから。

はっきりと理由を口に出されなくても、ウォルが言いたいことは十分わかった。

「この指輪、どうしたの?」

「頑張ってお金貯めたんだ」

 ウォルは町人たちから頼まれて手伝いをした際にお金を貰っていたが、あまり使わずに貯めているのは知っていた。

 自分で稼いで買いたいものがあると言っていたのでそれが何かは気になったが、きちんと自分で管理できているのならいいと思ってそのままにしていた。それがまさかエンに贈る指輪のためだったとは。
 平民には指輪は高価だし、日常的につけておくには傷をつけてしまいやすいので婚姻の証として贈られることはあまりない。
 最近になって庶民でも指輪を贈り合うことも増えてきたというが、エンたちがよく訪れる町にはまだなじみないものだったはずだ。
 きっと、ルティウルナに相談したのだろう。
 貴族は以前から、婚姻の際には指輪の交換を行うと聞いたことがある。
 元は貴族の令嬢だったルティウルナは、騎士を志すために色恋には一切の興味を持たずに過ごしてきたという。ましてや市井の結婚事情など触れる機会などなく、自分の知る限りの常識をウォルに伝えた結果、指輪が用意されたのであろうことが想像できた。

「本当はもっと早く渡せたらよかったんだけど、結構時間がかかっちゃって。それに、せっかくなら出会ったときのエンに追いついてから渡したかったから」


 町で何かを本職として働くでもなく、基本的にはエンと一緒に森で自給自足して暮らすウォルが金を稼ぐのは大変だったはずだ。

 今日という日を迎えるために、時間をかけて努力と準備をしてくれていたことをようやく知って、じわりと胸が熱くなる。

「もうエンとはつがいだけど。おれと結婚してくれますか?」

「――はい」

 頷くと、ぎゅっとウォルに抱きしめられた。

 苦しいぐらいの腕の力に、零れるようにささやかれた言葉でそのわけを知る。

「本当は、ちょっと不安だった」

「不安?」
「おれはエンを好きなままだって言える。でも、エンは人間だし、心変わりがあるかもって。エンはただ、寂しかっただけかもって」
「そんな……っ!」
「うん、ちゃんとわかってる。エンが自分に自信がなかったように、おれも本当はあんまり自信がなかった。でももう、エンに愛されてるんだってちゃんとわかってる」

 寂しかったからではなく、目の前に現れたのがウォルだったから。だから心を通わせて、二人はつがいになった。

 出会ってから間もなかったし、生きてきた環境がまったく違えば、お互い普通の人というわけでもない。深く知れば知るだけ心が離れることもありえた。
 でももう六年だ。ともに暮らし、寄り添い合って過ごしてきた。そのなかで喧嘩もしたし、騒動もあって平穏であったとは言い難いかもしれないが、愛情を注ぎ合って今も一緒にいる。
 エンが自分はウォルに愛されているのだと言えるようになったのと同じで、ウォルだってエンに愛されているのだと自信を持てるようになった。
 ゆっくりと時間をかけて愛し合い、言葉を重ねて、行動で示し、そうして培ってきた信頼と愛情が二人の絆をより強固なものとしてくれたのだ。

「ぼくも、ちゃんとわかったから」


 情けないほどに臆病で傷つくことを恐れていたエンは、ウォルの愛情を知りながら、それでもどこか不安を残していた。

 だが靄のように頭の隅に残っていたそれが今、完全に晴れた気がする。
 薬指にあるくすみのない金色に照らされたおかげだ。
 ――もういいだろう。つがいに愛され、家族にも愛されていた自分を認めてやっても。自分自身を信じ、愛してやっても。
 それができればきっと、もっとウォルを愛せる。もっともっと、彼からの想いをたくさん受けとめられるようになれるから。

「ウォルに出会えて、本当によかった」

「おれも、エンと出会えてよかった。エンの傍はあたたかい。だから気持ち良くて幸せになれる。大好きな場所だ」
「ぼくもだよ。きみといるとあたたかいものを分けてもらえる。一人じゃ気づけなかったものも、一緒に見つけることができるんだ」

 見つめ合った二人は互いに顔を寄せ合い、静かに唇を重ねた。

 わずかに触れるだけのキスだが、吐息がもれるほどに全身が満たされていく。
 もっとウォルがほしい。もっと触れ合いたい。もっと近づきたい。そんな欲に頭が支配されていく。
 ウォルも同じ気持ちなのか、エンを見つめる眼差しに熱がこもっている。いつもある愛嬌が消え去り、欲望の滲む雄臭いその表情がエンは好きだった。
 つがいが自分を求めている。それだけで、ウォルの熱を知る身体の内側が彼を欲して焦がれていく。

「そろそろ家に帰ろうか」

「うん……」

 頷いたエンは、ウォルの上から立ち上がろうとして――できなかった。


「エン?」

「……驚きすぎて、腰が抜けたみたい」

 まさかそこまで自分が驚愕していたとは思わなかった。

 頭を占めていた欲望を押し上げるよう吹き出した羞恥に、エンは逃げ出すこともできずに下を向く。
 エンの大変な状況を理解したウォルは弾けるように笑い声を上げた。

「よし! じゃあおれが運んであげる!」

「運ばなくてもいいよ」
「でも、帰れないよ?」

 エンと触れ合う機会をいつでも虎視眈々と狙っているウォルは、これ幸いにとつがいを抱えたくて仕方がないようだ。

 その下心が透けて見えているところがウォルらしくて、顔を上げたエンはくすりと笑いながら彼の首筋に額をすり寄せた。

「いいんだ。だから、歩けるようになるまでもう少しここでゆっくりしよう?」

「うん!」

 ウォルも顔を寄せてくると、エンの耳にある耳飾りが小さく音を立てた。

 すっぽりと抱きしめられながら身体の力を抜いたエンは、この後のことを考える。
 実はエンもウォルに渡したくて用意していたものがある。町で買ったいつもよりもちょっといいお菓子とは別の、今は机の奥に大切にしまわれたウォルへの贈りもの。
 出会って六年目。当時のエンと同い年になったウォルへの記念だったが、まさか同じようなことを考えていただなんて思わなかった。
 もともと結婚しているつもりだったエンが用意したものは指輪ではないけれど、でも人の姿でも狼の姿でも変わらずつけておけるようにと考え選んだもの。
 それは、エンの指に馴染む金環によく似た、ウォルの瞳のような金色の輪の耳飾り。

「……なんかエン、すごく可愛い顔してる」

「そうかな?」
「うん。なに考えてるの?」
「家に帰ったら教えてあげるよ」

 森を歩くウォルがいつだってエンのことを考え、お土産を持ってきてくれるように。エンだっていつもウォルのことを考えている。

 喜んでくれたらいい。きっと彼によく似合うだろう。もしかしたら驚いて腰を抜かしてしまうかもしれない。
 そうなったら、今度はエンが抱っこしてあげよう。人間のウォルを抱えるのは大変なので狼になってもらって、ついでにもふもふとした毛並みに顔を埋めたい。
 そんなすぐそこにある未来を想像すると、口元がほころばずにはいられなかった。

 おしまい