少年が立ち去り、ラジルはセツに振り返る。

「やっぱり説教くさくなっちまったな」

 しんみりした雰囲気を払うように笑えば、セツは小さく首を振る。

「きっとあの子は、今日のこと忘れないと思う。道標を見つけて、きっとこれから這い上がってくる」
「――だといいな」

 本当は少し不安だった。偉そうに言ったものの、本当に少年にかける言葉があれでよかったのか。
 ラジルとてまだまだ未熟な部分が多い。なにより両親が健在の自分に、父を亡くした少年の本当の悲しみなどわかるはずもない。それなのに知ったような口を利き、強くなれと言ったことに間違いはなかっただろうかと思っていた。
 しかしセツにあれでよかったのだと言ってもらえて、ようやく安心した。
 どちらともなしに歩き出した二人は、しばらく無言だった。だが珍しくそれをセツのほうから破った。

「――呪術師という者は、本当は大半が偽物なんだ」
「え?」

 突然の言葉に、思わずラジルは足を止める。セツも立ち止り、遠くを見つめながら続けた。

「実際おれだって、真の呪術師ではない。本物の呪術師であれば見えざるものを見たり、確実な予言をしたり、毒もなにも使わずに人を呪い殺すことだって本当にできるという。反対に見る間に傷を癒したり、天候を操ったりもするそうだ」

 違う大陸には、この世界に被さるように存在すると伝えられている精霊界を知る呪術師もいるという。精霊と妖精に愛され、彼らを使役し、森羅万象をも操れるとの噂もあった。

「だが、世界に溢れる呪術師の大半はそうではない。呪うといってもこっそり毒を盛ったり、ただの思い込みによってそうでないのにそう思わせたり、そうやって人を操ったり。嘘の未来を予言しては自らそうなるよう小細工をし、信じさせ、金を巻き上げる者も多いのだという」

 恐らく少年の父親が騙されたというのも、そういった呪術師を語る詐欺師に騙されたのだろうとセツは言った。

「だからおれも偽物だったんだ。特別な力なんてなくて、ただ知識があるだけだ。ただの薬師のような者であるのに、呪術師という肩書きを利用して特別なものに思わせているだけだったんだ。でも今日、おまえのおかげで本物になれた気がする。特別な力はないけれど、間違ったことはしていなかったって。なにかのためになることがちゃんとできていたんだと。そのことを誇りに思う」

 振り返ったセツは、真っ直ぐにラジルを見た。

「――だからおれは、誇りをくれたおまえにもう嘘をつきたくない」

 なにかを決意した瞳。ラジルは言葉を挟むことができなかった。

「明日、城に着いたら宰相を尋ねてくれ。おれにそう言われたと伝えればきっと教えてくれる。……本当は、おれが言うべきなんだけれど、勝手には言えないから」

 明日。それは、惚れ薬の効果が最終段階に入る七日目だった。
 だからラジルなんとしても今日、少年とセツの決着をつけたくて、彼を囮にする強行策に出たのだ。
 七日間が終わればラジルはもう惚れ薬を試さなくてもよい。効果を打ち消す別の薬を飲んで、そして通常業務に戻ってしまう。そうすればもう、セツの傍にはいられないのだ。
 ここにきて突然放たれたセツの言葉にラジルは困惑する。

「あんたからは、言えないんだな?」
「……うん」
「わかった。なら宰相さまにお聞きする」

 セツの家は目前であるが、そこまで送り届けず今日はその場で解散となった。
 宿へ向かう道を歩み始めてすぐ、一度セツに振り返る。すると同じくラジルを見ていた彼と目が合った。
 しかし互いに視線を逸らし、互いの帰る場所に足を動かす。
 セツの言う嘘とはなにか。何故ここにきて宰相が絡んでくるのか。
 どう明日を迎え、そして別れることになるかと悩んでいたラジルだったが、すっかり悩みは書き換えられて、その夜は悶々と過ごすことになった。
 頭にかかる靄の中で時折、振り返ってラジルを見ていたあのセツが見え隠れしていた。

 いつも通りにセツを迎えに行き、他愛のない話をしながら城へと向かった。
 城に辿り着き、セツは自室へ、ラジルは宰相に会いに行くことにしてそれぞれ別れた。そのとき、セツは一度視線を寄越しただけでなにも言わなかった。やはり自分から告げることはしないようだ。
 ざわめく心を抑えつけて宰相に会いに行く。
資料部屋にいた彼は、ラジルを見るなりその場にいたすべての者たちを退室させた。
 人払いを終え、手にしていた開いた本を閉じて穏やかな笑みを浮かべる宰相ファジニールにラジルは深く頭を下げた。

「呪術師セツに言われてやってまいりました」

 ほくそ笑むファジニールにはすでにラジルが現れた理由を把握しているようだが、ここにきてはぐらかされては困ると、セツの名を出した。

「そうだと思った。まったく、仕方のないやつだな」

 どうやら宰相は王と同じく、セツに対しての偏見がないことをその口ぶりで知った。
 穏やかなその声音は、どちらかといえばラジルがセツの世話を焼きたい気持ちを知っている者のものだ。

「率直に伝えよう、ラジルよ」

 人の好さげな微笑みを崩さないまま、ファジニールは冗談を言うように軽やかに告げた。

「きみが飲んだ惚れ薬は偽物なのだ」
「……は」
「惚れた腫れたなどまったく関係のない、ただの滋養強壮薬だ」

 呆けるラジルを面白がるよう、宰相は目を細めた。

「言っておくが、セツの実力であれば真の惚れ薬を作ることができるだろう。だが、わたしが薬の効果を挿げ替えるように命じたのだ。そして陛下を欺け、とな」
「何故そのようなことを……陛下を欺くなど」

 あっさりと放たれた威力の十分な爆弾を与えられた衝撃から立ち直れぬまま、けれども戸惑いをひた隠してラジルは問いかける。

「きみもある程度の事情は聞き及んでいるのだろう。ならばわかるはずだ。これは陛下のためだと。王が庶民と恋仲などになれば、自由のない恋にどちらも不幸になる。ましてやその相手が同性の、男とすればなおのことだ」

 ラジルは押し黙った。

「まだ陛下の子を身ごもることが可能であれば、正妃は無理でも、平民の出としても妾として迎え入れることはできたかもしれない。そうでなくとも、公言すらできずとも内密に囲うことならば許されたはずだ。だが男ではそうはいくまい」

 緩やかに笑みを消していったファジニールは、窓に目を向ける。遠くを見つめる瞳は憂いを帯びていた。

「この国で同性婚は認められていないことをきみも知っているだろう。ただでさえアズウェル陛下は妃を娶っておらず、子もいない。その状況下で男を囲うなど反対の声はそこらかしこから上がることだろう。ただでさえ不器用な人だ。あの方は一人しか愛せないし、誠実であるがために正妃と真に愛する者の狭間で苦しむことだろうな」

 アズウェル王とファジニールは乳母兄弟であるそうで、幼い頃よりとても仲がよく、互いに大人になり国を導く立場になってもその信頼は厚いと言われていた。
 きっと今、アズウェルのことを思っているファジニールは、寂しげな目をしている。それは彼の人柄を誰よりも傍で見てきていて、パン屋の青年に対する王の強い想いを知っているからで、けれども王としての立場も理解しているからだ。
 彼はアズウェルの友としても、そして宰相の立場としても熟考して、その結果を出したのだろう。

「それにもし後宮に入れることになったとしても、それを望む男はそうはいない。二度と出ることはできないのだからな」

 この国の後宮は基本的には男子禁制であり、入れるとしても王を除けば宦官くらいである。そこに青年を住まわせるとすれば女たちの安寧のため、王の庇護を受けているといっても陰茎を切り落とすことになるだろうし、後宮入りするので理由もなく外に出ることは許されない。それは女であっても同じであったが、妃であれば公務などで外出する機会はある。しかし青年の存在は秘匿されるべきもので、彼が出ることは生涯ないだろう。
 数代前の国王のとき、後宮に男が入ったことがあったが、彼のことは周知の事実ではあっても口にはできなかったし、彼自身も一度たりとも後宮の外に出ることなく一生を終えたという過去もこの国にはあった。
 王はパン屋として働く彼を美しい、とラジルに言っていたことがある。生き生きと動き回る姿も好きなのだと、とても幸せそうに頬を緩めていた。しかし後宮に入ることになればそういったこともできなくなる。
 王は青年を後宮に入れるつもりなどなく、自分が彼のもとに通うつもりであるようだがそうはいかない。彼はまごうことなきこの国の王であり、なにかがあってはいけない身。今はまだ宰相の判断によって見逃してもらってはいるが、本来であれば護衛もつけずに外出するなど許されるはずもないのだ。
 となれば、王の進もうとしている未来は宰相の懸念している通りになる。
 窓の外の青空に向けられていたファジニールの視線がラジルへと戻った。

「ラジル。きみには一芝居うってもらいたい。このまま惚れ薬は効果があったと陛下に報告してくれ。そうすればあの方は喜んでかの青年に薬を飲ませるはずだ。しかし、実際はそんな薬ではないのだから効果はでない。いつまでも手応えがないことにあの方は焦るだろうから、なにか強引な手に出るようわたしが唆す。そうして二人の間に亀裂が入るようにして、そこで青年には惚れ薬の件を伝え、二人を仲互いさせるのだ」 

 ただ薬に効果がなかった、だけでは青年への王の気持ちが収まることはない。根本的に二人を離れさせるためだと宰相は言った。そのためには自らが悪役になるのだと。

「陛下を深く慕うきみには知られたくなかったが、きみだからこそ協力してほしい。頼めるか、ラジル」

 真っ直ぐに射抜いてくる意志の強さに、宰相の覚悟は本物であるのだと思い知らされる。
 王と宰相、王とラジル。それぞれの間の親密さには大きな違いがあるが、けれども王への想いに差はないと自負している。だからこそ、ファジニールの気持ちもわかるのだ。
 幸せになってもらいたい。恋をしているのであれば応援したいし、叶えてもらいたい。
けれどもアズウェルは国王だ。

「かしこまりました」

 騎士としてラジルは、友と国の平和な未来を望む宰相に深く頭を下げた。

 部屋に戻ると、本に視線を落としていたセツが顔を上げる。声をかけずともラジルに気がついたのはこれが初めてだった。
 いつもであれば数冊は読み終えているのに、今日はまだ一冊も積み重なってはいなかった。どうやら、ラジルと宰相とのやりとりを随分気にかけていたようだ。
 普段であれば出入り口の脇に立つところだが、今回はセツの前の席に腰を下ろした。
 じっと見つめてくる瞳に苦笑する。

「聞いた。初めから言っといてくれりゃよかったのに」
「宰相からは誰にも言うなと言われていた」

 内容が漏れては困るものなだけに、きっと宰相はセツにきつく口外しないことを言い聞かせていただろう。結果として、なにかあると匂わせる言葉は言ったが、セツ自身が宰相の計画を漏らすことはなかった。

「嘘をついていた――嫌いに、なったか?」

 それまでラジルの顔色を窺っていたセツは、不安になったのか手元にある開いたままの本に顔を俯かせた。

「ならねえよ。あんたが嘘をつかなくちゃならなかった事情もよくわかるし、責めるつもりもなければ嫌いになんてならないさ」

 ラジルの言葉に安堵したのか、胸を撫で下ろすようにセツの肩の力が緩まる。
 先程の言葉も、その姿も胸をくすぐられるラジルは、やっぱり可愛いもんだとセツを見つめながら言った。

「なあ、あの薬、惚れ薬じゃなかったんだよな」
「ああ。一応本物も用意しておいたが、使用はしていない」
「そっか」

 ラジルが飲んだものが惚れ薬でなかったのならば。この気持ちはなんだというのだろう。
 セツの行動ひとつひとつに反応して、ときに胸を弾ませたり、心配したり、気になって仕方なかったり。ただ一緒に寝ただけで、背中に触れられただけで身体まで反応した。セツを意識していたことは間違いない。
 だがそれらは惚れ薬のもたらす効果だと思っていた。だからセツのことばかり考えてしまって、面倒を見てしまったのだと。でもラジルはそんな効能の薬など飲んでいなかった。
 つまり、この七日間セツに抱いていた気持ちはすべてラジルの意志だった。誰のなんの介入もない、ラジルの本心だけだったのだ。

「――今まであんたのこと、誤解していて悪かったよ。それに、変にちょっかいかけてごめん」

 それは薬を飲む以前のことだ。セツに絡みつく過去と因縁を知れば、自分の態度がいかに子供で、そして間違えていたのかがよくわかった。
 偉そうに色々なことを教えてやる、と言ってなあなあになっていたが、まだそのことについて謝罪していなかったことがずっと気にかかっていたのだ。きっとセツは気にしないと思うが。

「別に、いい」

 案の定の反応のセツ。これまでも素っ気ない返事ばかりで、今だってそうだ。
 けれど以前までの拒絶もなければ棘もなく、意地を張っているように聞こえるわけでも、気取っているようにも見えない。
 それはラジルが理解したのもあるし、セツ自身が少し柔らかくなったこともあるのだろう。
 着実な二人の変化に、見えていく本来の彼の姿に、ラジルは密かな幸福を覚えた。

「なあ」

 セツが顔を上げて、真っ黒な瞳にラジルを収める。

「好きだ。あんたに惚れた」

 まったく表情を変えないセツは、二度瞬きゆっくりと口を開いた。

「――ほ、惚れ薬は飲ませていないぞ」

 顔は平然としているのに、動揺が珍しく声に出ている。その差に悶えそうになりながらも口元を緩ませる程度にどうにか収めた。

「ああ、飲んでない。でもそれなら開き直れるし、だからこそ自信を持って伝えられる。おれはあんたに惚れたんだってな」

 この芽吹いたばかり恋心はきっと薬の効果かと思っていた。それだけでなく、セツに対する思いのどこまでが影響されているのかと不安に思っていた。
 しかしラジルの心を操る薬などどこにもなかった。
 その事実に清々しいまでにラジルの心中は澄み渡る。そして気になっている、興味があるなどというどこか曖昧なものでなく、はっきりセツを好きだという気持ちだけがそこに残っていたのだ。

「……っ」

 真っ直ぐなラジルの言葉に、今度こそセツは顔に戸惑いの色を浮かべた。しかしそれは同性からの好意を向けられた嫌悪などではなく、単純に予想していなかった言葉に驚いているようだった。

「きっかけは薬を飲んだことだし、その影響だからっていう思い込みがあるかもしれないのは否定しない。でも、薬を飲んでいなかったんだって知ったとき、これまでの自分の行動に後悔はなくてさ。安堵のほうが強かったんだ。ああ、おれ自身があんたを気にかけていたんだってな。だからこそあんたに――セツに惚れたって言いたくなった」

 これまでなんとなく呼べずにいた名を口にすれば、セツはわずかに目を見開いた。
 だが、それはすぐに伏せられる。

「――おれは……まだ、そういうのはわからない」

 セツは戸惑いながら、ぽつりぽつりと答えた。

「おまえといるのは、きっと楽しいと思っている。安心する。でも、愛だの恋だのはわからない」

 これまで他人と接することが極端に少なかったセツが恋愛を知らないのも当然だ。それ以前に友すらいたのかも怪しいほどなのだから。
 ラジルに対するセツの態度を見ていれば、嫌われていないことはわかる。だが、セツ自身がそういった意味でラジルのことを見られるのかまではわからない。
 その答えを出せるのはセツ本人だけで、ラジルはそれを待とうとすでに心に決めていたので、曖昧な返事を聞かされても落胆はなかった。

「それでいいよ。あんたが変わっていく過程で、きっとそういう感情も知っていくことだと思うから。でもあんたとおれは相性がいいと思う。あんたは集中すると周りが見えなくなる性質だから世話を焼かれたほうがいいし、おれは面倒を見るのが好きだ。それに、セツのちょっと厄介な性格、どうも好みみたいでさ」
「性格?」
「捻くれているかと思いきや素直で、自分の言動がどう影響するかまるでわかっていなくてさ。つんと棘を構えていたのに、一度心を許せば無防備で」

 本当は寂しがり屋で、臆病で。人の反応を気にするからこそ無関心であることを心がけていて。そんな不器用なところも愛おしく思う。
 だからこそ思いきり甘やかしてやりたい。セツ自身が困ってしまうくらいにでろでろに優しくしてようやくラジルの気持ちが少しは伝わるくらいではないだろうか。彼はそれだけ、甘やかされ下手でもあるのだ。
 甘やかす合間に少し意地悪をしてやりたいと思うのは、まだラジルも若いからなのだろうか。人目を盗んで口づけをしたらどんな反応をしてくれるだろうか、などとつい考えてしまうのだ。

「答えは急いで出さなくたっていいんだ。今まで通りべったりは無理だけど、これからもおれはあんたの傍にいるんだからな。合間を見て会いにくる。そうしている間におれを愛せると思えば頷いてくれればいいし、そうでなかったのなら友にしてくれればいい。振り向いてくれないなら、その……少しはつらいけどさ。あんたには幸せになってもらいたいから、その手伝いをさせてくれよ」
「それで……本当にいいのか? おれはおまえになにも返せない」
「あんたが笑顔になれる場所にいてくれるならそれで十分だ」

 愛を向けるからには、なにかを返してほしいと願ってしまうのは仕方がないことだ。だから、そんな要求くらいはしても罰は当たらないだろう。
 普通の相手であればそれはささやかな願いであるだろうが、一度もセツの笑顔を見たことのないラジルにとっては案外難しいものなのだ。

「――待っていてくれ。いつか、答えをちゃんと出すから。ちゃんと自分の気持ちを知るから」
「ああ」

 ラジルの想いをきちんと受け止め、そして自分の心を向き合おうとしてくれている。その事実だけでもラジルにとっては嬉しかった。
 伝えたいことを伝えられた。そのことに一息つくも、しかし問題が後ひとつ残っている。
 部屋に戻ってくる途中考えていたことを、セツに打ち明けた。

「なあ、おれ考えたんだけどさ。陛下に本当のことを話さないか?」
「惚れ薬のことか」
「ああ。きっと陛下のことだ。落胆なさるだろうが、宰相さまのお気持ちもよくご理解されることだと思う。それに――」

 じっとセツを見つめる。以前よりは多少艶のよくなった肌に、判断できるようになってきた表情に、恋しく想う気持ちを噛みしめながらラジルは言った。

「やっぱり、本物の恋でないと幸せにはなれない。陛下は、後悔は覚悟の上だとおっしゃっていたが、初めからそうわかっていて本当に満足のいく幸福を得られるとはどうしても思えないんだ」

 以前に王が語っていた、恋する彼のこと。彼とともにいたときのことを語っていた王は楽しそうで、よき友人に巡り会えたのだとそのときは思っていた。まさか恋慕を抱いていたとは思っていなかったが、そう説明されて納得するほどに王は幸せそうだったのだ。
 だが、想い人の気持ちを踏みにじってでも諦めたくはない言ったときの王の表情はあまりにも切なくて。
 薬の効果が真に発揮されると言われていた七日目の今日を迎えるにあたって、ラジルは残された短い時間で随分考えた。
 そして、本当は今日セツに頼もうと思っていたのだ。
 また惚れ薬を飲ませてもらいたい――と。
 実験の成果を知るために必ず、今効いている薬の効果を打ち消すものを飲まねばならない。だが結果を伝えたその後にまた惚れ薬を飲むことはラジルの自由であると考えた。
 薬によって気持ちが操作されている部分はあっても、きっとラジルの本当の気持ちもセツに向いていると信じていた。けれども薬の影響がなくなりまったく同じ気持ちになるとは限らない。だったらまた薬を飲み、確かな恋心にしてしまえばいいのだと考えたのだ。
 今となってはそれも無駄な悩みとなってよかったし、セツに想いを伝えられたからこそ愚かな考えだったと思う。だからこそ自分の弱さを知ったのだ。
 ラジルはただ自分の本心とセツと、向かい合うことから逃げようとしていただけだ。自分だけが楽な方向へと。
 だからこそ王が薬に希望を託そうとする気持ちもわかるし、だがそうしないほうがいいと引き留める思いもある。セツに惹かれたのが惚れ薬の効果でないと知ったときのラジルの胸に湧いた安堵が、そう教えるのだ。

「……うん。おれもそう思う」

 ぽつりと呟くよう、セツは言った。

「もし、ラジルがおれを好きになってくれたのが、薬の効果だったなら――それでもきっと嬉しかったと思う。でも信用はしなかったし、こうやっておまえに心を開くことなんてなかった。おまえがくれてくれる言葉はすべてまやかしだから。いや、きっと嬉しいとも思わなかっただろう。今のおれだからそう感じるだけだ」

 話すことが得意でないセツが、言葉をひとつひとつ選びながらラジルに伝えようとしている。
 迷いながらであるからか、普段よりもさらに小さな声を聞き逃さないよう彼の声に耳を澄ませた。

「おまえ自身がおれを選んでくれたとおれは知っていたから、だからその言葉を信じられた。心からおれに変れると言ってくれたから、だから頑張ろうと思えた。本当の言葉に勝るものはない。偽りをささやかれても、きっと心はより大きな空洞を生むばかりだったろう」

 それは薬を飲んだ側のラジルでは知り得ない、より王の立場に寄り添った者の意見だ。そしてセツ自身も強くラジルによい方向へと影響されたことを伝えていて、少しだけ嬉しくなった。
 セツは開いたままだった本を閉じ、そっとその表紙を撫でた。

「――呪術師というのは、言の葉も扱うものなんだ。でもおれは、言葉が上手くないから。できなかった。使えないからこそその力を信じてはいなかった」

 でも、とセツは顔を上げる。

「今なら少し、わかる。おまえがおれを好きだと、そう言ってくれて、とても嬉しかった。胸が熱くなって、きゅうっと苦しくなって、でも嬉しくて。喜びに身体が震えそうだった。あんなのは初めてだった」

 ラジルは衝撃に言葉を失う。

「ああ、これが幸せなんだって、思った。おまえの言葉がおれの心に影響を与えたんだ。あれが言の葉の力なんだな。だから王にも真の言葉を得て欲しいと、そう思う。そうすればきっとおれのように温かい気持ちになれると思うんだ」
「――っ」

 ふわりと微笑むセツ。初めて見る彼の笑みは優しくて、柔らかくて、穏やかで。心からの幸福を噛みしめているようで。
 堪らずラジルは両手で顔を覆った。

「ど、どうした? 変なことを言ったか?」
「違くて……あんた、十分に力を使えているよ」

 本当こんな格好悪い姿見せたくなどなかったが、不安がるセツのため、片方の手だけは外して彼を見た。
 セツの直球な言葉に顔を真っ赤にするラジルを、初めはきょとんとして見ていたセツであったが、やがてその表情を笑顔に変える。
 ――もしかしたら自覚がないだけで、セツの答えはもうその心にあるのかもしれない。
 ラジルもつられて、二人で笑い合った。


 おしまい