19

 
 もう日が落ちようという頃、ヨルドは部屋に帰ってきた。

「ただいま」

 いつもそう声をかけるヨルドにノアから返したことはない。「おかえりにゃさい!」と応えるチィも、日中どこかをうろついて疲れてしまったらしく眠りの中にいた。
 夜は各々自由に過ごす時間だ。ノアは持ち込んだ仕事をこなし、ヨルドも似たようなもので、剣の手入れや装備の点検などしつつ、時には甘えてくるチィと遊ぶなどする。
 チィが眠くなってきた頃合いに、夜の抱擁を交わしてそれぞれベッドに入るのがいつもの流れだった。
 今日はすでにチィが寝てしまっていて、そういう時はヨルドの声かけによって行うようにしている。やろうと言われればやるし、何も言われなければ時間に注意しつつ翌朝やれば問題はないという考えなので、ノアから行動を起こしたことはない。
 昼間のやり取りもあって、さすがに今夜は気まずさに押されて何もしないだろうと思った。もしいつものように声をかけられれば応じるつもりはある。しかしノアとしては一言も会話をするつもりはなく、他のことで話しかけられても全て無視すると決めていた。

「ノア」

 呼ばれた名に、思わず肩が揺れそうになった。
 どうにかそれを抑えつけ、振り返ることなく手元にある魔導具の点検作業を続ける。

「話をしたい」

 何度呼び掛けられたところで応える気がないのは、まだ昼間にかけられた言葉が、腹の底で燻っているせいだ。
 あの時、一方的に言い残して終わらせたのはヨルドのほうだ。勝手にノアを不自由であるかのように決めつけ、反論も聞くことなく立ち去った。そんな無礼な男に返してやる言葉など持ち合わせていない。
 沈黙をもって返答するが、ヨルドは引き下がらなかった。
 頼む、話をさせてほしいと対話を求めて繰り返す。それでも反応せずにいると、ノアの隣から声が乱入してきた。

「はにゃしくらい、してあげてもいいと思います」

 思わぬヨルドへの助太刀に驚き、声のしたほうに振り返ると、眠っていたとばかり思っていたチィが籠の中からノアを見上げていた。

「……チィ。おまえ、寝ていたんじゃ……」

 ノアと目を合わせたチィは、思い出したように慌てて毛布に潜り込む。

「ぐっ、ぐーぐー!」
「……まさか、いびきを掻いているつもりじゃないだろうな」
「ぐ、ぐー……ぐう、うぅ……」

 猫のくせに狸寝入りをしようとしたらしいが、誤魔化すのは無理だと気がついたのだろう。次第にいびきは困り果てた呻き声に変わっていく。
 随分早くに眠りについたと思ったが、どうやら寝たふりをしていたかららしい。
 何故そんな演技をしたのかと問い詰める前に、チィはばっと毛布から飛び出した。

「ノアさま! チィはノアさまにお願いします」
「なんだ、突然」
「ちゃんとヨルドさまとお話ししてください」

 普段であれば流すことのできた他愛ない言葉であっても、今回ばかりはノアの神経を逆撫でた。

「……何故おまえにそのようなことを指図されなければならない」

 低く唸るような声にノアの本気の苛立ちを感じたチィが、怯えから僅かに耳と身を伏せる。
 そうなるとすぐに降参してくるはずだが、今日は退かなかった。

「ち、チィはノアさまが大好きです! でもヨルドさまのことも好きにゃんです。そんにゃ二人が、いつまでもケンカしたままじゃ、チィはかにゃしいです……」
「別に喧嘩をしているわけでは……」

 ただ意見が食い違っているだけのことで、それ以上でも以下でもない。そしてノアはヨルドの存在が不愉快でもう会話をするつもりがないだけのこと。
 もとより修復するほどの関係もないはずだが、しかしチィにとっては二人が仲違いしているように見えるらしい。
 率直にそう説明しようとする前に、チィはあっと思い出したように声を上げた。

「そういえば! チィは今日、王さまに呼ばれていたんでした! お仕事に行ってくるので、二人でちゃんとお話ししておいてください!」
「あっ、待てチィ!」
 
 小さな籠から飛び出したチィは、そのまま扉に向かってしまう。

「そ、それまでチィは帰りませんからね!」

 主の言葉に従うつもりのない強い意志に、ノアは戸惑う。チィが反発することなどこれまでなかったからだ。
 けれども大見得を切ったところで、猫では人間用に作られた扉を開けられるはずもない。チィはどうしようもなく扉の前で右往左往する。
 この隙に捕まえてしまおうとしたが、ノアが動こうとするよりも先に扉が開いた。

「いってらっしゃい、チィ。気をつけてね」
「……はい! ヨルドさまも頑張ってくださいね。ノアさまのこと、いじめちゃだめですよ」

 ヨルドが開いた道を進み、チィは一度だけノアに振り返る。しかし立ち止まることはなくそのまま部屋から出て行ってしまった。
 甘ったれなところも多く、撫でろだのお菓子が食べたいだのねだることはよくあるが、それでも駄目だと言えばきちんと諦めていた。
 ノアが頷かなければ、どんなにしつこく言い寄っても決して認められることはないとわかってのことだが、なによりノアとはあくまで主従の関係にあることをチィが忘れなかったからだ。
 普段は従順な使い魔に、あのような行動をとらせるほどに心配をかけてしまったのかもしれない。
 昼間にヨルドと話をして以降、やたら呼びかけてくるチィの声に応えずにいたことを今更ながらに思い出した。
 音もなく扉が閉められる。
 勝手に人の使い魔を外に出した男を睨むが、気にした様子もなく平然とノアを見つめ返した。

「ノア。チィもああ言ってくれたことだし、話をさせてくれないか」

 うるさい黙れと、話す必要なんてないと言ってやりたかった。しかし出て行ってしまったチィのことを思うと、そう返すわけにもいかないだろう。
 誰に似たのかチィもなかなかに頑固だ。あの様子ではヨルドが納得するまで話し合わないと、明日の夜も同じことが続くだろう。
 王のところに呼ばれていたというのは見え透いた嘘だが、時々遊びに来てほしいとせがまれているのは本当で、実際に泊まりに行くこともあった。他にも魔術師団長のもとや後輩たちのところにも招かれることがあり、寝場所には事欠かないだろう。そうなると連日誰かのもとに押し掛けて迷惑をかけるとも限らず、その苦情はすべて主であるノアのもとにやってくる。
 話とやらは、どうせ昼間の続きだ。
 いくらノアに呼びかけたところで一向に話にならなければきっとヨルドも呆れてもう関わろうとしなくなるに違いない。
 どちらの面倒をとるか天秤にかけて、仕方なく一晩の面倒をとることにした。

「……何を話すというんだ」

 応じる態度になったノアに表情を明るくさせたヨルドは、まず自分の寝台に向かった。腰を下ろすとその隣を叩いて示すので、ノアは無言のまま向かいにある自分のベッドに座る。話をするならそんなに近くに行く必要はない。

「まずは謝らせてほしい」
「言ったことを撤回するとでも?」
「いや。きみの意見をちゃんと聞かずに、一方的に話をしたことを。すまなかった」

 頭を下げたヨルドを見ても、ノアの心は晴れることはない。
 無意味な謝罪は鼻で笑い飛ばした。

「それで、本題は? まずはと言うことは、それで終わりではないんだろう」

 早く面倒な話を終わらせたい一心で促すと、ゆっくりと顔を上げたヨルドは真正面からノアと向き合う。

「――どうしてノアは結婚する気がないと言うんだ?」

 またその話になるのか。くだらないことに拘る男にため息をつきたくなるが、その時間さえ惜しいと思い、苛立ちを隠さないまま早口で答えた。

「一人がいいからだ。他人と関係が強くなるほど面倒が増えるからだ。する理由も意味もない」
「それなら、あの時も聞いたけれど、もしノアがほしいという人がいたら?」
「はっ、いるわけないだろう」
「可能性の話だ。絶対とは言えないだろう。いたとしたら、どうする?」
「馬鹿馬鹿しい仮定だ」
「ちゃんと答えてくれ」

 ノアを見つめるヨルドの眼差しはいつもの柔和な雰囲気はなく、このままはぐらかしていても納得する様子は見えなかった。
 逡巡した後、諦めて溜息まじりに答える。

「……いたとしても、どうもしない。誰がどう言おうと私は一人を選ぶ」
「その人のことを何も知らなくても?」
「ろくな人間ではないだろうからな。どんな下心があるかわかったものじゃない」

 ノアの才能を利用しようと目論む者は少なくない。より稼がせてやると持ちかける者もいれば、自分の都合に合わせた魔導具を作らせようとする者もいた。
 どれも尻を蹴って追い払ったが、それでも複数の魔術を一人で扱えるノアの利便性は高く、声をかけてくるものは後を立たない。
 なかには有力な発明品をした場合に国から贈られる特別報酬の存在を聞きつけ、色仕掛けでノアを落として金を掠め取ろうとする輩もいた。
 ノアが偏屈で誰にも相手にされず寂しがっていると思ったのだろう。当然そんな事実はなく無視をしていたら、既成事実を作って脅すために襲いかかってきた。それはノアが手を下すまでもなく怒ったチィに追い出されていたが、男女問わず親しげに近づいてくる者にろくな目的はない。
 実例を持ち出し説明しているうちにヨルドの表情は曇っていく。

「……確かに、やましさを抱えたやつらばかり集まっていたのかもしれない。ノアが不信になってしまうのもわかるよ」

 理解を示す様子に、想定よりも早く話は終わるかと期待したが、ヨルドはまるでその考えを否定するよう首を振った。

「それでもノアは自分に対する評価が低すぎる」
「馬鹿を言え。私は客観的に判断して自分を評価している。過大評価も過小評価もしているつもりはない」
「仕事の話じゃない。人としての話だ。自分の欲望しか見ていないやつばかりがきみを求めているわけじゃない。きみはもっと、ちゃんと周りに好かれるだけの人だとおれは思っている。それなのにノアはあえて人を遠ざけようとしてるように見える」

 結婚云々の話はただの前置きで、これが本題だ。そうなるとわかっていたので、手垢のついた質問には用意していた答えを返す。

「好かれるかどうかなんてどうでもいいが、貴様の言うとおりさ。出会い頭に睨んでやるだけでもう不用意に近づこうとはしなくなるからな。煩わしくならずに済む」
「人に嫌われるとわかっている上でやっているね。過去に嫌なことがあったのはわかった。それでもやはり何もしていない相手をいきなり睨むようなことはよくない。もしそれが喧嘩っ早いやつだったらどうする? 魔術で抵抗するにしても、ノアは相手を退けるほどの術は出せないだろう」

 どうせ理由を答えたところで納得しないことはわかっていた。だがそれだけに留まらずノアの魔術のことなど詳しく知らないはずなのに、知っているかのように話されることに不快感を覚える。
 しかしヨルドの話は正しい。あくまでノアは扱える魔術の種類が人よりも多いだけで、発現できる術はどれも相手を負かせるほどの威力はない。
 誰しも良識的であって、過剰なほどに接触を嫌うノアに近寄らない選択をとって避けるばかりではなかった。屈強な男が相手であっても態度を変えないノアに、なかには因縁をつけられたと思って食ってかかる者もいた。
 非力なノアは当然、殴り合いで勝てるわけがないし、相手を倒せるほどの魔術も持たない。そのため使える魔術を駆使して相手を撒いたり、幻惑を見せて誤魔化すようにしてた。

「自分で蒔く種だ。何があっても自分で切り抜けられる」

 力こそないが、いなせるのだから例え暴力に訴えられても問題はないとノアは主張する。

「今まではどうにかできていたかもしれないけれど、いつもうまくいくとも限らないだろう。それにノアはどうにかできたとしても、傍にいるチィも巻き込まれるよ。これまでは運よく何もなかったけれど、あの子だけでいるところを狙われたらどうしようもできないだろう」

 ヨルドはチィの能力がどれほどなのか十分に知っている。だからこそあの子猫の姿がいかに非力な状態であるか理解していて、魔術もないためノアのように危機的状況に陥っても対処する術がないことを指摘した。

「ノアだって、それは本意じゃないはずだ」

 使い魔がどんな暴力を受けたとしても死なないとはいえ、痛覚は残されている。
 せいぜい薄い切り傷をつける爪や小さな牙くらいしか武器がない子猫の抵抗などたかが知れている。ノア相手には晴らせない恨みを肩代わりさせるには丁度いい相手だろう。
 無邪気で警戒心が薄く幼い使い魔は、ノアと違って疑わない。親切そうにされてしまえばあっさり後をついて行ってしまうはずだ。
 笑顔の裏に何があるとも知れず、かつてのノアが何も考えていなかったように。

「……それで? もうそんなことを止めろと説教を垂れたいだけか?」

 腕を組んだノアは、ヨルドを睨みながら挑発するように笑って見せた。