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 素直な反応に微笑んだヨルドは、ノアの腕に抱えられた本をすっと抜き取った。

「あっ」
「知らないことを、適当に済ませるんじゃなくて、ちゃんと調べようとするところ。好きだよ」

 ヨルドの指先が、濃い色合いの表紙を撫でた。

「いいなあ。ノアと結婚できれば、毎夜抱きしめてくれるんだ」

 それはノアが婚約腕輪にとりつけた嫌がらせ――もとい、祝福のことだろう。
 確かにそれは本を参考にした。仕事から帰ってきたり、就寝前であったり、ことあるごとに夫を抱きしめる妻、そしてそれに応える夫の姿が描写されていたためだ。
 いくら夫婦がどうあるのか知らないノアでも、そんなことがずっと続くわけでもないことくらいわかっている。しかもそれが義務的なことになってしまえばなおのこと煩わしく感じるもので、だからこそ嫌がらせの意味も込めて贈った祝福だ。何もノアだったら抱きしめてやるからと設定したものではない。
 それになにより。

「……私は結婚などしない」

 本をなぞっていたヨルドの手が止まった。

「伴侶を持って何になる? 私は私のしたいことをするだけで、今のままで十分だ。満足している。誰かに寄りかかって生きていくつもりはない。――それに、こんな捻くれ者を欲しがるやつがどこにいる?」

 自嘲気味に吐き捨てた言葉は、普段は口に出さないだけの本心だ。
 ノアは自身の能力を客観的に判断した上で世間に認められて当然のもとであるとしているし、自分の安寧を守るためには他人を遠ざけるのが一番楽で簡単だからやっている。
 自分に合った合理的判断でこの生き方をしているが、だからいってそれが周囲に受け入れられることは別物だということもわかっていた。
 一人でいるための悪態に、だからこそついてくる者はいない。ノアを利用しようとして傍に寄ってくる者がいたこともあったが、結局はいつもノアに振り落とされてきた。
 今も食らいついているのはヨルドくらいなものだが、思惑がまったく読めないこの男とて、いつかは頑ななノアに諦めて去っていくだろう。
 それでいい。それがいいと望んで、これまでやってきたのだから。

「結婚をするって、寄りかかることばかりではないと思うよ」

 ノアの使った言葉に、ヨルドはそう返した。
 
「生涯を誓った伴侶がいるというのは、人生を共有するということで、幸も不幸も分け合えて心強いだろうね。目に見える契約で縛られるわけでもあるし、証拠がある。でもそれは別に、生涯を誓わなくてもできないことでもないだろう」

 てっきり婚姻関係を望む相手がいるヨルドからすれば、いかに結婚というものが素晴らしいかを語り出すかと思いきや、意外な台詞にノアは驚いた。

「結婚することで添い遂げる覚悟が決まったり、精神的拠り所ができたり。財産の処遇をはっきりするなんかの利点も確かにある。でも互いに納得していれば別に恋人でも、ただ傍にいるだけでもいいとおれは思うよ」

 そこまで言うと、ヨルドはふっと表情を緩めて悪戯げに肩を竦めて見せた。

「なんて言えるのはこの国は平和である証拠だけれどね。子は国の宝で、将来の働き手だ。結婚は家族を作り、子を産み育てることでもある。だから必要とされるし、国も求めるものであるけど、ノアも知っての通り、うちの国王さまは大らかな方だからね。近いうちに同性婚も認可しようと働きかける動きもあるそうだよ」

 それはノアも王から直接聞いていた話だった。というのも、ノアも一枚かんでいる話だからだ。
 王は表向きには魔導具による市民の生活水準の向上を目的とし、その実は裏で女の社会進出を図っているのだという。そのために女の仕事とされる家事などの日常生活の負担を減らす魔導具の製作をノアが任されており、その前段階として開発した魔力変換装置は大いに評価されていた。
 魔力の気質は人によって異なる。しかしそれでは火を扱いたい者は火の魔力が必要になるし、水を操作したければ水の魔力が必要となるが、目的に応じた魔力を誰しも持っているわけではない。
 そこで有効になるのが魔力変換装置である。魔力属性に応じた宝石に魔力を通すことによって目的に相応する魔力に変換し、魔導具の使用を誰でも可能とするものだ。
 しかしそれを実用化するには、装置の小型化や、庶民には高価で手が出せない魔力変換に使用する宝石の代用品を探すことや、そもそも一般人の少ない魔力でいかにして魔導具を発動させるのかなど、広く運用するうえで重要な課題をいくつも解決する必要があった。
 こうした文化的改革はすぐに起こせるものではなく、女は家庭を守るべきものである、すでに統率された男社会に混乱を招くなどと主張する反対意見も多い。高齢の現国王の代では総意を得ることだけでなく、ノアにとって悔しいことではあるが技術面でも追いつくことは難しいだろう。
 しかし幸いなことに王太子は国王の意向を尊重するとしており、その次の王位継承予定であるルーンの意志も同じだという。
 今は自身の社会的立場を守るためにも家庭に入らざるを得ない女も多いが、いつかの未来では性別に拘らず、もっと自由に自分の生き方を選べる時代が来るだろう。そして身体的理由で子を作れず結婚を許されなかったり、離縁されたりした者や、生産性がないなどという理由で拒絶されてきた同性婚も、自由な権利として認められる日もそう遠くないはずだとされている。

「誰かといるのも、その人との関係性も自由でいいなら、一人でいることだってもちろん認められることだ。だからノアが結婚しないと言うのならそれでいいと思う。でももし、ノアがいいんだって言う人がいたとしたら?」
「……なに?」
「ノアに傍にいて欲しいんだって。夫婦のことを何も知らなくても、たとえお互い身を寄せ合わなくても何も問題なく生きていけるんだとしても、それでもノアが欲しいって。幸も不幸もきみと分かち合いたいんだっていう人がいるかもしれないよ」
「はっ、そんな物好きがいるとは思えんな」
「始めから決めつけるのはもったいないよ。ノアも発明をするのならわかるだろう。視野を広く持つことで様々な可能性が見えるし、それを柔軟に受け止めることで成功に繋がることもあるはずだ」
「それは、そうだが……」
「生き方だって何もひとつじゃない。始めから結婚をしないじゃなくて、いい人がいればもうひとつの可能性として考えてみる、でもいいんじゃないかな」

 この国もゆっくりではあるが変ろうとしている。より自由に、人々が自ら望む先を生きられるように。
 そんな風にノアも変わればいいと言われているような気がした。

「それにおれは、好きな人が捻くれていようが、それが可愛いところだって思えるお嫁さんならほしいけどな。結婚をすれば堂々とおれの大切な人だよ、取らないでねって言えるし、悪い虫は遠慮なく叩き潰せる。傍にいられることを権利として主張できるのなら、喜んで法に感謝するよ」

 人良さげな笑顔ながらなかなかに腹が黒そうな言葉が並ぶ。きっとヨルドが今思い浮べている相手に執着をしているからだろう。
 身の周りのことは大抵できて、菓子まで作れてしまうような男だ。人当たりもよく、部下からも慕われているヨルドはまさに一人でも生きていける人間だ。彼こそが王の望む未来にあるべき姿なのかもしれない。
 しかも実家は有力貴族で、三男ともなれば跡取りの心配をされることもない。身分も地位も確たるものであるヨルドは結婚相手には申し分ないし、仮に相手側の身分が問題だと言われることはあっても、ヨルドならうまく立ち回ることができるだけの器量がある。
 謙遜なく選り好みができる立場のヨルドがもし恋敵であれば、彼が相手だと知っただけで戦意喪失する者が多く出るだろう。
 それにも関わらず、ヨルドは想い人と独占したがっている。それほどまでに執着できるのは魅力的な相手だから。そんな好いた相手が、可愛げも何もあったものではないノアみたいな者のわけがない。
 ノアの手前、自分の主張を通すためにヨルドはああ言ったのだろう。
 どうせ、自分を欲しがる人間などいるわけがない。意地の悪い性格のノアからもし唯一の取り得である魔術を取ってしまったら、きっとそこにはチィでさえ残らない。チィとは使い魔契約にのみ成り立っている関係であって、ノアには命を握られている。他に優しくしてくれる主がいれば喜んでそちらに行くだろう。
 そうすれば当然、チィがお目当てのヨルドだって立ち去るに決まっている。
 それでいい。――それがいい。
 一時の感情に振り回されるくらいなら、覆しようのない事実を信じているだけのほうが心は乱されない。

「うるさい」

 拒絶の言葉を口にして、ノアはヨルドを睨んだ。

「長々と語って、一体いつまで居座るつもりだ。人の仕事の邪魔をしてまで価値観を押しつけて、それで満足か」
「……邪魔をするつもりはなかった。ごめん。確かに長く居すぎてしまったな」

 ヨルドは本を抱え直し、さらに数冊腕に乗せていく。
 ノアからこれだけ強い言葉を使われても、まだ親切にしようとする気持ちが残っているのは純粋にすごいと思う。だが感謝の言葉は出てこない。ヨルドを睨む眼差しを緩めることもなかった。
 立ち去る寸前、扉に手をかけたヨルドが振り返った。

「でもノア。きみはもっと自分に優しくしてやるべきだ。おれには今のきみが押さえつけられているように思うよ。窮屈そうで、見ていてなんだかつらそうだ。これが価値観の押しつけと言われても、どこか諦めているきみを放ってはおけないから。――……もう行くね。それじゃあ、また夜に」

 言いたいことだけを言い切り、いつもと変わらぬ笑みを残してヨルドは部屋を去って行った。
 何も言い返せず、ただ立ち尽くすノアに、途中から目覚めていたチィがそっと近づく。

「ノアさま……?」

 机の上から身を乗り出して、そこからぎりぎり届く位置にあるノアの手にぐいっと鼻先を押しつけた。
 いつもの撫でての合図だ。けれどそれに応えるべき指先は動かせなかった。

「……私がつらそう? 今で十分だ。これで満足している」

 苦々しく吐き捨てる。けれども掻き回された胸のうちはぐちゃぐちゃに混乱していて落ち着かない。
 ざわつく胸のうちが不愉快で、ひどく気分が悪かった。

「ノアさま、苦しい
んですか?」
「……そう、だな……。苛々する……」

 何か物を投げて思い切り叫びたい気分なのに、でも身体は重たく冷えていく。
 いつもは煮え滾り身体を熱くさせる怒りが、腹の底にいるはずだ。一方的に決めつけ意見を押しつけたヨルドに怒りを覚えている。
 扉が閉まりきる前に、貴様には関係ないと叫びたかった。けれども激情のように駆け上がる熱は深く沈んだまま、心に空虚が凪いでいく。

「ノアさま。ノアさま……」

 ぐりぐりと押しつけられる頭を、特に考えるでもなく無意識にノアの手は撫でていた。
 随分と冷えている指先はうまく動かせなかったが、柔らかい毛並みに包まれた頭は温かくて、次第に手は滑らかにチィの身体を掻くように撫でていく。
 それでも、ノアからすれば容易いはずのチィの喉は、いつまで経っても鳴ることはなかった。
 
 
◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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