14

 

 後輩たちが去った後、大人しくしていたチィだったが、しばらくして飽きたのかノアの足元にじゃれついてきた。

「ノアさま~」

 ちょいちょいとローブの裾を引っ張りながら、床で身をくねらせて構って欲しいと訴えてくるが、それを無視して作業を進める。すると今度は立ち上がり、にゃあにゃあと鳴いて足にぶつかるよう擦りついてきた。それでも反応せずにいると、ノアの代わりにチィに応えるようノックの音が二度鳴る。
 後輩たちの対応ですっかり疲れてしまったノアは居留守を使うつもりだったが、構ってもらえず暇を弄んでいたチィが遊び相手が来たとこれ幸いに大きく声を上げた。

「どうぞー! どにゃたですか?」
「馬鹿者、せめて招き入れる前に聞けっ」

 迂闊な使い魔を叱りつけるももう遅い。
 ゆっくりと扉は開き、そこから顔を出したのはノアの苛立ちの原因であるヨルドだった。

「やあ、こんにちは」
「こんにちは、ヨルドさま!」

 確実に遊んでもらえる相手だと判断したチィは、ご機嫌に尻尾をぴんと立たせる。小走りで駆け寄ると、ヨルドの足に擦りつき歓迎した。

「チィ、あんまりじゃれつかれると踏んづけちゃうよ」
「うにゃ~ん」

 話を聞いているのかいないのか、甘えた声を上げて部屋の中心に進もうとするヨルドに絡みまくる。
 どうにかチィを踏まないように足を進めたヨルドは、書類が積み重なる長椅子に空いている一人分の場所に腰を下ろした。
 入室を許可していないし、滞在するなどもっての他だと思うが、和やかに強引なヨルドは文句を言ったところで居座るつもりなのはもうわかっている。同室になってからというもの、三日に一度くらいの頻度でヨルドはノアの仕事部屋に顔を出すようになっていたからだ。
 以前も月に一度くらいは突然の来訪があったが、その時は持ってきたという仕事上必要な道具や書類を預かっただけですぐに追い返していた。
 顔を見せることが増えたのは到底歓迎できないが、そう長い時間いるわけでもないので、立ち去るのを待ったほうが労力は少なく済む。そう思い知ったノアは、目を瞑るには大きすぎる存在をいつも渋々無視することにしていた。
 チィもすぐにヨルドが帰ってしまうことを知っているので、さっそく膝に飛び乗るが、そこにいた先客の小袋を見つけて鼻をひくひく動かした。

「あっ、これは……!」

 匂いを嗅ぎっとったのだろう、蒼の瞳がきらきら輝く。

「今日の手土産だよ。ノアも休憩しよう」
「休憩ならさっきした」

 後輩たちが来て手を止めていたので、休まることがなかったとしても仕事をしていなかった以上あれも休憩には違いない。
 王妃からの修理依頼は今日までだが、夜が来るまでには確実に完了する予定だ。時間はあるので少し長めの休憩を取ることは問題ないが、それでも手を止めるつもりはなかった。
 しかし、その判断に絶望する者がいた。

「の、ノアさま……休憩、しにゃいんですか……?」

 震える声を出したのはヨルドの膝の上、焼き菓子が入った袋に鼻を寄せていたチィだ。
 主が食べなければ頑として自分も食べないとするので、ノアが一緒に一息つくと言わない限り、チィも菓子にありつくことができないからである。

「――……少しだけだから」

 食い意地だけは一人前の使い魔に負けて、ノアもオルゴールから手を放した。
 手袋を外して、顔にかかる前髪を掻き上げる。

「それで。今日は何を持ってきたんだ。適当なものは食わんぞ」
「今日はこれだよ」

 袋から出てきたのは通常のものより小ぶりなパイだった。四角に成形されているそれらはいくつかの味があるらしく、どれも色合いが違っている。

「美味しそうですね! ノアさま、どれ食べますか?」
「先に選べ。私は何でもいい」
「はい! ノアさまの分、チィが選んであげますね!」

 どれにしようかと目移りするチィに呆れていると、ふとノアを見ていたらしいヨルドの視線に気がついた。
 こっちを見るなと睨み返そうとしたところで、ふと後輩たちと話した内容を思い出す。

「……あまり余計なことを話すなよ。貴様がどう行動しようとも勝手だが、今動かれたら私にあらぬ疑いがかかる。それは互いに不本意だろう」

 主語もないノアの主張にすぐには理解できなかったらしいヨルドだったが、考えを巡らせるうちに思い当ったようだ。

「わかっているよ。大丈夫、ノアとのことは話していないし、おれのことだけだから」
「ふん、当然だ。貴様がいつ告白をしようが構わないと言いたいところだが、まだしばらく同じ部屋で寝泊まりしなければならないんだ。思いを告げるとしてもその後にでもしてくれ」

 もしヨルドとその想い人がうまくいっても、同居人がいるうちは逢瀬もままならないだろう。それで恨まれるのも迷惑な話だし、万が一にでもヨルドをかすめ取ろうと目論んでいるとでも疑われたなら舌を噛みたくなるほどの屈辱だ。
 少なくとも快くは思われないだろうから、これまで恋心を秘めていたというのなら残る期限の間くらいは我慢してもらわないとノアが迷惑する。色恋沙汰に巻き込まれるなんてまっぴらだ。
 至極当然の主張のはずだが、ヨルドは口元に緩く浮かんでいた笑みを深めた。

「どうしようかな」
「は?」

 どこかからかうような、試すようなもの言いに苛立ちが募ったところで、わっとチィが声を上げる。

「ノアさま決まりました! ノアさまにはリンゴのパイと、カボチャのパイです!」

 主の好みをしっかり把握している使い魔は的確な選択をして、ノアの手に小さなパイを置いた。
 自分も好みの味を選んで、その残りがヨルドのもとにいく。

「いただきますっ」

 各自の手にいきわたると、もう待ちきれないチィが尻尾をぴんと立たせてパイに齧りついた。
 チィが選んだのはミートパイだ。黒い毛でわかりづらいが、さっそく口元をソース色に染め、さっくりとしたパイの欠片をつけながらうっとりとした様子で味わっている。

「はうう……美味しいです……」

 満足した様子のチィはすっかり餌付けされていた。ヨルドが顔を出すたびに、手土産と称して食べ物を持ってくるからだ。
 どれも妙にノア好みのものばかり。つまりはチィの好物でもあるので、しっかりとおやつに釣られてしまっているというわけだ。

「まったく、副長がこうも出歩くなど、騎士団は本気で暇なのか」
「そんなことはないけれどね。ここに来るための用を頑張って探しているんだよ」
「はっ、よく言う」

 そんな利点がどこにあるというのだろう。
 魔術師の塔は騎士団本部とは同じ敷地といえどもそれぞれが東と西の両端にあり、そう気軽に向かうような場所ではない。それなのにヨルドが休憩するためだけに西の外れに来るのもおかしな話であるし、使い走りなどその立場を考えればあり得ないことだ。
 そう、何か下心でもない限り。

「わざわざこんなところに来たがるなんて、物好きなやつもいたものだな。騎士団はそんなやつが上にいて大丈夫か」
「はは、魔術師団に言われてもなあ。魔術師団長が今日も定例会議に来なかったって、うちの団長が頭を抱えていたよ」

 今や挨拶代わりの憎まれ口を叩きつつ、彼の目的に薄々気がついているノアは悠然と構える。
 婚約腕輪騒動以前からよく顔を見せていたヨルドであるが、その頃から業務連絡の他でノア以外の魔術師たちと積極的に会うことはなかった。そして唯一雑談を持ちかけてくるノアを相手にしても仕事の依頼をする様子はない。
 まさか、ノアにただ会いに来ているわけでもあるまい。常々疑問であったが、ここ最近になって菓子を持ってノアの部屋で一息入れていくことでその理由がわかった。

「ごちそうさまでした!」

 先に食べ終えたチィが、ぺろりと舌を出して口の周りを舐め取った。

「美味しかった?」
「とっても! 今度はノアさまが食べたのを食べてみたいです」
「はは、チィはおねだり上手だね。また今度買ってくるよ。ひとまずこっちにおいで。口を拭いてあげるから」

 ヨルドの隣の小さな隙間に収まっていたチィだが、膝に呼ばれて軽やかに飛ぶ。
 危なげなく足の上に行くと、向かい合うようにして腰を下ろして顔を差し出した。
 食べかすがついているチィの顔を丁寧にハンカチで拭ってやる。チィも恒例のことにすっかり慣れて、無防備にヨルドの指先に顎を預けていた。
 よくノアのもとに現れていたヨルドであるが、その目的はチィのようだ。
 土産の菓子で小休憩をした後、彼らは必ずじゃれ合う。元気が溢れているチィに根気よく付き合ってやっている姿はいかにも楽しそうで、その様子を見てようやく彼はチィに癒されに来ているのだとわかった。
 気まぐれ者が多く、警戒心が強い猫にしては愛嬌があり人好きするチィは、ノアの使い魔であることを疑われるくらいには人気がある。話も通じるし、ちょっといいおやつを与えておけばある程度撫で回しても許してくれるので、もふもふとした獣に癒されたい者が時折チィを餌付けしては可愛がっていた。ヨルドもそういった側の人間だったのだろう。
 猫の扱いは手慣れたものらしく、顔を拭われていたはずのチィはいつの間にかヨルドの膝の上でとろけて、身体だけでなく耳まで平たくなってしまっていた。
 小さな猫の身体を撫でる手は優しく、チィを見るヨルドの眼差しは愛おしい者を見守るように甘ったるい。
 自分好みのおやつを与えてくれて、口の汚れまで拭いてくれる甲斐甲斐しさ。チィがもしかしたら自分がヨルドの……と勘違いするのも、まったく根拠がないわけでもなかった。
 ヨルドの膝の上でまったりしていたチィだが、ふともぞもぞと身体を動かして髭を揺らす。

「よ、ヨルドさまもそこそこですけど、ノアさまのほうがにゃでにゃでは上手にゃんですからね……」
「そうだね」

 どうやらよほどヨルドの撫でる手が気持ちいいようだ。目は閉じているが、耐えるように口元をもぞもぞと動かす。

「ヨルドさまにゃんて、ノアさまと比べたら……うぅ……ゴロゴロ」

 チィの喉の奥から猫特有の音が鳴った。それに驚いたのは他ならないチィで、はっとしたようにヨルドの片腿で伸び切っていた上半身だけを立たせる。

「にゃっ、にゃんでっ? ノアさまにしか喉はにゃらしたことにゃんてにゃいのに……!」
「そうなのか? でもほら、ここ、好きだろう?」

 ヨルドの指先がつう、とチィの喉を撫でると、途端に先程よりもはっきりとした喜びの音が奏でられていく。

「にゃ、にゃ~ん……じゃにゃくて! にゃんでヨルドさまはチィの好きにゃところがわかるんです!?」
「うーん、なんとなく、かな?」
「うにゃ……ゴロゴロ……」

 すっかりヨルドの手管に骨抜きとなったチィは、抵抗も空しく再び頭を足に預けてしまった。
 それから程なくして眠ってしまったようだ。寝息とともにゴロゴロと、まだ喉の奥を小さく音を鳴らしている姿がなんとも無防備である。

「ふん、尻軽め」

 チィがノアにしか喉を鳴らさなかったのは本当だ。しかしヨルドが相手でもその喉は触れれば音を出す楽器のように、寛ぐチィの心地よく穏やかな心を奏でている。
 情けない使い魔の姿を横目で見ながら、すっかり食べそびれていたパイを一口齧った。
 今日の土産であるこのパイは、城下町の料理屋が出しているものだ。手軽にたくさん味わってもらえるようにと小ぶりに作られていて、掌ほどの大きさをしている。
 当然ナイフとフォークなど仕事部屋にあるわけもないので、少々行儀は悪いがチィとヨルドも齧りついていたのだからと、ノアも直接パイを口に招き入れる。
 歯を立てると、さくりと小気味いい音が鳴った。バターの風味を感じるサクサクとしたパイ生地に、滑らかに濾されたかぼちゃの甘みが馴染んでいる。
 本当は焼き立てが一番美味いのだが、冷めても食感が変わって味わいも異なるこれもまた美味である――と感じるのは、ノアがこのパイを出す店を以前から知っているからだ。
 最近は婚約腕輪の一件で仕事の整理が追いつかずに行けていなかったが、魔術師になったばかりの頃から定期的に通っている店である。
 いくら好きな魔術の仕事だとしても、城勤めである以上制限もあるし、まったくの自由があるというわけではない。それに新人は外部との連絡役に遣われたり、先輩魔術師の資料集めを手伝わされたりするので雑用も多く、城に入ったばかりの頃は思うように集中ができなかった。
 それがストレスであり、溜まった苛立ちは好みの食べ物を食べることで発散していた。そのとき町を巡って見つけた店のひとつだ。
 ヨルドが再現した春風亭の菓子もそうで、今もノアが通う店というのは大体が新人時代に発見した店である。そしてどれもこっそりと人目につかないように店に行っていたはずだった。
 ヨルドが朝食に用意する菓子や、手土産だと持参する食べ物は、どれもがノアの舌に合うものばかり。それもそのはずで、そのどれもがノアが通い詰めている店のものであるのだから好きな味であるのは当然だ。
 たまに知らない店のものもあったが、食べてみれば素朴な味わいはノアの好みで、思わず店の場所を聞きたくなるくらいには興味が持てるものだった。だがそれもノアの舌の趣味を知っていれば、集めるのもそう苦労はないだろう。
 初めはただの偶然かと思っていたが、城下町には飲食店が多くある。その中で人混みを嫌うノアが通ってまで入手している店のものばかり用意するのは、単に趣味が合うという話では済まされない。
 ――だがもし、ヨルドがノアの秘密のストレス解消法を知っていたのなら。それは偶然でもなんでもなく、必然の成り行きとなる。
 その疑惑の極めつけは、チィの何気ない言葉だった。

『ヨルドさまのにゃでにゃで、すっごく気持ちいいんですよ。にゃんだか始めからチィのツボを知っていたみたいにお上手にゃんです!』

 喉を鳴らさまいと必死だったと訴えた使い魔は今、ついに陥没してしまった。
 チィは節操なく色々な人に撫でられるが、どんなに気持ち良くても喉を鳴らすことがなかったのに、ヨルドの手にかかると始めからゴロゴロしそうだったと言っていた。
 もしノアが人目を忍んで買いに行っている先を知っていたのだとしたら。もし、ヨルドが本当にチィのツボとやらを知っていたのなら。

「……おい」
「ん?」

 まだ半分残したパイを持つ手を膝の上に置き、珍しくノアから声をかけた。
 

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