ラジルは王を深く尊敬している。
 幼き日に即位したアズウェルの姿は、彼よりももっと幼く、物事の判断もしっかりしていないような自分の瞳に鮮烈に焼きつき、今もなお目を閉じれば思い出す。
 王族のみに継がれるという緋色の髪を靡かせて、ただ真っ直ぐに未来だけを見据えるその姿は、決して十二の子供には見えなかった。周りに立つ大人たちの誰よりも尊く、そのはるか上に座している者であるのだという認識をさせられたものだ。強烈ななにかを、子供ならではの純粋な直感で彼から感じとった。
 その日からラジルは一方的に信者のごとくアズウェルを慕い、これまで彼の役に立つ日を夢見てきた。
 王であるアズウェルの騎士となるため、つらい訓練にも耐え抜き、厳しい礼節を身につけ、ときに挫けそうになりながらもここまで突き進んできたのだ。
 夢は叶い、ラジルは晴れて騎士となり、さらに幸運なことにより近くで王の守護をすることができる立場となった。
 昇格したときには誇らしく、初めて王にかけられた言葉はたった一言でも、今でも大切に胸に響かせている。生涯この忠誠を貫こうとかたく心に誓ったものだ。
 しかし、まさか王に仕えていることでこんなことになろうとは、一体誰が思おうか。
 視線の先にいるセツは、城内に与えられている彼専用の小さな作業部屋の中で、積み重ねられた書に埋もれるようにしてそれらを読み耽っていた。先程から頁をめくる手ばかりが動き、時折瞼を上下に動かす程度で、後はずっと同じ姿勢のままだ。椅子の上でやや猫背になっている姿勢は、見ているこっちが身体を痛めそうである。
 そうして呪術の研究をすることが彼の仕事であるのだろうが、よくもああ飽きずに読み続けられるものだ。あまり座学には明るくないラジルは、賢明に学びはしているが、自分には到底できないと感心するような、呆れるような気持ちだった。
 王の耳にさえ入っているよう、ラジルとセツはそれほど仲がよくはない。とはいえども一方的にラジルが突っかかることが多いだけで、セツには相手もされていなかった。それに過去にそうした接点が数度あっただけで、以降セツのことは気にしないようにしているため、今ではまったく接触していない。
 はじめはただ、辛気くさい男がいると思った程度だった。
 呪術師は総じてそんな者たちであって、生気のない顔をしていたり、意地の悪そうな顔をしていたり、覇気がなかったりするのが大抵だ。
 しかし唯一、セツだけが若かった。王から深い信頼を受けているように、彼は呪術師としての才覚に秀でたとても優秀な男である。これまでの歴史の中で、最年少で王宮付きの称号を得たのがその証拠だ。
 大抵王宮に仕える呪術師は、蓄えた知識と経験によって陰ながら王の力になるものであって、若くても白髪が混じり始める頃にようやく役目を与えられるのがほとんどだ。しかしセツは異例の十九という若さであった。
 当時は皆、才ある彼に注目していたそうだが、愛想の欠片もなく、挨拶をしても一瞥しただけで無視をされるばかりで、次第にセツに声をかける人間はいなくなっていった。
 実のところラジルは、セツをあの噂の、優秀であり冷淡な若き呪術師のセツ、ということを初めのうちは知らなかったが、周囲と同様につれない反応をされて彼と関わらないようになったうちの一人だ。
 ぼうっとセツを眺めながら、ラジルはセツに初めて声をかけた日のことを思い出す。
 あれは王付きの騎士に選抜された日のことだった。焦がれて止まなかった王の護衛につくことが叶った喜びから、いささかラジルは浮かれていたのだ。
 誰彼かまわず、ごきげんよう、などと挨拶をしてしまったのを覚えている。今ではさすがに調子に乗りすぎたと頭を抱える過去ではあるが、ラジルの浮かれように皆は苦笑をひとつするだけで、後は目をつぶって祝福してくれた。もとより社交的な性格から、友人は多く、先輩からも可愛がられていることもあっただろう。
 そんななかただ一人、ごきげんよう、よかったね、と挨拶を返さなかった者がいた。それがセツだった。
 以前から時折見かけることがあり、どんな役職の者であるかは知らなかったが、その存在は認識していた。城内で目深く被ったフードを決して下ろそうとしない人間など、その人くらいしかそもそもいなかったから余計に目立っていたのだ。
 有頂天だったラジルはいかにも陰を好むその人にも挨拶をした。けれども彼はかろうじて見えた黒い瞳で一瞥しただけで、まるでなにも聞こえなかったかのように、足取りさえも変えずに背を向け歩き去ったのだった。
 そのとき初めて垣間見た彼の無感情な瞳に、ラジルは冷水をぴしゃんと顔にかれられたような衝撃を受けた。
 幼いころからラジルは、強烈に胸に焼きつくものがまれにあった。それが初めて起こったのは、セッカの実を食べたときだ。赤子が食べると腹を下しやすくなるという言い伝えがある赤い実は、歳が五つになった日に食べる風習がラジルの地元ではあった。祝いとしてラジルもセッカの実を食べたのだが、そのとき胸に雷が落ちたような衝撃を受けたのだ。
 なんだこの美味しい実は、と。
 セッカの実は酸っぱく、喉の奥がきゅうっとなるのだが、その後に舌の上でとろけるような甘さに変わるのが特徴の実だ。その味わいが苦手だと言う者もいれば、癖になると言う者がいるよう、好みが真っ二つに割れる果物でもあった。ラジルは後者で、初めて口にして以降、今でもセッカの実は大好物のまま頻繁に口にしている。
 初めて王を目にした日のこともそうで、大抵その衝撃は生涯愛し続けられるものに対して働く直感であった。食べ物であったり、風景であったり、尊敬できる人物であったり、その直感が働くものは様々であるが、どれも抱くのは好意的な感情ばかり。
 だがそのときばかりは違った。ラジルはセツに衝撃を受けた。だがそれは、好意的な感情というよりも彼に対する強い反感だ。
 人を見下すような態度に好感など持てるはずもなかった。
 あれから二年も経っているし、当時の自分の浮かれようは煩わしく思われても仕方なく、騎士の品性も疑われる行為だったと今では深く反省している。それにセツがあの天才呪術師と知り、高慢である理由にも納得がいった。若手の騎士になど興味はないのだろう。
 なによりあの後身勝手な怒りはすぐにしぼんでいき、残ったのは、なにもそんな対応でなくても、というちょっぴり拗ねた感情。そしてもうひとつ、無関心そうなセツの瞳だった。
 その後も時折見かける彼の眼差しは、ラジルだけではなく、いつだって誰も映すことはなかった。なにかの話で盛り上がっていても見向きもしないし、自分が胡乱げな視線を集めても、どんな類のものでも興味がなさそうだった。
 もうあの出会いは忘れよう、彼とは関わらないようにしようと思うラジルだったが、どうしてもセツのあの瞳に吸い込まれてしまうのだ。
 それは今でも変わらない。
 相変わらず興味なさそうに、けれども熱心に本を見つめるセツの眼差しから目が離せなくなっていることに気がつかないまま、ラジルはただじっと彼を見ていた。
 かあん、と鐘が鳴る。その音を聞いたラジルははっとして、部屋の隅から動き出してセツのもとへと向かった。
 鐘が鳴るのは起床の時間、午前の休憩、昼食の時間、午後の休憩、終業の時間の五つである。先程の鐘の音はそのうちの午後の休憩の合図だった。

「休憩だぞ」

 返事がないどころか、目線のひとつすら寄越すことはない。
 それ以上声をかけることはなく、ラジルはやや憮然とした表情で元の立ち位置に戻った。
 普段ならば仕事中、表情に出すことなど決してしないが、やはり一言もなく自分の好きに振る舞うセツを見ていればあまり面白くはない。ましてや本来ラジルが傍にいるのは王のはずであって、彼ではないのだ。
 しかしセツの傍らにいるのはその本来の主である王からの命であるため、諦めざるを得なかった。
 王は薬の効果をより詳細に知りたいと言い、ラジルにしばらく自分のもとから離れ、代わりにセツの警護にあたるよう命じたのだ。
 惚れ薬の効き目は不自然がないよう遅速性にしているようで、ゆっくりと相手に惚れていくらしい。そのため今のラジルはまったくセツにときめく様子はないのだが、はたして本当に効果は現れるのだろうか。
 もし薬が効いて、本当にセツに恋をしてしまったとして。ちゃんと呪いを解いてもらえるかもいささか不安であった。
 完全に恋に落ちるまで一週間かかる、と宣言されていた。
 すでに解毒薬は用意されているので、効果のほどが確認できたらすぐにもとに戻してやると王は約束してくれたが、その薬そのものが失敗していることもあり得る。
 今抱くこの不安も、もしセツに恋をすれば消えてしまうのだろうか。彼を愛する自分を忘れたくないと、自らそう願うのであろうか。
 この状況を本当に把握しているのかと疑いたくなるセツは、ラジルの視線に気がつく様子もなく、読み終えた本を閉じ山に積み重ねると、別の山から新たな本をとり出してまた読み始めた。

 これまで一度も姿勢を崩すことなく書物を読み耽っていたセツが、不意に顔を上げて本を閉じた。
 机上に置いていた鞄に読みかけの本を仕舞うと、立ち上がり、首の裏に下げていたフードを被る。
 鞄を肩にかけそのまま部屋を出ていこうとするので、慌ててラジルは彼の行く先に身体を滑り込ませて道を阻んだ。

「ちょ、どこに行くんだよ」
「帰る」
「はあ? 帰るって、こんな時間にかよ」

 午後の休憩の鐘が鳴ってしばらくは経つが、終業の鐘はまだ響いてはいない。窓から覗く空も澄み渡る青空のままで、日暮れが近いというわけでもなかった。

「王から許可は下りている」

 頭を上げることもなく、独り言のようにぼそりとセツは答えた。
 もういいだろうとでも言いたげに、ラジルの脇を避けて廊下に出て行く。
 仕方なく溜め息をひとつついて後を追いかけると、ほんのわずかにセツが振り返る。

「一応期間限定ではあってもあんたの護衛だからな。家に送り届けるまでがおれの仕事なんだよ」

 そんなものはいらない、とでも言われるかとも思ったが、セツが口を開くことはなかった。
 納得したのか、不満に思いつつもラジルと同じで王の命に従っているだけなのか。その顔さえ見られずに判断はできなかった。

 正門を出て跳ね橋を渡り、城下へ続く曲がりくねった阪道を下りていく。ようやく町の入り口に辿り着いたところでセツに住居を尋ねてみたが、案の定返事はなかった。
 てっきりセツには城内での部屋を与えられていると思っていたが、外に出てきたということは違うのだろう。城を出て右に向かうともなれば、騎士団の宿舎もある、城勤めをする者が多く住まう区画でもない。せめて行き先を知りたかったが、教えてくれないのであればただついていくしかない。
 歩けども歩けどもセツが足を止める気配はない。
 結婚をして宿舎を出ていく者もいて、あまり遠い場所であれば馬を利用することもあるが、セツが乗馬をするなどという話は聞いたことがないので、いつも徒歩で登城しているのだろう。
 どんどん城から遠ざかるにつれ、次第に町の景色は変わっていき、町の端に位置する貧民層の者たちが集う区画に近づいてきた。
 城内でも目立つ何色にも染まらぬ黒衣のセツは勿論のこと、ここでは王家の紋章が刻まれた騎士服を身に纏うラジルさえも注目を集める。それは一流の腕を持つ騎士に対しての尊敬と眺望だけでなく、成功者への妬みも入り混じる、決して居心地のよいものではなかった。
 ラジルはそのすべてを跳ねのけるように胸を張って歩いた。王紋を背負っている以上、ラジルの一挙手一投足すべてが国への評価に繋がるからだ。しかし前を歩くセツの猫背を見ていると、どうもつられてしまいそうになる。
 早く彼の家に辿り着いてくれないだろうか、とラジルが内心で溜め息をついた、そのときだった。
 視界の端で動く影に、ラジルは咄嗟にセツを自分の背後に押し込んだ。
 ひゅんと投げつけられた小石を手で払い、攻撃してきた者を睨むが、その姿に拍子抜けしてしまう。

「子供、か……」

 そこにいたのは十歳くらいの少年だった。
 浅黒い肌の身体はとても痩せており、腕は骨と皮だけのように細い。身に纏う服も薄汚れていて、裾など襤褸になっていた。髪も適当な長さに雑に切られていて、一目で貧民層の子供であるというのがわかる。
 ラジルと目が合うと、少年はさあっと血の気を引かせて走り去ってしまった。
 追いかけようとして、服の裾が掴まれ引き留められる。
 振り返ると、すでに進行方向に身体の向きを戻したセツがいた。

「行かなくて、いい」
「……いいって言ったってな、あの子はあんたに石を投げようと――」
「護衛なんだろう。離れるのか?」

 ちらりとだけ、真っ黒な瞳が向けられる。本心では護衛などどうでもいいのだろうが、わざわざ口を開いてまでどうしてもラジルに後を追わせたくはないようだ。

「――わかったよ」

 小さく肩を竦めて、ラジルは身体の力を抜くとともにセツの手をそれとなしに払った。
 そのまま歩みを再開させようとするセツの背に、おい、と声をかける。

「その……大丈夫か?」

 庇ったものの、咄嗟のことで足を捻るなどの怪我をしているかもしれない。なにより精神面での心配が大きかった。
 明らかにセツは先程の少年に狙われていた。自身が対象となり行われようとした感情的な暴力に、平然としていられる人間などそういるわけがない。
 わずかに言い淀んだラジルに、セツは普段のように振り向くことなく平然と答える。

「いつものことだから」

 それ以上ラジルはかける言葉を失い、ただセツの後についていくしかできなかった。
 セツを庇ったとき、一瞬だけ垣間見た少年の瞳。そこには憎悪が混じっていた。だからこそラジルは改めて敵の姿を見たとき、まだ子どもである彼に驚いたのだ。
 あんなにも鋭く、はっきりとした敵意が宿る瞳を子供が向けてくるなどそうあるわけではない。戦場ならまだしも、長らく諍いから離れていたこの国でならなおのことだ。
 投げつけられた石も勢いがあり、確かに傷つける意図をもって放たれたものだと推測ができる。
 セツは少年に恨まれるようなことをしたというのだろうか。
 セツは誰も相手にしなかったがために他者から好かれることはなかった。代わりに、誰にも関わらなかったことで、それほどまで強い敵意を抱かれることもなかったようにラジルの目には見えていた。それほどまでの感情を抱けるほど、そもそもセツが見向きもしてくれないからだ。
 だからこそ少年の悪意とセツが結びつかない。そうして悶々と考えているうちに、ふとセツが足を止めた。

「ここまででいい」
「だけど、家まで送らないと」
「これ以上はいい。どうせすぐそこだ」

 セツはぼそりと言い放つと、そのままふらりと家々の間の路地に入っていく。
 なおもラジルは追いかけようと一歩を踏み出したが、止めた。あまりしつこくする理由もないし、本人がここまででいいと言うのだからそれで構わないだろう。
 そのまま直帰することにして、今まできた道を戻る。同じ距離と足して少しを、これから歩いて宿舎まで戻らないといけないと思うと少し足取りが重く感じた。帰る頃にはとっぷり日が暮れていることだろう。
 今はまだ熟れたような太陽が残ってはいるが、すでに半身は沈み、空の半分が闇夜に染まっていた。
 夕陽に赤く照らされた一帯の居住区は壁の崩れが目立つところが多く、窓も薄く膜が張ったように曇り、濁りを帯びている。そんな家に向かう人々は皆疲れ切った表情で、酷使したのであろう身体を引きずるように歩いていた。貧民たちは肉体的な労働ばかりであるから、そのためなのだろう。
 そんななか反対に向かうぴんとした背筋の、身綺麗にして騎士服を纏う自分はどれほど場違いであるのだろう。
 遠巻きに向けられる視線に肌を突かれながら、いつか誰かが正さねばならない歪みに直面し、ラジルの心はどうしようもできないジレンマに苛まれた。
 王の膝元でもあるので、そこまで悲惨な暮らしをしている者はいない。最低限の暮らしを保証はされているものの、最下位に位置するこの区画の者たちはその日その日を生きるのに精一杯なのだ。
 まさかこんなところに城勤めをする者がいるとは思わなかった。だが、これでセツが随分と早くに退勤した理由にも納得がいった。
 単純に、家が遠いからだ。
 王宮お抱えの呪術師であるのだから、王宮内でなくとも近場に住処を設けられているのかと思った。それでなくとも城勤めの者のための宿舎もあるので、徒歩で通う者でセツほど遠くに住んでいる者はいないのではないだろうか。
 夜の訪れが招く闇以外のほの暗さに沈む周囲の雰囲気に、ラジルは先程のことを思い起こす。
 少年に石を投げつけられ、平然としていたセツ。それはラジルが声をかけたときとまるで同じ対応だった。つまりあんなものは彼にとって日常の一部に過ぎないのだ。
 呪術師は薬学に精通するだけなく、実際に人を呪う術も得ており、日々研究しているという噂がある。だが正式な職務は誰も知らないほど実に曖昧な職であった。
 陰では呪い屋と蔑まれ、疎まれることも多い。この国ではある程度の地位として立場を保証されているものの、他国では召し抱えている呪術師の存在を隠すこともあるのだそうだ。
 城から離れ遠くに暮らしているのも、もしかしたらそれが理由であるのだろうか。
 王がそんなにも器量の狭い人間だとは思っていない。しかし、小うるさい元老院たちがなにか言ったのかもしれない。
 考えられる理由はいくつもあるが、セツの住む場所が場所なだけに、決して明るい理由ではないのだろう。
 ラジルは自分の幼少期を思い出す。
 石を投げつけたことなど、子供の頃に遊びのつもりでしかやったことがない。それだって大人に見られて、こっぴどく叱られて二度とやることはなかった。
 あのときは無邪気で、怖いもの知らずで、自分の楽しみだけを追い求め周囲など見ていなかった。だがそれは子供という視野の狭さが招く哀れさだ。大人になった今では注意をしてきた者たちの気持ちがよくわかる。
 いくら小石といえども当たれば痛いし、痣になったり、出血したりする。打ちどころが悪ければ最悪死に至ることさえもある。
 ただでさえあんなにもひ弱げな身体のセツは人一倍脆弱だ。それでなくとも、前に見かけたとき、軽く肩がぶつかっただけで大きくよろめいていたこともあった。相手が恰幅のよい侍女で、身体に弾力があったこともあるのだろうが、一方の彼女は微動だにもしていなかった。
 いつものことだから――そう、セツは言っていた。
 いつも。それは一体いつなのか。
 今のように勤め先から帰宅するときか、それとも出勤時か。はたまたまったく別のときなのか。
 自分でもつまらぬことが理由で突っかかっていた過去があったからこそ、ラジルもあまり少年を責めることができない。彼のように石など投げつけたりしないが、事の大小ではないのだ。
 ラジルや少年のような態度のひとつひとつに反応していたら、とてもではないが身がもたないのだろう。実際見かけたことはないが、セツに小さな嫌がらせをしているという噂を聞いたことがある。
 セツが感情を露わにしない理由にほんの少し触れた気がする。ただ一度、帰り道を送っていっただけで、彼の境遇の一端を見てすべてを知ったような気にはならないが、それでも大方どの立場にいるのかは把握した。
 今までラジルは、セツに接したとき、一体どれほどの見えざる傷に触れたのだろう。

「――――」

 宿舎に帰ろうとしていたラジルだが、一度思い留まり、町の中枢へのつま先を変えた。


 ―――――