14

 

「ねえ、おにいちゃん。わたしも町につれてってよ」

 森に入る準備を整えているリアリムの背に、少女の声がかけられる。振り返れば大きな瞳を輝かしたリアーナがいた。
 恐らく、父あたりが口を滑らせでもしたのだろう。明後日町に薬草を売りに行くと、彼女には伝えていなかったのだから。教えてしまえば、きっと今のようにつれてって、とせがまれることが目に見えていたからだ。

「駄目だよ。今回おれ一人で行くからリアーナはつれていけない」

 笑顔で擦り寄ってくるリアーナに、リアリムは苦笑を返すだけだった。
 父も同行するときは、交渉に集中していようともどちらかがリアーナに目を向けていられる。しかし一人しかいないとすると、ふらりと興味のあるもののほうへ行ってしまう彼女を見張ることができない。町は広く人通りもリアリムたちが暮らす集落と比べるべくもない。集落ではどんなに遊び回っていようとも、リアーナが誰の娘かを知っている他の大人たちが見ていてくれるが、目的の町のワンナではそうもいかないだろう。誰しもが見ず知らずの他人なのだから、そこへ紛れてしまえば見つけるのは容易ではない。ましてやまだ幼い少女だ。どんな犯罪に巻き込まれるかもわからないし、かといって身体に縄を巻いておくことなどできるはずもなく、考えれば考えるほど同行させるなどあり得なかった。
 リアーナ自身もこれまでにも繰り返されてきたからこそ、リアリムの答えをわかっていたのだろう。リアリムが首を振れば、すぐにでもぷくっと頬を膨らました。

「この間だっておとうさんがいかないからって、連れてってくれなかった。わたしだっていきたいのに、おにいちゃんばっかりずるいよ」
「遊びに行っているわけじゃないんだぞ」
「わかってるもん!」

 完全に臍を曲げてしまったらしいリアーナは、細い腕を組んでぷんとリアリムから顔を背けてしまった。そうしても、リアリムが頷くことはないとわかっているだろうに。
 以前より足を悪くしていた母は、近年さらに悪化させてしまっていた。常に鈍い痛みがあり、立って歩くのにも苦痛を覚える日が増しているのだ。ときにはひどく熱を持つこともあり、父はそんな母の面倒をみるために今回も町に行かないと決めた。リアリムがつつがなく父の代行をはたせるまでに成長したのも大きいだろう。
 リアーナとて九つになるのだから、連れていけないこともないのだ。しかし日頃から彼女を観察していても、どうもまだ落ち着きが足りず、我慢もできていないように思える。商売中、隣に座っていなさい、と言っても気がつけばそこからいなくなっていることが容易に想像できた。
 あながち間違いではない予想がたってしまううちは、やはり連れていくべきではないのだろう。
 リアリムはしゃがみこみ、そっぽ向くリアーナと同じ目線に立ち、彼女の柔らかに波打つ金色の髪を撫でた。

「もう少しリアーナが大きくなったらつれてってやるよ。だからそれまでは、家でとうさんとかあさんと一緒に留守番していてくれ。な? お土産もいっぱい買ってきてやるからさ」
「……あめ」
「ああ。瓶で買ってきてやる」
「本当?」

 背けられていた鼻先がリアリムに向かい、疑いながらもほのかな期待を孕んだ瞳が向けられる。
 予想通りの要求をされたリアリムは、吹きだしそうになるのをどうにか堪えて、けれども口の端をわずかに緩めて頷いた。

「本当。ちゃんといい子で留守番できた子には、焼き菓子もつけようかな」
「ちゃ、ちゃんとおるすばんできるっ!」

 さあっと興奮に色づいた頬を突いて、リアリムは準備を進めていた荷物に振り返れば、いつの間にか用意が済んでいた。終えた記憶はなかったが、それを疑問に思うでもなくリアリムは籠を背負い、小さな鞄を腰に巻く。
 服の裾を引かれて、もう一度リアーナのほうに顔を向けた。
 これまで自室にいたはずなのに、場所は家の外に移っている。森への入り口の場所に立っていた。

「ねえ、町はいいから、薬草拾いのおてつだいなら行ってもいい?」
「それも駄目だ」
「えーっ、なんで!? いつもはいいって言ってくれるのに!」
「今日は深いところまでいくからな。もしかしたら獣に遭うかもしれないし、道も悪いし、だから駄目」

 まさか拒否されるとは思っていなかったのだろう。リアーナ用の籠がすでに背負われていた。しかし、準備ができていたとしても連れていくつもりはない。

「町もだめ、おてつだいもだめ……おにいちゃんのけち」
「リアーナを心配しているんだよ」
「……もう」

 リアリムの本心を伝えれば、まんざらでもないのだろう。リアーナはほんの少し唇を尖らせただけで、先程のように怒る素振りを見せることもなかった。
 諦めてくれたらしく、籠を肩から下ろしてリアリムも見上げる。

「なら、帰ってきたらリアーナはお姫さまだからね。いっぱい遊んでくれなきゃだめなんだからね?」

 明日には町へ行くため、リアリムが集落を立つとわかっているからこそ、彼女なりに甘えてこようとするのだろう。こんなときでないとリアーナは家業の手伝いなどしようとはしないのだから。
 血のつがなりはないといえども、リアーナのことは生まれたその日から面倒をみてきている。リアリムが本当の妹のように彼女を愛しているのと同じく、リアーナもまたリアリムを慕ってくれている。互いに義理の兄妹だということを思い出すことはほとんどなかった。
 時々小憎たらしくもある可愛い妹。リアリムは跪き、小さな手を取る。

「リアーナ姫の仰せのままに」

 花のように広がるリアーナの笑顔に、リアリムは満足して立ち上がった。

「それじゃあ行ってくるな」
「うん。気をつけていってらっしゃい!」

 リアーナに背を向け、いざ歩き出そうとしたとき、身体が動かなかった。いや、自らの意思で動こうとしなかったのだ。
 何かが胸の奥で引っかかっている。それが、地面に足を縫いつけていた。
 ――行くな。 

「……おにいちゃん?」

 リアーナに呼ばれ、はっと我に返った。振り返って不思議そうにリアリムを見つめる彼女に曖昧な笑みを浮かべて、今度こそ踏み出そうとする。けれどもやはり、足は出なかった。
 ――行くな。森には入るな。
 頭の中に、霞みがかった声が聞こえる。だが、なにを言っているのかわからない。恐ろしい声音に思えた。
 胸に焦りのような、不穏な気配を感じ取ったかのような恐怖が広がっていく。身体が、凍りついていくかのように、足先から一切動かなくなっていった。
 ――行くな。行くな。間に合わなくなる。
 ――行くな。離れるな。でなければもう、二度と――

「もー! 早く行って、早く帰ってくるの!」

 どんと背を押され、リアリムはよろけるように足を踏み出した。途端に呪縛は解かれ、身体が軽くなる。あれほど感じていた焦燥のようなものは一瞬にして消え去り、聞こえていた声も忘れて、何事もなかったかのように歩き出した。

「それじゃあ、家で大人しく待っていろよ」

 後ろを見ないままに手を振り、森の中に入ろうとすると、リアーナが思い出したかのように、あ、と声を上げた。

「お兄ちゃん。あのね」
「ん?」

 ようやく進み出した足を一旦止めて、振り返る。その瞬間に強い風が吹き抜けた。
 咄嗟に腕で顔を覆い、目を細める。風はすぐに収まり、リアリムが腕を下すと、世界は一変していた。
 あの日見た絶望が、すべての終わりが、そこにはあった。
 魔獣の襲来を色濃く残す大地の爪痕。漂うのは家屋の焼け焦げた臭いと微かに香る鉄の臭い。未だ残る火の手はゆらゆら踊り、集落の名残をすべてのみ込んでいく。散乱するのは脱げた片靴や、震える手で構えたであろう武器代わりの農具。喰えないからと捨てられた、装飾品に、ちぎられた衣服。
 地に飛び散る血を見つめていたとき、不意に唸り声が聞こえて、はっと頭を上げる。視線の先には威嚇するヘルバウルの姿があった。
 鼻先に皺を寄せ、鋭い牙を見せている。口周りは血に濡れていた。
 リアリムが惨すぎる現実から目を逸らそうとしたとき、ふと気がついてしまった。見せつけられる牙に絡まった、長い金色の髪に。
 掌に、撫でた髪の触感が蘇る。甘えたように擦り寄り、そして頬を膨らませ、笑顔を見せた妹の金の長髪。
 リアリムは胸に押し寄せる圧倒的な後悔、喪失感に、その場に崩れ落ちた。
 守れなかった。傍にいることさえ、できなかった。
 どれほど恐ろしかっただろう。どれほど、痛かっただろう。どんなに想像しようとしたところで、生き残ったリアリムが知れることなどあるわけがない。
 何故、こんなことになってしまったのだろう。
 魔獣などこれまで影すら見かけたことはないほどに、平穏な集落だった。警戒することがあるとすれば、近くに住まう獣たちだけで、彼らとて集落全員の命を奪うなどという暴挙に出ることもなかっただろう。
 リアリムを一人残して、皆食われた。建物も壊され焼かれ、ここまで本来の形を失えば、もう人も寄りつくことないだろう。誰も復興に集まらなければ、リアリムの故郷は真の意味で失われたも同然だ。唯一生き残ったリアリムでさえ、しばらくあの場所に戻ることさえできない。
 まだ誰一人弔うことができていない。遺体はないが、せめて彼らの持ち物ひとつひとつを地に埋め、安らかにあの世に行けるようにと願ってやることもやれていない。そもそもリアリムは、あそこへ戻ることができるというのか。
 何故、こんなことになった。
 何故あの平穏は奪われなければならなかった。
 ――自分のせいなのか。
 魔物さえ呼び込んでしまう、魔を呼ぶ者が影響しているのか。皆を屠ったヘルバウルを引き寄せたのは、他ならぬ己か。
 それなのに何故、たった一人生き残った。何故、皆とともに奪われてくれなかった。
 何故まだ幼かった妹まで、あんな、惨い死を――
 多くのやるせない疑問が頭に渦巻き、リアリムの心を裂いていく。もし自分さえいなければ、あの日夫婦に拾われていなければ。そんな過去を思ったところで現実が覆ることはないのに、己の存在を呪うしかない。どうしようもできないことだった、仕方のないことだったと、受け入れられない。
 口元を濡らしたヘルバウルが、血生臭い息を吐きながら、耳元で囁く。
 ――恨め。この世を。
 ――憎め。己が存在を。
 ――呪え。生ある者を。
 頭を抱えても、振り払おうと暴れても、声はしつように追いかけてくる。
 恨め、憎め、呪えと。他者を、自分を、この世界をと。
 違う、悪いのは自分だけだ。他の誰でも、なにものでもない。魔を呼ぶ者であるのは自分だけなのだ。
 それなのに囁き声に心が奪われていく。すべてを、本当に恨んでしまいたくなる。
 ちがう、ちがう、すべてはおれが、おれだけが――でも、ほんとうにわるいのは、おれだけだったか。
 周囲にいなかったはずなのに、なんらかの理由で現れた魔獣は? 平穏だからと警戒を怠った皆は? 間に合わなかった、勇者たちは?
 ちがう、誰も悪くなんてない。
 ――恨め、憎め、呪え。この世を、己が存在を、生ある者を。すべてのものを。
 ちがう、ちがう、ちがう……!
 

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