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 騎士団本部の中を駆け回り、時折会う猫好きの知り合いに捜し人の場所を尋ねる。それでもすれ違いが続いてしまい、もう見つからないかもしれないとすっかり諦めかけたところで、見慣れた後ろ姿を見つけてチィは声を張り上げた。

「ヨルドさまっ」
「……チィ?」

 振り返ったヨルドは、駆け寄るチィの姿に驚いているようだった。それでもすぐにしゃがみ込み、近づいたチィと話しやすいようにしてくれる。

「どうしたんだ、こんなところまで。何かお遣いでも?」
「ヨルドさまに会いにきました」
「おれに?」
「はい。大切にゃお話があります」
「――そう。それじゃあ場所を移そうか。おいで」

 ヨルドにひょいと抱え上げられる。歩き回って疲れていたので、大人しく身を預けることにした。
 連れて来られたのはヨルドに与えられている執務室だ。
 ヨルドの部下が誰かいるかもしれない。そうしたらどうしようと思ったが、幸い部屋には他に誰もおらず、ヨルドとチィの二人だけになる。
 ヨルドは椅子に腰かけ、チィを机の上にそっと置いた。

「さて。今日のおやつはさっきのでおしまいだけどいいかな」
「えっ――じゃ、じゃにゃくて! 別におやつをねだりにきたわけじゃにゃいです!」

 数時間前にヨルドから名店のパイをもらったばかりだ。それでも”お菓子”の言葉だけでまた何かもらえるかも、と無意識に耳がぴんと立つ。
 ないとわかって一瞬落ち込みそうになるが、慌てて首を振って邪念を追い払った。
 ヨルドはあえてからかったのか、くすりと笑う。

「わかっているよ。――それで、チィはおれになんの話があるんだ? ノアの前では言えないこと?」

 必要に応じて離れることはあっても、チィはいつもノアと一緒だ。
 ノアの遣いというわけでもなく、ただチィ一匹だけで会いに来たというだけでヨルドは何かを察したのだろう。
 それならば話は早いと、チィは前置きもなく本題に切り込んだ。

「ノアさまをいじめにゃいでください」

 微笑みが浮かぶヨルドの表情に変化はなかった。もしかしたらチィが訪れた理由をわかっていたのかもしれない。もしくは、その真意を探っているのだろう。
 ノアはいつも、あの男は食えないやつだと、チィにもあまり懐くなよと言ってきていた。それはきっと、こういうところだ。
 いつもにこやかな笑顔で、あの我が強いノアですらヨルドが相手では振り回されることがあるのだから、素直さがとりえのチィではひとたまりもない。
 それでもチィは引き下がるわけにはいかなかった。

『……私がつらそう? 今で十分だ。これで満足している』

 そう呟いたノアはひどく息苦しそうで、聞いているチィもとても苦しくなった。ノアが撫でてくれても全然気持ちいいと思えなくて、それよりも振り向いて顔を見せて欲しかった。
 だからたくさんノアの名を呼んだ。振り返って、いつものように「しょうがないやつだな」と笑って欲しかった。
 けれどノアは振り返ることなく、その後作業を再開させても、心ここにあらずで集中さえできていない様子だった。
 普段は身だしなみに無頓着だし、生活も不摂生を重ねてチィに心配ばかりかけるノアでも、魔術に関することだけは決して手を抜かない。そんなノアが、ただ手を止め考え込むことなんて今まで一度もなかったことだ。
 だからチィは、そうなった元凶に会いに来た。
 大切な自分の主を守るために。

「ノアさまはとってもお優しい方にゃんです。横暴だし、口は悪いし、意地悪ばかりだし……でも、それでも、チィを助けてくれました」

 素直な自覚があるチィは、腹の探り合いなど苦手だ。というよりもできるわけがない。駆け引きをするだけ無駄だとわかっているから、だからただ思いつく言葉をひたすらに並べていく。

「ヨルドさまは、使い魔にするための方法を知っていますか?」
「少しなら。死んだ生き物の身体に魔術師の魔力を注ぐと聞いたことがある」
「その通りです。チィは馬車に引かれて死んだそうです。記憶はにゃいですけど……偶然通りかかったノアさまが、死んじゃったチィを使い魔として蘇らせてくれたんです」

 前足で腹巻をずらすと、そこには身体を真横に裂く傷痕が剥き出しになってあった。皮膚が引きつったような痕には毛も生えず、全身黒の身体ではその場所だけが目立ってしまう。そのためチィはいつも腹を隠していた。

「チィが死んだときの傷です。馬車に引かれて、真っ二つだったってノアさまは言っていました」

 車輪に引かれたチィの身体は上半身と下半身が切断されてしまった。そのせいで命を落としたが、幸いというべきか、他に目立った外傷はなく、押し潰された腹も肉片が激しく飛び散ることもなく、事故に遭ったにしては比較的きれいな死体だった。
 使い魔にするためには死後半刻以内の肉体が必要となる。使い魔になると死因に関係があれば病も完治するし、外傷であれば傷跡は大きく残るが分かたれた身体でも元通り繋ぐことができる。しかし損傷が激しい場合は、身体的機能に問題は起きないが容姿が回復しきることのない状態で復活することになるので、使い魔とする死体は外傷の少ない者がよく選ばれていた。
 契約を結ぶと、死体から抜け出た魂が魔術によって再び身体に結びつけられる。その代償として生前の記憶はなくなりまっさらな状態になるとされているが、病にもかからず、飢えても死なず、致命傷となる外傷も命を落とすことはなくなる。主の魔力を注がれることによって心臓が止まってもまた動きだし、傷も完璧に癒すことができる不老不死の存在となるのだ。
 しかし主が契約を解除するかもしくは死するとき、その瞬間に身体は死した肉体へと戻り、魂は解き放たれる。他の魔術師による使い魔契約の再締結は不可能で、二度と蘇ることはない。使い魔の生はすべてが一人の主に依存し、そして握られているのだ。
 すべての使い魔が主との関係を円満に築けているわけではない。中では不本意ながら従わざるを得ない者もいる。しかし使い魔契約とは、主は一方的に放棄できても使い魔側から逃げ出すことはできないものだ。
 定例で行われる使い魔集会では、もういっそ逃げ出してやろうかと泣いている者もいる。寿命を待つこともできず、自死を選ぶこともできず、できるとするなら職務放棄をして主側から契約の破棄させることだけ。そうして逃げ出した使い魔も過去にはいた。
 でもチィは、ノアの使い魔になれてよかったと心から思っている。

「チィはノアさまの使い魔で、幸せです。ずっとずっと、ノアさまのお傍にいたいです。お役に立てることがあればにゃんだってします。でも……」

 偽ることのできない正直な身体は、情けなく耳を下げた。
 項垂れつつ、チィはヨルドに一般には知られていない使い魔契約のもうひとつの条件を口にした。
 それは使い魔と契約を結んだ魔術師に、身体的変化が起きることだ。
 どんな変化が表れるかは使い魔によるため予測はできない。契約をして初めて主となった魔術師の身に何が起こるかを知ることになる。

「魔術師団長さんは全身の毛がにゃくなりました。鼻毛までなくなって風邪をひきやすくて困るって言っていました。副長さんは定期的に歯が生え変りますし、他の魔術師さんは突然眠ったり、瞳の色が変わったり――。ノアさまは……チィを使い魔にしたから、片目の視力が……」

 日常生活において困る者もいれば、なんら影響のない者がいるなど、その変化の幅は広く規則性もない。
 髪が抜けたり色がやや変わることなどあるが、身体が変形するというような目に見えて特徴的な変化はないのであまり問題視されることはなかった。しかし外見には出ないからこそ、その問題に気づかれないことも多く、ノアもそのうちの一人だ。
 ノアが右目に片眼鏡をつけるのは、チィを使い魔にした影響で視力が著しく低下してしまったせいだ。もともとは遠くまでよく見える目をしていたそうだが、今ではモノクルをつけていなければ右の視界だけ不鮮明なのでよく物にぶつかってしまう状態になってしまった。
 だからチィは時折ノアの右肩に乗り、右目の補助をすることもある。ノアは「眼鏡があれば事足りる。そんなのいるか」と一蹴するが、チィが心配で堪らないからだ。
 ノアの肩に乗って周囲に注意している間は、未熟なこの身体で良かったと思える唯一の時だった。成猫だったらひ弱なノアの身体には重たすぎたことだろう。
 使い魔にする獣は、その利便性を考えてほとんどが成獣を従わせる。しかしチィは完全に成長しきることなく死んでしまったためその歳で姿は固定されてしまったし、小柄な猫のため器用な手も頑丈な身体もなく、大して手伝いもできない。いつもノアが大変そうにしている本の貸し借りだって、チィには一冊か二冊背中に乗せるので精一杯だ。
 もし、もっと大柄でしっかりした身体があったなら。人間のように器用な手があったら。ありえないもしもを願ったところで、この身が変わることはない。
 確かに横暴なところはあるし、猫遣いも荒く、よく他の使い魔たちから心配されることもある。だがノアはどんくさいやつだと呆れても、決してチィを見捨てなかった。
 容赦がない人だから失敗すれば遠慮なく注意をしてくるし、反対に褒めてくれることはそうない。それでも他の使い魔と契約するつもりもないと言ってくれる。どこに行っても何だかんだと置いてかないでくれるし、迷子になれば探し出してくれた。ご飯はそれとなく美味しいところをくれるし、なにより、その膝に乗れば撫でてくれる彼の優しい指先が大好きだ。きっと生前の記憶がなくてもチィはノアのことを好きになったと思うし、使い魔になるかと問われたら迷いなく頷いただろう。
 命を救ってもらっただけでなく、たとえ偶然の重なりであってもチィと出会ってくれた大好きなノアに、たくさんの恩返しをしたいと思う。けれどどれほど自分がノアの役に立てているのか、考えるほどに不安になった。
 チィだって、可愛さだけならどの使い魔にも負けないと思う。国王でさえチィの前ではでれでれと相好を崩しているし、歩いているだけで微笑ましく見守ってらえているのだからそれは間違いない。でも頼めることには限りがあってドジも多いチィは、無駄ない実用的なものを好むノアの趣向には合っていなかった。
 本当にノアのことを思うなら。それならチィから使い魔契約の解消を求めればいい。
 使い魔の所有数は定めはないが、ものぐさなノアは多く持つつもりはないのだろう。ならチィが身を引き、その代わりにもっと使える使い魔を一体持つほうがノアにとっても都合がいいはずだ。
 それが言えないのは死ぬのが怖いからではない。まったく怖くないわけでもないけれども、なにより、大好きなノアともう会えなくなるのが嫌だから。
 だからチィは自分ができる範囲の精一杯で頑張るし、たとえお気に入りのヨルドにだって牙を剥く覚悟がある。
 ノアを守るためなら。そして胸を張って傍にいるためにも。
 

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