セツの住んでいる場所は有名だったらしく、呪術師である彼を診てくれるという医者はなかなか見つからなかった。
 片っ端から町人にも声をかけ、頼りにできそうな医者がいないかと尋ねて回った結果、どうにか一人を捕まえることができた。
 いかにも人の好さげな老医者はセツの容態を診て、風邪であるだろうと結論を出した。高熱ではあるが、薬を飲ませ安静にしていればいずれよくなるだろうと言った。
 ラジルはその言葉に安堵し、ようやく肩の力を抜いたのだった。しかし医者の言葉はそれだけでは終わらなかった。
 助手に薬を取りに行かせている間に、ラジルは騎士をも恐れぬ彼から注意されてしまった。

「あまりにこの部屋は不衛生だ。いつ掃除を、換気をしましたか? これでは病気でなくとも病人になってしまう。それに、彼はあまりに細い。食生活にも気をつけていただきたい。栄養が足りていないから病気になりやすいし、治りも遅くなってしまうのです」
「はい……本人にも伝えておきます」

 そう言葉を返すのがせいぜいだった。
 部屋に入るのは初めてだった、と言ってもよかったのだが、多くの医師が診察を断ったなか、唯一セツを受け入れ、そして本当に心配して忠告をしてくれている彼に言い訳をする気にはなれなかった。それに彼の言葉はラジルも深く頷けるものであったので、医者からの注意であると言ってよくセツに言い聞かせてやろうと思ったのだ。
 助手が薬を届けてくれて、用法の説明を受けてから彼らは帰っていった。
 ラジルはセツの額の濡れ布巾を取り換えてやり、汗を拭いてやる。
 ようやく一息つけたことで改めて部屋を見回すが、その状態は確かにひどく、どうしたものかとラジルの頭を悩ませた。
 埃が舞わぬように行動するのが困難な部屋では、隅には綿埃が溜まりに溜まって角がなくなってしまっていた。天井には蜘蛛の巣が張り、窓は一度も開けたことがないのか動かない壁の一部のように輝きが鈍い。調理場も使用していないらしく、かろうじて鍋はあったがそれも最後に触れたのはいつであるのか、埃を被り本来の色を変えてしまっていた。
 床は足の踏み場がないほどに本が散乱し、彼の少ない衣類は一カ所に山になっている。大量の本を仕舞う本棚はなく、衣類を仕舞う棚もなく、机も椅子も、食器すら見つからない有様だ。唯一ある家具は今セツが横になっている、これまた埃まみれの古い寝台のみというのだから驚きだ。
 いくら必要最低限の生活を心がけたとして、ここまで質素な部屋はそうないだろう。宿舎住まいのラジルのほうが部屋は狭いが、それでもセツの家とは比べ物にならないほど住みやすいはずだ。
 ――確かに、これでは病気でなくとも病人になってしまう。
 おまけに窓にも絡む蔦のせいで光さえもろくに入らない。窓を開けられないから換気もできない。短時間しかこの家にいなかったラジルでさえ、すでに気が滅入りそうであった。
 よくこんなところで生活をしていたものだ、とセツを見る。
 黒髪が汗に濡れ、頬に張りついていた。それを指先で剥がしてやる。抵抗されないことがなんだか不思議に思えた。いつも彼に触れたとき、逃げられるか、払われるかのどちらかであったからだ。
 目を閉じるセツの顔を気づけば熱心に見つめていた。彼の顔をこうもまじまじと見るのは初めてだったし、触れた指先の熱が残っていたのもあるのだろう。掠めた肌は熱く、まだ苦しむであろうことを予感させた。
 すぐにでも体温に染まってしまう額の布をまた取り換えてやり、ラジルは覚悟を決めて立ち上がる。
 部屋を見回して、大きく鼻から息を吐き出した。

「よし、いっちょやってやるか」

「ん……」

 微かな声を耳で拾い、ラジルは振り返る。
 セツが起きたようで、額の布を持ち上げそれを不思議そうにじっと見ていた。

「やっと起きたか」

 ラジルが声をかけながら傍にいくと、セツの黒い瞳が向けられる。その眼差しが、何故おまえがここにいるとでも言いたげなので、問われる前にラジルのほうから説明をした。

「待っていてもあんたが来なくてな。それで家を探して来てみたら、部屋の中で倒れていたんだ。触ってみたらひどい熱だったから、医者を呼んでそのまま看病してたんだよ」

 正当な理由があって家に上がり込んでいる、と言外に訴えれば、状況を理解したらしいセツはなにも言わなかった。

「服、濡れたまま変えずに寝ただろう。そのせいで風邪を引いたんだよ」

 あまりに汗がひどかったので、セツが眠っている間に服を変えてやった。そのとき着ていた服が前日に見たものと同じだったので、着替えていなかったことに気がついたのだ。

「……着替えるの、忘れていた」
「忘れるなっての。それだけじゃない。日頃の不摂生もあって身体が弱っているんだよ。おまけにあんたは日常的に動かないから体力ないし、ひ弱なんだから気をつけろよ」

 答えないセツに溜め息混じりの注意をしてやり、ラジルは背を向ける。

「ちょっと待っていろよ」

 調理場に向かい、いつセツが起きてもいいようにと用意していたパン粥を温める。
 近くの店で調達してきた皿に粥を流し込み、匙を持ってセツのもとに戻った。
 身体を起こしていたセツは、いつもの静かな瞳で周囲を見渡しているところだった。
 それもそうだろう。部屋はセツが倒れる前と今とでは随分と様相を変えているのだから。
 セツが眠っている間、ラジルはあまり埃を立てぬように細心の注意を払いながら、とにかく掃除をしたのだ。蜘蛛の巣をとり、埃を集め、服は畳み、本も一か所にまとめておいた。巻数もばらばらに散らばっていたものを揃えることもしてやった。
 掃除道具はなくすべて手作業であったので、完璧に片づけられたわけではなかった。だが多少まともに見える程度にはなったので、後はセツが起きてから本格的にやってやろうと決めてそれでよしとしたのだ。
 あまりセツから目を離したくはなかったので、とりあえず彼の日常生活を送る部屋だけにしておいた。後々は家主の許可を得て外の蔓も撤去する考えである。
 その目標は追々でいいと、ラジルは寝台の縁に腰かけ、セツの膝の上に温め直した粥を置く。

「ほら、食え。しっかり食わなきゃ治るもんも治らないぞ」
「いらない」
「医者からの命令だ。また本の虫をしたければ早く食って風邪治すこったな」

 本のことを持ち出すと、セツの眉間にわずかに皺が寄った。
 このままでは読もうとしてもラジルに妨害されると判断したのだろう。渋々皿に手を添える。
 しかし、なかなか匙を持とうとはしない。もしかしてパン粥が嫌いだったのかとラジルが問いかけようとしたところで、ぽつりとセツが言った。

「――見るな」
「ちゃんと食ったのか見てないと心配なもんでな。今回だけはきっちりと食べてもらうから諦めろ」

 なにか言いたげに再びセツの口は小さく開いたが、結局声は発さないまま匙を掴んだ。
 そのセツの匙の持ち方に、ラジルは思わず困惑した。まるで持ち方を知らぬ幼子のように握り込んでいたからだ。
 食べにくそうにしながらも、セツは息を吹きかけよく冷ましてから一口啜る。

「……おいしい」

 思わぬ一言に、ラジルは持ち方のことはすっかり忘れて目を瞬かせた。
 ゆっくりとセツの言葉をのみ込んで、胸に落ちたそれの代わりに腹の底からこみ上げたむず痒いなにかにくすぐられるよう、つい顔をにやけさせる。

「そうだろう。料理は割と得意なんだ。今ではあまり機会がなくなっちまってたが、それくらいのものならいつだって作れるぞ」

 家事は女の仕事とされているが、兄妹がたくさんいて仕事の多いラジルの実家では男だから女だからといっていられなかった。使えるものはなんでも使う合理的な主義の母が容赦なくラジルを働かせたおかげで、一通りの家事はつつがなく行える。
 宿舎住まいとなり、騎士として多忙に働く今となっては食堂に頼りきりだが、ラジルは料理をすることが好きなほうだった。
 始めの一言だけで、後は無言で食べ進める。匙の持ち方が最後まで直ることはなかったが、セツがまともに食事をしているところを見るだけでラジルは安心できた。
 といえども、普段の食の細さと風邪のせいでさらに食欲は落ちていると考えて、皿によそった分は然程多くない。もしかしたら足りないかもしれないと思ったが、ラジルの読みは当たったようで、セツは残さなかったものの最後は少し苦しげにしながら粥を食べきった。
 医者から処方された薬も用意してやる。
 薬湯を飲み干したセツは、空になった杯を膝に置いて一息つく。
 このときにようやくラジルは部屋を勝手に掃除してしまったことを謝罪した。

「あのままじゃ身体によくなかったんでな。無断で悪いとは思ったんだが、ずっとこの家にいてもやることもないし、勝手にやらせてもらった」
「別に。構わない」
「それならよかった。だけどあんたもあんただ。ちゃんと掃除くらいしろよ。この家、道具すらなかったじゃないか」

 セツは杯を持つ手に力を入れる。

「……どうしたらいいか、よくわからなかった」

 擦れる声に、ラジルはセツの顔を見る。

「誰も教えてくれなかった」

 目を伏せる黒い瞳は相変わらずなにを考えているか読めなかったが、吐き出される言葉は、声は、ラジルの胸を締めつける。
 抑揚のない声音であるのに、まるで自分の孤独を叫んでいるようで。
 だからだろうか。何度も振り払われても、何度でも彼に手を伸ばしてしまうのは。
 もう知らない、と顔を背けても、それでも彼のことが気になってしまった。何故だか放っておけなくて、いらない世話を焼いてしまって。
 気にしなくてもいいと自分に言い聞かせても駄目だった。それは彼の無表情の下に隠された孤独の片鱗を、時折見つけていたからなのだろうか。

「――だったら、これからはおれに聞け」

 これまでラジルの目を合わせようとはしなかったセツが、伏せていた顔をわずかに上げた。

「誰も教えてくれなかったのならおれが教えてやる。まずは家を綺麗に保つことだ。たまには換気しろよ。湿っているのは本にだって悪いだろ。後は本棚を用意して整理すること。そして読んだら本を片づけること。これじゃあぐちゃぐちゃで探すのだって大変だろうが。手間でも後々のことを考えてちゃんとやるんだ。部屋は掃き掃除をして、服もちゃんと洗濯して、敷布だって定期的にとり換えること」

 ラジルの言葉を、セツはゆっくりと瞬きながらも止めることなく聞いていた。

「それに一日三食しっかりと摂れ。今まであんた食わなさすぎなんだよ。そんなんだから体力はないし、あれしきのことで風邪を引くんだ」
「でも……食べるのは好きじゃない」
「はあ?」

 再び顔を下げてしまったセツは、躊躇いながら口を開いた。

「みんな、笑う。変な顔をする」

 唇を噛んでセツは黙り込む。
 その言葉でようやく、ラジルは色々なものが繋がった気がした。
 子供のような匙の持ち方。確かにあれでは嘲笑されてしまうことだろう。持ち方も指導してもらえない育ちの悪さを教えているようなものだ。
 それを気にしたセツは、だから食堂に寄りつかなかったのだろうか。自分の部屋でさえなにも摂ろうとはしなかったのは、ラジルの目があったから。ラジルも皆のように変な顔をすると思ったから。だから先程も見るなと言ったのだろう。
 そして皆が笑うから、食べることも嫌いになっていき、まるで病気のように細い身体になってしまったのか。

「みんなが変な顔をするのは、あんたの持ち方が変なんだよ」
「正しい持ち方ができない」
「言っただろ、おれが教えるって。誰も注意しなかったことも、今度からはおれが言ってやるよ。このままじゃ絶対によくない」

 着替えさせたとき、軽い体重から予想はしていたが、セツのあまりにも貧相な体つきに驚いた。
 あばらは浮き出て、骨と皮と言っても過言ではない状態だったのだ。いつも重たげで厚いローブを着ていて気づかなかったが、ラジルの半分の重さがあるかないかくらいではないだろうか。いくら小柄とはいえ明らかに痩せ過ぎだ。
 今回あの少年が発端となったが、あれでは遅かれ早かれ倒れていたに違いない。むしろ今までよく耐えてきていただろう。
 このままにはしておけない。このままであっていいはずがない。
 セツは教わる相手がいなかっただけだったのだ。変わろうとする気がないのなら、この瞬間こそ放っておいてくれと言えばいい。だが彼は、少しだけラジルにその内を見せてくれた。
 それはきっと、彼なりの救いを求める声なのだろう。変わりたいと、でもどうすればいいかわからないという導べを見つけられない孤独な者の。
 だからこそセツは今、肩をか細く震わせている。

「大丈夫、あんたは変じゃない。ちゃんと変われる」

 力強いラジルの言葉に、セツは小さく頷いた。


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