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「あの時のノア、真っ直ぐに城を睨んでいたんだ。泣きはらした顔をしているのに、まるでこれからの運命を見据えるように力強い眼差しだった。その時きみに興味が出たんだ」

 子供には似つかわしくない険しい表情。暗がりから連れ出されたばかりだったあのときのノアが何を思い、何を考えていたのか。
 ノアがその場から立ち去るまで、ヨルドは食い入るように見つめたと言った。だからこそ、今でも鮮烈にその記憶が残っているのだと。

「もうノアの実力はみんなの知るところだろう。チィもいるし、不用意にちょっかいをかけるやつもそういないはずだ。それでももし嫌なことされたらおれに教えてほしい。今の権限を使ってでも全力でそいつにお仕置きするから」

 ヨルドは朝食を用意していたよ、といつも言うような調子で言ってくる。本気かどうかわからない男の言葉を信用はできなかった。

「おまえには関係ないだろう」
「あるよ。きみに変わったほうがいいと言っているのはおれなんだから。発言の責任は取るつもりだ」

 そんな責任をとられたところでノアは変わるつもりはないし、たとえ何か起きたところでこれまで通りに処理するだけだ。
 頑なに心を閉ざすノアの横顔に、それでもヨルドは語りかける。

「何も愛想を振りまけなんて言いたいわけじゃないし、すべてを変えるべきだとも思わない。でもせめてもう少し、自分に優しくしてほしいんだ」

 これで二度めの不可解な言葉に、ノアは無意識のうちにヨルドを見た。

「……おまえの言う、それはどういう意味だ?」
「自分に優しくってこと?」

 ノアは浅く頷く。
 これまでの説得はまだしも、それだけはまったく発言の意図が掴めなかった。

「だってノア、人に冷たくしても全然楽しそうに見えないから。それが楽だって言いながら、すごく苦しそうにするから。無暗に人を遠ざけるたび、きみ自身も傷ついているように見えたんだ」
「そんなことはない!」
「これはおれの視点。ただの思い込みであっても、意見のひとつ。そして可能性のひとつだよ」

 すぐに否定したノアに、ヨルドは穏やかに言った。

「誰も見えているものが違うもので、受けとり方も違うもの。だからこそ見つかる問題点や、生まれてくる発想もその人によって違うものだし、気づく人がいれば、気づかない人もいる。生まれ持った能力も違うから、改善したり形にしたりできるのもまた別の人になることもある。誰しも違うから他人に興味も出るし、知りたくもなる。違うからこそ他人同士が触れ合えば影響し合える。人と人とが接することでどんどん可能性は広がっていくものだ」

 だから、と言ってヨルドは微笑んだ。

「ノア、おれと一緒に可能性を模索していこうよ。全部の人を遠ざけなくていいように。道がたくさんあるのって、選び甲斐があって楽しそうだろう」
「――迷う時間が惜しい。今でも別に不都合はないのだから、それでいい」
「今のノアは自分で選んだ道を歩いているわけじゃないのに?」

 伏せたノアの睫毛が微かに揺れた。

「狭められた世界の中で、他に選びようがなかっただけだ。そんなのきみが選んだとは言えないだろう。きみはもう自由で、選択肢が与えられなかった子供じゃない。今から改めて向かう先を見つめ直しても遅くはないはずだ」
「私が、選んだわけではない……?」

 自分の人生の責任は誰もとってくれない。ならば、自分で決めた道を進んでいくまでだ。
 そう思い、だからこそ誰に諭されようとも聞きもせずここまでやってきた。
 それなのに、今いる場所は自分の選んだものではなかったというのか。
 人を遠ざけ魔術を学ぶことだけに邁進してきた。脇目も振らず、何にも惑わされずに。
 ――だが、その理由は?
 王のためだけではなかったことがヨルドによって暴かれた今、本当に自分の意思でそうすると決めたのだろうか。
 もし仮に、幼い頃の裏切りがなかったら。もし、助けてくれる誰かがいたのなら。切磋琢磨し合える学友がいたなら。
 もしかしたら自分は、孤独である道を選ばなかったのかもしれない。
 もっと人と関わる道が、あったのかもしれない。
 磐石だと、これで安心なのだと信じて疑わなかった道が途端に崩れだしてゆく。
 危うげになった足元を恐れ、どこを見るべきかわからなくなったノアの手に、そっとヨルドの手が重なった。

「誰かと寄り添うのが嫌ならそれでもいい。ただ、初めから何もかも決めてかからず、まずは実験してみよう。試してみて、本当に自分が生きやすい道を見つけていこう。そうすることができるのは、努力して自立したきみだからできることだよ」

 頼れる家族はなく、相談できる相手もいないあの頃のノアにはできなかったこと。その先で掴んだ未来で得たのは魔術師という職だけではなかった。
 ノアには自由も与えられていたのだ。始めから持っていたつもりだったのに、本当は持っていなかったもの。
 ノアにとっては真っ直ぐと思う道のりも、他人からすれば止めたほうがいいと諭すような曲がりくねった道のりだった。
 それでもヨルドは言った。その捻くれた道筋だってノアには必要だったのだと。そしてそこを乗り越えたからこそ、色んな景色を選んでいけるのだと。
 重ねられた指先が、するりとノアの肌を撫でていく。

「そうしたらいつか、人肌が心地いいものだと思えるかもしれないよ」
「……は?」

 脈略のない唐突な発言をすぐには理解できなかった。
 言葉をようやくのみ込んだところで、逆毛立つ猫のようにぶわりと警戒をする。
 重なっていた手を引き寄せ、守るように自分の胸に抱く。

「な、何故いきなり話が飛躍するっ?」
「本筋に戻しただけだよ。ノアが結婚するしないは置いておくとして、恋人も作らないの?」

 確かに、ことの発端はそんな話からだ。だがあくまでそれが始まりとなっただけで、そこが本来の内容だとは思っていなかった。

「そんなものは――」
「どんな相手が来るかもわからないのに、今から否定してしまう?」

 当然だ、とノアが答えるよりも早く、ヨルドは言った。

「たとえば、陛下のような人が現れても?」

 他の誰であっても考えを変えるつもりはなかったが、王のことだけは別だ。
 ヨルドの言うとおり「ノアがいい」など言う物好きが王だとして、一度考えてみる。
 彼のことは恩人として見ているが、その人となりも嫌いではない。愚かな人間であればいくら恩を感じてもノアが尊敬することはなかっただろう。
 想像してみたが、王に目をかけてもらい、ノアは彼を敬愛はしているが、互いにそこに恋愛感情はないためいまいち恋人という関係を思い描くことができない。

「……あくまで例えであって、陛下が恋人になるわけじゃないからね」
「わ、わかっている」

 人間関係を避け続けてきたせいか、そういった想像力は足りない自覚があるので、ついそのまま国王相手に考えてしまったことは伏せておく。
 やけに圧力の感じる物言いだったが、ヨルドもまた王を尊敬しているので、そういった想像にそのまま使われるのは耐え難かったのかもしれない。自分がその名を口に出したのだから、少し理不尽にも思うが。

「それで、どう? 仮に、陛下のような人に言い寄られてもなんとも思わない?」

 結論としては拒否はする。
 王のような懐の深さを感じる相手であれば、可能性を一考することはまったくないとも言い切れないが、やはり即座に一蹴することもありえるだろう。
 人の感情はいくらでも想定できるとしても、その場面に直面しないと実際どう行動を起こすのか、どう心が動くかはわからない。だが想像だけで生理的嫌悪がないのであれば、それこそヨルドの言う可能性なのではないだろうか。

「たとえば、おれは?」
「論外だ」

 考えるでもなく、ほぼ反射的に答えていた。
 ノアの即答に気を悪くするでもなく、ヨルドは笑う。

「ひどいな。おれの腕の中で居心地よさそうにしていたのに?」
「はっ? いつの話だ! そんな覚えは……っ」

 ない、と言いかけて口を噤む。
 ――たった一度だけ。居心地がよかったわけではないが、確かに彼の腕の中で落ち着こうとしてしまったことがあったのを思い出したから。

「あ、あれはただ、眠たかっただけで、おまえに懐いたからなどではない!」
「でも、警戒するような場所で眠れるほどノアは不用心ではないでしょう。すごく眠かったんだとしても、少なくともあの時のノアにはこのまま眠るのもいいと思える瞬間があった。それは可能性だろう?」

 それは可能性なのだろうか。ヨルドをまったく受け入れられないわけではないということの。
 これまで長年過ごしてきた癖のように、彼が恋人になることを想像せずに拒絶した。
 でもちゃんと考えてみたとしたら、それでも即座に返答できただろうか。
 たとえ一瞬だったとしても油断してしまったのは事実だ。しかしその瞬間でさえ、これまでは決してないようにと気を張っていた他人との距離だった。
 すでにヨルドは一度、ノアの引いた線の内に入っている。そのとき自分は何を思っただろう。
 らしくないことをしたと、失敗したと己の油断を責めた。
 でも、ヨルドのことを気持ち悪く思っただろうか。

『もしノアがいいと言う人がいたら、どうする?』

 繰り返されてきた問い。もしそんな人がいて、もしそれが自分から肩を預けても居心地が悪くない相手なのだとしたら。
 これしかないのだと信じてきた道が急に開けていく。ひたすらに歩き続けてきた細い一本道が分かれていき、出現したもうひとつには誰かと並んで歩けるようなゆとりが道幅にあった。
 それは可能性だ。変わると選択した先にある未来へ進むための。
 ノアはたったいま、岐路に立ったのだ。あやふやに感じていたそれが、はっきりわかった瞬間だった。
 だが人に身を委ねようとした自分をそう簡単には認められない。
 すでに自分が新しい可能性を見つけていても、いつものようにノアは否定しようとした。
 それをヨルドが、すっと伸ばした指先ひとつで制す。ノアの口の前に持ってきた指を唇に触れるぎりぎりのところで止めて、声を潜めた。

「答えなくていいよ。――ただ、感じてみて。本当に嫌と思うのかどうか」

 感じると言ったって、どう感じろと言うのか。
 抗議に口を開こうとしたそのとき、ヨルドに抱き寄せられた。
 着痩せして見える弾力のある胸に薄っぺらな自分の胸を隙間なく押しつけ、肩に顎が乗る。
 ヨルドも同じようにノアの肩口に顔を寄せ、耳もとで囁いた。

「――人の温もりって、気持ちよくない?」

 いつもならすぐに突き飛ばしている身体を押し返せないのは、ヨルドの言うとおりだと思ったからじゃない。
 ただ、知りたいと思ったからだ。ヨルドの言う可能性を。本当にそんなものが受け入れられるのかを。
 本当の自分を、見つめ直してみようと、そう思ったから。
 それでも他人の腕の中にいることも、他人を自分の腕の中にいさせることもひどく勇気が必要だった。
 これまでにやってきた理由のある抱擁ではない。これは義務ではなく、ノアの意思によるものだ。
 無意識に腰が引けそうになる。落ち着かない。心臓の鼓動が早くなっていくのが自分でも感じた。だがそれが不快感からくるものであるのか、それとも緊張からなのかわからなかった。
 だからノアは、その正体を探るべく、そっとヨルドの背に腕を回す。