簡単な料理でしかなかったが、セツは十分に満足したようだ。
 おいしい、すごいと感心したように口にしては、用意された量をなんとか食べきった。普段セツが食べているという量よりも多めにしていたので、すべては食べきれないかもしれないと本人から言われていただけに嬉しかった。
 食事を終え、片づけも終わり、いざ休もうとなったときに問題があったことにラジルは気づかされた。
 寝台がひとつしかなかったのだ。独身用の部屋であるから当たり前なのだが、すっかり失念してしまっていた。

「おれはそこら辺でいい。どうせいつも床で寝ているから」

 本を読んでそのまま億劫がって適当な場所で横になってしまうらしいセツは、とくに気にした様子もなく提案してきた。

「いや、あんた病み上がりなんだからしっかり休めよ。誘ったのに気づかなかったおれが悪かったんだし、おれが床で寝るから気にすんなよ」

 自分を蔑ろにするセツの意見など始めから聞く気などないラジルは、早速毛布でも借りに行こうと部屋を出ようとする。
 しかし、服の裾をセツが掴んで引き留めた。

「なら、一緒に寝るか? 寝台は広いみたいだし」

 確かに、体躯のよい騎士が多く、また寝ているときでさえ体力に溢れ暴れ回るような寝相の若者もいるので、彼らに配慮していくらか大きめには作られている。
 大の男が二人並んで寝るのには窮屈であるが、小柄で痩身のセツであれば問題はないだろう。
 しかしラジルは大いに動揺してしまった。

「えっ、いや、あの。それはほら、やっぱり狭いだろうしさ、暑いだろうし、別に一緒に寝なくても――っ」

 早口になるラジルのとり乱しように、すっとセツは目を伏せた。
 そのときようやくラジルは対応に失敗したことに気がついたが、もう遅い。

「……気が回らなかった。嫌ならはっきり言え。別にどうとも思わない」

 突き放すような言葉はセツが傷ついた証だった。
 あれほど触れられることを拒絶していたセツが、自ら誘ってくれたのに。それだけ気を許してくれたというのに、これではまた以前の二人に戻ってしまう。
 そうなりたいわけではなかった。別に誘いを断ろうとしたのはセツのことを恐れているわけでも、嫌っているからでもない。むしろ、その反対で。
 ただラジルに自信がなかったのだ。その詳細を説明するわけにもいかず、する勇気もなく、ラジルは必死にセツに振り向いてもらえる言葉を探した。

「いや、その……さっきも言った通りあんた病み上がりだろ? おれとじゃゆっくり眠れないと思って。あんたが本当にいいって言うんなら、少し狭くはあるけれど一緒に寝るか?」
「別に無理はしなくていい」
「無理じゃないって。あんたのほうはいいってことなんだよな? じゃあもう遅くなっちまったし、さっさと寝ようぜ」

 うまく誤魔化せた気はしなかったが、半ば強引にセツの背中を押して寝台のもとまで導く。先に上がらせて、その後にラジルも続いた。
 やはりいくらセツが小さいとはいえ二人並ぶと狭い。そこで二人は同じ向きになって寝ることにした。
 ラジルはセツに背を向け、枕元に置いた明かりの手燭を息で吹き消す。

「おやすみ」
「――おやすみ」

 ラジルが先に言えば、セツもそれに続く。
 慣れた寝台の上であるのに、どうも落ち着かない。目を閉じてみたもののどうにも背後のセツが気になって仕方がなかった。
 セツはもう寝てしまったのだろうか、と考えているとき、囁くような声をかけられた。

「なあ、もう少し、傍にいってもいいか?」
「えっ……せ、狭いか?」
「そういうわけじゃない。ただ、なんとなく。駄目か」

 すぐにでも諦めようとするセツに、ラジルは慌てて否定する。

「違う、駄目じゃない。自由に寝てくれていい」
「……うん」

 そっと、ラジルの背にセツの手が触れた。その瞬間どきりと心臓が飛び跳ねる。
 手の触れる辺りに擦り寄るもうひとつの感触があって、それがセツの額だと気づいたときには変な声を上げそうになった。

「――温かいな」

 ほうっと安心したようにぽつりと呟いたセツは、ラジルの心臓の高鳴りなど気づいていないのか、そのまま静かな眠りへと落ちていった。
 穏やかな寝息が聞こえてくるが、それでもラジルは密着するセツを思うと動揺が収まらない。
 ラジルよりかは低い体温であるものの、それでも隣合っていれば彼のぬくもりは十分に伝わってくる。そして、いかにセツが無防備に寝ているかもわかってしまう。
 セツの信頼を得ているのだろう。
 それはとても嬉しいことだった。常に自衛の棘を纏っていた彼が、自ら鎧を脱いで接してくれているのだから。信用するに値する男だと判断してくれたのだから、光栄に思う。
 しかし今、ラジルは薬の効果によってセツに惚れ始めている。
 恋をしようとしているのだ。――いや、認めよう。もうラジルはセツを気にかけている。
 彼にもっと美味しいものを食べさせたいと思うし、色々教えてやりたいし、未だまみえたことのない笑顔を見せてもらいたいと願ってしまう。もっと多くの表情を知りたいとも。
 これまで頑なだったセツの不意に見せる隙だらけの姿はあまりに無防備で、だからこそラジルが構える間もなく心に直接触れてくる。そのときの衝撃が、純粋な庇護欲に影を差し、男としての欲望を揺さぶるのだ。
 そんな邪な想いを抱える相手と一緒に寝ることがどういう意味であるが、セツは理解しているのだろうか。
 いきなり襲いかかるような自制のないけだものであるつもりはない。だが、惚れ薬の効力がどれだけであるかもわからず、理性の強ささえも変えてしまうものであればどうなるかはラジル自身も予想がつかない。
 そこすらも教えてやらねばならないのか。だが言わねばラジルの身が持ちそうにないし、セツ自身も危険となる。
 しかし告げることによって彼が離れてしまうのが怖かった。
 セツとて薬の効果を試すということは、そういうことも覚悟の上なのかもしれないが、どうにもそのことを忘れているのではと思える。ようやく色々尋ねることができる友ができて浮かれているのだから。
 それどころか周囲とまったく交流のなかった彼のことだ。もしかしたら恋愛と性欲が結びつくものだということすら知らないことも考えられた。
 折角得られた信頼が失われてしまうことも、ここまで縮まった距離が離れていくのも、体温を、息遣いを感じられなくなることも寂しい。
 しかし、欲望は抑えきれそうにない。
 これまで王の傍にいくことだけを願いただひたすらに突き進んできたラジルは、恋に目を向けている余裕はなかった。念願が叶ってよりいっそう仕事が楽しくなってしまったので、そういった行為すらすっかりご無沙汰になっていたのだ。
 これまで経験がないわけではなく、半端に身体を重ねることの心地良さを、他人の温もりの心地よさを知っているからこそ、気にかけている相手が隣にいる状況は非常にまずい。
 せめて少しでも距離を置き、冷静をとり戻そうと、ラジルはそろりと身体を離そうとする。

「……ん」

 ラジルが離れそうになったのを感じとったのか、セツが追いかけくる。ゆるくではあるが服を握り、離れたくないとでも言うように顔を押しつける。
 これにはもうラジルもお手上げで、とうとう我慢のできなかった自分の息子を責めてやる気にもなれなかった。
 寝ているセツに触れていたずらをしたら。彼は一体、どんな反応をするだろう。
 多くの書物を持ち、その分の知識を蓄えているセツであるが、はたして性の知識はいかほどのものだろう。ラジルに迫られれば戸惑うか、それとも赤くなるか、わけがわからずきょとんとしてしまうのか。もしくは恐れるか、怒るか――

「……はは、変態くせえな」

 自嘲気味に呟いたとしても一度熱のついた身体は収まらず、ラジルはそろりと膨れ上がった中心に手を伸ばす。
 背後では相変わらず健やかな寝息をたてながらセツが眠っている。この瞬間に起き出したりしないだろうなと緊張しながら、そろりと服の中からとり出した。
 見えもしないセツの寝顔を想像しながらゆっくりと上下に扱く。
 起きださないセツに安堵して、次第に手の動きは速さを増していく。

「――っ」

 溜まっていたこともあり、呆気なくラジルは吐精した。
 掌で自分の吐き出された欲望を受け止めながら、射精後のすっきりした気分も感じないままむしろ心に靄を広げて唇を噛みしめる。 
 はたして、どこまでが惚れ薬に影響されているのだろう。
 彼の孤独を癒したいのも、もっと健康になってもらいたいと思うのも、いつか笑いかけてほしいと願うのも。こうして傍にいるだけで反応してしまうのも、緊張してしまうのも、そのすべてが薬によるものであるのだろうか。
 だとしたら。惚れ薬の効果が切れたならば、自分はセツにまったく興味がなくなってしまうのか。それでセツが離れてしまっても、当然だと受け入れてしまうのか。
 ラジルの本心は、どれだけセツのことを想えているのだろう。
 縋りつく手から逃れて、ラジルは寝台の上から降りる。
 幸いセツが起きることはなかった。
 手を拭いたラジルは振り返り、ようやくセツの寝顔と対面する。
 自分よりも年上とは到底思えない幼い寝顔に頬が緩むとともに、なんだかとても泣きたい気持ちになった。

 翌日、仕事を終えたセツはいつものように家に向かって歩いていた。普段と違いがあるとすれば、倒れる前よりも今のほうがいくらか肌艶がいいことと、ここ最近ずっと傍にいたラジルが隣にいないことだ。
 相変わらずの無愛想な表情はそのままに道を行くセツを、建物の影から一人の少年が睨む。彼はラジルの護衛があってもなおセツに危害を加えたあの少年であり、なおかつ以前からも石を投げつけたりしていた。
 今日もまた、あえて選んだ鋭利な角のある石をその小さな手で強く握りしめる。
 セツの周囲に誰もいない瞬間を待ち続け、そして町人も誰もいなくなったところで大きく腕を振りかぶった。
 ――が、その石が放たれることはなく、少年の腕は隠れていたラジルによって拘束された。

「ようやく捕まえたぞ」
「はっ、離せ!」

 少年は抵抗するが、現役騎士の、その中でも一握りの精鋭しか選ばれない王付きの騎士に敵うはずもない。
 難なく拘束されて、そのままセツの前へと押し出させられた。

「くそっ、離せよ、離せ!」
「大人しくしていろ。きみには聞きたいことがあるんだ。これ以上、手荒な真似はしないから」

 落ち着かせようと声をかけるが、それでも少年は暴れた。しかしどう足掻いたところで解放されることも、逃げ出すこともできないと悟り、くそ、と言葉を吐き捨てながらセツを睨んだ。
 恨みの籠った眼差しにセツが動じることはなく、セツは無感情な瞳で少年を見つめ返す。

「なあ、きみにはセツになんの恨みがあるんだ?」
「こいつが呪術師だからだ!」

 ラジルの問いかけに、少年は鋭く返答する。

「父ちゃんは呪術師に騙されて、お金をとられて店を畳まなくちゃならなくなった。借金がいっぱいになって、返せなくて、それで、それでおれたちのために無茶して働いて……っ」

 少年は俯き言葉を詰まらせる。石が収まる拳を力一杯握り締め、ぶるぶる震わせる。
 顔を上げると、射抜くようにセツを睨んだ。

「父ちゃんは呪術師のせいで死んだ! こいつらがいなければ、父ちゃんは大事にしていた店を手放さなくて済んだし、死ぬことだってなかったんだ!」

 腹の底からの強い怒り。それでもセツは表情を変えなかったが、だがラジルは彼の指先がぴくりと動いたことに気がついた。
 その仮面の下に、どれだけの感情を押し込めているのだろうか。父を亡くした少年の恨みを受けてなにを思っているのだろう。
 感情を剥き出しに、己の身に、そして父に起こった悲劇を叫ぶ少年は哀れであった。彼にとってそれがどれだけの不幸で、どれだけの心の傷になったかは計り知れない。
 しかしラジルは、子供でもなく、かといって大人になりきることもできなかったセツもまた哀れだった。一言も発さずにただ押し黙る彼を抱きしめたくなる。彼の耳を塞いでしまいたい。
 けれどそれではなにも変わらない。少年は恨みを抱え続け、セツはただそれを受け入れる。そんな歪な関係が終わらない。
 互いの不幸で繋がる連鎖を断ち切るために、ラジルは今ここにいるのだ。

「きみの父を死に追いやったのは、ここにいる呪術師か?」
「それはっ……違う、けど――でもこいつだってあいつらの仲間だろうが!」

 冷静なラジルの問いかけに、少年は一瞬本来の子供である姿を見せるが、すぐに眼差しを復讐者に戻す。

「――きみの父が不幸に見舞われたことには同情をする。だが、それだけですべての呪術師が同じだとは思わないでほしい」
「同じだよ、そいつだって、どんなやつだってみんな!」
「ならきみは呪術師をどれだけ知っている?」
「金に目の眩んだ詐欺師だよ、人殺しだ!」

 少年は噛みつくように答えた。

「なら彼が城で呪術師としてなにをやっているか、知っているか?」
「呪いができるとか、心の声が聞こえるだとか、精霊さまと話ができるなんて言って国を食い物にしているんだろう!」

 ラジルは押さえ込んでいた少年の手を離す。代わりに正面に回り、彼の肩を掴んで、目線を合わせるためにしゃがみ込んだ。

「違うな。少なくともきみの知っている呪術師とは。彼は主に薬を作っているんだ。それは病気を治すためのものであったり、怪我を早く回復させるためのものであったりするんだ。ここ近年、新しく開発された新薬の大半は彼が開発したものだと知っていたか?」

 ラジルの言葉に初めて少年は動きを止めた。思わぬ情報であったのだろう、怒りに満ちていた表情に動揺が広まっていく。
 素直な子なのだと、ラジルは少年の本来の気質を知った。だからこそ余計に父を騙した呪術師が許せずにいるのだ。

「もちろん、呪術師の名の通りあまり口外できないこともやっている。人のためになる薬ばかりとも言わない。だが少なくとも彼は多くの人の役に立ったよき呪術師なんだ。まじないとは呪いだけでなく、相手のためになることもある。決して心の闇を招くためのものではない」

 少年は唇を噛みしめ俯いてしまった。

「きみの父を騙したその呪術師を許せとは言わない。恨んだままでいい。だが、道を違えるな。きみが恨む者と同じになるな」

 頼りない細い肩をラジルが軽く叩くと、憎しみと葛藤する少年が、知らない道に放り出されたように心許ない顔をしていた。
 ラジルは彼にセツのほうを向くように促した。
 初めてセツに、恨みの籠らない少年の視線が向けられる。

「きみが投げた石で彼は以前に怪我をした。この間だって、きみが水をかけたら、風邪を引いてしばらく寝込んでいた。今日だって本調子ではないんだ」

 ラジルが初めて護衛に着いた帰り道の出来事は未然に防いだものの、やはり以前から少年の攻撃は度々あったらしい。それで石が頬を掠めて血が出たことがあったそうだ。
 石を投げた少年をラジルが追いかけるのを止めたように、セツは少年を庇っているようで、過去のことだってラジルが問いつめ渋々口を開いたことだった。

「きみは呪術師を恨んでいるだろうが、彼は当事者ではないし、呪術師という単なる肩書き以前に人間だ。きみと同じ、生きている者なんだ。石が当たれば肌が裂けるし、血が流れる。こぶだってできる。風邪だって引くし、苦しむし、きみの父のように死んでしまう」

 淡々と告げられる真実を受け止めた少年は、次第に顔色を失くしていく。怒りに燃え上がっていた心に水をかけられ、言葉のひとつひとつが重たくのしかかっているようだった。
 セツは少年の好きにさせればいいと言った。これまで浴びせられた暴言の数々から、少年の抱える闇を知っていて、同情したからだ。
 だがラジルはそれでよしとしない。
 父の命の重みを知る彼が、本当は無関係であるセツの命を奪ったとき、本当に後悔しないだろうか。今しなくとも将来大人になったとき、自分の犯した事実の重みに苦しむことはないだろうか。それどころか彼の素直な性分が歪み、平然と他人に暴力を振るえる人間になってしまわないだろうか。
 ラジルが少年時代に叱られ気づかされたように、少年にも誰かが伝えなくてはならない。そのために大人は多くの経験を積み、子供たちへ知っていってもらうのだ。

「本来であれば言いがかりであるきみの憎しみを、悲しみを。それでも彼は受け入れてくれた。それは誰しもできることではない。きみはやってもいない粗相で叱られたとき、理不尽に思うだろう? ましてやそれが誰かきみに濡れ衣を着せたのならなおさらだ。だが彼は黙ってくれていた。それが、きみの恨んでいる呪術師の一人であるはずの、彼の優しさだ」

 だがそれはセツの過ちでもある――思いのすべてを口にすることはできなかった。
 少年は自らの意思でセツに振り返った。その瞳からは涙が零れていた。

「でも、でも父ちゃんは……っ」

 セツはついに小さく口を開いた。しかしかける言葉が見つからなかったのか、すぐに唇を結んでしまう。
 もう少し、セツが他人との接し方を知っていれば、少年のことを誰かに相談しただろうか。そうすればセツも彼も、もっと早くに和解できていたのではないだろうか。
 だって、どちらもわからないだけだったのだ。
 父を失った悲しみを、父を奪った者への憎しみを、すべてを抱えるには少年は幼くて。そんな彼に道を示してやるには、セツはあまりにも孤独で。
 本当は自分が間違っているのだと、きっと少年はわかっていた。セツもこれでは解決しないと知っていた。それでも自分を止める術を知らず、かける言葉が浮かばず、ただ互いに傷つけ合うしかできなかった。
 ついには嗚咽に肩が跳ねる少年に、ラジルは言った。

「きみの父は悪人の欲望で殺された」
「――っ」
「だから君の怒りは当然なんだ。その悪行を働いた偽物の呪術師を許せない、きみの正義を忘れるな。けれども彼の優しさも覚えていてほしい。そしておれが教えたことも忘れないでくれ。そうすればきっときみは大事なことを知る大人になれる。きっと父さんにも胸を張って報告できるぞ。正しい道を選べる男になれたってな」

 ラジルが小さく微笑みかけると、いよいよ少年は声を上げて泣き出した。ラジルはまだ小さな身体を抱きしめる。
 ラジルと大泣きする少年を、セツは一人ぽつんと立って見つめていた。


 ―――――