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 それまでチィの毛並みを撫でていたヨルドが顔を上げる。その優しい眼差しに、呼んだだけでこんな顔をされてしまったら勘違いされるだろうなと思った。勿論ノアには効くわけもないが、これでは人タラシと言われても仕方ない。

「魔術師の塔の裏には行ったことがあるか」

 そこには簡素な東屋がある。城の隅の隅の場所で、何より陰気な魔術師たちの仕事場である塔の裏ということもあって好んで近寄る者はいなかった。かといって魔術師たちは淀んだ塔の空気を好み外に出ることもなく、人気のないその場所はノアだけが息抜きに使っていた穴場だ。

「――どうだったろう? 塔に顔を出しているほうとはいえ、ノアたちの顔を見にきているだけだから」
「ふん、よく言う。目的はその膝の毛玉だろうが」

 白々しい台詞に顎で真相を示してやれば、ヨルドは否定することなく苦笑する。
 菓子を買う自分は柄ではないという自覚があったし、職場で食べれば自分で買いにいく勇気もない連中が欲しがり群がるため、いつも逃げるようにして塔の裏の東屋で隠れるようにして食べていた。そこなら引きこもる連中は行かないし、近寄る城の者もいないため誰の目もなく気楽だった。
 もしそれを、ヨルドが見ていたのなら。
 ノアの問いにヨルドは肯定しなかったが、否定もしなかった。だが秘密の休憩を知られていたとしても、ノアにとっては不覚だったと悔いることはあってもヨルドがその事実を隠す必要はない。
 だから今回のことは思い過ごしであることにした。釈然としないし偶然にしてはできすぎだと思わなくもないが、ノアが通っている店はどれもそれなりに繁盛していて名が通っている。味の好みが合っただけのことだと片付けられないわけでもないし、チィのこともどんな猫をも虜にする手を持つ者がいてもおかしくはない。
 手にしたパイの最後の一欠けらを口に放り込む間にも、ヨルドの視線が向けられていることに気づいていた。
 何故そんなことを聞くのか、理由を知りたいのだろう。しかし当然答えるつもりのないノアは、行儀が悪いとはわかっていても指先についたパイくずをちろりと舐めとり一息ついたところで、彼に視線を返した。

「ところで、貴様の好きなやつは誰だ?」
「……どうしたの、急に。今日はよく聞いてくるね」

 チィを撫でるヨルドの手が止まった。きっとあちこちから繰り返されている質問であるだろうが、まさかノアが知りたがるとは思いもよらなかったのだろう。
 ノアだって理由がなければ興味のない質問はしない。先程の質問の件を蒸し返されたくなかったのと、ヨルドの片思いの相手を知る必要があったからだ。

「貴様の想い人とやらにあらぬ疑いをかけられたくはないからな。それで仲違いしてこちらを責められては困る。そいつくらいには事情を説明してやるさ。私も迷惑しているんだと。別に貴様が誰が好きだとか言いふらしたりしないから安心しろ」
「いらないよ」

 ノアが言い終えるか終えないかくらいに、ヨルドは答えた。

「別におれは迷惑だなんて思っていない。むしろ、ノアとこうして一緒にお茶ができるようになったことに感謝しているくらいだ」
「……別に、チィに触れるのに私の許可はいらんぞ。いや、菓子は寄越せ」

 いくら好きなものであっても、やはり町に買いに出るのはひどく労力がかかる。
 その手間が省けるなら使い魔を少し貸し出すくらいならいくらでも構わない。

「なんか、勘違いされてるなあ」

 ヨルドがぼそりと呟くが、声が小さくて聞き取ることはできなかった。

「なんだ? チィは私の使い魔なのだから、触れたければ主である私に貢物を寄越せ」

 てっきり不服の声だと思って、嫌がっているであろうヨルドを嬉々として意地悪く笑ってやった。
 ヨルドの膝の上にいるチィを奪い返す。
 深く寝入っていたチィは身体が持ち上がったことでまだ眠たそうに瞼を持ち上げたが、ノアの膝に移して背中を撫でてやると、微かに喉の奥を鳴らしながらまた目を閉じた。

「休憩は終いだ。仕事の邪魔だ、帰れ」

 ノアも食べ終わったし、チィは寝てしまった。結局ヨルドの相手は有耶無耶なままだが、別にノアに迷惑さえかからなければそれでいい。
 ヨルドもいつまでも出歩いているわけにはいない立場だ。反論なく立ち上がると、そのまま長椅子の端に積み立てられた本を手に取り出した。

「ここあるやつは返す本だったね。ついでに持っていくよ」
「ふん、気が利くじゃないか。そこにあるやつはすべて返却するものだから持っていっていいぞ」

 溜めていた本は一人では持ちきれない量だが、持てるだけ持って行ってもらおうと返却する山を示す。
 はいはい、と笑ながら本を拾い上げるヨルドの様子を見ながら、その中のまだ未読のものが混じっていないか確認をしていると、ふとその手が赤い本に触れてはっと思い出す。

「ま、待て!」

 咄嗟に立ち上がったノアの膝からチィが落とされ、ぎゃと足元で鳴いた。完全に寝入っていたので、受け身をとりそこなったのだ。

「チィ!」

 慌てて抱え上げると、すっかり耳を下げてしまったチィが非難の眼差しを向けてきた。

「うう、ひどいです、ノアさま……頭いっぱいにゃでてください……」
「……おまえ、本当は大丈夫だろう」

 しっかり要求するくらいに頭が回るのなら問題はないだろうが、さすがに悪いと思って仕方なく希望通りに撫でてやる。
 落とされたことなどすぐに忘れたチィは、幸せそうに目を閉じノアの指先を受け入れていたが、念のため撫でてやりながら回復の魔術を込めておいた。
 ゴロゴロと低く鳴り出した喉の音を聞いて、ヨルドも大丈夫そうだと判断したのだろう。

「よかったね、チィ」

 主の腕の中で安心しきっている使い魔に優しく声をかける。それが届いたかわからないが、喉を鳴らす合間に小さく、うにゃ、と鳴いた。
 チィをあやす姿などらしくないと自覚があるノアは、気恥ずかしさもありそっぽを向いていると、それまでくすくすと笑っていたヨルドがふいに静かになる。

「これは……」

 驚くようなその呟きに、ノアは直前の出来事を思い出す。
 慌てて振り返ると、彼の手には鮮やかな赤の本があった。ヨルドはまじまじと表紙を見ている。
 チィを机に置いたノアは、ヨルドのもとまで歩み寄ると、無言で彼の手にある本を取り上げた。そのまま何事もなかったように無視するつもりだったが、無遠慮に注がれるヨルドの視線に耐えかね、きっと音がなりそうなほど強く睨み返す。

「べ、別にこれは資料として集めただけだ! 見識を広めるためだけのもので、それ以外の理由はない!」

 冷静に言おうとした台詞は、早口となってノアの口から飛び出した。

「……それに、私は結婚するつもりはなかったし。夫婦というのもよくわからなかったし、陛下の想いに応えるためにはそういうもので学ぶしか……」

 勢いはすぐにしぼんでいき、驚いた顔のヨルドを見続けることは出できずに、腕の中に隠された本に視線を落とした。
 見栄えある美しい色合いの本の中身は読んだのでもちろん知っている。今、若い娘たちの間で流行っている王道的な恋愛物語だ。
 前後巻の二冊に分かれており、これはそのうちの後篇にあたる。前篇は主人公である町娘の片想いから、恋を実らせ結婚に至るまで。後篇は新婚時代を中心としたその後の生活が描かれていた。
 王はヨルドに婚約腕輪を贈る際に、祝福を与えてほしいと願った。しかしノアは婚約する二人にとって何が祝福となるかがわからなかった。
 結婚する必要性や、どのような手順で夫婦になるのか。それぞれ男女に課せられる責務など、堅苦しい規則が記された書物はいくらでもある。だが、本人たちが求めるであろう喜びや、夫婦生活において必要なことはどこにも書かれていなかった。
 そこで仕方なく資料としたのがこの大衆小説である。

「……私は孤児だ。孤児院で育てられたし、普通の夫婦というものを知らなかったからな」

 ヨルドの眼差しから逃れるよう、背を向けた。
 ノアに父と母の記憶はない。どうやら物心つく前になんらかの理由で命を落としてしまったらしい。
 代わりに幼いノアの面倒を見てくれたのは叔父だった。両親どちらの弟かはわからなかったが、そうなのだと言っていたことは覚えている。
 叔父は面倒をみるといってもそこに愛情はなく、また暮らしに余裕もなかった。
 二人でその日暮らしの生活を続けていたとある日、荷馬車の暴走による事故で叔父は亡くなった。虫にでも刺されたのだろうか、突然暴れ出した馬を制御しきれず、荷台ごとノアたちがひっくり返ったせいだ。
 外に投げ出された叔父は運悪く岩に頭をぶつけて、それ以降動くことはなかった。他にも乗車していた者がいたが横転した荷台や荷物に押し潰されて息絶えていて、幸か不幸かノアだけが生き残った。
 ノアは事切れた叔父の傍でどうすることもできず、自身も腕を折った痛みにわんわん泣いた。記憶の中であれほどまでに泣いたのは、今も昔もあの時だけだったと思う。
 そこに偶然にも王の一行が通りかかった。護衛をしていた騎士の一人が子供の泣き声を聞きつけ様子を見に来てくれて、事情を把握した王は、出自もはっきりとしないノアの保護を即座に決めて国に連れ帰ってくれた。
 だからノアは王に恩義を感じている。働き詰めで汚らしい姿のノアを抱き上げることは血のつながった叔父でもしてくれなかったのに、王は躊躇いなくノアをその腕に抱え上げ、「一番上の孫と同じくらいの年の子だなあ」と笑ってくれた。
 孤児院に入るための手配をしてくれたが、それだけで縁は切れず、時々顔を見せてノアを気にかけてくれたのだ。
 ノアは他人に興味はない。叔父は手こそ上げなかったがいつもノアを疎ましく思っているのを隠さなかったし、早くから類稀な魔術の才があることが判明したノアはすぐにその才覚を露わしたが、妬みの対象となり、孤児院の仲間や学園の生徒からよく意地悪いことをされていた。目つきが鋭く愛想がないので、大人たちは可愛げがないと言って守ろうとはしなかった。
 そんな者たちを気にかける余裕はノアにはなかった。早く一人前になって、誰の手も借りずに一人で生きていけるようになりたかったから。そして、ゆくゆくは王に、あの時した拾いものが価値あるものであったのだと、決して後悔はさせまいと努力を重ねた。
 脇目も振らずにひとつの道だけを進んできた。だからノアは家族のことなど、夫婦のことなど何も知らない。それどころか周りに恋人ができても興味はなかったし、ましてや自分が恋愛事に関わるなどと想像したことさえなかった。
 そんな何も知らない自分が、婚約する者たちへ贈る祝福を参考資料もなく考えられるわけがない。
 教えてくれるような友人もおらず、どうするべきかと悩んだ結果に縋ったのが、この恋愛の空想書物だった。

「知っているよ。ノアが孤児だったってことも、陛下の願いを叶えるために一生懸命になれることも」

 ノアが孤児であることは隠していることではない。不遜な態度から快く思われず、良くも悪くも噂されることもあり、そうなると出自が欠点となると思い込む者はむしろ積極的に話を広めていくからだ。
 ヨルドが知っていても不思議はなかったが、王のことを持ち出されるのは想定外だった。
 ノアと王の関係はなるべく隠してきたつもりだし、王宮魔術師となってからはなおさら人前では互いの立場に厳格に線を引いてきた。
 時々王とノアが二人きりになっても、ノアの仕事は魔導具の開発であり、内密な依頼をすることもおかしなことは言えないので、親密な関係にあるとは思われないと判断していたのに。
 王も秘密にしたがっていることを知っていたから、わざわざノアに合わせてくれさえいた。もちろんヨルドが最も親しくしている王族であり、自身の孫であるルーンにさえ話はしていない。
 それなのに何故、ヨルドがノアの想いを知っているのだろうか。
 思わず振り返ったノアに、秘密を打ち明けるように静かにヨルドは言った。

「実はノアが初めて城に連れて来られた日、見ていたんだ」

 それからヨルドが語ったのは、もう二十年以上も昔の記憶だ。
 その頃のヨルドはルーンの遊び相手としてよく城に遊びに来ていた。他にも何人かいた遊び相手と一緒に城内でかくれんぼをして遊んでいたとき、視察から帰ってきた王を見かけたのだと言う。そして、その手に引かれる襤褸を纏った子供のことも。
 王宮に足を踏み入れるには到底相応しくないその薄汚れた子供こそノアだった。

「……見ていたのか」
「また城できみを見かけたとき、すぐにわかったよ。ああ、あのときの子だって」

 ノアが二度目に城に足を踏み入れたのは魔術師となってからだ。つまりこれからの処遇を決めるために一時的に王の手に引かれて城に入った時から十二年の歳月が経過していた。
 痩せているのは大して変わらなかったが、それでも背は伸びだし、顔つきも大人の男のものになった。子供の頃とはずいぶん変わったはずだが、一度ちらりと見ただけの相手の成長した姿がわかるものだろうか。
 唯一変わらない特徴は、やや珍しいとされるくすんだ白っぽい灰髪だが、幼少期はろくに洗うことなく土ぼこりで汚れていたので、その印象も変わっていることだろう。むしろ色の違いに惑わされてもおかしくないのに、よくヨルドはノアだとわかったものだ。

「――ノアのそういうところ、好きだよ」
「はっ?」

 ノアの生い立ちの話から脈絡のない言葉に、いきなり何を言い出すのだと怪訝に眉が寄る。
 

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