20

 
 
「それなら残念だったな。そんなことはこれまでにも耳が腐るほどに聞かされてきたさ」

 態度が悪いと、どれほどの大人たちに言われてきただろうか。みんなと仲良くしましょうだとか、目上の者への礼儀を忘れるなとか、これまでだって何度も同じような常識を説かれ、一方的な注意をされてきた。ノアの情に訴えるためにチィが取り合いに出たのも今回が初めてではない。
 敬愛している王にでさえ、もう少し丸くはなれないかとさえ言われてたこともある。だがそのどれもがノアには届かなかった。
 それなのにヨルドの言葉だけが都合よく響き、改心する気になるわけがない。

「止めさせたいとは思っているよ。傍を通っただけで睨まれたと部下が泣いているし」
「はっ、軟弱な騎士もいたものだ」

 ノアが笑うと、ヨルドは静かに尋ねた。

「どうして?」
「……何がだ」
「どうしてノアはそんなことをするんだ。無意識にじゃなくて、あえてやっているのなら理由があるだろう」
「…………」

 この悪態を問題に思って注意する者はこれまでにいたが、どうしてそんなことをするのか問いかけてきたのはヨルドが初めてだった。
 予想外の質問に咄嗟に答えることができず、言葉が詰まる。
 口を閉ざしたノアを、けれどヨルドは促すでもなく沈黙をもって待つことにしたようだ。
 まるですべてを明かそうとする強い眼差しに、ノアは思わず目を伏せた。だがそれで逃げられることでもなく、適当な煙に撒ける相手ではないのはもうわかっている。
 普段は悠然と構えて大らかな素振りをしているが、その中身は異例の若さで騎士団の副長にまで上り詰めた実力者だ。実際はその甘い顔立ちのように緩くはなく、彼に本気で追い詰められたら、いくらノアといえども逃げようがない。
 ノアを見つめるヨルドの眼差しに、背中を向けたくなる。逃げられないとわかっていても尻尾を巻いてどこかに隠れてしまいたかった。
 きっと心が弱い者であれば彼に許しを乞うていたかもしれない。それほどまでに普段は隠されている圧が解放されると、無言であってもヨルドは恐ろしく思える。
 だがそれに屈するほどノアの精神は弱くない。

「……つけあがるだろう」

 顔を上げたノアは、ヨルドに真っ向から対峙した。
 チィのように天真爛漫ではなかったし、愛情の薄い生い立ちもあってもとから少々捻れくれた子供ではあったが、それでも今ほどではなかった。呼ばれれば素直に返事をしたし、すれ違った人には挨拶をする礼儀くらいは持ち合わせていた。
 友人だって、まだ十にも満たない子供の頃にはいたのだ。あくまでノアがそうだと思い込んでいただけの、たった一人だけの友が。
 ノアが多種の魔術を扱えることは、孤児院に預けられてすぐに発覚した。周りの大人たちは褒めてくれてノアに期待したし、王に恩返しできる道を見つけられたことでノア自身も張り切っていた。だがそれが周囲の子供たちの妬みを買う結果になってしまったのだ。
 この国には才能ある子供を支援して、学校に通わせる制度が整えられている。自分の能力を認められ、そして未来まで明るくなったノアは、先の見えない不安を抱える子供たちには眩しすぎる存在となってしまった。
 寄宿舎暮らしとなる学園に入るには年齢が足りなかったノアは、入学条件が満たされるまで孤児院で生活することになった。すると物を隠されたり、ご飯の配膳を少なくされたり、同じ孤児院の仲間たちから嫌がらせを受けるようになった。
 お互いに子供ということもあって大きな暴力はなかったが、小突かれて転ぶことくらい日常茶飯事のこと。泥に顔を突っ込んだノアを取り囲み、みんなでくすくす笑うのだ。
 そのなかで、ノアを助けてくれる子供が一人だけいた。
 ノアがいじめられた後は一緒になって物を探してくれたり、身体を洗う手伝いをしてくれた。けれども実はその子が主体となってノアに対するいじめを指示して行っていたらしい。親切にしていたのも、困ったノアを近くで笑うのが楽しかったからだそうだ。信頼を得られるほどに、何も知らずに馬鹿だと思っていたと彼は言っていた。
 まだ子供だったノアが心を痛めるには十分すぎる出来事だった。たぶん、ここから少しおかしくなったのだと思う。
 主犯格の少年と殴り合いの喧嘩をしたとき、止めに入った職員からはノアだけが叱られた。適当な嘘を周りが報告をして、大人たちはそれを鵜呑みにして信じ込んだからだ。
 ノアが悪いと主張する一方の言い分しか聞かず、ノアだけが罰を受けその日ご飯をもらえなかった。
 学園も同じようなものだった。いや、孤児院よりもさらに陰湿でひどかったのかもしれない。
 ノアはまずその出自から貴族や金持ちの子供たちから下に見られていたし、魔術の能力も類稀なるものであったとしても、反対に何にも特化していないせいで無能扱いされていた。教師たちは生徒同士の問題が表面化しない限りは関与せず、誰も何もしてくれなかった。
 自分を守れるのはただ一人、自分だけだ。だから周囲と一線引き、近づく者には手当り次第警戒するようにした。
 大人しくしていれば扱いはひどくなる一方だ。鋭い眼差しに怯み手を引いた者もいたが、ノアの尊大な態度は一部の加害者たちの逆鱗に触れることになった。なおのこと怒りや加虐心が煽られる者の場合、裏で内々に処理をした。
 ノアが扱う魔術が多数あるということは、一人で複合属性の魔術も扱うことができるということ。本来であれば何人か魔術師を要する精神干渉や幻覚も、ノアなら一人で発動することが可能だった。
 ノアが実は非常に有能であることに気がついた者は、仲間に取り込もうとした。けれども向上心が低く、群れなければ成果を残せない集団に交わるつもりなどない。魔術学科は個々が扱う魔術の特性が異なり審査基準の統一ができないため、各自の技能で判断される。魔術師同士が協力し合うことの利点がないのであれば手をとる必要はない。
 すべてがうまく回せたわけではなく、痛い目にも幾度か味わってきたが、それでもいつも心は気楽でいられた。
 干渉されればその分、心も乱れる。だが何者も傍にいないのであれば、余計なことで悩まずにも済む。
 裏切られることもなく、期待することもなく、ただ自分だけを信じていればつつがなく日々が過ぎていく。それは間違いなくノアにとって平穏だった。

「ただ大人しくしていれば馬鹿がのさばる。もし向かってくる短慮なら好都合。そういうやつはわかりやすくて扱い容易いからな」

 敵が誰かはわからない。今は味方と思ってもいつかは刃が向けられるかもしれない。
 そんな不安に惑わされるくらいなら、だったら誰もいらないから、誰もが敵でよかった。
 味方なんていらない。幸い自分にはそれだけの力がある。

「自分の身は自分で守るためにも、他のやつらなんていらない。近づいてこられるだけでも迷惑だ。表面上親しくしたところでそれが何になる? 無駄なことをするつもりはない。私はただ合理的に判断して行動しているだけだ」

 だから人を遠ざける。ノアにとって不要だからだ。
 それを非難されようといまさら変えるつもりはなかった。

「確かに、昔のきみには必要なことだったんだと思う。そうやって自分を守って、折れることなくここまで来たんだからすごいことだ」

 同調する言葉で懐柔しようとしているのかと思ったが、ヨルドにその気配はなかった。純粋にノアのことを認め、褒めているようだ。

(――そう。私には必要なことだった)

 大人たちは見て見ぬ振り。自分に従順な素振りを見せる可愛げのある者の話しか聞かない。
 その裏で子供たちは徒党を組んで悪意を曝け出し、飲み込まれ消えて行った者たちを幾人も見てきた。自分も同じようにならないためには強くなるしかなかった。

「でも、人と関わらず生きていくことはできないよ」

 過去のノアを肯定しながら、ヨルドは今のノアを否定した。

「作る必要のない敵まで作って、今のやり方を続ければいつか疲れ果ててしまう。ずっと張り詰めている糸は簡単に切れてしまうように、続くものじゃない。誰かの庇護下にいるうちの世界は案外狭いものだよ。孤児院も、学園も、誰かにとっては保護される優しい場所でも、ノアにとっては檻だったのかも知れない。閉鎖的な空間は逃げ場もないし、芽生えた悪意は幼く未熟だからこそ、より増長しやすく加減のない凶器に変わる」

 ――そう。容赦のない傷を与えてきた。笑いながら、まるで自分たちの行いが正しいことのように。
 自分を見失わないためにも、確実に信用のできる自分以外を排除するしかなかった。
 そうしなければ何も悪くないはずの自分を責めたくなるから。攻撃される理由があって、彼らが一方的に振り下ろしてくる正義が痛みを伴うのだとしても、それはきっと仕方がないのだと考えてしまうから。
 でも周りに耳を傾けなければ、惑わされなければよくわかる。彼らが手にしているのはナイフで、ノアの心をただ悪戯に裂こうとしていることを。
 その顔がひどく醜く歪んでいるから。とても楽しそうに笑い声を上げているから。

「人を傷つけることがどういうことなのか、わからず痛みを振り撒く連中から、一人きりで自分を守り抜いたきみの勇気は認められるべきだ」

 ――そうだ。まともでない相手にはまともでないことでしか対応できない。
 もし、ちゃんと声を上げていたら。誰かが気づいたかもしれない。
 もしかしたら、仲間ができていたかもしれない。彼らが庇ってくれたかもしれない。
 ただ純粋に学生を謳歌して、友と肩を組んで飲み明かす夜もあったかもしれない。
 でも、ノアを取り囲む環境はそうはならなかった。立ち向かうには声を上げるより自分を奮い立たせるしかなかったのだ。
 その場所から立ち去ることを選ぶこともできた。ノアだって抗うことのできる能力がなければそこに居場所はないと割りきって離れていただろう。
 逃げなかったのはノアには力があって、そして示したかったからだ。
 貴様らの悪意など、このノアを前にしたら塵芥も同然であると。そんな愚かしいことに夢中になっていればいい。その間に貴様らが到底届かぬ高みへ行って、そしてそこから無様に見上げる様を笑ってやろう、と。
 魔術師になるのは王への恩義に報いるためである。だが、ノアを笑った馬鹿どもを見返してやるためにも、負けたくはなかったのだ。

「きみは努力をして、我が国が誇るべき優秀な魔術師になった。そんなきみの才能を妬む人はいるだろうし、それを利用しようと近づくやつもいる。それは過去にもいたし、これからも現れるだろう」

 ――そう。だからこそ、他人を遠ざけるのだ。脅かされないように、傷つけられないように。
 強気な態度は鎧だ。その中にある臆病で柔な自分を守るための。極端なことしかできない不器用で愚かな自分なりの、精一杯の強がりだ。

「ノアからすると、人と関わらないことは合理的なのかもしれない。人を遠ざける理由を聞いて、そうする気持ちも納得がいった」

 そう。だから近づかないでほしい。心を乱されたくない。期待なんてしたくない。不安なんて感じたくない。痛いのは、いやだから。
 そうやって殻に閉じ籠ったノアに時折足を止めた者もいたが、誰しも諦め離れていった。
 どうせ誰も同じだ。早く立ち去れと願った。
 けれど、この男だけは目を逸らさない。

「でも、おれは寂しい」

  ヨルドは、ふっと表情を緩めた。
 立ち上がると、許可もなくノアの隣に腰を下ろす。先程よりも近くから視線を感じるが、それでも振り返ることはしなかった。

「おれはノアと関わりたい。もっとノアのことを知って、話をしたいと思うよ。おれのことだって知ってもらいたい。それなのに見向きもされないのは寂しいよ」
「……おまえはただ、チィが目当てなんだろうが」
「違うよ。たしかにあの子の顔も見たかった。けれどノアに会いに来ていたんだ」

 いつもチィを構ってばかりだし、てっきり他の者と同じであると思っていたのに、ヨルドの目的はあくまでノアだったと言う。

「何故、そんな……」

 確かに、婚約腕輪の騒動が起こる前からヨルドは話しかけてきていた。それでも取り合うことはなかったし、ろくに会話をするようになったのもつい最近の話だ。それだって必要に駆られてしているだけで、腕輪の制約がなければ以前となんら変わらない状態だっただろう。
 それでもヨルドはノアを諦めない。そうまでして彼の気を惹く要素が自分にはあるとは思えなかった。

「……ノアが城に連れて来られた日を見ていたって言っただろう?」

 ノアが抱く疑問に気づいたのか、ヨルドにとっての過去の出会いを口にした。