彼の、走る姿が好きだった。
いつからか。それはあまりにも何気なかったことでもう忘れてしまった。
気づけばいつも放課後に利用している図書室から見えるグラウンドを眺めていて。
気づけば走る彼を目で追っていたんだ。
彼は学校でも有名な人だったから、同じ学年でもクラスが違えば名前がわからない人が多い、といったおれでも初めから知っていた。
今年四月に入学してきたばかりの一年生。でもすぐに我が校期待のエースとして陸上部で活躍している、そんな才能ある人物だ。
一年生である彼の教室は一階で、二年生であるおれは二階の教室で。廊下ですれ違うことはまずなかった。だから向こうはおれのことなど顔すら見たことはないだろう。かく言うおれも、二階の隅にある図書室から見える小さな彼の顔しか知らない。眼鏡をかけるほどではないが、あまりいいとはいえない視力では地上にいる彼はぼやけてしまう。でもそんな視界の中といえども走る彼の姿ならば、よくおれに見せてくれる。
陸上のことはあまりよくわからない。そもそも興味さえ、なかったんだ。いつも本を読んでいて、他にグラウンドで部活動に励む部活と一緒にあがる真剣な声はあくまで音でしかなかった。ページをめくる音のように、誰かが椅子を引く音のように、聞き流すばかりで一切気にしたことはない。
けれどある日、ふと本から顔をあげて窓の外を見た。そこから覗く雲を何気なく眺め、ただぼうっとしていた、その時だ。
ピッ、と高く鳴ったホイッスル。その音が耳につき、視線を空から落としグラウンドへ向ける。けれど席に座りながらだと何も見えなくて、立ち上がり窓の傍らに向かった。
今でもなんでああしたのかはわからない。どうして普段は気にも留めない笛の音に反応したのか。
けれど何であれおれは下の世界を見た。そして、ちょうどトラックの角を曲がる彼を見つけたんだ。
陸上に、走ることに何の興味もないやつでもわかるほどに綺麗で整ったフォーム。誰にも寄せつけない速さに力強い走り。しなやかに触れられる肩に、残像を巡らせ回る足に。
彼に見惚れていた。あの時、確かにおれは。
得体の知れない何かに圧倒され、息を飲み。彼が足を止めてもしばらく、膝に手をつき背を丸めて荒く息をつくその姿を見つめていた。
――その日以来、時折ページをめくる手をとめては窓際に立ち、彼の走りを眺めるようになった。そしていつ見ても、筋の通った姿勢で凛と走る彼に目を奪われる。もっと近くで見たいと思ったことはある。けれどそれを行動に移すことはできず、同じ場所で眺めてばかりだった。
初めて彼を目にしたのは六月半ば。それからうだるような暑さの夏を経て、今では日毎涼しさを増す九月となっていた。
その間幾度となく、せめて一階で同じ目線に立とうと思った。けれどどうしてもできなかった。
どうして近くにいけないのか、それは自分でもわからない。けれどこうしてこっそりと眺めているだけでも十分と思えたから、最近では近くに行こうと考えなくもなった。諦めたとも言えるが。
走り終え、コーチと話す彼の後姿をぼうっと眺めていると、ふと外の色が赤く色づき始めていることに気がつく。壁にかけられている時計へ目を向ければ時刻はいつも帰る時間と決めている五時になっていた。
もう帰ろうと窓から身体を離し、もう定位置と化した席に、直接床に置き机の脚に寄りかからせていた自分の鞄に手を伸ばす。
掴んだそれを机に上げ、開いたままにしていた本を閉じて鞄の中にしまう。鞄を開けたついでに今日の宿題はなんだったかと教科書の間に挟まれているプリントを取り出そうとしたその時。指先を、プリントの端がすうっと撫でた。
「っ……」
思いもよらなかった痛みに驚いて息を詰める。プリントから手を離し指先を見てみればしっかりと血が滲み出していた。
溜息をつき、どうしたものかと考え、とりあえずべろりと舌で血を舐めとってみれば、そう深くはなかった傷はすぐに赤い色を薄める。これなら心配する必要もないと今度こそ荷物をまとめて図書室を後にした。
まっすぐに下駄箱へ向かいながら、家に帰ったら英語の予習をやらないとなあと内心では溜息をつく。あまり得意ではない英語でなく好きな国語だったらこの気持ちも勉強といえども浮かぶのに、と歩いていると、下駄箱の影からぬっと出てきた人物に気づかずぶつかってしまった。
「わっ」
「あ」
向こうもぼうっとしていたんだろうか。お互い声を上げ、弾かれあう。
「ごめんなさ……あ」
「――いえ、おれの方こそ余所見しててすみませんでした。大丈夫ですか」
「あ……いや、その、おれは大丈夫」
思わずしどろもどろになる言葉をどうにか紡ぎながら、ぶつかってしまった相手を凝視してしまう。それは、相手がついさっきまで見ていた彼だったからだ。
「あの」
「あ、ああ、悪い」
居心地悪そうなそんな声を上げられ、ようやく失礼なことをしていることに気がつき目線を下げる。すると、視界に映った赤に驚いて咄嗟に声を上げてしまった。
「そっ、その足……!」
おれの視線の先を辿るように、彼は自身の足に目を向けた。
「ああ、これですか。さっき練習中にぶつかって」
「大丈夫なのか?」
「ええ、まあ。とりあえず今から保健室に行きます」
そう、愛想なく淡々とした様子で話す彼に、けれど無関係のはずのおれは内心でひどく慌てていた。
彼は右膝を怪我していた。傷口はすでに水で土を流したのか汚れは見えないし、濡れている。それでも短パンから覗く傷は洗い流されたにもかかわらず新たな血が溢れ垂れたようで、シューズの方にまで続いていた。
痛いだろう、だってあんなに血が出ている。あまり大きな傷ではないようだが見ていると自分の右ひざも疼くようだ。
――怪我なんてして、大丈夫なのか。それも、足を。走れるのだろうか。
当事者でもなければ彼とまったく面識のないはずのおれがひどく狼狽えているのに気づいたのか、けれどやはり変わらない調子で彼は言う。
「大丈夫です。見た目より痛みはないですし、軽く転んだだけなんで。とりあえず今から処置を――」
「……保健室、行くんだよな。ならおれも行く」
気づけばそう、口にしていた。
僅かに見開かれる彼の目に、ようやく自分の発言に気がつく。
「あ、いや、あの……ほ、ほら! これ! おれも指を切っちゃってさ。大したことはないけれど一応と思って、保健室に行くところだったんだ。だからさ」
何故あんなことを口にしてしまったのか、ということよりも、どう言えば不自然にならないかを懸命に考える。
そして出てきた答えが、さっき切った指を無理矢理引き出すということだった。
苦し紛れが拭いきれない自分の言葉に、それ以上続けられる台詞は浮かばず。沈黙してしまえば彼の方から動き出した。
「なら行きましょう」
怪訝な顔も見せず背を向け歩き出した彼に、安堵しながらもついて行った。
保健室の前に辿り着くと扉には板が掛けられていた。それは、先生の一時不在を表すものだ。
どうしたものかと思い、とりあえず扉に手をかけてみると鍵が開いていようで動いた。
いつもならきちっと不在時は閉まっているのに、忘れたんだろうか。もう定年間近の保険医の姿を思い出しながら、最近物忘れが激しいとぼやいていたのを思い出す。
これはさすがにまずい。あとで注意しとかないと。そうのほほんとする先生を思い浮かべながら、職員室にいるというその人を呼びに行こうとした彼を引きとめ扉を開けて中に入る。
「そこに座っていてくれ」
入ってすぐにある背のない丸椅子を示しながら簡易的な道具の入っている救急箱の方へ向かう。そこなら鍵のかかる他の棚とは違い、いつでも開いていて、彼の傷口を処置できる道具があるからだ。
「いいんですか、先生呼ばなくて」
「ああ、いいんだよ。おれは保健委員だからさ、少しくらい勝手に使っても。それに先生にはおれから言っとくし」
救急箱を開け必要な道具を取り出しながら答えれば、彼はぽそりと言った。
「……先輩は、図書委員かと思ってました」
「はは、そりゃたしかに本は好きだけどさ」
ほぼ毎日図書室に通っては本を借りたり、その場で読み出したりするくらいには本が好きだ。でもそのことを、おれの顔も知らないであろう彼が知る由もないだろうに。
そんなに本が好きそうな顔をしているんだろうかと内心で首を傾げながら、取り出したものを手に言われた通り腰かけ待つ彼のもとに向かう。
彼の足ともに道具を置いて、もう一度離れる。今度は水道に向かい、そこに備え付けられている容器にぬるま湯を出して、近くに干されたままになっている白い清潔なタオルをとって浸す。
それを持って彼の正面に跪いた。
「痛かったら言ってくれな」
声はなくとも頷きが返ってきたのを見届けてから、すでにかたまりつつある傷口周りをまず拭う。まだ血は滲んでいるけれどある程度綺麗にした傷口を消毒し、それからガーゼをあててテープを留め、顔を上げた。
「これでよし、と。――痛いよな? 走るのに、影響ありそうか?」
「いえ、これくらいなら平気です。ありがとうございました」
頭を下げられ、心の中で彼の言葉に安堵しつつも、たいしたことはしていないと首を振り応える。
道具を救急箱の中に仕舞い、血で汚れたタオルを揉み洗い傍らに置かれる洗濯機の中に放りこむ。その間、処置を終えたはずの彼は部活に戻ることもなく、ずっとおれの動く様を見ていた。
なんでだろうと思いつつ、後片付けを終え床に直接おいていた自分の鞄を手に取る。
「じゃあ、おれはこれで」
「絆創膏、いいんですか」
「あ。そ、そいうえばそうだったな」
すっかり忘れていた、ダシにされた自分の小さな小さな傷を思い出す。指摘されたからか変な汗を掻きながら、再び鞄をその場において一度は閉めた救急箱に向かう。その中から絆創膏を取り出すと、いつの間にか背後に来ていたらしい彼に声をかけられた。
「一人で貼るの、大変でしょう。貸してください、おれがやります」
「じゃあ、頼む」
さっきのお礼、なんだろうか。
目を合わせられないまま手にした絆創膏を手渡す。彼はそれを受け取ると、絆創膏を包む紙と粘着するテープの面に張られた白いものを全部剥がし、何の断りもなく指先に傷のある方のおれの手を取った。
彼の手に触れられた途端にかたくなるおれの身は、されるがままに手を引かれる。
絆創膏はすぐに張り終えた。
「ありがとうな」
素直にお礼を言い、早く手を離してもらおうと自分から動くも、彼の手はおれの手を掴んだまま。もう一度自分の方へ手を引いてみてもやはり手放されない。
「あの……?」
戸惑い、どうしたものかとそろりと顔を上げてみる。するとおれをしっかり見ていた彼と目があった。
まっすぐな目だ。その目を通し、走る彼の姿を思い出す。
あの時の、初めて見た走る姿が蘇り思わず息を飲んでいると、彼が口を開く。
「いつも見てますよね」
「……な、なにを」
「おれを。ずっと、図書室から」
彼の言葉に頭が真っ白になる。少しずつそれを飲み込んでいっても、それでも激しい動揺は消えない。
「なんで、知って……」
「おれ、目はいいんですよ。だから先輩の存在は前から気づいてました」
始めは、気のせいかと思ったそうだ。どこからか視線を感じていてもでもどこを見ても自分を見ている姿はなかったからと。けれどある日ふと、二階の図書室から彼を見つめるおれの姿を見つけたのだと、そう言った。
もうとっくにおれという存在はバレていたんだ。彼と目が合ったと思ったことはないが、でも彼は知っていた。こっそり見つめていたつもりだったのに。
知られていたことをようやく理解した頭は、ゆっくりとけれど確かに、顔を耳まで真っ赤に染め上げた。
「は、はは! バレてたんだな! その、おまえの走る姿が格好良くてさ。ついその。気持ち悪かったよな、悪い」
最後は尻すぼみになりながらどうにか言い切る。
一気に膨れた熱は言葉を吐くのと一緒に萎んでいって、今度はおれの心をぎゅっと絞る。
もう一度だけ、悪かった、とだけ告げて彼から背を向けた。足音も立てないように、早々にこの部屋から立ち去ろうと自分の鞄へ向かう。
見詰めていた相手が女の子だったら、まだ彼もまだ喜べたのかもしれない。けれどおれは男で、同じ男からその視線を感じてしまうほどに毎日のように見つめられてはさぞ気分が悪かったろう。
もう彼を見るのをやめないと。些細なことではあるけれど、これで気持ち良く走れなくなってしまうのは困る。走る姿を眺められなくなるよりずっと嫌だ。
早く出なくちゃ、とは思うけれど、足取りはどうも重く。
どうにか動かしながら進めば、やはりわからない調子の彼の声に呼び止められた。
「待ってください」
声に、足を止めれば、彼はおれの背にさらに言葉を投げかける。
「おれ、嬉しかったんですよ。熱心に見てもらえて。見守ってもらえて。あんたが見てくれてると思うと、なんだか気持ちが高ぶって。いつもより速く、気持ちよく走れるんです」
だから謝らないでと、こっちを向いてくださいという彼の言葉に、恐る恐る振り返る。彼の表情はまったく変わっていない。
けれど並べられた台詞に背を押され、そろりと口を開かす。
「本当、か?」
「はい」
「……その、これからも見てもいい?」
「もちろんです。見ていてください」
短く返される、愛想のない言葉。けれど飾り気のないそれがむしろ彼の言葉を本当と肯定するようで。
おれはようやく、安堵の笑みを浮かべた。
彼の走る姿が好きだ。
楽しそうで、力強くて、綺麗で、見ていて気持ち良くて。
そんな彼の走りっぷりには、おれの存在が少なからずいい影響を与えているらしい。とは言われても今でも信じがたい話だ。
けれどどうせ見るなら見やすい場所でと校舎の影になる場所で、お互いが見やすい校舎の壁際にいろと言われ。
部活の休憩の度に傍らに来ては飾り気のない言葉で話しかけられ、さらには授業の合間の休み時間や昼飯の時なんかにわざわざ二年のおれの教室に一年である彼がくるほどなのだから。
少しだけなら、信じてもいいのかもしれない。
校舎の影に背を預け、膝を抱えながら読んでいた本から顔を上げる。
視線の先では彼が、ホイッスルの合図とともに駆け出した。
おしまい