セツの家に最も近い宿屋に泊ったラジルは、翌日夜明けよりも早くに起きだし、昨夜セツと別れた場所で彼を待った。
 それから程なくして、セツはその場に姿を現す。
 ラジルを見つけてもやはり表情を変えることはなかった。
 そのまま声もかけられず素通りされることも覚悟していたが、予想と異なりセツは近くに来ると一度足を止めた。

「朝からこんなところにいるなんて、騎士も大変だな」
「仕事だからな」

 素っ気ない台詞につい皮肉じみた言葉を返してしまう。
 他に言葉はなかっただろうかとラジルが小さな後悔に頭を悩ませるうちに、セツは先に歩き出した。
 後を追いかけ、前にいる細い背に声をかける。

「あんた、ちゃんと朝食は摂ったのか?」

 返事はない。
 蓋が浮き上がるほどみっちり鞄の中に詰まる本を見ていれば、そこに弁当が入っているわけでもないのは容易に予想がついた。
 溜め息をひとつついたラジルは、少し歩幅を広げてセツの隣に並ぶ。
 自分の荷物を漁り、中から小包をとり出した。それをセツの胸に押しつける。
 強制的に受け取らされたセツは、足を止めて不思議そうに抱えた小包を眺めた。

「サンドイッチだよ」

 ラジルは頭を掻きながら、ぶっきらぼうに答えた。

「これなら歩きながらだって食えるだろう。今いらないなら後で読書中にでも食えよ。これなら本を読む邪魔にもそうならないだろうし。いつでもいいからちゃんと食えよ」

 昨日のうちに、世話になる宿屋の主人に頼み込み作ってもらったものだった。不健康そうなセツのことだから、きっと朝食など食べていないという勝手な予想であったが、どうやら当たっていたらしい。
 言い逃げをするように、止めていた足を先に動かす。ラジルの後を数歩遅れてセツがついてきたのを気配で悟り、少しだけ歩幅を緩めれば再び二人は並んだ。
 セツはしばらく腕のなかの包みを見つめていたが、やがてそろりと包みを剥がした。
 中身のサンドイッチをとり出し、しげしげと眺めると、そろりと三角形の端を口に入れる。
 そのままもそもそと食べだした様子を横目で見ていたラジルは、用意した朝食を食べてもらえたことに安堵する。余計なお世話だと突っぱねられるかと思っていたのだ。
 ゆっくりと減ってく簡易な朝食に、少しだけ、これまで彼に抱えていた罪悪感が薄れたような気がした。

 昼食の時間を知らせる鐘が鳴り、ラジルは相変わらず書物に齧りついているセツに一言離れることを告げて呪術師部屋を後にした。
 本来であれば警護の休憩は交代して行われるが、そもそもラジルたちの真の目的は薬の効果を知るためであるので、警護は普段傍にいないはずの二人が怪しまれないための隠れ蓑に過ぎない。そのためある程度離れていていいと王から許可も得ている。実際のところはずっとセツのことを見ていなくてもいいわけなのだが、そこはこれも仕事のうちだからとラジル自身がきちんと職務を全うすることを選んだのだ。
 とはいえ、一人きりの護衛で一日中傍にいることは不可能だ。そのため食事の時間などは休憩の時間だと割り切り傍を離れることに決めていた。
 ラジルが食堂に顔を出すと、丁度同じ時間に休憩に入っていた同僚たちと出くわした。

「おう、ラジル」
「おまえは今から昼飯か?」
「ああ。そっちはもう終わりか?」
「まあな。そういえばおまえ今、あのセツの護衛に当たっているんだって?」

 昨日からの出来事だというのに、早速噂になっているようだ。
 ラジルは曖昧に笑うが、同僚たちが興味を持っているのはその瞳が物語っている。
 そもそも薬の効果を試す経緯が極秘であるから、たとえ同僚といえども目的を話すわけにはいかない。
 そのためラジルたちは、セツが王から直々に頼まれた重要な薬を作っていることにしていた。外部に漏れぬように、またその薬によってセツの身が危険に晒されぬように見守るのが表向きに広めてもいいラジルの任務である。その噂とて一部の人間にのみしか伝えてはいけない事柄としているため信憑性も増していた。同じ騎士である仲間たちはみだりに情報を広めたりなどはしないのだ。
 ――と、あながち間違いというわけでもないので、それほど嘘をつくことが得意でないラジルでもどうにか誤魔化せていた。

「おまえも大変だな。陛下からの信頼は嬉しいものだが、相手があのセツってのはな」
「はは……まあな。あんまりうまくはいってないけれど、別にお喋りが仕事じゃないから助かった。それよりなあ、おまえらあいつがどこに住んでいるか知っていたか?」
「ああ、西の外れのほうだろう? よくもまああそこから通っていられるぜ」

 おれだったら御免だね、と笑う同僚に同調した振りをしてラジルも小さく肩を揺らした。その言葉には遠くから、という意味合いだけでなく、あの区画に住まう者たちのことも示しているのだろう。
 どうやら割と知られている話であったようだ。

「なあ、あいつはなんであんな遠くに住んでいるのか、理由を知っているか? ほら、セツは陛下のお気に入りでもあるのに、遠すぎやしないかと思ってさ」
「ああ、なんでも断ったらしいぞ」
「断った?」
「詳しくは知らないが、陛下は城内に部屋を与えることをご検討なさっていたそうでな。呪術師のほうからそれには及ばないと言ったらしい」

 変わったやつだよ、と同僚が言葉をつけ足す。それに他の仲間たちも頷いて、自分であれば喜んで頷くのにと笑っていた。
 食堂にぞろぞろと人が増えだして、はっとしたように彼らは周囲を見回す。

「おっと、そろそろおれたちも戻らないと。おまえも頑張れよ!」
「愚痴があったら聞くからな」

 良き友でもある彼らに軽く手を振り、その背を見送る。
 同僚たちはラジルよりもセツのことを知っているようだった。
 ラジル自身は、出会いのあの衝撃を受け、以来あまりセツと関わらないようにしてきた。彼の話題に耳を塞いでいたこともあって、セツが優秀な呪術師であることと、性格に難があることくらいしか知らない。問いかけた内容に答える同僚たちの様子からして先程の話は周知の事実であるようだったが、ラジルは知らなかった。
 解放されたままの扉から友人たちの背中が消えていき、ラジルは手を下ろす。そのまま空いている近場の席に腰を下ろした。
 給仕が食事を運びに来ても、夜明け間際の薄暗い中、もそもそサンドイッチを食べていくあのセツの横顔が頭から離れなかった。

 部屋に戻ると、予想していた通り、セツはまったく同じ体勢で書物を読んでいた。多少変わったところがあるとすれば、書物庫から持ってこいと言われて積み立ててやった右の本の山が、読み終えた左の山に何冊か移っていることくらいだ。
 ずっと読んでいたらしい。速読のような速さで読むことのできる男は、ラジルがそれほど離れていない時間にすでに四冊も読み終えている。その内容はどれも小難しく、専門的な知識を有するものであるというのによくやるものだとラジルは感心を通り過ぎて呆れた。

「おい」

 戻ってきたことを伝えようと声をかけるも、反応はない。わかっていたことではあるがつい溜め息が出てくる。
 ふと机の上を覗き込み、部屋を出る前に用意しておいたお茶がまったく減っていないことに気がついた。
 わざわざ侍女に頼み込んでラジルが淹れてもらったものだ。朝からなにも飲まずに仕事をしているものだから、それでは身体によくないだろうと考えてのことだった。彼の従者ではないのだからそんな気を回さなくてもよいのだが、つい気になってしまったのだ。
 勝手な善意ではあったが、こうも無下にされてしまうとあまりいい気はしない。せめて一口、口にすることはできたのではないだろうか。
 自分の押しつけがましい親切心は理解していた。しかしどうしてもセツが気になってしまうのだ。きっと他の者に同じことをされたとしても、こんなにも神経質になることなどなかったはずだろうに。
 本来の自分はもっとおおらかで、仕方のないことは仕方ないと割り切れた。しかし今、ラジルは割り切れずに苛立っている。そんな自分がわからなくて、さらに苛立ちは増していく一方だ。

「なあ、飯食いにいけよ。もう昼だぞ」

 返事はない。その代わり、頁が一枚めくられる。
 朝食を、それも夜明けの間際にラジルが渡したあのサンドイッチ以外食べているところは見ていなかった。それだって城に着いたらなにか改めて食べるだろうと思って軽食にしておいたのだ。
 ラジルが知る限り、セツはここまでは野菜を挟んだだけのサンドイッチふたつだけで水すら飲んでいない。彼の傍をほとんど離れることがなかったからこそそれを知っていた。
 迷ったラジルは、ついにセツの肩に手を置いた。
 さすがにそれには気がついたのか、のっそりと振り返る。しかしその表情はいかにも煩わしそうで、不満を隠そうともしていなかった。

「昼飯、食ってこいよ」
「いい」
「ならなんか持ってきてやるから食え」
「いらない」

 淡々と答えたセツは、もういいだろうと言わんばかりに肩にかかるラジルの手を払いのけた。
 また紙面に視線を戻して猫背に戻る。

「そんなんじゃ身体が持たないぞ」

 やや声を荒げて訴えるが、すでに彼の心は文字の波に飛び込んでしまっていた。

「――勝手にしろ! もう本だって持ってきてやらないからなっ」

 ラジルはわなわな拳を震わせ、細い背に言葉を投げつけるが、セツが振り返ることはない。
 どすどすと足音を鳴らし壁際まで行き、ふん、と拗ねた子供のようにセツから顔を背ける。
 そのとき、ほんの一瞬セツがラジルを見たことになど気がつくはずもなかった。

 セツがもうじき帰るという頃、王に呼び出され、ラジルは人払いを済ませた彼の執務室へと招かれていた。

「――して、効果のほどはどうだ?」

 落ち着いているものの、気になって仕方がない王は単刀直入に問いかけた。
 ラジルは言葉を探そうと思ったが、諦めて正直に答える。

「まだです」
「そうか……変化を感じたならばすぐに教えてくれ。また明日からも頼むぞ」
「はっ」

 他にも労いの言葉を王から受け取り、ラジルはセツのもとへと戻った。
 まだ二日目だ。それほど効果は出てないことは王も承知の上であったろうが、いささか気落ちした姿にラジルのほうが申し訳なく思ってしまった。しかしなにも感じていないのに王を欺いた申告をすることは許されない。
 部屋に足を踏み入れると、丁度セツが帰り支度を整えているところだった。
 もしかしたら置いて行かれているかもしれない、と思っていたラジルはひとまず安堵する。
 さっと用意を終えたセツは、ラジルに声をかけることもなく部屋から出て行った。
 後を追いかけ、隣に並ぶ。
 やや声を潜めてセツに問いかけた。

「なあ、あの薬は本当に効果があるんだよな? 今のところ、あんま実感はないけれど、もう少ししたら実感するのか?」
「――さあ」
「さあ、って……」

 曖昧な返事に詰め寄ろうとしたが、前から人が来たので止めた。
 ラジルは気になって仕方ないのに、セツは涼しい顔のままである。冗談であるのだろうが、しかし彼が冗談を言うとも思えず悶々としてしまう。
 本当に可愛げがない。自分よりも三歳年上の男にそう思うものではないのだろうが、ラジルの腕の中にすっぽりと収まってしまいそうなほどセツは小さく細いし、童顔であるからそう思われても仕方がないだろう。
 と、考えてはっと思い留まる。そもそも何故腕に収める発想をしているのだろう。それも相手は男で、愛想の欠片もないセツ相手に。
 もしかしたら実感がないだけで、徐々に惚れ薬は効き始めているのだろうか。考えてみれば昨日から今日にかけて彼のことばかり考えている。勿論惚れ薬の件で気にかけていることもあるし、大体は傍にいて、いやでも目に入るからもあるだろうが、だからといって抱きしめる想像になるなどあり得るのだろうか。
 悩みがすげ変わり、別の問題にラジルはもやもやしていたが、それに気がつくはずもないセツはなに食わぬ顔だ。
 先程ラジルの脳内でどんな目に遭っていたか知ったら、どんな風にその表情は歪むのだろうか、とまで考えてまたラジルは頭を抱える羽目になった。
 会話もないまま、昨日別れた場所まで後少しのところまでやって来た。
 今日も途中までの護衛となるのだろうか、とラジルが考えているとき、軽いが荒々しい足音を耳が拾う。
 昨日のことを思い出したラジルは咄嗟にセツの腕を引き、自分の背に隠れさせ、腰に携える剣に手をかける。
 そのときだ。
 細い路地からあのときの少年が現れると、彼は手に持っていた桶の水を二人にぶちまけた。
 また石を投げつけられるだろうかと思っていたラジルは、冷たい水では弾くことはできず、そのまま頭から被ってしまう。
 目元を拭っているうちに、それまで目の前にいた少年は姿を消していた。先程聞こえていた足音が遠ざかっていくのを聞き届け、周囲の安全を確認してラジルは振り返る。

「大丈夫か!?」

 黒衣のせいでわからなかったが、セツの身体に触れるとひやりとした。ラジルが壁となっていたが、彼の左半身は水を被ってしまったらしい。口に入ってしまったのかむせていて、少しでも楽になるようにとフードを下させて背中を擦ってやる。
 濡れた自分の身体の嗅いでみる。とくに変わった匂いもなく、ラジルの口に入った液体にも味はなく、ただの水であったことに安堵する。しかしどこかの泥水だったのか砂利混じりで、口の中がざらついていた。
 しばらくして咳が止まったセツは、背中に回るラジルの手から逃れるように一歩前に出る。
 目にも砂利が入ってしまっていたのか、しきりに瞬きをしていた。
 セツの顔にラジルが手を伸ばすと、頬に触れる前に叩き落とされた。

「なんでもない」

 ロープの裾を絞り水気を切ると、セツはフードを戻して歩き出す。
 追いかけようとしたラジルに、振り返ることもなく言った。

「ここまででいい」

 きっぱりと拒絶する言葉に、なおもラジルはついていこうと思ったが、歩き出したセツの背を見ているとついていくことができなかった。
 昨日別れた地点までは後少しの距離がある。昨日に引き続き今日も起きた出来事を考えれば、最後までついていったほうがいいのは確かだ。それでも、すべてを拒絶するその背に一度叩き落とされた手を伸ばすことはできなかった。

「――なんなんだよ、畜生」

 ラジルの力ない悪態の言葉は口先で溶けていく。水の滴る身体を無理矢理動かし、今日も宿に向かうことにした。

 翌日も陽も登らぬうちから、ラジルは一昨日別れた場所で待機してセツを待った。
 しかし、町人が起き出して活動を始めても、彼らが仕事場に向かい始めても。完全に太陽が姿を現してしまっても、いくら待ってもセツは姿を現さなかった。
 入れ違いとなり、先に行ってしまったのかもしれないと思ったが、セツは自由に動いているように見えて実は規則的な行動をしている。そのためその可能性は低いとラジルは考えた。
 短期間ではあるがセツを観察した結果、帰る時間が二日ともまったく同じ頃だったし、歩く速度が一定であるから家の付近に着く時間帯にも差はなかったことに気がついた。
 それに以前からセツが城内を歩いている姿を見かけるのは朝一番に書庫に本をとりに行くときと帰りの時間だけであったのは、彼の行動を見て知ったことだ。
 すべてが単なる偶然だと言われてしまえばそれまでだが、あらかじめ彼の行動を予測して動くことをしているラジルにはやはり彼が先に行ってしまったようには思えない。
 なにより、昨日水をかけられたことが気にかかっていた。ラジルはなんともなかったが、もしかしたらセツになにか異常が起きているかもしれない。
 呪術師はその身に多くのまじないを抱え、そのため常に制約に縛られ生きているという噂がある。その制約とは、何年間か肉を食わないだとか、決して走ってはならないだとか、一日に新たな知識をふたつ以上知らなければならないとか、様々なものだという。なかには身体に描いた呪術式の模様を決して消してはならないというものがあるとも聞いたことがあった。
 どれもあくまで噂の範囲であるが、もしその消してはならない呪術式をセツがやっていて、それがあの水で消えてしまっていたならば。もしかしたら彼の身になにかが起こっているとも限らないのだ。
 すべてがあやふやな呪術師ではあるが、可能性がある限りそれを捨てきることはラジルにはできない。
 そこでラジルはセツの家を探すことにした。少なくとも待機していた付近にあるということは把握していたので、とりあえず近くの者に尋ねていく。

「すまない。ここらに呪術師セツの家はあるだろうか」
「じゅ、呪術師どののお宅ですか……? それならばここを行った先の、よっつめの路地を左に入り、しばらく進んだ先の突き当たりにございます」

 騎士に声をかけられ、声をかけた女性はひどく緊張した面持ちで答える。
 ラジルは感謝を言い、足早に彼女のもとから去り、教えてもらったセツの家を目指した。
 路地を曲がり、しばらく進めばその場所に辿り着く。しかしラジルはすぐに家の戸を叩くことができなかった。
 周囲の家はどれも壁が崩れかけていたり、亀裂が入っていたりしていて、王宮付き呪術師である彼の家もまたその限りであった。だが周囲よりもかなり陰気な雰囲気があるのは、古びた家に巻きつく蔦のせいだろう。家全体を深緑の色が纏わりつきのみ込もうとしているようだった。
 小さな家が所狭しに並ぶなか、セツの家だけは周囲と隔離されていた。半壊した両隣はそのままで、明らかに人が住んでいる気配はない。
 セツ自身の雰囲気もそうだったが、この家すら他人との接触を拒んでいるように見える。絡みつく蔦がまるで籠のようだとラジルは思った。
 一呼吸置いてから扉を叩く。

「おい、いるのか」

 声もかけるが返事はない。物音もしなかった。
 やはりラジルの思いすごしで、先に行ってしまったのだろうか。
 そう不安に思いながらも側面にある窓に向かう。
 曇った窓から中を覗き込んでみる。蔦が日差しをとり入れるための上の窓にもかかっているのか、やけに室内は薄暗い。
 目を凝らして中を見ていくと、大量の本が積み重ねられていることに気がついた。家でも本の虫であるのかと呆れていると、ふと部屋の中央に真っ黒な影を見つけた。
 さらに目を細めて限界まで窓に顔を近づける。そこでようやく、その黒い影がローブを纏ったセツであることに思い当った。

「おい、大丈夫かっ」

 窓を叩くと、黒い影はもぞりと動く。指の先が見えたが、それ以上の動きはない。
 舌打ちをしたラジルは再び扉の前に戻る。取っ手を回してみると鍵はかかっておらず、すんなり中に入ることができた。
 ラジルは玄関先にまで散乱する本を踏まぬように注意しながら、中央に倒れているセツに駆け寄った。

「おい、なにがあった? 無事か?」

 肩を揺すると、投げ出されていた指先が反応した。しかし返事はなく、ラジルはセツを腕に抱え上げる。そのときの彼の身のあまりの軽さと、そして服越しでもわかる熱に驚いた。
 表情を隠しているフードを退かすと、顔を真っ赤に荒い息をするセツとまみえた。ひどく汗を掻いていてとても苦しげだ。
 ここでようやくセツが薄らと目を開ける。しかし意識ははっきりしていないのか、瞳はどこかおぼろげで焦点が合っていない。
 それでも、今ここにラジルがいることには気がついたのだろう。

「なん、で、ここに……」
「なんでって、あんたが来なかったからだろうが!」

 額に手を当てるとやはり高熱であった。
 思い当ったのは昨日の出来事。あの水をかけられたことだった。

「今、医者を呼ぶ」
「いい」
「倒れていたやつの意見なんて聞くもんか!」

 ろくに身体を動かすことすらできないのに、それでもセツはラジルを突っぱねる。しかしラジルも今回ばかりは折れるつもりはない。
 セツを抱え直し立ち上がる。やはり成人した男にしてはあまりに軽い身体に困惑しつつも、部屋の隅にある寝台を見つけて彼をそこまで運んだ。
 寝台はいつ掃除をしたのか、やけに埃っぽかった。こんなところに置いては増々具合が悪くなるのではと思ったが、他に寝かせられる場所もない。仕方なくそこに横たわらせた。
 寝台にまで侵食する本を適当に下に置いて、セツの肩まで毛布をかけてから声をかける。

「大人しく待っていろよ。すぐに戻ってくる」

 いい、いらないと言う気力すら最早ないのだろう。ぐったりとするセツが目を開けることもなく、すでに気絶するように意識を飛ばしてしまっていた。
 その姿に、ここを離れてもいいのだろうかと躊躇った。医者を呼んで薬を処方してもらわねばならないほどの熱であるが、そんな状態のセツを独り残すことも不安であったのだ。
 後ろ髪を引かれつつ、ラジルは視線をどうにか引き剥がして医者を探しに駆け出した。


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