なんでもそつなくこなす印象があっておもしろくなかったが、珍しく自信なさげな姿に少しだけ優越感に浸ったような心地よさを覚えて、ようやくノアは気分が浮上する。
 
「まあ、少なくとも襲われる心配はないからよかったじゃないか。憧れの副長どのとお近づきになりたい者は山のようにいるらしいからな」
 
 もしヨルドにその気がなくても相手が放っておかないこともある。
 有望株な男との思いがけない接点に、いっそ既成事実を作ってしまえばと思い詰める者もいるだろう。そうでなくても今回の件を取りかかりに仲を深めようと努力や画策を巡らせることも考えられる。しかも夜の内は否応なしに逃げられなくなってしまうのだから、やはりヨルドにとって同室はノアでよかったと言えるだろう。ノアなら絶対襲うことがないどころか、近寄りさえしないのだから。
 
「憧れの副長だって、ノアは思ってくれていたの?」
 
 先程までしおらしくなっていたはずのヨルドの思いの外強い眼差しに気がつき、ノアは思わずたじろいだ。
 
「じ、侍女どもが言っていたんだ。私じゃない」
「そう……まあ、そうだろうね」
 
 含みのある様子に引っかかったが、気づかなかったことにした。余計な言葉をかけて面倒事を起こすのはごめんだ。
 しかし妙な空気感だけが残り、ノアは気を取り直すようにこほんと咳払いをした。
 
「――装着に関してはもっと複雑な手順にしなければな。またこんな事件を起こされて問題をなすりつけられたらたまったもんじゃない」
「そうだね。いざという時には簡単に外れるようにしておくべきかも」
「そんなことはわかっている。もともとそうする予定だったのに、試作段階のものをつけるはめになったのは貴様のせいだ」
「そうだったね。巻き込んでごめん」
 
 ノアの憎まれ口をさらりと躱す男に苛立つが、ふと笑みを浮かべた口元に目がいった。
 柔らかく上がる口角の辺り、下唇には傷つきやや赤く腫れている。似たような傷がノアの唇にもあって、口を開くたびにちりっとした痛みを感じていた。
 倒れ込んだ勢いで、互いの歯でも当たったのだろう同じ傷を、見ないように気をつけていたはずなのに、ふと意識してしまうと嫌でもそこに目が向いてしまう。
 ただ衝突しただけ。それでも、思いがけず二人が唇を合わせてしまったのは事実だ。でなければ同じところに傷などできないし、何より婚約腕輪が反応するはずがない。
 人嫌いのノアは、唯一懐いているといっても過言でないのが王だが、身分の違いからそれほど近しい間柄というわけでもない。そんなノアは彼以外の他人など心底どうでもいいと思っていたし、若い頃には勉学に励み、城勤めとなってからは職場に籠ってばかりで、ただひらすらに自分の世界に没頭し続けた。
 恋愛などしようとさえ思ったことがないのだから、誰かと触れ合ったことがあるわけがなく、口を合せたことも当然ない。
 今回のことは不慮の事故の結果で、互いに特別な想いがあったというわけではない。こんなことで意識するなんて、思春期の多感な子供でもあるまいし気にするほどのことではないと、そう自分に言い聞かせる。
 不自然にヨルドから目を逸らしたノアは、再び片付けをする手を動かした。
 研究に使う薬瓶を腕に抱えて、ノアの寝台から数歩離れた鏡台にそれを並べる。すぐに机の半分が埋まり、足元には本を重ねた。
 部屋にひとつしかない鏡台を独り占めするのは、単純に壁側を向く机がそこだけだったからだ。中央にある円形のガラス机のほうがよほど広々しているが、ヨルドのベッドがよく見えてしまう。動かれたら目障りで集中できないから、視野が狭まる場所が欲しかった。置き場が足りないなら足元に置くでも、小さな机を調達するでもいくらでもやりようはあるので、ノアは勝手にここを自分の作業台代わりにすることに決めた。
 夜はこの部屋にいなければならないとしても、仲良しこよしで二人が寄り添い傍にいる必要はない。ある程度の距離を保ち場所を共有するだけであって、他は自由だ。それならこちらは勝手に仕事をさせてもらおうとノアは決めていた。
 使い勝手がいいように道具を並び終えて、ふと顔を上げると正面の鏡に自分の姿が映り出される。
 そこにはくたびれ気味の冴えない顔の男がいた。灰色の長髪は肩でゆるく結ばれているだけで、伸びてそのままなので艶も何もあったものではない。前髪も、以前に鬱陶しいと思って眉の上あたりで真横に切ったときがあったが、チィにいっそ伸ばして放置してくださいと泣きつかれ以降はこちらもほぼ手つかずであちこちに痛み、切れた毛が跳ねているような有様だ。
 肌は白くとも透き通る美しさなどなく、長年の不摂生と引き籠もりで埃を被ったようにくすんでいるだけ。目つきが悪いと言われる切れ長の目は片眼鏡を嵌め込んでからではなくもともと霞がかったようなはっきりしない紫で、気の強そうな顔立ちには不釣り合いなぼんやりとした色をしている。
 鏡を見つめて、そういえばこんな顔だった、と思った。身なりなど気にしないから鏡を使うことも稀で、今も久方ぶりに自分の顔を見た気がする。
 最低限の身だしなみを整えておかないとチィがうるさいので仕方なくしているが、どうせ性根の悪さが滲み出ているような顔なのだから、少し気を配ったところで誰がこちらを見るというのだろう。
 自分でも全体的に白っぽいと思っていたノアだが、唇の真新しい傷だけが赤く色づいていて、無意識にそこに目が向く。
 これ以上余計なことを考えなくていいようにと、必要のない鏡には早々に埃よけの布を垂らして塞いでやった。
 鏡台から離れて再び自分の寝台の元にいくと、ノアの行動を見つめていたらしいヨルドと目が合う。
 
「片付けは終わった?」
「ああ。貴様と違って荷物が多いもので、時間はかかったがな」
 
 一言だけで片付くのだが、つい捻くれた言葉を返してしまう。
 ノアの荷解きにかかった時間に嫌みを言っているわけでないと理解しているが、つい口から出てしまうのだ。
 それもいつものノアだと気にする様子を見せないヨルドは、腰を下ろしていた寝台から立ち上がる。その歩き出したその足はノアのほうへ向けられていた。
 手が届く距離まで迫られたとき、無意識にノアの身体が逃げるように仰け反りかける。それに気づき、ヨルドはその場で足を止めた。
 
「な、なんだ」
 
 人嫌いなノアは他人が近くに来ることを好まない。手が届く範囲になると逃げ切れる自信がなく、とくに真正面から来られるとつい逃げ腰になってしまう。いつも皮肉や嫌みを言って人を不快にさせる言動をとっているので、相手を怒らせている自覚があり、だからこそ傍に来られるとそのまま掴みかかられるのでは、という想像が働いてのことでもあった。
 口では勝てても腕力はからきしだ。一般人どころか女にだって勝てる気はしなかった。けれども捻くれた性格のせいで口は閉ざせないし、意地っ張りな性分のせいで逃げ出すこともできない。
 表情からは怒りを感じないが、騎士である男の体格で迫って来られると威圧感がある。負けじとノアが睨み返したところで、ヨルドはふわりと両腕を開いた。
 
「はい」
 
 左右に大きく開いたヨルドの手をそれぞれ見やるも行動の意図が掴めず、ノアは怪訝に眉を寄せた。
 
「……なんのつもりだ?」
「なんのって、抱き合わなくちゃなんだろう? だから今やろうと思って」
 
 つまり広げられた両腕は、ノアにここに来いという合図だというのか。
 ようやく行動の意図が理解できたノアは、思い切り顔をしかめた。
 
「明日でもいいだろう。一日に一回でいいんだから」
 
 腕輪の効果は装着時から開始される。それなら明日、腕輪をつけた時刻までに抱き合えばそれで済む。
 一度抱き合ったときから時間制限はリセットされる。つまり早く抱擁を交わせば交わすほど、総合的な必要回数は増えていくことになる。
 抱き合うなど、至近距離どころか零距離になる行為だ。相手の懐に入り自分の腕の中にも招き入れなければならないなんて、それこそ命の危機でもない限り絶対にしたくない。それは相手がヨルドであろうがなかろうが、誰であっても同じことだ。
 信頼できない相手にどうして、一瞬だとしても無防備にこの身を任せられるというのだろう。
 なるべく接触する機会は減らしたいと目論むノアだったが、ヨルドは駄々をこねる子供を諭すよう言った。
 
「腕輪をつけたのは昼間だっただろう。互いに仕事をしている時間だし、うっかり抱き忘れたりして爆発しても大変だ。必ず間に合うとも限らないし、ぎりぎりの残り時間を気にするのはよくないだろう? だから念のため、寝る前と起きた後、それぞれで抱き合うべきだと思う」
「一日に二回もだと!? 何もそこまでしなくても――」
 
 なるべく回避しようとする自分の思考とは正反対の意見に目を剥いたノアだが、腕を下したヨルドは悠然と笑った。
 
「ただ抱擁を交わすだけだよ。他に何もしないさ。それでも怖い?」
「怖いわけあるか!」
 
 安易な挑発だとわかっていても受け流せなかったノアがくわりと口を開く。するとヨルドは人差し指を口の前に持っていき、しぃ、と静かにするように合図した。
 
「あんまり大きな声を出すと、チィが起きてしまうよ」
 
 ノアの声量にも起き出す様子はなく、お気に入りの籠の中で、毛布に頭だけを突っ込み腹を天井に向けるという豪快な姿で寝ていた。
 そういえば先程から随分と静かだったが、ふみふみと毛布を揉んでいるうちにそのまま寝入ってしまったようだ。
 もとは野良猫だったはずが、ノアの使い魔になって十年ほど。すっかり野生を失った姿に、思わず力が抜けてしまう。
 
「……わかった。やればいいんだろう、やれば。こんなの、全然、大したことでないしな」
 
 ヨルドと向き直ったノアは、不本意に思う気持ちを隠すことなく渋々承諾した。
 とはいえヨルドの言い分にも一理ある。一日一度同じ時間にと決めていても必ずしも守れるとは限らない。有事が発生したとしても魔術は待ってはくれないし、一秒でも遅れれば即爆発だ。夜に会う時にと決めても、うっかり時間を過ぎれば二人して命を落とすことになる。
 爆発の威力まではまだヨルドに伝えていないが、冗談にかけた魔術なので冗談な破壊力を持たせてしまっていた。生き残る可能性はまずないだろう。
 仮に爆発の直前に腕を切り離して遠くに投げようとしても、腕が身体から離れた時点でそれも腕輪を外したという行為に該当するので、その場で即爆発だ。回避の術は時間経過による自然の解呪か、手順を踏んできちんと処理して解呪するしかなかった。
 ヨルドと心中するつもりはない。しかも自分の仕込んだ魔術で死亡するなど、とんだ間抜けもいいところだ。そんな愚かしいことになるくらいなら、血涙を流してでもこの三十日間を乗り切らなければならない。 
 
「それじゃあ、気を取り直して。はい」
 
 再び両腕を広げたヨルドは、そこから動くことはなくノアから来るのを待つつもりでいるようだ。
 強引に来られるよりは、まだ自分から行ったほうが心の準備もできる。それはありがたいとも思えるが、だがやはりヨルドのようにこの状況を素直に受け入れられるほど柔軟にもなりきれない。
 それでも、やらなければいけないのなら、やるしかない。
 引け腰になりつつも、ノアからヨルドの胸に渋々収まった。
 
 
◇ ◇ ◇ ◇ ◇


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