窮鼠猫を噛む

※かなり古い作品です


 

 全力で、涙目で、精一杯走りながら、

「くるなぁああ!」

 力の限り拒絶を叫んだ。
 息を荒くしながら、ちらりと後ろを振り返ってみれば、追いかけていた奴は姿を消していた。
 も、もしかして、上手く捲けた……?
 けれどそんな淡い期待など、すぐに打ち砕かれる。

「――っひ!」

 姿の見えなくなったと思ったそいつは、どんなにおれが頑張って走ったとしても、そんなの関係ないと嘲笑うかのように口元に笑顔を貼りつけている。そして軽々と頭上を飛び越えるパフォーマンスを見せつけながら目の前に立ち憚った。

「随分と可愛い悲鳴だね、ねず公くん。もっと聞かせてくれないか」

 その言葉の全てを聞き終える前に慌てて回れ右してまたダッシュ。旋回する際に人間がフローリングと呼ぶ地面に足を滑らせかけるも、なんとか手を突きながら踏ん張り走り抜ける。
 あんな変態に付き合ってられるか!
 捕まったら何をされるか分かったもんじゃない。だから、決して捕まるわけにいかない――いや、それだけじゃない。もっともな理由は、

「おいおいねず公くん。何故逃げるんだい」
「そんなのっ。おれがねずみで、おまえが猫だからだーっ!」

 わからないなあ、と言った様子で猫は隣を走る。顔を覗きこんできた相手にぎょっとして思わず彼を突き飛ばした。そしてわけのわからない質問に律義に叫び答えてやる。本当は走り続けているせいで呼吸すらままならず、普通の声音で話せないだけなのだ。けれど大声を張り上げることによって、震える声も誤魔化せた。
 彼はおれたちねずみの天敵だ。おれたちをおもちゃにする、あの凶悪な猫なんだ。
 もし今捕まってしまえば一巻の終わり。散々なぶられ食われるか、散々遊ばれ食われるか、二つに一つだ。
 ――って、どっちも食べられるんじゃん! もう一つ加えて、逃げのびる、三つに一つ!
 まだ変態猫に捕まってないけど、それも時間の問題だ。おれたちねずみはすばっしこくて逃げるのは得意だ。けれど、猫は知恵があるうえにおれたちよりうんと身体が大きくて、その上しなやかな体はずばぬけた身体能力を持っている。小さくてすばしっこいだけのねずみが敵う相手なんかじゃない。
 それでもおれだって諦めるわけにいかない。生きるために懸命に走った。けれど猫は息を乱すことなく、平然とした顔で隣を並走して走る。

「そんなに必死になって逃げずともよいのに……――いや何、逃げられれば逃げられるほど燃えてきてしまうんだよ。よし、絶対に捕まえて、ねず公くんを泣かせてしまおうではないか。あわよくば食ってしまおう」
「それっ、口に出して言うことじゃないぃいい!」

 じゅるり、と舌をなめずる音が聞こえる。
 餌を目の前にして猫の口によだれが集まるのと同様に、命の危機に目じりにはついにじわりと水気が集まった。
 ――いい加減、疲れた。ずっと休みなしで走り続けて、呼吸も乱れ、心臓もばくばくと嫌な早鐘を打ち続けている。
 進める足にはもう感覚なんてものはほとんどなくて、今どっちの足を前に出しているのかもわからない。勢い良く振っていた腕も、もう力をなくしていた。
 なんでこんな目に遭ってるんだろう。何も、何にもしてないのに。
 そりゃあ、人間の家におれたちの住処を勝手に作ったり、ちょとくらいは食べ物を貰ったりしてるさ。でも、それは生きるためにしてるんだ。それがおれたちの生きる手段なんだから。
 確かに人間にとっておれたちは疎い存在かもしれないよ。でも、猫たちには関係ないじゃないか。それなのになんで、追われられなければならない? なんで、散々遊ばれて、挙げ句には殺されなくちゃならないんだよ。おれたち鼠は、猫になんにもしてないじゃないか。
 理不尽に嘆けば、脳裏にいつかの父さんの後姿が映った。一匹の野良猫に見つかって、おれと一緒に逃げだしたあのとき、父さんの背中。

『早く逃げろ、キユウ!』

 追ってくる猫と向い合せになった父さんが、おれに背中を向けたまま怒鳴るように名前を叫ぶ。
 すぐにその声に従わなくてはならない。そうわかっていても、おれの目は盾になろうと決意した父さんの背中を映して離さなかった。

『と、とうさ……っ』
『なーんだい、おっさんひとりでおれの相手するっての? ま、ねずみの餓鬼なんざ趣味じゃねえし、増えたってどうってことねえけどなぁ』

 おれを庇って立ち憚る父さんをつまらなさげに見る若い黒猫は、緊張のかけらもないのか、のんきにあくびして目じりに薄らと浮かんだ涙を拭う。
 なんとも隙だらけな姿だったけど、父さんは決して気を許すことなく、猫を睨みつけたまま再びおれの名前を叫んだ。

『キユウ! 早くするんだっ』
『――ごめん、父さんっ』

 普段決して声を荒げず優しい父さんの怒鳴るような声に背を押され、ついにその背中ら目を逸らした。
 走って走って、走り続けて。住んでいた家を捨て、おれは逃げ出した。遠くで聞こえる父さんの悲鳴に耳を塞ぎながら、少しでも遠くへ行くために足も止めずに駆け抜けた。
 あの時も、今みたいにがむしゃらに走ったんだっけ。
 きっと父さんはもう――あの時、父さんがおれを助けてくれた。だからおれは今こうして生きている。
 なのにおれの、父さんが命を張ってまで助けてくれたこの命を、全うさせることなく憎い猫に奪われなければならないのか? まだ可愛いお嫁さんと出会ってない。自分の子供を一匹も抱いてない。自分の家族のために餌を獲りにいったことがない。孫にだってひ孫にだって会えてない。
 なのに、それなのに。
 つい、と頬に涙が伝って筋ができる。荒い息を我慢して唇をかみしめても涙は止まらない。それどころかどんどんと溢れてくる。
 父さんはどんな思いで猫なんかに食われたんだろう。すぐ楽にしてもらえたんだろうか。――きっと痛かったに違いない。あんな悲鳴をあげていたんだから。
 悔しい――悔しい、悔しい!
 死にたくない! おれのこの命は父さんのものでもあるんだっ。それなのに猫なんかに消されてたまるか! おれは生き延びて、子供を作って、そうして勇敢な父さんの血を残していくんだ!
 そう思うのに、涙で視界が悪くなる。走りすぎて足も腹も痛いし、呼吸は苦しい、胸が破裂しそう。意識はもうろうとする。でも諦めず、腕で目元を拭った。それでも涙は止まらないけれど、溢れそうになる度強く拭う。

「――泣いてしまったのかい、ねず公くん」

 隣で猫が声をかけてくる。それが憎くてたまらない。

「うるさい! 猫なんかに捕まってたまるか!」

 身体はとっくに限界だった。けれど歯を食いしばり、底を尽きかけている力を振り絞ってほんの少しだけ逃げる速度を上げる。食われるもんかと、強く拳を握りしめながら。
 隣の猫の影が、僅かに後ろへ下がった気がした。おれは光を見出した気でいたけれど、無情にも逃走劇の終わりは訪れる。
 涙で視界が悪くなっていたおれは、目の前に絨毯が敷かれていることにも気がつかず、その端にできた床と絨毯の段差につまずいてしまった。

「ぁうッ!」

 幸い絨毯はふわりと柔らかく、倒れても大した衝撃はなかった。ただ突然のことに受け身なんて取れず、変に手をついてしまい鈍い痛みが手首を駆ける。
 咄嗟に右手首を抱え丸まると、つい先ほどまでおれを追いかけまわしていたあの猫が、目の前にきてしゃがみ込んでいた。

「大丈夫かい、手首をひねったのか?」

 伸ばされる腕。彼を睨みつけ、手首をひねったその方で彼の手をはじいた。

「触るな!」

 手を叩かれた猫は驚いたように目を見開く。そんな彼を強く睨んだまま、体制を立て直して数歩後ろに下がった。
 ひねった手が痛い。早速熱を持ち始めたのか熱く感じる。でもなるべくそれを猫に気づかれないように、強く拳を握って耐えた。
 怪我をしてない左腕で、未だ目尻に残る涙を拭う。

「きみは――」
「おまえらなんか大っ嫌いだ!」

 何かを言いかける猫の言葉を遮り、声を張り上げた。

「おまえらなんてみんな消えればいい! おれたちを追い詰めて、苦しめて、挙げ句には食べるか嬲り殺すか。おまえらのせいで、父さんは――ッ!」

 ――父さんは、死んでしまった。おれだけを生んで母さんはお腹に残した兄弟とともに死んだ。だから父さんが一匹でおれを育ててくれたんだ。優しくて、強い父さんだった。なのに猫が食ってしまった。
 止まったはずの涙が、また勝手に溢れる。
 あの時、おれが猫なんかに見つかりさえしなければ――あの時おれがいなければ。父さんは死なずに済んだのに。まだ、生きてたのに。なのに、おれのせいで。
 悔しい。悔しくて、悔しくて苦しい。

「おまえら、なんか……!」

 ――本当にいなければよかったのは、おれの方だったんだ。
 その場に崩れ落ちる。俯いて、絨毯の毛を握り占めながら涙を落した。
 これで、最後だ。もう疲れちゃったよ。疲れでがたがたと震える足ではもう逃げることなんてできない。
 そっと、音もなく猫が歩み寄ってくるのが気配でわかった。けれどもう立ち上がることも、相手を睨むことすらできやしない。
 ごめん、父さん。せっかく父さんが助けてくれたのに。出来た息子だったら、父さんのように勇敢な息子だったら、もっと違っただろうに。
 深い後悔に苛まれながら、静かに歪む視界を閉ざす。
 溢れだしてしまいそうな声を噛みしめ、その時を待った。
 どんな痛みでも構わない。父さんだって苦しんで死んだんだ。だったらせめて同じようにこの世から去ってしまいたい。楽にだなんて望んでしまったら、父さんに合わす顔がないよ。
 さらに全身に力を込めて、身をかたくする。けれどいつまで経っても痛みはこなくて、代わりにそっと、頭を撫でる大きな手があった。父さんよりも大きいけど、でもそのぬくもりは同じ温かい手。そして、慰めるように背中の毛を撫でる舌。

「泣かないでくれ、ねず公くん」

 言い終えたあと、またべろりと大きな舌で毛を舐めとられる。優しくそっと、労わるように。おれを食べようなんて微塵も感じさせない。おれの心を穏やかにしてくれようとするように、何度も何度も毛繕いをされる。背中に、肩に、頭に頬に。
 ついにおれは押し殺していた声を開放させた。
 何度も父さんを呼び、苦しんだ。耐えきれない痛みに泣き叫んだ。
 どんな痛みでも堪えるつもりだった。けど、この胸を締め付ける痛みだけはどうしようもできない。それなのに痛みは容赦なく、心を抉る。鋭いその切っ先で幾度となく貫く。とてつもない痛みに涙は止まらない。
 子供のようにぐずぐずと泣くおれをあやすように、毛並みを舐め整える猫。静かに見守り慈しむような穏やかな瞳と視線が重なった。

「おれを、殺さないのかよ。なんどこんなこと、するんだ……」

 鼻をすすりながら、おれは涙に震える声を絞り出しながら理解できない疑問をぶつける。
 ぶしつけな言い方に気分を害す様子もなく、猫は静かな声音で答えを告げた。

「別にわたしに猫を食らう趣味はないから、きみを殺す必要はないのさ。きみにこうするのは、そうだな……わたしにもよくわからない」
「よくわかんないって――そんなの、ありがよ……猫なんて信用できない。どうせ油断させて食う気だろ」

 そう言いながらも、頭に置かれた猫の手を振り払うことはできなかった。身体が自分よりも大きな猫のぬくもりに包まれても、それでも突っぱねられなかった。それよりもまた感情が大きく胸の内を波打ち、締め付けられるように心がぎゅっと痛む。
 それ以上は何も言葉を紡ぐことができず、堪え切れない嗚咽を漏らしながら、憎き猫の腕の中で泣き続けた。

 

 


 目覚めるとおれは、記憶が途切れる前とほとんど同じ体制で猫の腕の中にいた。背中から抱かれ、胸の前で猫の腕ががっちり動きを拘束している。

「起きたかい、ねず公くん」
「――ッ!」

 顔を覗きこまれ、咄嗟に猫の顎を押し返して腕の中から逃れようとする。けれど猫の力は強く、顎を押され顔を背けても、絶対におれの身体を離すことはなかった。それだけでもいらつくのに、捻った手首を刺激させないようにするためなのか、そこだけはがっちりと猫に抑えつけられている。

「このっ、離せ変態猫! 離せよっ」

 自由な左腕と両足でがむしゃらに暴れるも、大きな声で叫んでも、それでも猫は離れない。おれの拳が頬にめり込もうが、足が尻尾を踏みつけようが、それでも決して解放されることはない。右腕すら、掴まれたまま。
 それどころか猫は笑った。

「ははは、本当に猫が嫌いなんだね」
「っ当たり前だ! 誰が猫なんて好きになるかっ、おまえはおれたちの敵だ!」

 いつも猫の影におびえ暮らしていた。いや、別に猫だけじゃなかったけど、一番怖かったのは猫だった。犬や鳥よりも、猫が怖かった。
 どんなに逃げても逃げても猫はしつこく追ってきたし、散々弄ばれてきた歴史がある。猫の手で失った仲間は父さんだけじゃなく、他にも何匹もいた。
 それなのにその猫を憎まないはずがない。
 おれのこの思いは、全身から沸き立つ怒りは、十分猫にも伝わっているはずだ。それでも猫は未だ手放さない。
 それどころか、頬をおれの頭にすり寄せた。

「きみは猫が嫌いなようだが、どうだろう、わたしと一緒に暮さないか?」

 おれの耳を甘噛みしながら囁く猫。始め、そのままがぶりといかれるんじゃないかと身をかたくしていたから咄嗟の反応が遅れた。それよりも、そんな言葉が猫から発せられる訳ないと、無意識のうちに処理しようとしたのかもしれない。
 けれど自慢の耳は確かに猫の言葉を捉え、遅れながらも反応を返す。

「誰が猫なんかとっ」

 またも腕を振り回して足をばたばたと動かすがそれをともせず、猫はおれの頭の上に顎を乗せた。

「何だがきみから目が離せなくてね。守ってやりたいと思ったんだよ」
「――猫なんかに守ってもらわないくてもいい。むしろおまえたちはおれたちに仇なすやつらなんだ、そんな言葉信用できるか」

 どんなに暴れても離してくれないから、ついにおれも諦める。もうどうにでもなれと、吐き捨てるように猫に言葉を返した。
 目が離せない? 餌と認識してるからじゃないのか。それか、ちょこまか動き回るからおもちゃとでも思ってるんだろ。だって猫は動くものに反応せずにはいられないもんな。それに守ってやりたい、だって? どの口が言ってるんだよ。散々追いかけまわしたやつの言葉じゃない。どうしてそう思うのかも理解できないし、したくもない。
 心の中では散々悪態をつきながら猫の腕に爪を立ててやった。やつらほど鋭くはないけれど、本気になれば腕を傷つけることぐらいできるんだ。
 力いっぱい引っ掻いてやれば細い爪跡が猫の腕を辿る。けれど猫は何も言わず、おれの耳を舐めた。

「まあ、その通りなんだろうけどね。別に構わないさ、信用してくれなくて。ただわたしが言うことはすべて真意だよ。他の猫のことは知らないが、わたしは嘘が嫌いなんでね」

 真意だの、嘘が嫌いだの。猫の口から出たというだけで、信じることなんてできない。
 きっとおれがそう思ってることを、この猫は承知の上なんだろう。それでもこうして言ってくる。この猫がどうしたいのか、本当にわからなかった。
 食べるだけならこんなまどろっこしいことはしないだろうから、精神的に嬲ろうとしてるのかな。信用しなくていいなんて最もらしいこと言って、おれを手懐けて、猫のことを信頼したとたん捨てる気なんじゃないかな。
 どうしても拭うことのできない猫への不信感。それすらも隠すことなく表情に出してるっていうのに、それなのに猫は笑うんだ。
 おれと目を合わせて、嫌味なんてひとつも見せずに。

「きみをうんと甘やかしてあげたい。たくさんたくさん甘やかして、きみがここにいていいと理解してくれるまで、わたしはきみを手放さないつもりだよ。――わたしもずっと一匹で寂しかったんだ。そんなところへひょいときみが現れたものだから、つい嬉しくなって追いかけまわしてまったけれど、許してくれ」

 もう無視しようと決めた。けれど、決めたばかりなのにも関わらず思わず反応してしまう。

「……おまえも、一匹なのか?」
「ああ、この家に連れてこられてから、ずっとだ。外に出ることはあまり好きではなくてね。いい主には恵まれているんだが、仲間はいないのだよ。だから、きみをなおのこと手放したくないのさ」

 思わず首をひねり猫の顔を見上げれば、彼は随分とおれより年上に見える。父さんと同じぐらいかな。
 どちらにせよおれよりも長い時間を生きていることは明らかだ。それなのに、ずっと一匹でいたなんて……。
 初めて猫に対して、憎悪以外の感情が芽生える。ほんの少しだけれど、猫が哀れに思えた。おれは母さんと兄弟を生まれてすぐに亡くしてしまったけど、父さんがいたから一匹じゃなかった。だから、生きてこれたんだ
 あ……でも、もう父さんはいないんだっけ。ならおれも、これからずっと一匹なのか。
 それを想像するとぎゅっと心が冷えた。途方もない孤独が胸に押し寄せ、苦い悲しみで満たされていく。
 猫はこんな思いをずっと抱えているんだろうか。

「それにね、きみを引き留める理由は他にもあるんだよ」
「他にも?」
「そうさ。――気休めかもしれないが、まだきみの父親が亡くなったという確証はないのだろう? ならば、まだどこかで生きているかもしれない」

 猫の口から父さんのことについて話が出た時、おれは堪らず息を飲んだ。

「な、なんでおまえが父さんのことをっ」

 声を震わせながらも冷静を保とうと、猫を睨みあげた。
 父さんのことを猫に話してなんていない。それなのに、なんでこの猫は父さんのことを知ってる?
 猫はそんなおれの様子を見て落ち着かせるように頭を撫でてきた。猫独自の情報網と、きみのことを見ていたらね、と言う。
 ならば、本当に猫のさっきの言葉は信じてもいいのか? それとも、これも惑わそうとする猫の嘘なのかな。

「ただし断言はしないよ。あくまで可能性の話しさ。だが、少しでもその可能性が残されている限り、きみが死ぬにはまだ早いのではないだろうか? もしもきみの父親が生きていて、なのにきみが死んでしまったら。その時、父親はどう思うかね」
「…………」
「確信を得てからでも遅くはないのではないかな。それまでわたしと共に暮らそう。少しずつ、確かな情報を集めてゆけばいい。そしてもし、きみの父親が亡くなっていたとしたら――その時はわたしの手で、きみが憎いと思うこの猫の手で殺してあげよう」

 猫はそこで言葉を止めた。そっとおれを離して、向かい合うように身体を移す。そして改めて正面から抱きしめた。
 頭をすっぽりと猫の胸に抱かれながらも抵抗できない。ぽんぽんと軽く背中を叩くてはひどく優しくて、視界はじわじわと歪んでいった。
 信じても、いいのだろうか。その僅かな可能性に期待しても、いいのだろうか。
 あの時確かに背後からあがる父さんの悲鳴を聞いた。聞いたけど、でも実際父さんが食われた場面を目にしたわけじゃない。もしかしたら、あれからどうにかして逃げのびているかもしれない。可能性は、なくはない。でもやっぱり、猫は信用できない。目の前のこの猫も同じだ。
 信じてなるもんか。この温かい腕に、身を委ねてなるものか。
そう頭ではわかっているはずなのに、身体は意思に反して、おずおずと猫の背中の下の方を掴んだ。広い胸に頭を押し付ける。
 相手は猫だ。頭ではわかってる。だから、ここでやつの身体を突っぱねなければいけない。でも――
 震える声を絞り出して、おれの心が決めた意思を彼に告げた。

「まだ、おまえを信頼したわけじゃ、ないからな……信用、できるもんか、猫なんて……」

 鼻を啜ればずずっと派手な音が響く。それに猫は小さく笑った。連なるように胸が揺れ動く。

「それで十分だよ。さあ、今は寝てしまえ。まだ疲れはとれていないだろう? ゆっくり休んで、それから父親を捜すといい。わたしも手伝うから」

 誰がおまえの腕の中で眠るものかと思ったけれど、おれの身体はその声に従うように力を抜いていく。けれど、腰に回した手はしっかりと猫を掴んだままだ。
 おやすみ、と安らかに降りかかる声に導かれるように瞼はとろとろと下がっていく。目尻に残っていた涙が、猫のざらざらとした舌に舐めとられる。
 ――この猫の言う通り、父さんが生きている可能性があるなら。ほんの少しのその可能性に縋ってもいいのなら。おれはその希望が絶えるまで、生きてみよう。それに、猫を足に使うねずみになれたなら、父さんも立派な息子と褒めてくれるかもしれない。だから、だからそれまでおれは――
 眠りに落ちる直前、温かいと思えてしまう猫の胸の中が憎らしくて、少し身を捩り、自慢の前歯でおれを抱きしめる彼の腕に甘く噛みついた。


 おしまい

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おまけ※会話文のみ

猫を飼っている夫妻の帰宅。
「ただいまー。……あら、寝てるのかしら?」
「ただいま。なんだ、セイ(猫の名前)のやつで迎えないで」
「ほんとうね、いつもならちゃんと……ああ、いたいた。セイちゃーん、ままですよ――きゃあ!」
「な、なんだ!? どうした!?」
「あ、あなたっ、せせ、セイちゃんがっ」
「セイがどうした!? ――ん? これは……」
『なーう』
(訳:やあ、未来さん早瀬さん、おかえり)
「おい、セイの腹に埋まるようにいるのは、こりゃあ……ねずみだよな?」
「ええ、そうよねずみよ。なんでねずみなんてうちに……今まで気配なんてなかったのに。ああ、早く捕まえてちょうだい!」
「セイが捕まえたのか? よしよし、偉いなセイ、よくやった。だがおまえもとんだ悪趣味だな。捕まえたねずみをそばに置くなんて」
『なー』
(訳:そうではないんだ。これはわたしが拾ったんだ、捕まえたのではないのだよ)
「……まて、このねずみ生きてないか?」
「え、嘘っ! きゃーっ、早く捕まえてよあなた! 逃げ出されたらたまったもんじゃないわ!」
「せっ、セイ動くなよ、今捕まえてやるから」
『……なう』
(訳:まったく、あなたたちは……これはわたしのだよ、だから可愛がってあげてくれないかい?)
ぺろぺろとキユウの毛並みを整えてやる。
『ちゅう……』
(訳:ん……)
「な、なんだセイ。もしかして、そのねずみはおまえの友達なのか?」
「あら、そうなのセイちゃん……?」
『にぃ』
(訳:友達……は違うのだが、まあ今はそんなところだろうかね。これでわかったかい?)
「そうか、セイの友達ならしかたないな」
「そうね……でも、悪さをしたらいくらセイちゃんのお友達だからって、表に出しちゃうからね! ちゃんと言い聞かせておくのよ?」
『ふんっ』
(訳:感謝するよ、二人とも。よく言い聞かせておこう)
「こんな形でセイの仲間に会うとは思ってもみなかったな」
「ねえ、ねずみちゃんは何を食べるのかしら?」
「さあねえ。ねずみをペットにしてる人はまわりにいなかったかな?」
「そんな人いないわよ。とりあえずチーズでもあげましょうか?」
「ああ、それなら確かだな」
『……』
(訳:……見逃してはもらえると思ったが、まさか歓迎してもらえるとはね。さすがわたしの主人たちというわけか)
『チュウ……』
(訳:うーん、むにゃむにゃ……)

 おしまい