横たえていた身体をのそりと起き上がらせる。
 まだ重たい瞼をかろうじて持ち上げて、部屋の中心で優雅にお茶を楽しむヨルドに目を凝らした。

「おはよう、ノア」

 ノアの起床に気がついたヨルドが爽やかな笑顔とともに挨拶をしてくるが、それは無視する。というより、まだ半分寝たままで頭が働かず、ヨルドに声をかけられたという認識をしていなかった。
 通常時でさえ吊り上り気味できつい印象を与える目元が、寝起きでさらに細くなり視線を鋭くさせる。ぼんやりと見える者の正体を見極めるために目を凝らしているだけだが、傍からはまるで凄んでいるようにしか見えないだろう。
 起きたばかりのノアは、日頃から主の横暴に慣れているチィでさえ、「そんにゃ怖い顔しにゃいでください~」と時に泣きつくほどなのに、朝日に艶めく露のように清廉な男は気にする様子もない。

「まだ眠たそうだね。朝は弱い?」
「…………んで、ここ……」
「ノアさま、ノアさま。昨日からですよ。忘れちゃいましたか?」

 なんでここにおまえがいるんだ、という声はかすれて言葉にならなかった。しかし長年の付き合いでそれを聞いたチィは、ノアの膝に乗って顔を覗き込んでくる。
 寝起きで頭の働いていないノアの顎に、身体を伸ばして頭を擦りつけるのがチィの挨拶代わりだ。
 挨拶をした後、いつものように差し出したノアの手のひらに頭を突っ込んで、撫でて撫でてと主張してくるチィの好きなようにさせてやった。
 自ら撫でてもらっているように身体を動かすので、少しだけ指を動かして応えてやる。それが堪らないというように、尻尾をぴんと伸ばしては、前身を倒して身をくねらせもっともっとと強請った。まれに加減を間違えてごんと強めに頭がぶつかってくるが、チィはお構いなしだ。
 撫でてやっているうちに抜けた毛が舞って毛布につくが、それこそチィは気にしない。
 ゴロゴロと鳴る喉を指先でくすぐってやっているうちに、少しずつノアの頭は動き始めた。
 そしてようやく、じっとヨルドに見られていることに気がつき手が止まる。

「ゴロゴロ……うにゃ、もうおしまいですか?」

 まだ喉の奥を鳴らしながらも、残念そうにチィはノアを見上げる。
 鼻先をちょんと指先にあてて続きを催促した。

「いつもにゃらもうちょっとやってくれるのに……」
「うるさい、終わりだ。早くどけ」
「あうぅ」

 毛布を捲り上げると、上に乗っていたチィはころりと横に転げた。それでもまだ撫でてもらい足りないと物欲しそうな目を向けてくるが、それを無視してノアは寝台から起き上がる。

「おはよう、ノア」
「ふん」

 本日二度目になるヨルドからの挨拶とも知らず、ノアは鼻を鳴らしてまた無視をする。
 その場で軽く身体を伸ばすと、あちこちから関節が鳴る小気味良い音が響く。
 少しすっきりしたが、それでも寝起きの気だるさが抜けきることはない。ノアはもう一度ベッドに引き寄せられるように端に腰を下ろすと、すぐさまチィが膝の上に来た。隙さえあれば触ってほしいの催促だ。
 いつもなら仕方がないと少しくらいは撫でてやるが、ヨルドの前でチィの面倒を見るのはいささかバツが悪い。期待する眼差しを下から感じながらもあえて気づかない振りをして、代わりに大あくびをひとつした。
 ふああ、と息を吐き出すと、またとろんと意識がまどろんでいきそうになる。
 ノアの寝起きの悪さはいつものことで、それは単純に寝不足からだ。
 仕事に明け暮れるノアは眠くなったら気ままに作業場で仮眠することがほとんどで、昼も夜もない生活だが、特にこの数日間は婚約腕輪の製作に集中していたため疲労が溜まっていた。そこにきてあの事故があったので心身ともに疲れ切ってしまっていたが、隣の寝台でヨルドがいるのに無防備に眠ることなどできなかった。
 何かをされるとは思っていない。女でないのだから貞操の危機はないだろうし、仮に男もいけるとしても、わざわざノアを相手にせずとも男女問わず相手に事欠かないだろう。ノアに鬱憤を溜めて殴りかかるなんてことも、いくらヨルドが好かない相手といえどもそんなことをする人物ではないことくらいわかっている。
 なによりここは宮殿内なので、規律を重んじる騎士団の副長たる者が問題を起こすことはないはずだ。
 気負うことはないとわかっていても、それでも隙を見せたくなかった。神経質であるノアが傍に置いてもぐっすりと寝られるのは、使い魔のチィくらいなものだ。
 多少の距離はあるとはいえ、相手の寝息が聞こえてくるほど近くで寝るなんて、学園に通っていた頃にいた寄宿舎以来だった。
 孤児であるノアはもともと狭い部屋で大勢となる環境下に置かれることが多く、人の気配を受け流す術は身についているものの、それだって安眠できたことはない。ヨルドに限った話ではなく、誰であっても弱みとなるかもしれない一瞬を覗かれるのは嫌だったからだ。
 城勤めとなり、十分な収入と一人部屋を得られたときはどれほど嬉しかったことか。しかも自分の好きな仕事に没頭できる環境はまるで天国のようだった。
 自分の領域に誰かが入ってくるのは嫌だし、反対に自分が誰かの縄張りに入るのも嫌だ。ましてや共有するなんてありえない。
 昔はできていたとしても、それは選択肢が他になかったからで、選ぶことができるなら二度とあんな環境には戻りたくなかった。
 だからノアは昨夜、溜まっていた仕事に取りかかることにしたのだ。ヨルドは早々に寝台に横になっていたが、いつ寝ついたかはわからない。作業に没頭すると周りが見えなくなるし、あえて意識しないようにしていたからだ。
 いつもと違う環境で少し手間取ることはあったが、仕事は捗った。しかし疲れ切っていた身体は限界を迎えて、結局は夜明けの少し前くらいに寝台に倒れ込んでしまった。まだ寝足りないと思うのも、なかなか頭が起ききらないのも当然だ。
 夜は腕輪の制約により、必ずヨルドといなければならない。それならいっそ完全に昼夜逆転させて昼間に睡眠をとり、夜は作業の時間にあてられるように身体を整えるつもりだ。
 もう一度あくびをするが、煩わしい視線が気にかかり、わざとらしく溜息をついた。

「これから毎朝、他人の顔を見なければならないなんて最悪だな」

 相手に聞かせる意図はあっても、あくまで独り言のように呟いた。
 膝の上で大人しくしているチィは、どちらかといえばいつもの三割増し凶悪顔である起き抜けのノアを見る羽目になったヨルドのほうが最悪なのでは、と思ったが、口に出すと睨まれるどころではないので黙る。
 一方のヨルドは、ノアの嫌みなど意に介さない。

「そうかな。おれは少し嬉しいよ。ノアとゆっくり話をしたいと思っていたから」
「話すことなんてない」
「まあそう言わず。せっかくだから、ノアも朝食にどう?」

 返事も聞かずに立ち上がったヨルドは、机の脇のティーカートからポットを手に取り、新しいお茶を淹れ始めた。
 部屋に広まる爽やかなハーブの香りに、ヨルドが飲んでいるものの正体に気がついていたが、てっきり侍女か誰かにでも淹れてもらったものだとばかり思っていた。
 自らお茶の用意をするヨルドの手つきは慣れたもので、給仕に控えているような者が見当たらないということは、恐らく先程から飲んでいたものもヨルド自身が淹れたのだろう。
 節くれ立つ手は武骨で器用そうには見えないのだが、その動作は滑らかだ。陶器同士がかち合うような音を鳴らすこともない。甘く柔らかな顔立ちも相まって、騎士というより執事のように様になっていた。

「……三男坊とはいえ伯爵家の者が自ら茶を淹れるとはな」

 思わず漏れた本音に、ヨルドは苦笑した。

「まあ、爵位があろうが貴族の子だろうが、この国では誰しも平等に見習い騎士から始めるからね。自分でできることは自分でやらきゃならないんだよ。ご飯当番だって昔はやったし」

 ヨルドの身分であれば、たとえ見習いであっても従者の一人くらいはつけることができただろう。しかしそれは他国であればの話で、この国では王族かもしくは貴族の跡取りでもない限りは騎士団の中の地位が上がらないと従者をつけることは認められない。
 戦地に赴いた場合、状況によっては誰からの世話も受けられない事態も起こりうるためだ。隊とはぐれて一騎で敵地を彷徨うということもないとは言い切れない。そんな時に自分の食糧すら確保できなければ逃れるより先に飢えで倒れることになる。そんな事態に陥らないためにも騎士団では見習いを主軸に、持ち回りで雑務を行うことが決まりだった。

「まあ、おれはそういうのも楽しんでやらせてもらったよ。おかげで大抵のことは自分でできるようになったから、そういう意味でも騎士団に入れたことには感謝している」

 その言葉の通り、本来は給仕される立場のヨルドはまるでそれが本職であるかのように、優雅な仕草で空いている席にカップを置いた。

「戦場にはティータイムなんてないけれど、せっかく一息つくなら美味しく飲みたいと思ってお茶の淹れ方も覚えたんだ。どうぞ、部下たちにも好評だよ」

 まさか副長自ら部下にお茶を用意してやるとは、普通であればとんだ冗談と笑い飛ばすものだが、変り者のヨルドならば本当にやっているのだろう。
 新しく淹れられたハーブティの香りが、少し離れた場所にいるノアのもとにまで柔らかく届く。それでもなお動かずその場で立ち尽くしていると、先にチィが動いた。
 するすると机まで向かい、ヨルドの足元で顔を上げる。

「ヨルドさま。チィにもにゃにかありますか?」
「もちろん。チィはミルクをどうぞ」

 机に置かれていたやや深めの皿を手に取りしゃがみ込んだヨルドは、自分が座っていた椅子の下に用意していた四角い小箱をチィの前に置き直して、その上に皿を乗せた。
 わざわざチィの飲みやすいように高さを合わせる準備があったのをみると、どうやら始めから用意していたようだ。

「ありがとうございます!」
「どういたしまして。おかわりもあるからね」
「はいっ」

 チィは喜んで皿に顔を突っ込こもうとして、はたと動きを止めた。
 慌てた様子でノアに振り返る。

「ノアさまもごはんにしましょう!」
「……別に腹は空いてない」
「そ、そんにゃことにゃいと思います! きっと、ノアさまのお腹もぐーぐーです!」

 ノアのお腹も、ということは、つまりはチィのお腹は腹ペコでぐーぐーしているということだ。しかし主が何も手をつけていないのに自分だけ朝食を摂るわけにはいかないので、必死にノアを誘う。

「チィには聞こえます!」
「むしろおまえの腹の音が聞こえてくるが」
「そ、そんにゃことないですよ?」

 実際に腹巻をした小さな身体の真ん中から微かではあるが音が響いていた。朝食を目の前に我慢の限界なのだろう。

「ち、チィはどうでもいいんです。でも、ノアさまはしっかり食べにゃいと倒れちゃいますから……」

 声を萎ませていくチィは、以前ノアが寝食を忘れて仕事に没頭して倒れたことを思い出したのだろう。
 さすがにそれを持ち出されてしまうとノアは弱い。あの時は「ノアさまが死んじゃう」と散々にチィに泣かれて大変で、回復した後も数日間べったり張りつかれてしまった。
 これがまだ自分が早く食事にありつくための芝居であるなら、ノアも意地悪のしがいがあるというものだ。だが生憎のところ、この使い魔はそんな浅知恵を持ち合わせてはいない。

「……わかったわかった。今いく」

 ノアの溜息が重たく沈んだ分、チィは尻尾をぴんと立たせて喜びに震わせた。
 足を向ける前に、枕元に置いていたモノクルを右目に嵌め込む。ぼやけたままだった片目の視界がすっきりとして、ようやくノアはベッドから離れた。
 大人しく椅子に腰を下ろしたノアをヨルドは無言の笑みで出迎える。足元からはチィの視線を受け、居心地悪く思いながら用意されたカップに手を伸ばした。
 透き通る琥珀色からはふわりと花の香りがする。ひとくち含んでみると芳しい香りが鼻を抜けるが、香りの強さのわりにはさっぱりとしていてくどさはない。
 まずければまずいと文句を言ってやるつもりだったが、思いがけず飲みやすかった。頭がすっと冴えわたるような目覚めの一杯は好みなほうだ。
 だが素直に美味しいなどと言えるわけもなく、代わりに沈黙という感想を伝える。それがどう伝わったかはわからないが、ノアを窺うようなヨルドの視線がふっと和らいだような気がした。
 ノアが口にしたのを見て、チィもようやくミルクを飲み始める。あまりの勢いにすぐになくなってしまいそうで、ヨルドは早速おかわりの準備に取りかかった。
 その様子を横目で見守りながら、ノアは正面に広がるテーブルの様子も確認する。
 起きてからというもの、ハーブティの香りの中に混じっていた甘い匂い。まさかとは思っていたが、ノアの予想通りそこには焼き菓子が置かれていた。果実が入ったパウンドケーキとクッキーだ。
 寝起き早々には、もしかして自分はお茶の時間まで寝過ごしたのかと一瞬慌ててしまったのも無理はないだろう。

「ああ、よければそのお菓子もどうぞ」
「いいんですか!?」

 そんなものいらないと断る前に、足元からチィの輝く視線がヨルドを見つめた。
 チィからは机の上は見えないが、匂いで気づいていたのだろう。喜びに痺れるように尻尾がぴんと立って震えている。
 きらきらと期待する眼差しを受け、ヨルドは目尻を下げた。

「チィにあげても?」
「好きにしろ。そいつは使い魔だからな。普通の猫と違って人間と同じものを食っても問題ない」

 使い魔は、一度死んだ動物に魔術師が魂を繋げ直すことで使役できるようになる。その瞬間から普通の動物ではなくなり、不老不死になり知恵もつく。
 チィも一度は死んでいる。猫の死体にノアが魔力を注ぎ込み、自分の使い魔としたのだ。
 不老不死のため飢えても死ぬことはないが、動けなくなるので生きている時と同様に食事を与えなければならない。しかし生物の理から外れるので、本来であれば毒となる食物も問題なく摂取できるようになる。ただし好き嫌いはあり、獣としての本能も残されているので、大抵は毒となるようなものは自ら避けるし、好んで食べるものは生前とさほど変わらないことが多い。
 チィも時々ノアと同じものと食べたがることがあるが、人間用のものは味が濃く感じてしまうようで好きにはなれないらしく、数口ほど食べて終わることがほとんどだ。一番の好物は猫らしく魚なのだが、焼き菓子は好んで食べた。

「今用意するから、ちょっと待っててね」

 ヨルドは皿にいくつかの菓子を取りわける。
 そのままチィのもとにいくかと思いきや、ノアの前にことりと置かれた。
 


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