丸一日寝込んでようやく起きたセツだったが、元より衰弱していた身体はそれだけで回復することはなかった。
 セツが歩けるようになるまでさらにもう一日かかった。その間どうも彼のことを放っておけなかったラジルは宿舎に戻ることもせず、部屋の掃除をしつつもつきっきりでセツを介抱したのだった。
 本当ならばあと後一日、しっかりと静養させて体調を整えてやりたかったが、急ぎの仕事があるとのことで仕方なく出勤を容認したが、それでもラジルは監視の目を緩めることはしなかった。休憩をしっかりと挟めて、ときに水分を摂らせる。食堂で食べるのはまだセツが嫌がったため、昼食は二人きりで部屋で摂ることにした。
 ラジルのパン粥を食べたあの日から、少しずつではあるがセツの食事量は増えていった。それでもまだ微々たるものであるが、これからもラジルが見張ってやればきちんと三食摂り、健康的になっていくことだろう。
 匙の持ち方を教えてやった初めのうちはぎこちなかったが、すぐに慣れたセツは、数日前までは子供のような握り方しかできなかったようには見えないほど滑らかに動かせるようになった。その成長は見ていてとても喜ばしかった。
 食堂の食事を口にしたとき、セツが美味しいと言ったときには少しだけ涙ぐみそうにさえなったものだ。
 家での療養中、セツはラジルに自分の過去を語ってくれた。
 本当の両親は知らず、気がつけば孤児の子供らとともに行動をしていたこと。そのとき呪術師であった今は亡き師に才を見初められ、拾われたこと。
 呪術師はセツに己の持つすべての知恵を与えたが、人としての生き方を教えることはなかった。彼自身もまた不遇な少年時代を送り、他人との接し方も、身の振る舞い方も、匙の持ち方さえも知らなかったからだ。本から得た知識は豊富であったが、人との関わりで学んでいくものはまるで取得していなかった。
 だが師は優しく穏やかな人であった。血の繋がらないセツを我が子のように可愛がってくれて、町の子供たちに呪い屋と苛められて泣いたときには静かに寄り添い慰めてくれた。不器用で寡黙な人ではあったが、その手はいつだって柔らかくセツに触れていた。だからセツは師が大好きだった。
 セツは与えられた知識をすべて自分のものとし、また書によって得た情報もその頭の中に貯蓄していくことにとても優れていた。師はとくに薬学が堪能で、彼は惜しむことなくセツに自分の持つすべてを教えてくれた。
 新しい情報を得ては実験をして薬を作り、効果を試しては試行錯誤を繰り返して。セツはただひたすらに己の知識を深めていくことに没頭した。同い年の子は町を駆け回っていたが、セツを誘う者など誰もいなかったし、セツもいつだって本に囲まれ、外の世界になど見向きもしなかった。
 そうしていく間にセツは若いながらに実に優秀な呪術師になっていたのだ。
 王宮の呼び出しに応じたのは、師である呪術師が亡くなってからだったという。その頃には作り出す薬の効果の高さからセツは評判の呪術師となっていた。その噂を聞きつけ王宮はセツの実力を測り、そして若き彼の才を認めて召し抱えたのだった。
 寡黙であった師以外の人との触れ合いを知らなかったセツは、初めの頃こそラジルの言葉はすべて無視していたが、倒れて以降、彼の中で変わりたいという願いが生まれたのか、声はないが小さく頷きを返すようになった。休憩を促せば素直に本を閉じ、少し眠れと言えば大人しく横になる。ラジルの言葉に応じるその姿に、頑なだったセツが心開いてくれたことを実感できて、ラジルの心は温かな気持ちに満ち溢れた。
 しかし、問題はそう簡単にすべて解決するはずもない。
 茶を頼んでいた侍女が顔を出し、机に向かい合って座るラジルとセツにそれぞれ杯を置いた。ラジルが礼を言うと、彼女は小さく微笑んだものの、視界に入るセツを気にしているようだ。
 セツが紙面から顔を上げ、置かれた杯に目をやる。たったそれだけのなにげない動作であったが、侍女はやや顔を引きつらせながら足早に部屋を後にした。

「なにかをしてもらったら、ありがとうって言えばいいんだよ」

 彼女が閉じた扉を見つめているセツに、ラジルはそう教えてやった。しかしセツは目を伏せる。
 ラジルにはわずかに心を開いたセツであったが、それ以外の人間はまだ駄目なのだ。移動の際も室内である今も相変わらず目深くローブを被っているし、当然話かけることもしなければ大して反応も見せない。
 確かに、それでもいいのかもしれない。だがセツは自ら選んで現状になってしまっているわけではなく、選択をすることもできずにただ流されているだけだ。
 それならば人と触れ合うことを知り、それから他人を拒絶するかを選べばいい。そのためにはまず、他人との交流が好きか嫌いか知らなくてはならないのだとラジルは考えた。
 ならばまず、どうしてそう他を寄せつけぬ雰囲気を出しているのか、自ら離れていくのか、その理由をセツに尋ねてみる。

「なんでそう人と距離を置こうとするんだ? おれのときだってそうだったよな。ちょっかいかけられているならまだしも、普通に話しかけても反応すら返さないのは、いくらなんでも失礼だぞ。それにそうされたら誰もあまりいい気はしないものだ」

 少し無遠慮な言葉を使った自覚はあったものの、はっきりと聞かねばセツには通じないような気がして訂正はしなかった。

「だって、みんな嫌そうにするじゃないか。先に逃げたのはみんなのほうだ。話しかければ怯えられた。鬱陶しがられた。戸惑われた、疎まれた。ならお互いにとって一番いいのは、おれが関わらないことだろう」

 淡々と話すセツの声にも、その表情にも変化はない。けれども本に置いた手が強張っていた。
 これまでであればきっと気づけなかった、見えづらい真実。それをしっかりと紫の瞳に収め、ラジルはセツの言葉を否定する。

「――それは勘違いしてんだよ。こう言っちゃなんだが、呪術師ってのには根強い偏見がある。噂じゃ指先から自在に毒を出せるとか、人に触れずに呪い殺せるとか言うんだぜ。人の心を読みとれるだとか、異形のものを飼っているだとか、森羅万象を操ることができるとも言われている。でも誰もそれの真偽を知らない。おまえらがなにをしているやつらなのかわからないんだ。知らないから、だから怖いんだよ」
「わからない。知らない……」

 セツはラジルの言葉を小さく復唱する。

「そう。それにおまえいつも顔隠れているし、愛想はないし、なに考えているかわからないし。ただでさえ得体の知れない呪術師であって、さらに交流できない相手を恐れるのは当然だろう」

 よくよくセツの役割を聞いてみれば、呪術師とはいっても彼は薬師に近い立場であった。
 確かに毒となるような物騒なものや、人の心を操る怪しげなものなど開発はしているが、なかには人のためになる薬もある。それをラジルは、同じ城内で勤務していたのにセツから聞くまでまったく知らなかった。ならば大抵の者は知らないことになるし、市井の人間であればなおさらだ。
 だが、説明されればそんなものか、と思った。噂のようなおぞましい姿を持つわけでもないし、セツは人を呪うことだってできないという。

「あんたが呪術師である以上、どうしたって偏見の目に晒されるんだ。それは不幸で、哀れだとしか言えない。でもその状況に嘆くばかりじゃ駄目だ。なんのためにその口はある? なんのためにあんたは賢いんだ? 自分はこういう者だって、怖くないんだってまずは訴えてみろよ。誰だって人のことなんてちゃんと見られてないんだから、言ってくれなきゃわからないこともあるんだ」

 セツは顔を上げ、真っ黒な瞳でラジルを見た。それに吸い込まれそうだと思う。
 彼はその目でこれまで多くの書物を読んできた。けれどもこの瞳に収められた者はどれだけいるだろう。
 もったいないと思う。真っ直ぐな眼差しは素直で、純黒で、とても美しい。それなのにそれを知る者はきっとほんの一握りだ。

「おれはあんたのこと、少しは知ったよ。ただ知識が偏ってるだけの不器用なやつだって。呪いなんてかけられないし、ただの勉強好きだし、身体なんてひ弱でちょっと水ひっかけられたくらいで風邪引くし。まったく怖がる必要なんてないってな。だから発言することは無駄じゃない」
「おれが、怖くない……?」
「むしろほっとけないな。すぐに飯も抜くし水も摂らないし、同じ体勢のままでいてこっそり身体を痛めているし」

 わざとらしく肩を竦めたラジルの冗談は通じたらしく、強張っていたセツの指先がそっと解けていく。

「むずかしいなら挨拶だけでもいい。それができそうにないなら、それならおれの言葉の後に続けばいい。自分から言うよりも簡単だろ?」
「……うん」

 今まで頷きばかりが返ってきていた。だが今は、しっかりとセツの声が聞こえた。
 声にしろ、というラジルの言葉を今から守ろうとしているのだ。
 健気なその姿勢に、きゅんと胸が締めつけられる。
 はっとして、ラジルは自分の胸を押さえた。
 ――な、なんなんだ、今のは。
 ラジルの困惑など気づかぬセツは、侍女の淹れてもらったお茶をそうっと啜るが、突然むせた。
 このとき初めてラジルは、セツが極度の猫舌であると知ったのだった。

 定時の薬の報告に呼ばれたラジルは、第一に王に謝罪をしようとした。

「この二日間の報告のことなのですが――」
「よい。事情は聞いている。それよりもセツはもうよいのか」

 しかし王はみなまで言わせず、それどころかセツを気遣う言葉を出した。

「まだ全快とはいきませんが、仕事ができる程度には回復いたしました。後は無理をしないよう、わたくしのほうで見張っておきます」
「そうか。それは頼もしい。あやつはどうも勘違いをされやすいようだが、とても純粋な子なのだ。わたしの立場上あまり気にかけることができない分、ラジルには仲良くしてやってほしい。無論、これは命令ではないぞ」

 茶目っ気に目尻を和らげた王に、つられるようにラジルの頬も緩む。凛々しい姿もいいが、こうしたふと瞬間に見えるアズウェルもラジルは好きだった。

「ところで、薬の効果はどうなっているだろうか。今日で五日目だな」

 ラジルは思わず黙り込んでしまった。
 思い出すのは、先程のセツの様子と、きゅんと締めつけられた己の心。

「……少しだけ。ほんの少しだけ、効いてきたかも、しれません……」
「おお、そうか! 最終的な結果が楽しみだな」

 まるで友に笑いかけるような無防備な王の笑みはとても嬉しかったが、どうにもセツが頭から離れない。
 彼が笑うときは、どんな顔になるだろうとまで考えてしまって、慌てて首を振って王に不思議がられてしまった。

 普段通り早くから自宅に帰ろうとするセツを引き留めて、ラジルは自分が住んでいる宿舎のほうへと彼を連れていった。
 途中出店で食料を買っておく。宿舎内に共用の簡易的な調理場があるので、そこでラジルはセツと食べるための夕飯を作ってやった。
 大抵の者は宿舎に併設されている食堂で食べるので、幸いなことに調理場はラジルたちだけだった。人の目を気にしないからこそ、セツも周囲に気遣うことなく調理中のラジルの傍を落ち着きなくくっついて回る。
 セツへの偏見が根強いのは知っていたので内心でこっそり幸運に安堵した。誰にも鉢合わせせず部屋まで連れていくことなど不可能であるし、なにかしらの噂をされるであろうことはわかっていたが、せめて反応が見てしまえる公共の場所にはあまり長くは留まらせたくはなかったのだ。
 本当は連れてくることにかなり迷いがあった。しかし本調子でないセツに長距離を歩かせ帰らせたいとは思えなかったし、大した調理器具のないあの家ではろくな食事も作ってやれないと思ってこちらに呼んだのだ。
 いつかは自分も抱えていたような、先行した呪術師への悪印象からなるセツへの偏見を失くしたいとは思うが、すぐには無理だ。それに今は少しでも早くセツに人間らしい生活を覚えてもらい、健康的に過ごしてもらいたい。
 手際よく食材を切り、簡単な野菜炒めを作るラジルの手元をセツは熱心に覗き込んでいた。

「料理人でもないのに、料理を作っている……」
「こんなものならいつだってできるっての。あんた今までどんな食生活していたんだ」

 小さな弟たちでもできていた程度の料理なので、さすがに得意げになることもできない。だがそんなものですら感動してしまっているセツの家の調理場を思い出し、つい重たい気持ちになった。
 セツはなかなか言い出さなかったが、ラジルの無言の圧力を感じとったのか、渋々答えた。

「たまに、芋を蒸かして食べていた」
「――まさか、それだけじゃないだろうな……」
「たまに、果物とか買っていた。薬草もたまに食べていた」
「マジか……」

 眩暈がしそうだ。たまに、とつけ加えられる言葉がなおさら悲惨な状況を想像させる。

「でも、それだけでも大丈夫だった」

 大丈夫であったのならあんな身体つきになるはずがない。その言葉はかろうじてのみ込む。

「まさか味つけくらいはしていたんだろうな。――いや、やっぱり答えなくていいや」

 調味料などひとつもなかったことを思い出し、すぐにラジルは首を振る。
 わかっていたことだが、根本的なところから教えてやらないとまずい。
 ラジルの反応から、いかに自分がずれた生活をしていたかに気がついたのだろう。
 これまで静かに輝かせていた瞳を曇らせたセツに気がつき、ラジルは息を吐きながら手を伸ばす。
 セツの頭をぽんぽんと撫でて、笑みを見せた。

「そんな顔するなっての。言っただろう、あんたは変じゃないって。知らなかっただけなんだから、これから覚えていけばいい。覚えることは好きだろ?」
「……うん」
「おれがちゃんと教えてやるし、見離したりしないから安心しろよ」

 頷いたセツは顔を上げた。
 真っ黒な瞳にラジルが映る。その中のラジルもまた、セツを見つめていた。
 セツがなにか言いたげに口を開いたが、結局言葉は紡がれず、沈黙が二人の間に降り注ぐ。
 ラジルは頭を撫でたことや、見つめ合ってしまったことが急に照れくさく感じて、ようやく手を離した。
 誤魔化すように、さあてと、と声を上げる。

「買ってきておいたパン、皿の上に出しといてくれ。後は盛りつけて終わりだ。おれの部屋に運んでから食べるぞ」
「……わかった」

 セツはラジルの傍を離れ、指示された通りに動く。ラジルはその後ろ姿を気づかれないように横目で見ながら、いつもよりもいささか早くなる鼓動を落ち着けようと深呼吸をした。


―――――