三周年記念企画にて、まきさまのリクエスト
【Desire】
・岳里×真司、岳里視点
・惚れ薬を飲んだ真司が様々な人に惚れて嫉妬しまくりの岳里
序盤はほんの少し真司視点が入ります。真司視点が終り場面が切り替わってからはずっと岳里視点です。
ミズキからまた手伝いを頼まれたおれは、前回と同じくジャスの部屋に資料を運んだ。そしてまたもお礼にと、今度はお菓子をどうぞと誘われて。
前回はお茶だったわけだけど、それが実は変な薬で大変な目に遭ったもんだから、さすがのおれも学習して、迷う間もなく拒否する。
気持ちは嬉しいけど、今お腹減ってないから。
そう何度も口にするけど、なかなかジャスは引き下がらない。むしろ今度こそ本当に普通のお菓子だからと必死に差し出してくる。なんでも前回迷惑をかけたからそのお詫びも兼ねているんだと、いう事情らしいけど……。
ジャスも諦める気はないのか、様々な誘い文句でおれの視界にその焼き菓子を写した。
とにかくおいしい、自分もためしに食べてみたが本当に文句なしの品。ぜひおれにも食べてもらいたい。今回はちゃんと自分の薬とは分けてあったから大丈夫、食べないと損だ、とか。
そうまで勧められるお菓子に、次第におれの興味は傾いていく。食べるものかと結んでいた口はいつの間にか緩んだようで、ひとつだけなら、と言葉を出していた。
結局、クッキーのような焼き菓子を一枚口に放り、噛みしめる。ほんのりした甘さがあり、さくっというよりはしっとりしていた。
鼻から抜ける香りもよくて、ジャスのおれを誘うための過大した売り文句もてんで嘘というわけでなく、確かにおいしかった。
よく味わってから、それを飲み込んだ瞬間。唐突に変化は起きた。
目の前にいるジャスが、なんだか輝いて見える。いっつもよろよろでくたびれた白衣を身に纏って、顔色も食事抜き徹夜続きが多くあんまりよくなく、目の下にはうっすらと下隈がある。髪もぼさぼさで、果てには眼鏡がずれてるのに。何故か、普段の五割、いや六割増し輝いている気がした。
おれがクッキーを食べている間お茶を啜っていたジャスが、不意に顔を上げる。目が合った瞬間、おれの胸はどきりと高鳴った。
どうかしたのか、と問われた時ようやくおれははっと目を覚めたように、慌てて目を逸らす。それでも右手で押さえた胸が未だどきどき鳴り続け、訳がわからないまま顔が熱くなる。真っ赤になっているんだとわかった。
とりあえず落ち着こう。
大丈夫か、と心配げに声をかけるジャスに答えないまま、なぜかお菓子の方へ手を伸ばし、気づけばもう一枚口に運んでいた。
噛み砕き、飲み込んだ次の瞬間。頭が真っ白になった。
おれの目の前で小さくなり怯える姿に構うことなく、それまで重く閉ざしていた口をゆっくりと開く。
「――それで、つまりおまえはまたこいつに薬を盛ったというわけだな」
「そっ、そんなつもりは……こ、故意ではないんだ! ただ、間違えて……本当に、すまない」
おれがいう“こいつ”は、つい先日もジャンアフィスの薬を飲み半獣化したこともある真司のこと。あれからそう経っていないのに起きた次なる騒動に、しかも巻き込まれたのはあいつだという事実に、ふたつの原因を生んだ発明家はただただ縮こまるばかりだ。
ジャンアフィスの部下に大至急と呼ばれ研究室に訪れてからというもの、何度目になるかわからない沈黙が再び始まる。どうするべきかと思案するおれは、目を閉じた。
その間にジャンアフィスは、ちらりと自分の右隣の存在に目を向けた。それまで大人しくしていたその存在はようやくジャンアフィスの目が自分に向いたことに気づいたらしい、嬉しそうにやつの名を呼び、身を寄せた。
一度は閉ざした瞼を持ち上げその様子を眺める。
「ジャス、話終わった? なら次はおれの番! ちゃんと待ってたし、もういいだろ?」
「い、いや、その……できれば離れて……ください」
「なんで? いいだろ、くっついてた方が温かいし。今日ちょっと寒いしさ」
引け腰になりつつ、その存在と少しでも距離を空けるためジャンアフィスが身体をずらしても、不満げな顔をしながらその存在はその分詰め寄る。
細いジャンアフィスの腕をとり、その腕を抱きしめるように引っ付いた。それにジャンアフィスは喜ぶこともなく、むしろ顔を青くしていく。
「そんなことは…ひいっ」
隣に向けていた目をおれの方へ戻した途端、ひきつった悲鳴を上げるジャンアフィスに、深い溜息をつかざるをえなかった。
「……もう一度、説明しろ」
「なんだよ岳里、さっきまで散々ジャスと話してたんだから今度はおれに譲れよ。おまえばっかジャスと話せるなんてずるい。用が済んだのならさっさと訓練に戻れよ、邪魔すんな」
そう頬を膨らましたのはジャンアフィスにいつまでもひっつく真司で。先程からその隣から離れることなくおれを睨んだ。
その声を無視し、おれはもう一度ジャンアフィスに説明を求めた。
やつは隣にいるあいつに服を引かれ妨害されながらも、先程よりは簡潔に、つい先刻あった事実を話す。
ジャンアフィスはまた、真司に誤って自らが生み出した薬を食べさせた。今度は菓子に似せ食べやすく作っていて、それを本来出すものと取り違えあいつに勧めてしまった。
そこまでなら、まだ許せずとも理解はできた。ただおれが信じ難かったのは、その薬がもたらす効果だ。
「なあジャス、岳里なんかいいだろ、いい加減おれと話そう」
「も、もう離してくれ! が、岳里に何をされるか……っ」
「……岳里がジャスにひどいことするのか?」
「そうだ、何をされるか……あっいや、別になにをされるってわけじゃ……はぅっ」
もう一度おれに目を向けたジャンアフィスは涙目になり、おれを拝むように許しを求めた。
「く、薬のせいなんだ、これは真司の意志とはまったく関係なく、別にわたしに対して好意を抱いているわけでなくてだねッ」
「…………」
「岳里! ジャスをいじめんなよ、何もしてないだろ」
ジャンアフィスの腕にひっついたままの真司に吠えられ、仕方なく目を背ける。それに満足したのか、真司はまたやつに話しかけていた。ただ当のジャンアフィスは今にも気絶してしまいそうなほど顔を青くし震えている。
真司が含んでしまった薬。それは、所謂惚れ薬というやつだ。しかもタチが悪く、目にした相手すべてに惚れてしまうというもの。あいつの真意に関係なく、目にした人物に惚れ、積極的に近づいてしまう。むしろ本当のあいつは今眠りについているようなもので、今おれの目の前でジャンアフィスに頬を染める真司は真司であってまったくの別人だ。
しかし、中身は薬によって姿を変えても、その顔や、声やにおい、仕草や癖などはすべてあいつに変わりない。
薬のせいだと言われても、見ていて到底心穏やかにいられるわけもない。
無意識のうちに表に出たおれの邪念に度々ジャンアフィスが冷や汗を掻きながら怯えるのに気づいていたとしても、止めることさえ難しい。
「いつまでいるんだよ、早くどこへでも行ってくれればいいのに」
ぼそりと呟かれたあとに、すぐさまジャンアフィスへ甘えた声を出すあいつへ、内心では苦虫をかみつぶしたような、ひどく陰鬱な気分だった。
本来目にしたすべての者に惚れてしまう薬のはずが、なぜかおれに対してだけ正反対に作用し、今のように邪険に扱われる。むしろ嫌われた状態だ。その理由はジャンアフィスにもわからないらしい。
内心では何度目かになるかわからない溜息をついてから、おれは青ざめるばかりのジャンアフィスと、それにくっつきほのかに色を染めた頬で笑顔をみせるあいつのもとへ歩み寄る。
そのまま真司の腕をつかんだ。
「部屋に行くぞ」
「っ離せよ、触んな! おれはジャスといるんだから部屋になんか行かない」
予想した通りあいつは抵抗し、おれの腕を振りほどこうとする。だが離す気はない。
あいつの隣にいるジャスへと目を向ける。
「効果は半日。副作用で薬が切れたあと意識を失い半時ほど眠る他、今のこいつは泥酔状態に近く、起きた時は宿酔のようになる。それで間違いないな」
「はっはい! 間違いありません、それだけは確かです……っ」
再度確認し、嘘を伝える意味のないジャンアフィスの言葉をそのまま頭に刻む。
ジャンアフィスから引き離すために、掴んだあいつの腕を引っ張った。
「やだ! 誰かおまえなんかと行くかっ。ジャス、助けて。離れたくないのに」
「…………」
はっきりとした、確かに意志ある拒絶の言葉。そこにあいつの本意があるわけではないのに、胸がざわつく。薬のせいだと言われても胸に垂れこむ黒い感情は静かに音も立てず広がっていった。
その様子を見ていたのか、ジャンアフィスが一度深呼吸をしてから、真司と向き合う。
「……真司、わたしはこれからどうしても手を離せない仕事があって、それはとても危険なんだ。君を巻き込みたくないから、少しの間だけ、部屋で待っていてくれるかい? 終わったからすぐに迎えにいくから」
「――本当か? ちゃんと、おれを迎えにきてくれる?」
「ああ、約束する。だから今は、岳里に従ってくれるかい?」
「……ジャスが、そういうなら……部屋で待ってる」
ようやく名残惜しげにジャンアフィスの腕を抱きしめていたあいつの身体が離れた。渋々だと言うのがありありと伝わる表情で、じっとジャンアフィスを見る。
「言われた通りちゃんと待ってるから、早く終わらせてな?」
「ああ、悪いが頼むよ」
こくんと、素直にあいつはジャンアフィスに頷いて見せる。先程まで浮かべていた無邪気な笑顔は消え、寂しそうな瞳がただ濃緑の髪の男だけを見ていた。
「行くぞ」
もう一度言うと、きっときつい眼差しがおれを見上げた。
ジャンアフィスから離れたあいつは再び、自分の腕を捕える手から逃れようと暴れる。
「離せっ、言われなくてもちゃんと部屋に行くから!」
「――――」
掴む力を緩めると、すぐさまそれに気づいたあいつの腕は自ら離れていった。手の内に収めるものがなくなった手の平は、ただ拳を握る。
「す、すまないが、岳里。しし、真司をたの……みます」
「わかった」
最後まで真司の想い人の立場を演じようとしたジャンアフィスだが、先に部屋を出て行ってしまったあいつの背中を見つめるおれの顔を見て、発した言葉はしりすぼみになる。
最後に改めてもう一度ジャンアフィスに目を向けてやつの悲鳴を聞いてから、おれは後を追い部屋から足を踏み出した。
ついてくんな、変態。
それが、部屋を出てから聞いたあいつの第一声だ。他にもいくつかの言葉で毒づかれたが、それでもおれは一定の距離を保ちあとをついていく。
昼食の時間の手前に当たる現時刻は、廊下を歩く人数が多くなる。部屋まで行く道のりの中であいつが誰に会うかわからず、もし遭遇した時のことを考えれば、罵倒されようが嫌がられようが離れるわけにはいかなかった。
本来ならせめて隣を歩き警戒したかったが、それをしてしまえばどんな反発があるかわからない。
神経を尖らせながら歩き続けていると、やはり何人かの兵とすれ違う。例外なくあいつは目にした相手に惚れてしまうため、道を外そうとするため、その度に兵士たちには真司を部屋に向かわせるための言葉を言わせた。特に説明をしなかったが、おれの顔を見るなり誰もがすんなりと頭を縦に振り、真司の背後で見せた紙に書いてある台詞を伝えてくれたのは助かった。
兵士を目にした途端やつらに抱きつき愛を示すあいつになるべく目をやらないようにしても、そううまくはいかず。常にその姿を追う癖がついているせいもあり、嫌でも嬉しそうな笑顔を見てしまう。屈託のないそれは、きっと本来ならおれの心を穏やかにしてくれるもののはず。しかし今は、まるで正反対におれの心を動かしては、嵐の如くの荒れようを見せた。
どんなにそれから目を逸らそうとしてもできずに、おれの胸の中は、微かな痛みを訴える。
ささやかな痛み。何かほかに集中することがあったとしたら、すぐに忘れ去られてしまうような、決して気に掛けるほどのものではない。だが、確かな痛みだった。
無意識のうちに自分の胸に右手を当てたとき、不意に前方から足音が聞こえた。聞き覚えのある二人分のそれに、おれは内心で溜息つく。
しばらく歩くと、予想していた通りの顔と出くわした。
「おっ、真司とがく――」
「レードゥ!」
鮮烈な赤髪を纏ったレードゥがすべてを言い終わるのを待たずして、真司は駆け出す。そして勢いを殺さないままレードゥへ抱きついた。
突然のことだが、レードゥは多少揺らいだだけでそのまま後ろに倒れるようなことはせず、懐に飛び込んだ姿に驚く。
その隣を歩いていたヴィルハートも目を見張り、あいつへ視線を向けた。
「お、おい真司!? どうしたんだよっ」
レードゥは胸に抱きつく真司の肩に手をかけ剥がそうとするが、真司は目の前の身体に頬を押し付けてそれを拒む。
「レードゥの身体、かたくてがっしりしていい身体だな! 鍛えぬかれた感じで、うらやましい」
「むっ、真司それもあるが、鍛えられたかたい身であっても、しかし厚みはさほどなく意外にも抱きつきやすいのだ! それを忘れてはならぬ!」
そう叫んだヴィルハートは、レードゥの隣から背後に移ると、上の方に腕を回すあいつに対抗するように、腰に手を回した。
「ちょ、馬鹿っ! おまえまでくっつくなっての! ああもう、なんだって言うんだ、とにかく助けてくれ岳里!」
片手を真司の肩に置きながら、開いているもう一方はおれに手を伸ばしてくる。その姿に心底、頭が痛くなった。何度目かになるかわからない溜息を心でつきながら、救いを求める手に歩み寄った。
とりあえずまず真司を剥がそうと、けれど決して離れまいと抵抗したため、どうにかレードゥの腕へ退かす。後ろにいたヴィルハートは、空いているもう片方のレードゥの腕へ動かした。
レードゥは今度、前後でなく左右から二人に挟まれる状態になった。
現在レードゥに盲目的に恋している状態にあるあいつは、ヴィルハートなど眼中にないようで、未だレードゥに熱い視線を送っている。そのおかげで、さらに面倒な騒ぎにはならなかった。
初めにヴィルハートに、なるべく真司の視界に入らぬよう忠告した後に、あいつの身に起きた事を口にした。
現状を聞き終えたレードゥは、呆れたような溜息をつく。
「また、ジャスの野郎か……」
「まったくのう、つい先日に騒ぎを起こしたばかりだというのに懲りぬやつよ」
「あれはおまえのせいだろっ」
まるで他人事のように、レードゥに続き溜息をつこうとするも、しかし睨む目に気づき慌てたように口を塞ぐ。
「なあレードゥ、街に連れてってくれよ、おれ一人じゃいけないけどレードゥとならいけるし、案内してくれよ」
自分が腕を抱きしめる人物とその隣の男との会話などまるで聞こえていないかのように、無邪気に声を弾ませるあいつ。だが、あいつの言葉を聞いたレードゥは僅かに顔をこわばらせた。
“街に連れて行く”という言葉が、レードゥの胸に刻まれた傷をつついたのだろう。それが真司ならなおさら。
レードゥとあいつは既に和解しているが、かといって事実が消えるわけでもなく、まだレードゥには自身を許すわけにいかない事なのだろう。
きっと、正気のあいつならば決して気軽に口にしなかったであろう言葉。
「――ほら、真司。部屋に戻る途中なんだろ? 早く行った方がいいって」
「別にそんな急ぎじゃないんだし、いいよ。それよりもレードゥといたい」
だめか、と見上げるあいつの視線に、レードゥはただ苦く笑った。
おれは真司の背後にまわり、台詞を書いた紙をレードゥに示した。笑みを崩さぬままそれに気づいたレードゥはすぐに行動に移ってくれた。
「んー、でもな、真司。おれはまだ少し忙しいんだ。でも今の仕事が片付いたら連れてってやるから、それまで部屋で待っててくれないか?」
その言葉を聞いたあいつは、これまで通りの反応ですぐには頷かず、本当か? と何度か確認を取る。それに最後までレードゥは付き合うと、しぶしぶ腕を手放した。
その瞬間、あいつとは別の手が解き放たれたばかりのレードゥの腕をつかんだ。
「ではわしらは先に行くぞ、せいぜい真司に振り回されろよ、岳里!」
「ちょ、ヴィル!?」
「あっヴィル! 待って、おれも……!」
「おまえはいくな」
ヴィルハートは片手をあげ、そのまま掴んだレードゥの腕を引き走り去ってしまった。その瞬間ヴィルハートを視界に入れてしまったらしいあいつが慌てて追いかけようとするが、その前におれが腕をつかみ動きを止める。
「っ離せよ、ヴィルが行っちゃうだろ! ていうかおれに触んなっ」
それでもおれが手離さずいると、ぎゃんぎゃんと毒をはく。それでもヴィルハートたちの背が消えるのを待ち、時が来てようやくあいつの腕を離した。
解放された瞬間におれと距離を置いたあいつは、きっと睨んでくる。
「おまえのせいでヴィルが行っちまっただろ!」
「……今のはおまえに非がある」
「何がだよ、意味わかんねえ」
「今のおまえには到底わからないだろうな」
おれの言葉に、やはり理解できなかったのであろう怪訝げなあいつの視線が突き刺さる。
さすがに今のふたりには、黒い想いが燻ることはなかった。
嫌がるあいつを引きずりながら歩いていると、目の前からまた見知った男が一人歩いてきた。
その姿を捕えてしまったあいつが、すぐに頬を赤く染め、それに向かって駆け出す。
「ハヤテ!」
普段ならば決して、強面のハヤテに自ら近づくことなんてない。ましてや、常におれの後ろに隠れるというのに。それなのに、今では両手を広げ、焦がれていたような顔をしてハヤテへ抱きつこうとした。
しかし、その足は抱きつく前に止まる。怪訝そうな顔を隠すこともないハヤテが、あいつの額を手で押さえその動きを制したからだ。
だがそれでも今のあいつにとって触れてもらうだけでも心が満たされることらしい。うっとりと高揚したような表情で、ハヤテの腕に手を重ねる。
その姿を見たハヤテは、睨むようにおれを見た。しかしおれと目を合わせると、すぐに呆れたような顔になる。
「なんだか知らねえが、くだらねえことにおれを巻き込むんじゃねえ。そんな面するなら初めから手を離しておくな」
「…………」
その言葉の意味を十分すぎるほどよく知っている。だからこそ返す言葉がない。
おれが口を閉ざしたままでいると、早くこいつを引き取れ、と煩わしそうに溜息をつくハヤテに促された。だが、あいつの様子を見る限り到底自ら離れそうにはない。額に押し付けられるハヤテの手に、自身の手を重ねて遊んでいた。
今回もあの言葉を言ってもらうしかないと、紙を取り出そうとしたところで足音が急速に近づいてくる音がする。動きを止めて音の方へ目を向ければ、またも見知った顔がそこにあった。
「こら馬鹿鳥! おまえまた仕事さぼってどこ行こうってんだ!」
声を大にして叫びながらこちらへ向かってくるジィグンの声に反応したあいつが、ハヤテから目を逸らして小柄な姿を捕えた。
「ジィグンっ」
途端にするりとハヤテから抜けると、そのまま走り寄ってくるジィグンに両手を広げ歓迎した。
突然ハヤテの影から現れた真司に、勢いを殺せなかったジィグンは寸でのところで方向を変える。しかしその先にはハヤテがいて、そのままやつの背にぶつかった。
しかしジィグンが止まったのをいいことに、衝撃にぐらつく身体に抱きついた。
「会いたかった! うーん、いいサイズ!」
背後から抱きしめ、ちょうどあいつの顔のあたりにくるジィグンの頭に頬ずりをする。当然、普段のあいつらしくない行動に、ハヤテへの怒りを忘れたジィグンは戸惑いを露わにした。だがすぐに気を取り直す。
「おいちょっと待て、さいずってなんだ!? まさか身長のこといってんじゃねえだろうな!」
サイズという言葉はこの世界にはなく、しかしながらあいつの行動から勘付いたらしい。身長のことを気にしているジィグンが声を荒げると、ハヤテが鼻で笑う。
それにジィグンはきっと見上げ睨んだ。
「おまえ今笑ったろ!」
「別に」
「別にってなあ、確かに笑いやがったぞ、おれはしかと聞いた! 自分がでかいからっていい気になるなよ、梅干し脳みそ!」
「……あ?」
最後の一言に、ハヤテは眉を寄せ、ジィグンを威圧した。しかし慣れたものなのか、物怖じすることなど一切なくジィグンがさらに言葉を重ねようとしたところで、あいつが動く。
「なあジィグン、これから何か用事があるのか?」
「ん? ――ああ、この馬鹿鳥の仕事がな。こいつでなきゃできないやつが残ってんだよ」
「それって、今すぐじゃなきゃだめなのかよ? 大丈夫ならおれと出かけよう」
いいだろ、な? と甘えた視線を寄越すあいつの勢いは気圧され、やや引け腰になるも、遠のいた分だけ真司が詰め寄り答えを求める。
「なあどうしたんだ、真司。今日は明らかにおかしい。熱でもあるんじゃないか?」
「えー、ないよ。なあそんなことより! だめか?」
「――――」
悪くはないが仕事が、と言いよどむジィグンに、あいつは寂しそうに僅かに眉を寄せていた。
ふたりのやりとりを傍観者として見守るおれともう一人の大男は、口を挟むことなく沈黙を続けた。
様子のおかしいあいつにはっきりと答えを告げられぬジィグンは、話だけなら? と次々と妥協案で攻めていくあいつに押され気味だ。
このままでは頷きかねないと、おれが動こうと組んでいた腕を解くと同時に、隣の男が動いた。
「行くぞ、くそオヤジ」
「うわっ、ばっ、離せ危ねえ!」
歩き出したハヤテはジィグンの背に張り付くあいつを剥がすと、そのままジィグンの腕をとり歩き出す。
体制の整わぬまま引きずられたジィグンは前につんのめり転びそうになったが、ハヤテの引く勢いに助けられどうにか踏ん張る。
はじめ、ジィグンと離させられたあいつは唐突なことに呆然としていたが、すぐに遠のく二つの背中を追おうとする。先手を打って腕を掴みそれを阻止すると、当然のように喚かれたが、まだ手放すつもりはない。
姿が見えなくなり響くジィグンの声が完全に途絶えたところで腕を離した。今回はおれに対する毒を吐くでもなく、ただ切なげにジィグンたちが去っていった道を見つめる。
小さく、あいつがジィグンの名をその口から零した。その視線も、今はいない姿へ注がれている。
一度も、おれを見ない。
「――――」
それが微かに痛かった。
部屋の前までようやくたどり着いたところで、一番あいつと合わせたくないと思っていたはずの人物と出くわしてしまった。
そいつとあいつは、目を合わすなりお互い駆け寄り抱き締めあう。
「うはあい真司ィ! 会いたかったでえ!」
「おれも! んー、ネルいい匂いだなあ」
扉の前に、最低一人がいることはわかっていた。だからもうその兵ごと部屋に入って薬の効力が切れるのを待つ予定でいたが、確か、朝部屋を出た時当番をしていたのはあいつが兵の中でもよく懐いているユユという男だった。
しかし、その男の姿はどこにもなく。代わりに扉脇に立っていたのは予想もしていなかった、望んですらいなかった、ネルだ。
あいつに身をすり寄せながら、不意におれに視線を寄越す。途端に至福そうな笑みからほくそ笑みに変え、口元さえも姿を変えて歪む。
「ジャスから話を聞いてよう、会いに来ちったんだあ」
事情をすべて知るネルは、余計な奴らに惚れてほしくないからと、扉のまえにいたユユは追い払ったらしい。
そんなのはどうでもいい。
「おまえは帰れ」
「やあだよう、帰るもんかあ。なーっ、真司ィ」
「なーっ、ネル!」
密着した身体は離したものの、手を結んで繋がりを断つことはない。それどころかおれに見せつけるように、意地悪い笑みを浮かべたネルは真司と顔を合わせた。あいつも応えて笑顔を見せる。
これまではあいつに惚れられた奴らはみな一様に勢いに押され引け腰だったが、ネルは違った。むしろ惚れ薬の力を借りるあいつと同等の勢いで受け止め、状況を楽しんでいる。
おれが誘導せずとも、ネルが勝手に部屋の扉を開け、あいつの手を握りしめたまま先へ進んだ。後に続く形でおれも中に入る。
ネルとあいつはすぐに、あいつのベッドの上で小うるさく話し始めた。
自分のどこが好きか、だとか、二人で行ってみたい場所の話だとか、そんなどうでもいいものばかりだ。
おれが帰れといくら言っても聞き入れる様子は一切見せず、仕方なしに隣にある自分のベッドへ腰を下ろす。正面のふたりへ目を向けると、不意にあいつと目が合った。
しかし、一瞬顔をゆがませ、すぐに逸らされる。そしてネルとの会話を続行だ。だがそんなあいつの様子をしかと見たネルは顔をにやけさせる。
真司が惚れ薬を飲んだということを知っているのなら、今のおれとあいつの関係も聞いているはずだ。だからこそこうして邪魔しに来たのか。
いくらおれが視線を注ごうと、返されるものはない。あいつの目に映るのはただ、今惚れているネルだけだ。
あいつが手を伸ばす。触れたのはネルの髪で、その感触を楽しむように自分の指に絡ませた。
その間に流れる二人の会話、聞こえているが身には届かずそのままどこかへ流れてしまう。目の前で起きている事が、遠くに見える。
おれの隣でなく、別の誰かの隣にいる。その隣で笑っている。嬉しそうに、幸せそうに。
身の内でうねる醜い思いは、ただ耐えるしかないこの状況でおれを苛むばかりだ。
今すぐにでもネルを部屋から追い出してしまいたい。きっとあいつはネルを追い出ていきたがるだろう。それを制すれば必ずおれを睨むのだろう。だが、そうなればおれだけを見るだろうか。
目の前で楽しそうに笑うその姿を見て、溢れそうになる思いをどうにか押しとどめる。しかしこれ以上は耐えられそうにない。
耐えられないのならば、何かしでかしてしまう前に離れないといけない。幸いネルがここにいるから、有事の際にもあいつに何か起こることはまずないだろう。
離れている間はまず本件の原因であるジャスに会いに行き、その後に廊下ですれ違った兵どもひとりひとりのもとへ行こうか。でないとおれの気が済まない。
実際することはないが、どんなことをしてお礼をしてやろうかと考えていると、不意にネルの大きな笑い声に意識は遮られる。
「にゃははは! おめえ何考えてんだあよ、おお怖え怖え!」
いつの間にかあいつとの間のつながりを解いていたネルは両手で腹を抱え、後ろに倒れ笑い声をあげていた。足をぱたぱたと振り出したのに、驚いたあいつが僅かに背を引いた。
「岳里ィ、おめえはほんっとうによう、真司のことになるとわかりやすいなあ。そんなに赤裸々に面で語るくらいなら、正直に声にだしゃあいいだあろ」
「――――」
ネルは後ろに倒れたまま、おれへと話しかける。あいつは隣で不満げにおれを一睨みしただけで、口を挟むことはない。恐らく話しているのがおれでなく、ネルだからだ。
「隠すつもり、あんのかは知らねえけどよう。本当に伝えたいことが相手に伝わんなけりゃ意味ないんでえ? あ、今のおれのことが大好きな真司の話でねくて本来の真司の話だあよ。与えるばっかじゃだめだしよう、その与えてるもんも理解されねえとただの無駄だあ」
そう言ってネルは身体を起こした。
「たあだ後ろで“こっち見て”ってお願いしたって誰がわかるんだってよう。そんなんできるのはあ、相手の心の声が聞こえる超人だけでえ」
できねえから言葉があんだろ、と不敵に笑い、ネルは立ち上がる。
「おれぁまだ仕事があんだあ。だから離れたくないけど王んとこ戻るでえ」
「えっ、ネル行っちゃうのか? なら、おれも――」
「んー、今はだあめ、だあな。だって真司じゃねえもん。まあ楽しかったしぃ、真司なんだけどよう。おれのだあい好きな真司じゃあねえ。だから、だあめ! にゃはは、ごめんよう」
扉まで歩いたネルの後を慌てて腰を浮かしあいつが後を追うが、ネルは決してそれに頷かない。
「おれは、おれだろ? 駄目なところあるなら直すから、おいてかないでくれよ」
「んー……だってよう、ほら」
扉のノブに手をかけていたネルが、言葉の途中で降り返る。そして後ろに立っていたあいつに手を伸ばしたかと思うと、顔を寄せた。あいつの、顔に。
あいつの身体にすっぽり隠れたネルがしでかしたことはおれからは見えず、思わず立ち上がると、ネルはあいつからさっと離れるとそのまま扉を開けた。
「ほうら、そんな反応。おれがだあい好きな真司は、もっともおっと可愛いんだあよ。てなわけでえ、あばよう! あとはお二人で仲良くしとけえよ!」
「っ待てネル……!」
おれが追いかけるよりも早く扉を閉めたネルの気配は、すぐに消えてしまう。恐らく、すぐに扉を開け辺りを見回してもすでに逃げた後なのだろう。
それよりも、今は。
大股で突っ立ったままのあいつのもとへ向かい、その顔を覗き込む。
「…………」
あいつは、呆然とした様子で、けれどしっかり頬を朱に染めて左手で左頬をそっと押さえていた。視線は、ネルが消えた扉へ注がれている。
その姿に口ではなかったことに安堵しつつ、しかし素直にそれに喜べない複雑な感情でおれはあいつの表情を眺めた。
しばらくしてようやく我を取り戻したあいつは、見るなと言ってから、おれの脇を通り抜け部屋から出て行こうとする。だが腕をつかみ、そのまま体を回転させて扉に背を押し付けた。
「っ、離せ……!」
「――――」
予想通りあいつは抵抗するが、おれにとっては大した力ではない。腕を強く握りすぎて手跡がつかないよう気を付けながら、そっと顔を寄せる。
まるで虚をつかれたような顔をしたが、それを気に留めることはせず、そのまま口を耳元へ寄せた。
「おれを見ろ」
「――っ!」
隣に誰がいようが。誰と話していようが。誰に惚れていようが、薬のしわざだろうが。そこにおまえの意志がなかろうが。
おまえでなくても、真司である以上、おれだけを。
「おれだけを、見てくれ」
微かに吐いた言葉は掠れ、おれは唇を結ぶ。そしてもう一度開いて、そのまま、すぐそこにあるあいつの耳たぶへ噛みついた。
「痛っ…!」
跡が残るほど、僅かな力を込めてから顔を離れさせると、おれを睨むあいつの目と合う。痛みからか、混乱からか、その要因はわからないがうっすら目元に浮かぶ涙。
掴んでいた腕を離すとまた多くの毒を吐かれ、散々叩かれたりしたが、扉の向こうへ行こうとしていたのはどうやら頭からすり抜けたようで、その様子におれは満足した。
相手をせず、だが好きにさせておくとやがて飽きたらしいあいつはそのまま自分のベッドへ戻る。隣にあるおれのベッドを背にふて寝を始めた。
頭からすっぽりと毛布を被り、なだらかな曲線にしか見えないそこを眺めながら、ようやくほんの少し、心が晴れた気がした。
後からわかったことだが、ジャンアフィスはあいつに惚れ薬だけでなく、もう一種薬を飲ませていたようだ。
そこにはおれだけがあいつに惚れられず、むしろ邪険にされていた理由があった。伝えられた事実におれは内心で言いようのない熱に浮かされそうになる。だがそれを押しとどめ、薬の副作用で宿酔の状態になったあいつの世話をした。
薬の影響で暴走していた頃のことは一切覚えていないらしく、身に起きた事実を話してもすぐには信じてもらえなかったが、反対におれとしては好都合だ。
記憶がないということは、今もあいつの耳たぶに薄らと残っている歯形も覚えていないということ。
衝動的にしてしまったことで後々に反省した。だが、謝る気はない。
「ん? なんだよ、何かついてる?」
「――いや、なんでもない」
無意識のうちにあいつを見ていたらしい。首を振ってから、ベッドの上で身体を起こしている真司の隣からおれは離れようと動く。
「どこ、いくんだ?」
「水がない。とってくる」
「ん、了解。早く戻ってきてくれよ」
「ああ」
言われなくともそのつもりだ、という言葉を飲み込み、おれは頷く。
部屋を出る先に向けられた笑顔に、おれは無意識に笑みを返していた。
おしまい
※補足として、真司が飲んだ惚れ薬以外のもう一つの薬についてお話させていただきます。
こちらは本編を壊す可能性があったのであえてこちらでご報告させていただきます。
真司が飲んだもう一つの薬は、惚れ薬とは反対のもので、惚れてる相手を嫌悪する(←が本来の効果ですが、ジャスが岳里を恐れ、岳里に報告した薬の効果を多少虚偽を混ぜました。岳里には「一番大切に思う人を嫌悪する」と言ってあります。なので岳里からすれば真司は自分のことを今一番大切に思ってくれている、そこに恋心があるかはまだわかっていない、という状態です)、というものです。
本編ではまだ語られていませんが、真司は五章終了時にはすでに、自分でも気づいていないうちに岳里に恋しています(笑)ですがそれをはっきりと今作に出すのは悩んだので、こちらでご報告させていただきました。
まきさま、今回は三周年記念企画にご参加くださりありがとうございました!
これからもどうか、当サイトをよろしくお願いいたします
2012/11/26