「ラジルよ、わたしのためにセツに惚れてくれ」

 敬愛してやまない主の第一声に、ラジルは一瞬思考が停止した。

「――へ、陛下……今、なんと……」
「わたしのために、おまえにセツに惚れてほしいのだ」

 求めた詳細は悲しいほどに先程と変わらず、ラジルは耐えきれずに頬を引きつらせた。
 普段であれば決してそんなことはしなかった。動揺を顔には出さず、恭しく国王が直々に告げた命に頭を垂れていたことだろう。しかし今は状況が状況なだけに、どうも理解が追いつかない。
 事の発端となる王とてそれは重々承知の上なのだろう。騎士である己の立場を忘れて戸惑いを隠しきれないラジルに苦言を呈することはなかったが、突拍子もない自分の発言からか、もしくはいつまでも呆けているラジルの態度からか、研ぎ澄まされた精悍な美貌をわずかに歪ませて苦い顔をする。
 主の変化にようやく我に返ったラジルは、一言詫びて尋ねた。

「陛下、よろしければ理由をお聞かせいただけるでしょうか。その……何故、わたしが、彼に……惚れなければならないのでしょう……」

 ちらりと、隣に立つ人物に目を配る。
 彼も始めからこの場にいたのだが、あまりにもひっそりとして存在感がなかったし、ラジルもあえて触れぬようにしていたのだが、そうは言っていられなくなってしまった。
 これまで主従のやりとりを沈黙にて見守っていた、というより、興味なさげにただ立っているだけの男は唯一、三人のなかで表情を変えることをしなかった。今も王とラジルの二人の視線を受けてもなお、我関せずという態度を崩す様子はない。
 このとき初めて、ラジルは彼の顔をまともに見た。普段は視界まで覆っているのではないかと思えるほど目深く黒いローブを被っているから、表情が見えなかったのだ。しかし今は国王の前ということで、さすがに首の後ろに落としている。
 纏う黒のローブのように真っ黒な髪だ、とラジルは思った。他の一色も混ぜてみても、すべてその黒にのみこまれてしまうであろうと思えるほどに、深い。
 噂で聞いていただけで初めてまみえるが、周囲と決して馴染もうとしない彼のように、背後の風景に溶け込むことなくはっきりと視界に映る。場違いにも、あれでは夜の闇でさえ及ばないだろうと考えた。
 何故彼がここにいるのだろう、と王に呼び出され、王の執務室に足を踏み入れたときには思っていたものだ。男はラジルよりも先にいて、入室した際にのっそりこちらに目を向けてきたとき以外動いていない。そのときすでに人払いは済んでおり、部屋には王とラジル、そして男の三人だけだった。
 今ならラジルと同じく彼も呼び出された理由がわかる。
 何故なら彼も今回の当事者であって、ラジルが恋をしなくてはならないというセツだからだ。

「その、だな……以前に話したことがあると思うが……わたしが懇意にしている男がいるだろう」
「はい。パン屋の青年のことですね」

 それは以前より話に聞いていた相手のことだ。

「実はその――彼に、惚れてしまってな」
「そっ……そうだったのですか」

 思わず言葉を詰まらせながらも、王の気分を害さぬ程度にはとり繕えて、ラジルはほっと胸を撫で下ろした。 
 実は王は政務に疲れてしまったとき、護衛の目を盗んでは城下の町にくだって散策するという困った悪癖がある。青年と出会ったのも、お忍びで行った町中であったという。
 一年は前のことだ。買い食いを趣味とする王は、ふらりと立ち寄ったパン屋でとてもうまいパンと巡り会ったのだという。そしてそのパンを作ったのが件の青年であった。
 普段、青年は奥の工房に籠ってパン作りに勤しみ、販売は妹に任せているのだという。しかしそのときは妹が風邪を引いて家で休んでいたらしく、店番も青年がこなしていたのだ。
 事情を知らなかった王が彼のパンを絶賛すると、そんなに手放しに誉められたのは初めてだと青年ははにかんだそうだ。
 今は他の客もおらず手は空いているからと、青年は王を店先まで見送ってくれた。そのときについ話し込んでしまっているうちに、背後から忍び寄っていた男に王は財布をすられてしまったのだ。
 すぐに王は走り去る男を追いかけようとしたが、それよりも早く青年が動いた。
 彼はあっという間に盗人に追いつくと、易々と拘束してしまったのだ。そして笑顔で王に財布を返してくれたのだという。
 そうして王は純朴そうなはにかみ顔と、彼の勇敢な姿との差に心を射抜かれた、というわけだ。
 以降、王は執務の合間を見ては彼に会いに行くようになった。
 青年との出会いを語る王の瞳はとても穏やかで、彼を深く愛しているのだと十分に伝わるようだ。そして切なそうでもあった。友人の立場にはなれたが、きっと彼はそういった意味での好意を抱いてくれることはないだろう、と。
 この国で同性愛は一般的ではない。他の国ではその限りではないが、この国では同性婚も認められてはいなかった。
 歴代の王のなかには男色家もいて、過去には後宮に男が入ったこともあるが、今の国王であるアズウェルにそんな話は噂でさえ耳にしたことはない。それどころか王族であるのに女性と閨をともにすることがなく大臣たちが、妃が、世継ぎがと嘆いていたのを耳にしたことがある。
 そのときラジルは、王族といえどもみだりに女性に手を出さぬ硬派な王に増々敬愛の念を抱いたのだった。
 結局のところの事実はどうであれ、これまで王は情事に関しては爛れたこともなく、また色恋の話など口にしたことはなかった。
 そんな王が今、己の恋心を吐露している。それも人払いをしてまでだ。
 普段であれば、王の信頼を得られたのだと感動したかもしれないが、隣に何故かいるセツと、冒頭の王の台詞によって素直に喜べずにいた。

「それで、わたくしがセツ殿に、その……恋をするということとどう繋がるのでしょうか?」
「これだ」

 これまで手に持っていたのだろう、王はそれをラジルに見せる。
 それは硝子の小瓶だった。中には紫色の液体が入っていて、まるで絵の具のように色が濃い。

「それは……?」
「惚れ薬だ。セツに頼み作ってもらった」

 その一言でようやく、ラジルは王の求めるものを理解した。

「その薬の効果をわたくしが試せばよいのですね」
「ああ、そうだ。セツのことだから副作用の心配はないが、投薬実験もなしに彼に飲ませるわけにはいかない。事前にどれほどの効果であるかも知っておきたいが、かといって話を広めたくはない。そこでおまえだ。おまえならば口も堅く、健康であるし、適材と思ったのだ。なにより、わたしのことを応援してくれると思ってな……」
「陛下……っ!」

 ラジルは王から口にされた信頼に瞳を潤ませる。
 同性に恋をしてしまったことには驚いたが、それでも相手は王が決めたのだし、もとより身近にそういった人たちがいなかっただけで偏見もない。なにより王の言葉が嬉しかったので、驚きなど一瞬にして彼方へと飛んでいってしまった。
 ラジルの反応に安堵したのか、これまでいささか緊張した面持ちだった王はようやく小さな笑みを見せた。
 が、それもすぐに曇ってしまう。

「愚かな行為をしようとしていることは重々承知の上だ。彼の気持ちを誰より踏みにじろうとしているのだからな。だがそれでも、彼だけはどうしても諦めたくない。しかしきっと、わたしの正体に気がつけば離れてゆく。そんなやつなのだ。だからそうなる前に離れられなくしてしまおうと考えた」

 自分がなにをしようとしているのか、もし相手がそれに気がつけばどんな風に思われるのか。それをすべて熟考した上で、それでも王は想い人を手放したくないと願ったのだ。
 本当であれば、暴走しようとしている主を止めなくてはならないのだろう。王が私情に動き、一人の人間の感情を狂わせようとしているのだから。しかしそれでも、苦しげに顔を歪ます彼に否定の言葉をかけることはラジルにはできなかった。

「ラジル、やってくれるだろうか」
「陛下――」

 縋るような眼差しに、ついなにも考えないまま首を縦に振ろうとするも、しかし小瓶の中の色を見て思わず引いてしまう。真紫の液体はどう見ても飲んでいいものには見えない。
 なおかつそれも作ったのはあのセツである。王はセツを信用しているらしく、それを疑うつもりはないが、それでもやはりラジルの個人的主観で、ますます勇気は萎んでいく。

「頼む。わたし個人のためを想ってくれるならば」

 王の言葉に、はっとラジルは視線を上げて彼の顔を見た。
 王たるもの安直に頭を下げることはなかったものの、その顔つきはいつもの威厳ある姿で民の行く道を示す先導者の影はなく、恋に臆病になるただの人だった。
 ラジルは彼を王だから尊敬しているのではない。アズウェルという一人の男が王であっただけのことで、彼自身を深く敬愛しているのだ。そんな相手から直々に声をかけられ、そして自分を信じて頼み込んでくれている。
 答えなどはじめから決まっていた。

「わかりました。このラジル、御身のために尽くさせていただきます」

 深く頭を垂れて、心の底からの本心で誓った。
 断れるはずもない。ましてや命令でなくお願いであるのならば、なおのこと。

「ありがとう、ラジル。恩に着る。私個人からとなるが、後で褒美をやろう」
「いえ、そのお言葉だけで十分にございます。陛下のお役に立てるのであれば、それ以上の誉れはございません」

 ようやくまみえた王の笑みに、つられてラジルの頬も緩みそうになった。
 が、それも紫の液体を見て引きつってしまう。
 ちらりと隣に視線を流してみれば、相変わらずセツがぼんやりと立っている。王とラジルが傍らにいても、話をしても、一切気にかけてはいないようだ。
 何故彼がここにいるのか、ラジルのほうは疑問に思わずにはいられなかった。
 彼が惚れ薬の開発者であることは理解している。だが王が秘密を打ち明けられるほど信用に足りる人物でないように思う。ましてや、セツは仕事熱心ではあるものの、王や国への忠誠心には欠けるところがある。
 しかも、だ。

「――陛下。ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ」
「その……何故、相手がセツ殿なのでしょう?」

 ちらりと横目で、隣に立つセツに目を向ける。
 相変わらず、前は向いているがどこを見ているのかわからないおぼろげな眼差しだ。自分の名を出されたというのに、聞いていなかったのかまるで無関心である。
 他の者であればさほど気にかけなかったかもしれないが、よりにもよって指名されたセツは冷淡として有名な男なのだ。優秀な呪術師であるという話は聞くし、王宮付き呪術師であり、王も信頼しているのだから薬の効果は確かだ。だからこそ恋をすることも確実で、しかし相手のセツはきっと迷惑に思っていることだろう。王の手前は大人しくしているかもしれないが、陰ではすげなくされることなど目に見えている。
 いくら薬の効果とはいえ、恋をする相手にまったく見向きもされないのはつらいものだろう。多少こちらに気を使って、期間中だけでもそれなりの対応をしてくれるならまだいいが、セツ相手にそれは望めそうもない。
 なにより、ラジル自身がいささか彼に気まずさを感じていた。

「この話を知る者をそう増やしたくはないことが第一ではあるが、おまえたちはあまり仲がよいと聞かないのでな」

 そうは言うが、そもそもセツと仲のよい人間などいるのだろうか。
 そんな言葉が喉の奥から出かかったが、既のところでのみ込む。王の人選に異を唱えるつもりなどない。
 ラジルは納得したという意味を示すべく、頭を垂れる。
 王から小瓶を受け取り、ラジルは中身の色を見ないようにして一気にそれを煽った。
 惚れ薬を飲み干し、そのなんとも言えぬ味わいと口に残る後味に顔を歪める。
 そのとき、ほんの一瞬だけセツがこちらを向いた気がした。


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