独身の魔術師たちが住まう宿舎にノアが住んでいる部屋がある。とはいえ時々着替えを取りに戻る程度で、日用品置き場のような扱いだ。
 魔術師たちには塔の中にそれぞれの研究のための個室が用意されている。魔術の研究に明け暮れる日々で昼も夜も関係なく仕事をしていて、少し休んでもすぐに作業を再開するような環境のため、それならと仕事場に仮眠場所を設けている者も少なくはない。
 ノアもその一人だ。わざわざ寝るためだけに移動するのも面倒だという合理性を優先していた結果、仮眠どころかほとんど仕事場で寝るようになってしまっていた。
 仮眠場は狭くこれでは身体に悪いとチィからよく小言をもらっていて、ノア自身も最近疲れが取れにくくなってきたように思っていたので、改善せねばとは確かに思ってはいた。しかし忙しさと面倒くささにかまけているうちに、まさか強制的に環境を変えざるをえない事態になろうとは、他人に関わるとろくなことがないとつくづく思う。
 そんなノアに新たに用意されたのは、宮廷内ある来賓用の一室だった。
 これからは毎日、日暮れまでに仕事に区切りをつけてこの場所に戻ってこなければならない。チィはふかふかベッドだなんて言ってはしゃいでいるが、ノアは手放しで喜ぶなど到底できそうもなかった。
 ただでさえ吊り目がちで何をしていなくても睨んでいるようだと言われる眼差しをより鋭くさせて、部屋の空気を換えようと窓を開ける男の背を見やる。
 不本意この上ない事態に苛立つノアとは対照に、ヨルドは悠然と構えたままで、いつもと変わった様子はない。
 執務室を出た後、夜になれば自由に動けなくなるからひとまず荷物をまとめて集合しよう、などとヨルドは動揺も見せず仕切った。指示に従うのは癪だったが、その通りなので渋々自分たちの荷物だけを取りに行き、王の命でやってきた兵士に案内されてこの部屋に着いたのはつい今しがたのこと。
 身の周りの荷物は少なくまとめるのにそう時間はかからなかったが、仕事場以外でもできそうな作業を選び、そのための道具を揃えるのに手間がかかった。チィの手伝いもあって遅くなったつもりはなかったが、先に来ていたヨルドはすでに荷解きを終えていたどころか、あまつさえ部屋を整える余裕ぶりだ。
 まるでこうなることを予想していたかのような準備の良さに、この現状を狙って引き起こしたのではないかと疑いたくなる。
 
「ヨルドさまはもう片付け終わったんですか?」
「ああ。遠征に出ることも多いし、いつ何があるかわからないから、荷物はすぐにまとめられるようにしているんだ。そのおかげで荷解きも得意になったよ」
 
 寝床となる籠にお気に入りの毛布を詰め込みながら感心するチィに、「もともとそんなに持ってくるものがなかっただけだけどね」とヨルドは続ける。
 自分の荷物を鞄から出しながらこっそり耳をそばだてていたノアだが、それもそうかと一度は持った疑惑を頭から弾き出した。
 もし仮に婚約腕輪が準備されていたことを知っていたとしても、どんな魔術がかけられているかは依頼主の耳にさえ入っていないのだから、ヨルドが知るよしもない。たとえわかっていても行動が制限されるだけでなくノアまでついてくるのだから、彼としても腕輪を装着する利点はないはずだ。
 
「そうだ。勝手に窓側の寝台を選ばせてもらったけれど、ノアもこっちのほうがよかった?」
 
 用意されたのは夫婦用の部屋ではあったものの、幸いベッドはふたつある。
 先に来ていたヨルドが奥にあたる窓側に荷物を置いていたので、必然的にノアはもう片方のベッドになるが、寝られれば問題ないのでこだわりはなかった。
 
「どちらでもいい」
 
 顔も見ずにしたノアの返答に気を悪くするでもなく、ヨルドはさらりと感謝の言葉を口にする。
 ただそれだけのことに、無愛想をこともなく受け止めてしまう彼に逆にノアの心が乱されていった。
 協力しようともしない素っ気ないノアに、多少なりとも驚くなり、戸惑うなり、憤るなり、大抵はそれぞれに顔色を変えるものだ。他人と仲良くするつもりもなく、むしろ近づいて欲しくないからこそのノアなりの予防線の張り方なのだが、この男は出会ったときから変わらない。
 呆気にとられることもなく、一瞬たりとも隙を生まさずにさらりと流してくるので腹の内がまったく読めなかった。
 始めはノアに何か魔導具を作らせたくて擦り寄ってくるのかと警戒したが、どうもそういうわけではないらしい。わざわざ気難しく人嫌いな性格のノアと仲良くしたいと考えているとも思えず、きっぱりと嫌がられているとわかっているはずなのに寄ってくるヨルドの真意も未だ掴めないままだ。
 恐らくは、からかって楽しんでいるのだろう。最近はノアも意地になって反応してしまっているので、嫌がる姿を見ては内心でほくそ笑んでいるのかもしれない。
 考えていくうちにこれまでヨルドに絡まれ鬱陶しく思っていた気持ちが膨れ上がっていく。そして揃いの腕輪を身に着けることになったあの時を思い出し、ノアはじろりとヨルドを睨んだ。
 
「おまえがどこで寝ようが構わないし、何をしようが知ったことではない。だがいいか、必要以上に近付くなよ」
「わかっているよ」
 
 苦笑しながら寝台に腰を下ろしたヨルドは、天井に手を伸ばすように腕を伸ばした。
 青い瞳の先には金の腕輪がその腕に誂えられたようにしっかりと嵌められている。
 ヨルドはゆっくりと手を回し、腕輪を確かめるように眺めた。
 
「それにしても、どうして陛下はこの婚約腕輪とやらをノアに用意させたんだ?」
 
 呟くようではあったが、ノアに問いかけているのは間違いない。
 普段であれば答える義理などないと無視を決め込むところだが、彼も当事者だ。何も知らせないままでいいわけがないが、後で王が説明すると言っていたし、ここでノアが教えてやらずともいずれは真相を知るだろう。
 悩んだが、ノアはぽつりと答えた。
 
「……貴様にだと」
「おれに?」
「結婚したい相手がいるんだろう」
 
 ふらふらと動かしていた手を止め、ヨルドは瞠目した。まさかノアからその話が出るとは思っていなかったのだろう。
 ノアだって別に知りたくて知ったことではないし、興味だって欠片もない。それを示してやるように、ヨルドの強い眼差しを感じながらも荷物を整理する手元を止めることなく続けた。
 
「陛下がそうおっしゃられたんだ。それで、どうにも踏ん切りがつかないようだから、背中を押してやりたいと思われたらしい」
 
 ヨルドは王にとって自慢の孫の友人であり、彼の歩みがまだ覚束ない頃から知っている間柄だ。王が自ら孫たちのおしめも変えたこともあると自慢をされたこともあった。
 両親でさえ乳母に任せるのが当たり前なところ、王族でもある彼が、しかも自分の孫ならまだしも赤の他人の子供のおしめまで進んで変えるなど前代未聞だが、当人はまったく気にしていない。
 成長しても学友としてルーン王子の傍にいて、学生の身ながら頻繁に城に遊びに来ていた。王子のもっとも親しい友人であることに驕らず、謙虚ながらも強かに笑ってのけるヨルドをいたく気に入っており、王は随分と可愛がっていたという。
 今では副騎士団長にまで上りつめ、三十歳を目前にする大の男であるが、それでも王にとっては孫同然に可愛くて、つい世話を焼きたくなる存在らしい。
 王からの寵愛を身をもって知っているヨルドは、端的な説明だったが納得したようだ。
 
「なるほど、それで……だが少し違うな。正確には交際を申し込みたい相手だ」
「なんだ、まだ付き合ってすらいないのか」
 
 すでに交際していて、いよいよ結婚を考えている状態にあると思い込んでいただけに、予想外の台詞につい顔を上げてしまう。
 
「何度も申し込もうとは思ったんだけれどね」
 
 つまりは用意した婚約腕輪はとんだ勇み足だったというわけだ。
 勝手に根を詰めたのは自分だとはいえ、まさかまったく必要でないものにああも労力をかけて作ったあの時間はなんだったのだろう。嫌がらせだと魔術を盛り込み、挙句に自分でつけてしまうという失態まで犯して。
 それだけならまだしも、これから毎夜この男と寝室をともにするという苦行まで背負わされることになってしまうなんて。
 大きなため息のひとつでもつきたくなる。しかしヨルドの前で弱る姿など微塵も見せるつもりはないノアは、ふんと鼻で笑い飛ばして腕を組んだ。
 
「私にとってはこの上もない災難に違いないが、まだ相手が私でよかったというものだな。これで相手が女だったなら、その想い人には呆れられて愛想も尽かされていただろうよ」
 
 ヨルドと想い人がどれほどの仲なのかわからないが、少なくとも交際を申し込もうと思える程度には親しいはずだ。もしかしたら向こうはすでにヨルドからの言葉を待っている状態かもしれない。
 もし他の女性と同室で夜を過ごしていると知ったとすれば、いくら事情を聞いたとしても内心穏やかではいられないだろう。毎夜離れられずにいる状況下で、それが若い二人ともなればいつ過ちが起きてもおかしくはない。本人たちがなんと言おうと真相は二人だけのものであるし、疑いは持ってしまうはずだ。そして一度芽生えた感情はそう簡単に消えることはない。
 もしノアが当事者でなく外野で、ヨルドが他の女と三十日間は夜をともに過ごすと聞けば、やはり何があってもおかしくはないと考えるだろう。
 しかし相手が魔術師であるなら話は変わってくる。
 魔術師は陰険で変わり者だとして、大抵の人間は避けて通る。下手に関わり陰湿な方法で報復されても困るからと突っかかってくる者もいないので、一人で集中したくて人嫌いな者にはぴったりな仕事だろう。
 ノアは反応が薄く寡黙な同僚たちと違って外部との会話はできるが、皮肉が多く不遜な態度を取るのでノア自身の評判もそうよくない。そんなノアが同室となったところで、事情を説明すれば恐らくヨルドは同情されることだろう。間違いなくあらぬ疑いを持たれるようなことは起きないはずだ。
 ヨルドにとって婚約腕輪をつけてしまったことは不運だろうが、その相手がノアであったのは不幸中の幸いである。ノアにとっては、どこをとっても不運でしかないが、周囲にはこれを機に二人の仲が深まるとさえ思われないはずだ。
 
「どうだろうな」
 
 いつもの飄々とした調子で返すと思ったが、ヨルドは困ったように苦笑する。
 ノアが相手であっても愛想を尽かされるかもしれない、という心配ではなく、まるで誰が相手であっても嫉妬さえしてもらえるかわからないという言外の不安を感じさせた。
 まさか副騎士団長ともあろう者が、交際を申し込もうと悩んでいるほどの相手に手ごたえを感じていないとでも言うのだろうか。
 ヨルドが王子の乳母兄弟で、幼少期から交流のある王のお気に入りというのは有名な話だ。だが王は仕事をする上では身内びいきはしないし、異例の若さで副長になっているとしてもそれは彼の実力があってのこと。
 むしろヨルドの昇進が早すぎる場合、贔屓されていると噂が出るのではという懸念の声があり、それ故に昇進を見送る必要があるかもしれないと悩む王のぼやきをノアは聞いたことがあった。
 一見優男のようなヨルドはその戦場での活躍で他国に一目置かれていて、”黒豹の騎士”と言えば彼の国のヨルド、とふたつ名が与えられる実力者だ。なにより退役する前副長の推薦と現騎士団長からの要望もあって副長になったので、上部からの信頼も篤い。
 規律を重んじる騎士としての風格も十分に備わり、穏やかで紳士的であり、貴族や平民という序列に縛られない面倒見のよさから人望もある。いずれは騎士団長になるのではとの声も上がるほどで、本来であれば迷う必要はない人選だ。それでも王族と関わりが深いというだけで、むしろ自分が彼の出世の足枷になってしまうことに王は悩んでいた。
 顔よし、性格よし、稼ぎよし。さらには将来性もあるとされるヨルドは、しかしながら未だに独身で決まった相手もいないので、夫候補としても非常に有望な男であるとされている。噂に興味のないノアでさえ、侍女たちがヨルドの話をしては夢心地に溜息をつくものだから、彼の評判というのは嫌でも知っていた。
 つまりは言い寄る女は後をたたず選び放題の立場にありながら、いざ本命の相手になると今ひとつ手ごたえがないようだ。
 


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