「チィはノアさまのためにゃら、にゃんでもやります。ヨルドさまがノアさまをいじめるのにゃら全力で止めます。どうして意地悪するんですか?」
「意地悪なんてしているつもりはないよ」
「でも、さっきだって……」
婚約腕輪のために参考にした本をヨルドが見つけたことにより、話はノアの想定していなかったほうに転がってしまった。
ヨルドが言葉を重ねるほどにノアの口数が少なくなっていったから、そうだとわかる。
「ノアさま、本当にいっぱいあの本を読んで、どんにゃ祝福を与えるべきか考えていたんですよ。そりゃ、ちょっとやりすぎにゃところもありますけど……でも、本当はただの嫌がらせにゃんかじゃにゃいんです。ちゃんと理由があるんです」
「理由? あの、一日一回の抱擁とか、夜は一緒にいなければならないとかのことか?」
ノアは強制的に義務化することであえて嫌にさせてやるのだとか、同じ部屋から出ることで冷やかされればいいとか、そんな理由をつけたのだと言っているが、それは違う。
まったくその意図がないとも言い切れないが、長い付き合いとなるチィはちゃんとわかっていた。
「たとえば夜におにゃじ部屋にいてもらうのも、ヨルドさまとお相手の方が仕事にゃどで、引きはにゃされにゃいようにだと思うんです。お相手の方はどんにゃ人かわからにゃいですけど、ヨルドさまは夜にお仕事が入ったり、遠征に組み込まれたりすることもあるでしょう? 婚約は新婚に近い蜜月期みたいにゃものですから、婚約をしたばかりではにゃされるのは可哀想だって」
「……ノアがそう言ったのかい?」
「チィにはわかるんです」
素直でないあの主が自らそんな思いやりに溢れる提案を口にするはずもない。
もちろんヨルドを喜ばせるためでもなく、ただ純粋に国王の気持ちに応えたかったからだろう。
相手が苦手とするヨルドであっても、その幸せを精一杯に考えて、婚約者となった二人が何をすればより満ち足りた時間を過ごせるかを思いあの婚約腕輪を作り上げたのだ。
「仲にゃおりの方法も、ぎゅうっとすることだって本に書いてありました。婚約しても嬉しいだけじゃにゃくて、不安定になることもあるって本にあったから。だからもし喧嘩しても、ヨルドさまのお相手がノアさまみたく素直じゃにゃい人が相手でも、そうしにゃきゃいけにゃいにゃら、やらにゃきゃってにゃるでしょう? ちゃんとその日のうちにぎゅっとすれば仲にゃおりできるでしょう? それに喧嘩してにゃくても好きな人とぎゅっとするのは、とっても気持ちいいことだとも書いてありましたし、だから」
人嫌いですぐ他人を遠ざけようと意地悪ばかりで、猫遣いも荒くて困ったことも多いチィの主は、でも本当は人のことをちゃんと思える、優しくそして繊細な人だ。
再びこの世に呼び戻されてから片時も離れずノアの傍にいた。誰より一番近くで見てきたからこそ、何度もあの穏やかな指先に触れてきたチィだからこそ、最近のノアがひどく不安定になっていることに気がついていた。そしてそれはいつもヨルドが関わるときであることも。
「チィはこれ以上、ノアさまにつらくなってほしくにゃいです……」
「――ノアは、つらいって言ってる?」
「……苛々するって」
そう呟いた後、しばらくノアは立ち尽くしていた。
チィがいた場所からその顔は見えなかったから、どんな表情をしていたかわからない。それでも胸が詰まったような息苦しい声に、気持ちを変えてもらおうと頭を手に押しつけた。
いつもはすぐに仕方ないやつめと言って撫でてくれる手はなかなか動かなくて、ようやく撫でてくれたかと思ったらいつもよりずっとぎこちなかった。
ノアの気持ちが少しも楽になったと思えなかったし、チィもまったく気持ちいいと思えなかった。心が動かなかったからだ。
その後も、しっかり動いているのに心が抜けて落ちてしまった機械のようなノアを見ていられず、チィはヨルドに物申すためにここまでやって来た。
考え込むように沈黙したヨルドを、きっと睨み上げる。
「いたずらにノアさまの平穏を掻き乱さにゃいでください。からかうつもりにゃら近づかにゃいで。チィが許しません」
婚約腕輪の制限がある以上、どうしても近づかなければいけない場面はまだ続くので、完全に接触を断つことはできない。だが今は不必要に触れ合う場面が多いので、ヨルドの返答次第ではそれをチィが止めるつもりだ。
これは本気の警告だと、ヨルドに教えるためにも、チィは爪を出して尻尾を膨らませる。
「お菓子だっていらにゃいです。ノアさまが過ごしやすくにゃるにゃら、チィはにゃんにも……」
ヨルド相手に唸り始めたチィだったが、張り詰めた空気を突然裂いたノックの音に驚き、思わずその場で跳びはねた。
それまで威嚇していた相手であるはずのヨルドの膝の上に咄嗟に飛び込み、扉に振り返る。
ヨルドが返事をする前にドアノブは回り、そこから一人の若い男が顔を出した。
「すみませんヨルド副長。ちょっと確認したいことが――」
「来客中だ。返事をする前に開けるなと言っているだろう」
「あっ、すみません。でも、お客って――ああ、その子猫ですか。ノアどのの使い魔ですね」
部屋を見回しても客の姿を見つけられたなかった男は、ヨルドの膝の上の黒い塊となっているチィに気がついたようだ。
驚きに全身の毛を膨らませて闖入者を見つめていると、部下である男はふっと笑った。
「驚かせちゃったみたいだね、ごめんごめん。すっかり膨らんじゃって、可愛いなあ」
大事な話を中断させた男に悪びれた様子はなく、さすがにこれにはチィもむっとして睨んだ。しかしチィをただの子猫にしか思っていないようで、睨まれていると気づいた様子はない。
ふー、と喉を鳴らしかけ身を低くしたところで、爪を立てていたままでいたことを思い出した。
服に引っかかっていた爪を慌てて引っ込めるが、恐らく細い爪は肌まで通ってしまっていただろう。
ヨルドは何も言わないが、きっと痛かったはずだ。先程は確かに気持ちを示すために爪を出していたが、まだ何も答えていないヨルドを傷つけるつもりなんてなかった。
ごめんなさいという気持ちを込めて、爪を立ててしまったところをざらついた舌で舐める。
服の上からでは傷には届かないが、そこまでは考えが回らず無意識に動いていた。
ヨルドはそれを指摘するわけではなく、ただ応えるよう、驚いて膨れた名残がある乱れた毛並みを撫でて整える。
そんな上司と猫の様子を眺めていた男は、しみじみと考えるように言った。
「どうしてノアどのは、この子だけを使い魔にしているんでしょうね? こんな子猫にできることなんてたかが知れているのに」
「にゃっ! チィだってノアさまの役に立ちます! チィはヨルドさまより強いんですから!」
自分でも本当は気にしていることを見ず知らずの男に指摘され、咄嗟に顔を上げてチィは反論した。
思わず口を滑らせて、あっ、と表情をかたくしたが、猫の顔の変化など気づくはずもない男は片眉を上げる。
「ええ? ヨルド副長より、きみが? ……ぷっ、あはは! そりゃすごいね。そんな小さな身体なのに強いんだ。へえ?」
「からかうんじゃない」
侮蔑にもとれる嘲笑を受けたチィがわなわな身体を震わせると、すぐさまヨルドが部下を窘める。
普段温厚な態度のヨルドにしては珍しく厳しい口調に、さすがに分が悪かったと判断したのか男は沈黙した。
「もういいです! チィはノアさまのことをお守りするだけですから。ちゃんと伝えましたからね!」
すっかり気分が悪くなったチィは、ひとまず話すべきことだけは話したのだからとヨルドの足から飛び降りる。
尻尾を低く揺らして不機嫌なまま部屋を出ようとするチィを、ヨルドが呼び止めた。
「待ってくれ、チィ」
「にゃんですか!」
素直に足を止めたが、怒りが治まりきらず尖った声を返すと、ヨルドはわざわざ椅子から立ち上がり、チィの手前で跪いた。
「さっきのことだけど。おれはからかってなんかないよ」
「……でも」
「真面目にやっているつもりなんだ。チィにはからかっているように見えた?」
「見えます」
最近のものだけでなく、これまでのノアに対するヨルドの言動をすべて振り返った上で、チィは答えた。
「そうか。おれなりにちゃんとやっていたつもりだけど、それならチィも彼も勘違いしてもおかしくないな」
素直に非を認めたヨルドは、真っ直ぐにチィの瞳を見つめた。
「では、きみに誓おう。おれは決して彼を傷つけるつもりはない。からかっているわけでもない。真剣に向き合いたいと思ってるんだ」
「ヨルドさま……」
「だから、もう少しだけ見守っていてくれないか? もしおれの本気が見えなかったのなら、その時は引っ掻くでもなんでも全力で止めに入ってくれて構わない。彼の守護者であるきみに認められないのなら諦める」
子猫の姿だからと先程のように侮られることの多いチィに、これほどまでに真摯に誓いを立てる者はいなかった。
それでもヨルドはチィに礼儀を尽くし、その上で改めてノアと向き合いたいと願っている。
「……本当に、本当ですか?」
「ああ。ちょっとは困らせてしまうかもしれないけれど、少なくともおれには大事なことで、彼にも考えてもらいたいことだから」
考える素振りを見せながらも、本当はチィだってちゃんとわかっていた。
チィから見てもヨルドは何を考えてるのかわからないことも多いが、彼はふざけているわけでもノアたちを侮っているわけでもない。
用意してくれるお菓子はどれも美味しいものだし、ちゃんとノアとチィの分をそれぞれ用意してくれる。ゆっくり撫でてくれる手もなんだか懐かしいようで気持ち良くて、誰かを思いやれる人でないとあんな心地よさが生まれるわけがない。
ノアを蔑むことも、チィを軽んじることも、嫌な言葉だって言われたこともなかった。本当はとても思慮深い人なのだ。
どんな悪態をついても柔らかく受け止めて、ちゃんとノアの本心を真正面から見ようとしてくれる。そんな人は今までいなかったから、ノアが戸惑っているのだということも本当はわかっていた。
わかっていてもチィは、それでもノアを優先させようとしたのだ。
「……ノアさまは一筋にゃわじゃいかにゃいですよ?」
「ああ、そうみたいだね。だから頑張るよ」
いつだってさらりと笑うヨルドを目の当たりにして、初めてこの人は本当に強い人なのだとチィは悟った。
そしてあのノアに立ち向かおうというのだから、彼も相当に曲者だ。
今後のノアがどうなるかを想うとやはり不安が残るが、もう心配はなかった。
「ヨルドさまがそこまで言うにゃら、もうちょっとだけですよ? チィも見守ってみます」
「ありがとう、チィ」
だって、ノアを想うヨルドの眼差しが、とても穏やかだから。チィを撫でてくれている時のように優しくて、温かくて。確かにヨルドはノアを困らせることはあるかもしれないが、でも傷つけるようなことは決してしないと信じられる。
「その代わりっ! これまで通り、時々おやつを持ってきてくださいね。おやつ中は間違いなくチィも大人しくしてあげます!」
ふふん、と高らかに交渉してきたチィに、ヨルドは耐え切れず小さく噴き出す。
「はは、やはり似るものだなあ」
「にゃんの話です?」
「……本当に何の話です?」
すっかり蚊帳の外にいた部下の呟きは、チィの愛らしさに負けてその頭を撫でたヨルドには届くことはなかった。