13

 

 困らせるようなことを言ってすまない、と伝えようと口を開きかけたところで、リアリムはでも、と続ける。

「でも、おれは今、勇者さまをもっと知りたいと思った。不幸な話を聞いて、だから同情して……なのかもしれない。でも勇者さまがどんな考えをされているのか、確かに知って理解したいと思った」

 触れられたとき、目を閉じて見ることのできなかった表情。多くを語らぬ口からだけ知り得ない、その心。
 彼がなにに喜び、なにに笑い、そしてどんな苦しみを持ち、それでも前に歩もうとするのか。
 いくらどこにでもいる一般人だったとしても、しかしリアリムはもう勇者の“仲間”なのだ。いきさつはどうであれこれからともに旅をすることになる。長くなるか、あっさり終わりを迎えるか、それは誰も知らないが、理解し合うことは潤滑に旅路を進んでいくうえで重要なものとなっていくだろう。相手がなにを考えているのかわからないとびくびくと怯えてばかりでは、疲弊していく一方だ。
 そんな打算がないとは言わない。けれども口に出した言葉には純粋な興味も含まれていたし、本気で勇者相手に憐れみを覚えたからだ。

「教えるなんて約束はできない。でもそんな、どうなるかわからない延長線上の話でもいいなら、なりゆきに任せてもいいなら、おれはおれなりに勇者さまとわかりあっていきたいと思う。……それじゃ駄目かな」

 なにも求められているものは、事情を考慮しなければ至って単純なものであるのだから、難しく受け止める必要などどこにもない。リューデルトに媚を売るために、二つ返事で任せておけとでも頷いておいて、後々報奨なり受け取ることだってできたはずだ。求められることをなせば、明らかに大きすぎる不相応な欲求でもない限りリューデルトは受け入れる。それだけ勇者が知るべき温もりは重要なものであるのと仲間たる魔術師の様子が切々と訴えてえていた。たとえ欲がちらつく姿を見ていたとしても、リアリムしかそれをできないのだから背に腹は代えられないのだ。しかしリアリムはその卑怯な可能性でいかに不幸に見舞われた己の境遇を変えるか、想像どころか思いついてすらいなかった。
 それは話を持ちかけた、リューデルトしか気がついていなかったのだ。
 昔から真直すぎるきらいがある、とリアリムは言われていた。黙っていれば気がつかれなかった粗相も自分から告白して、ときには叱られたし、意見を求められて、自分の内がそれに否定的な答えであったり、相手が求めていないことであったりすれば曖昧に笑うばかりだった。
 大人になった今はある程度の処世術は身に着けて、相手の望む応えを導き出せるようにもなったが、それでもやはり肝心なところでリアリムは真っ直ぐだ。
 その持ち前の正直さでリアリムは今、リューデルトと、そして勇者と向き合った。これまでの戸惑いも捨て切れてはいないが、求められることでようやく腹を据えることができたのだ。
 確かに不本意なかたちで勇者たちの仲間になった。決して自らが望んでいたわけではない。だが、納得していた振りはやめて、いい加減受け入れよう。
 これがもし、勇者一行に加わるのではなく、ただの旅人の仲間に加わるのだとすれば、きっとリアリムはここまで思い煮つめなかっただろう。迷惑をかけることはかわらず自責しただろうが、もっと前向きであったはずだ。
 勇者だから、ただの一般人だから。本当であれば声をかけることさえもままならない相手だったから、初めに隔てられた壁はあまりにも高かった。しかしそれも結局のところ、リアリム自身が感じていただけに過ぎない。
 勇者とて、心持つ人なのだ。その立場よりも以前に、人としての感情がある。だからこそ影がある。リアリムはもう、その影を見つめることになる“仲間”となったのだ。
 自分たちは今、同じ場所に立っている。同じ景色を見ている。手を伸ばせば届く場所にいる。彼の体温を、確かに感じることができる。勇者との間を遮る壁は現実にはない。
 今すぐに見えない障害を取り払うことはできないが、きっと近い将来完全に消えてしまうだろう。それは可能性ではない、確信だった。
 リューデルトも、これまで感じていたリアリムの壁が少しだけ薄くなったような気がして、ようやく心から微笑んで見せる。

「ええ、十分すぎるくらいです。どうぞリアムなりの速度で距離を縮めていってくださればと思います。勿論、温もりを教えてほしいとは頼みましたが、それに性的なことは含まれませんので、ご安心を」

 ぱちりと片目を瞑ってにやりと笑ったリューデルトに、リアリムは幾度か瞬き、それからじわじわとこみ上げたものに堪らず吹きだした。
 しばらく続いていた沈んだ表情が、ようやく和らぐ。
 こうして話をしてようやく、リューデルトという男の芯に触れた気がした。

 

 


 部屋の戸を叩くが、返事はない。
 応えがなくとも入室して構わないとリューデルトから許可を得ていたリアリムは、自ら取っ手に手をかけ、薄く扉を開いた。
 そろりと顔だけを覗かせれば、それほど広くはない部屋の中にふたつ並べられた寝台の片方に、胡坐を掻いて壁に背を預ける勇者がいた。顔は窓のほうに向けられていて、表情は窺い知ることはできない。しかし、眠っているわけではないのだろう。

「失礼します」

 扉を身体が入る隙間分だけ開かせると、建てつけが悪いのか、ぎぃと音が鳴る。それでも勇者の目が向けられることはなかった。
 勇者から、リアリムを同室に望んだとリューデルトは言っていたが、本人の態度を見ていれば疑いたくなる。しかし来てしまったものは仕方がないと、リアリムは改めて覚悟を決めて一歩を踏み出した。
 空いているもう片方の寝台の上に少しばかりの荷物を置き、これまで大人しく上着の衣嚢に収まっていたヴェルを取り出す。どうやら眠っていたらしく、掌のなかでは眠たげに目を細めていたが、傍らの棚の上に置いてやれば小さな手で顔を洗っていた。
 ヴェル用の餌の種をしいた手巾の上に乗せてやれば、のそりと身体を起こして、用意した飯を頬張り出す。
 しばし小さな友の姿を眺め、やがて彼が頬袋をいっぱいにしてどこかに隠れてしまうまでを見届け、リアリムは勇者越しに窓の外を見た。
 枠のなかの夕陽色の空は端を闇色に染めつつある。夜の訪れは確実に迫ってきていて、半刻も経たないうちに陽は完全に沈んでしまうのだろう。
 外の世界を見つめたまま動かぬ勇者を気にかけつつも、リアリムは就寝のための準備を整えていく。
 服も簡易的な寝着に変えて、ヴェルための飲み水を小皿に用意してやり、それからめくり上げた毛布の中に身を滑らせる。
 勇者には背を向け、小さく息を吐きながら目を閉じた。
 リューデルトには自分なりに親しくなっていく、とは言ったが。はたしてどう接していくべきなのだろうか。これまでの勇者の姿や、リューデルトたちの話からして、触れれば爆発するような苛烈な性格ではないはずだ。しかし、やはり彼という人間を捉えきれずにいるものだから近づき方がわからない。
 せめてもう少し話すことができれば、なにか会話へのきっかけがつかめれば――
 考えているあいだにも、リアリムは眠りの泉へと身を浸していく。慣れない乗馬に続き、話を聞くために歩き回っていたこともあり、疲労は溜まっていく一方だ。夜も野宿で、硬い地面の上に直接しいた毛布一枚なのだから、身体が癒えきっていないのだろう。
 だからといって、背後で動いた勇者に気がつかなかったのはなにも万全の状態でなかったからではない。
 気配を殺すことが身に染みついてしまっている勇者は、軋みを上げやすいはずのやや古い寝台から起き上がっても音はなく、足音も立てず、そっと横になるリアリムの傍らに立った。
 リアリムが勇者の存在に気がついたのは、自らが身体を預ける寝台が、新たに加わった重みに傾いたからだ。

「ん……?」

 望まずして動かされた身体に、ほとんど眠りかけていた意識は浮上する。重たい目を擦りながら振り返れば、暗がりのなか、ぼんやりとした人影を見た。
 月の光も差し込まぬ室内は闇に覆われている。しかし白い肌は暗闇を跳ねていた。
 幾度か瞬きしているうちに、ようやく寝ぼけていた思考も霞がとれていく。そして自分を見下ろす空色の瞳と確かに目を合わせて、ついにリアリムは傍らの勇者に気がついた。

「ゆ、ゆうしゃさまっ……?」

 咄嗟に背を浮かして、勇者がいるほうとは反対に身体をずらす。

「あ、あの、なにかご用ですか?」

 勇者は口を開かない。けれども退こうとはしない。
 続く沈黙にリアリムが強い苦痛を感じ始めた頃、薄らと目の前の唇が動いた。

「……一緒に、寝てもいいか」
「え?」
「――やっぱりいい」
「あっ、ちょっと待ってくださいっ!」

 ぽそりと呟かれた言葉はあまりに小さく、聞き間違いかとも思った。しかし勇者の反応を見れば、間違いはなかったのだと教えられる。
 あれほどじっと動かずいたのに、あっさりと背を向けた勇者に慌てて手を伸ばす。咄嗟に彼の手首を掴んで引き留めてしまった。
 ゆっくりと振り向いた勇者の視線に、我に返ったリアリムは握った勇者の手を放して頭を下げる。

「申し訳ありません、突然、触れてしまって……」
「――いや」

 互いに目線を下に、口を噤む。
 また始まろうとする沈黙を感じ取り、リアリムはつっかえそうになる言葉でそれを遮った。

「あ、の……よろしければ、一緒に眠りますか?」

 返事はなかった。それは拒否ともとれたが、リアリムは少し考えた後、身体を横にずらしてもう一人が横になれるぎりぎりの空間を空けた。本当はゆとりを持ちたいが、寝台は生憎一人用だ。それも成人した男二人が乗るのだから、狭いのは仕方がない。
 毛布の端を持ち上げ、そうしていいのか一度躊躇ってから、控えめに場所の空いた敷布をぽんぽんと叩いた。
 それはよく、夜に寝られないとリアリムの寝台の脇に訪れた妹のリアーナにしていたことだった。多くの言葉をかけない代わりに、ここにおいでと、伝えるために。
 勇者相手に子供に対して行っていた態度をとっていいのか悩んだが、リアリムは彼を勇者だからといって無暗に構えることを止めようというのだから、恐れるものなどないはずだ。それでもし呆れられたり、怒られたりしたのならば、それは勇者との距離のとりかたを間違えただけで、次から気をつければいい。なんの行動もしなければ、なにもわからないままなのだから。
 やや強引な前向きな意識を働かせて、リアリムは半ばやけくそ気味に、反応のなかった勇者に伝わるよう、もう一度同じ場所を掌で叩く。
 勇者からは言葉もない。やはり駄目だったかとリアリムが毛布を持った手を下そうとしたとき、闇のなかで影のように輪郭を曖昧にする勇者が動いた。
 身を屈めると手を置き、寝台に上がってくる。リアリムがさらに毛布を持ち上げると、勇者はそろりとそこに横になった。
 狭そうにはするもののどうにか場所に勇者が収まったのを確認して、ようやくリアリムは疲れ始めていた手を下した。
 勇者の身体にもかかるように布を広げたとき、彼の肩に手が掠める。しかしリアリムは以前のように謝るなどしなかったし、勇者も自ら離れようとも、睨むような視線を寄越すこともなかった。
 やはり男同士ともなれば寝台の上は窮屈で、二人とも身体を仰向けにすることなどできなかった。互いに横になっているのだが、招いた側と招かれた側という成り行きに任せたまま向かい合うかたちとなっている。
 枕は勇者に渡してしまっていたリアリムは自らの腕を代わりにするが、そうするときいつもは適当に投げ出したり、顔の脇に置いたりしている空いた片腕は、今や身体の上に乗せている。そのおかげか、勇者に触れることはなかった。

「――おやすみなさい」

 リアリムが予想した通り、勇者は声を出さなければ身じろぎひとつしなかった。先に目を閉じてしまったから、彼がリアリムを見ているのか、同じく眠りにつこうとしているのかもわからない。
 触れ合っていなし、視界も閉ざした。耳を澄ましてみても勇者の呼吸は聞こえず、このまま彼の存在など感じなくなるのだろうかと思った。そのおかげか、それともこれまでとのリアリムの意識の差なのか、隣に勇者がいる、とわかっていても緊張感はまるでなく、身体からは力が抜けていって重みを増していく。
 このまま眠ってしまいそうだと思ったそのとき、ふと毛布の中がじんわりと温かくなってきていることに気がついた。同じ寝台の、同じ毛布を共有する勇者の影響だ。
リアリムが一人で入っているときより、熱が溜まっていく。それは紛れもなく他者と寝ていることを実感させた。
 少し暑くも思えるその温もりに、すでに夢うつつになりつつあったリアリムは幻想を見る。
 薄らと持ち上げた瞼の先で、闇の中でも微かな煌めきを見せる金色。空気と布越しに伝わる相手の体温。

「り、ぁ……な――」

 ――よかった……すべては、夢だったんだ。
 腕を伸ばし、隣にいる者を抱き寄せる。自分が知っている小さく柔らかな身体と正反対のそれに、気づかぬ振りをして、完全に意識を手放した。

 

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