チィを兵士に預け、ノアはヨルドとともに国王の執務室に入った。
 婚約腕輪を贈りたいと思った相手と、それの製作を依頼した者が揃っていることに王はいささか驚いた様子を見せる。たがそれは一瞬のことで、何事もなかったかのように振る舞い二人を招き入れた。
 人払いが済んで早々にノアが自分の右腕に嵌まる腕輪を見せると、平然を装った王の仮面が音を立てて崩れ去ったのが見えた。
 瞠目した王はゆっくりとヨルドの腕に視線を移し、そこにも金の腕輪があるのを確認する。そしてもう一度ノアの腕を、ヨルドの腕を交互に見やり、それを幾度か繰り返すと、気持ちを落ち着けるためか、自慢の長い顎髭をゆっくりと撫でた。
 長い沈黙の後、ようやく事情を受け入れたのだろう。王は、あー、と声に出し、言葉に迷いながらノアを見た。

「……嫁まで用意しろと言った覚えはないが?」
「嫁じゃないです!」

 あらぬ誤解を生んでいるらしい王の言葉に、咄嗟にノアは否定した。

「ああ、婚約者だったな。まあ確かにおまえならば、実力、功績ともに申し分はないが……」
「こ、婚約者でもないです! なぜ私がこんなやつのっ!?」

 もしここにチィがいたのであれば、「ノア様、そこじゃにゃいですよっ!」と主の混乱を指摘していただろうが、生憎と今は部屋の外で待機しており、猫好きな番兵の足元にじゃれついて遊んでいる。
 一切の事情を知らないヨルドも口を挟むことができず、未だ困惑気味にノアと王のやり取りを眺めていた。

「だが、その腕輪をしているということは、そういうわけではないのか? まさかおまえが相手だったとは思わなかったが、まあ、それなら腑に落ちるというか……」
「なにをごちゃごちゃと言っているのです! これには事情があるんですよ!」

 王に向ける態度でないどころか、その言葉まで遮るとはとんだ不敬にあたる。しかしノアも未だに現実を受け止めきれておらず混乱しており、鼻息を荒くしたまま現状に至る事情を説明した。
 不本意にも婚約腕輪を装着してしまったことを話し終えると、ノアとヨルドが結ばれたなどというとんでもない王の誤解をどうにか解くことができた。

「まさか、このようなことになるとはな……」

 王は頭を押さえ、深い溜息を落とす。
 その頃にはノアも少しは落ち着きを取り戻し、言葉にこそ出さなかったが、王とともに内心で同じように頭を押さえていた。
 ノアだって、こんなことになるとは予想すらしていなかった。まさか不運な事故とはいえ、よりにもよってこのヨルドと婚約状態になるだなんて。
 まだすべての流れは把握していないものの、ノアの説明を聞いているうちにヨルドも自分の置かれた状況を大まかには理解したようだ。
 その顔から戸惑いは消え、今はただ不思議そうに自分の腕にある金の腕輪を眺めている。

「すぐに外せないのか?」
「……その、三十日間は外せないようになっておりまして」

 ノアは王からの依頼で腕輪に祝福を、もとい魔術をかけていた。
 どんなものを施すかはノアに一任されており、本来であれば腕輪にかけられた魔術の説明をした後、王の意見を受け微調整するつもりだった。そのため王は、この腕輪にどんな魔術がかけられているかまだ知らない。
 ”三十日間外せない”、というのは、ノアが仕込んだいわゆる祝福のひとつである。
 任意では外せず、婚約状態になったことを隠すことができない状況であれば、腕輪が見えるたびに周囲からはさぞ冷やかされるだろうと期待してのもの。つまりはヨルドに対する嫌がらせのつもりだった。
 三十日間のうちに婚約破棄となる可能性もあるし、いくら暇人そうに見えてもヨルドは副長だ。不測の事態に備え腕輪の着脱が必要になることもあるので、後で期限内であっても解除する方法を設けようとは思っていた。しかし完成前に使用することを想定していなかったので後回しにしてしまっている。

「……他にどんな魔術をかけているのだ」

 溜息を堪えたような苦々しい王の声音に従い、ノアは改めて婚約腕輪にかけた魔術を説明するため重たい口を開いた。
 ひとつ、三十日間外すことができない。
 ひとつ、日没後は目の届く範囲にいなければならない。
 ひとつ、一日に一度抱擁を交わさなければならない。
 他にもあったが、それは腕輪の装着者に何か制限が出たり害をなすものではないため、今は影響のある三つの祝福――もとい、ヨルドへの嫌がらせを説明する。

「思ったよりも単純なものではあるが……目の届く範囲というのは、具体的には?」
「目が届くとはいえ、あまり遠くへはいけません。同室にいる程度で、背を向けるなどは問題ないですが、全身が隠れてしまうほどの遮蔽物は間に入れないようにしないといけません」
「もし部屋にいられなかったり、隠れてしまったりすれば?」
「魔術が認める範囲内にいない場合は、強制的に魔術によって互いに引き寄せられます。その場合はお互いに触れるまで続きます」

 婚姻をあげるまで貞操を守るというのも今となっては昔の話、未婚ならまだしも婚約状態の二人が同じ寝室を使用することはそれほど大きな問題にはならないと判断した上でかけた魔術である。
 ノアの思惑としては、やはりその事実で周囲からは冷やかされればいいと思ったからだ。とはいえこれは確実に王からの駄目出しを食らって解除する予定で、ちょっとした悪ふざけのつもりだった。それでも仮に採用されてもいいように、条件を満たさない場合に起こる現象も簡単なものにしたのだ。
 問題は、その次だ。

「次に、抱擁というのは……単純に、ただ抱き合うということでいいのか?」
「ええ、まあ……」

 珍しく歯切れの悪いノアの様子に、それだけで厄介な事情が絡んでいることを察した王は静かに片眉を上げた。

「それも時間内に行わなければ強制的にさせられるのか?」
「それは、ですね……その、なんと言いますか……」
「はっきりと申しなさい」
「その……爆発します」
「――は?」

 王のみならず、聞きたいことは山ほどあるだろうに、これまで沈黙を貫いていたヨルドさえ声を揃えてノアを見た。

「――ノア、すまない。わたしももう歳でな。よう聞こえなかった。もう一度言ってくれるか?」

 聞き間違いであってほしいという願いからか、自分の気持ちを宥めるためか、やけに穏やかに問いかけた王に、再度告げる。

「腕輪を強引に外そうとしたり、抱擁を忘れた場合、問答無用で腕輪が爆発するんです」
「……確かに、何か祝いとなる魔術をかけてくれとは言ったはずだが、なにもそこまで過激なものを作れとは言っとらんぞ」

 返す言葉もなく、これにはさすがのノアもただ項垂れるしかなかった。
 これがまだ、こんな魔術をかけてみたという話だけだったなら、やり過ぎだと言われながらも冗談話にすることができた。後で魔術を解いてしまえばなんの問題にもならないからだ。しかし実際に装着してしまって罰則が現実になってしまった今、さすがに笑うことなどできない。
 ノアだって、まさかこんな事態になるとは思ってもいなかった。
 あくまでどれも悪ふざけしかなく、王から駄目だと言われて仕方なく、という体で外すつもりだった。あわよくば許可を得たとしても、もちろん後で条件を達成できなかった場合の罰則は変える予定でいたのだ。
 王もノアの性格をよく知っているからこそ、始めから望む通りのものを素直に作ってくるはずもないと想定していただろう。こうした悪ふざけを盛り込むのはノアなりのじゃれつき方でもあるので、事前に忠告することもなかった。なにより普段であればそれほど面倒な事態にはならない程度には弁えていたからだ。
 婚約腕輪に関しての冗談が過ぎたのは、ひとえに相手がヨルドであったから。しかしいくら気に食わない相手であっても、腕が吹き飛ぶことを本当に望んでいたわけではない。それにヨルドだけでなくその相手も同じものをつける必要があるので、単なる私怨のようなものに他人を巻き込むつもりなど毛頭なかった。

「魔術を解くことはできそうにないのか?」
「突貫で作ったのでかなり複雑に仕上がっておりまして、解呪の手順などはこれから設けるつもりでした。現状で外すにしても、未装着状態ならまだしも魔術はすでに発動してしまっているのですぐにと言うのは……」

 作った本人でさえ即座に魔術を解くことができないのだから、他の者が手を出したところで時間はノアの倍はかかるだろう。それならば期限となる三十日間のほうが先に過ぎてしまう。

「おまえのことだ。こんなに早く仕上げたということは、他の仕事はそっちのけで作ったのだろう。仕事は溜まっているのか?」
「う……はい……」

 王の言う通り、実際に本来のやるべき仕事をそっちのけで製作にあたっており、腕輪を見せたあとはその微調整をしつつ、溜まった仕事をこなしていく予定を立てていた。
 当然その間にも仕事は舞い込んでくるのでそれなり多忙になる。魔術に関することならどんなに詰め込んだ予定になっても苦ではないので、つい王の依頼に集中してしまったが、それゆえに他に裂く時間は残ってはいなかった。

「おまえに与えている任務を遅らせるわけにもいかんな……。仕方あるまい。しばらくは互いにそのままで過ごし、ノアは仕事の目途がつき次第、解除を急ぐように」
「で、ですが……!」

 自分が設定した条件とはいえ、ヨルドとそれをこなさなければならないなど到底受け入れられるわけがない。
 しかし意を唱えることは許されなかった。
 有無言わせぬ眼差しを向けられてぐっと口を閉ざしたノアに、王は目を閉じ深く息をつく。

「こうするより他ないだろう。騎士団長、魔術師団長に話は通しておく。幸い拘束されるのが夜だけならなんとかなるだろう。仕事を調整し、なるべく腕輪に従い行動するようにしなさい」

 返事をしないまま俯いたノアを一瞥し、王はその隣に視線を移す。

「すまないな、ヨルドよ。わたしのわがままのためにこんなことになってしまって……今後三十日間、二人で過ごす部屋の用意をするので、ひとまずノアの指示に従ってくれ。詳しくは改めて時間を設けて説明しよう」
「承知いたしました」

 事の成り行きを知らないヨルドは、王とノアの話から自分が置かれた状況しかわからないはずだ。それでもこの場で説明を求めることもなく、取り乱す様子もなく、ただ王からの言葉を信じて頷いた。
 何故、そんなにもすんなりを受け入れられるというのだろう。何らかの事情に巻き込まれただけだということは理解しているはずなのに、不服の様子もなければ、入室当初にあった困惑さえも消え失せている。その言葉の通りに、何かも承知したとでも言いたいのだろうか。
 仕事を放り出すことの許しを王に請い、腕輪の解呪に集中することもできなくはない。精神的負担から業務が疎かになりかねない、とでも言えば渋々ながらでも受け入れてもらえる可能性もある。
 だがこうもすんなりと指示に従おうとしているヨルドを見てしまうと、自分だけみっともなく騒ぐことなどできるはずもなかった。
 ヨルドが変に絡んできさえしなければこんなことにはならなかった。だがこうまで厄介な事態にしたのは、なによりヨルドに子供じみた嫌がらせをしようとしたことが根底にあることは間違いない。
 無理をせずとも三十日後には外れるものであるし、溜まった業務のことを思えば王の出した指示が一番よいものであることはわかっている。わかってはいるが、これから毎夜この男と過ごさなければならない現実を未だ受けとめきれない。

「幸い二人には夜だけ我慢してもらえば済む話だ。解除が間に合わずとも、三十日後には外れるのだから少なくともそれまでは辛抱してくれ。たとえ不本意でも、抱擁を忘れぬように。こんなことで優秀なおまえたちを失うつもりはないからな」
「はい」

 隣から上がるヨルドの返事を聞きながら、俯きノアは唇を引き結んだまま、細い手首で輝いている金の腕輪を睨みつけた。
 
 
 
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