15

 


 突然頬に衝撃が走り、リアリムははっと目を開けた。びくりと身体が震えたものだから、驚いたヴェルが、眠っていたらしい耳元から寝台の下に逃げていく。
 耳障りな音がすると思ったら、それは荒くなった自分の呼吸と、早鐘を打つ心臓が奏でているものだった。
 汗がこめかみを伝う。しばらくリアリムは呆然として、一度瞬きようやく目の前にある勇者の顔に気がついた。
 陽が昇り始めているのか、窓から差し込む光は薄明るい。まだ弱い明かりではあったが、勇者の金色の髪は微弱な光でも輝いていた。

「目覚めたか」
「――ゆう、しゃ……さま」

 未だ息を荒げる口から出た声は、あまりに掠れていた。

「ひどくうなされていた。だから、起こした」

 そうっと勇者の指先がリアリムの頬に触れる。くすぐるように撫でられて、リアリムは目覚めたときのことを思い出した。恐らく勇者は、リアリムの頬を張って現実に引き戻したのだろう。
 叩いたことを悔いているのか、撫でる手つきは優しい。あのとき確かに衝撃を感じたが、しかし今ひりひりとした痛みも残っていない。十分手加減をしてくれたのだろう。
 恐れつつも宥めるように触れくる指先に、リアリムはようやく強張っていた肩から力を抜いた。
 自ら、頬を寄せていくと、勇者は一度動きを止める。けれどもまたゆっくりと動作を再開させた。
 リアリムは目を閉じる。しばらくすると呼吸も落ち着き、心臓も平常を取り戻す。汗も引いていき、少し寒さを覚えるほどだった。
 勇者の手は頬から髪に移動する。汗で濡れているのに気にする様子もない。ただリアリムを癒すために尽くそうとしてくれているのがわかった。

「――悪い夢でも、見ていたか」
「わるい、ゆめ……」

 目を覚ます前、自分は確かになにか夢を見ていた。うなされるあまり心配して勇者が起こすほどなのだから、きっとよほど恐ろしいものだったのだろう。
 しかし、リアリムはすべてを忘れてしまっていた。あれほど心臓を激しく鳴らしていたのに、つい先程までその世界にいたのに、まるで覚えていないのだ。
 リアリムはぽつりと言葉を繰り返しただけで、勇者の問いに答えなかった。勇者もそれ以上追及しようとはせず、手つきも変わらないままだ。
 今日は、それほど緊張はないのだろう。手汗を感じることもなければ、指先の冷えもない。頬に触れていたときなど、むしろリアリムのほうが血の気が引いて熱がないのか、温かいとすら思えた。
 これが本来の勇者が持つ体温なのだろう。それがあれだけ冷たかったのだから、やはり彼にとって他人に触れるという行為はよほど恐ろしかったのだ。
 決して慣れたわけではないのだろう。リアリムに勇者自ら触れたのは昨夜以降なかった。それでも、リアリムがうなされ、きっとひどい顔色をしているから。だから心配してくれているのだろう。
 薄らと目を開けると、リアリムを見下ろす勇者と目が合った。

「どうした」

 普段声などかけてこなかったのに、今は勇者から話しかけてくる。それほどリアリムの姿を不安に思ってしまうのだろう。
 リアリムは未だ夢の中に漂っているように、思考がすっきりとしていなかった。だからなのだろうか。リアリムはまた、勇者の言葉に応えることができなかった。言われた台詞は確かに頭の中に入ってきたのに、理解する前に霧散していってしまう。そしてもうもとの形にもどることはなかった。
 リアリムが一度深く息を吐くと、勇者の手が止まる。それに気がつかないまま、彼の頭に目を向けた。

「――勇者さまの、髪。おれの妹と同じです。リアーナの髪も、金色で。よく陽の下できらきら輝いていたんです」
「そうか」

 力の入らない手を持ち上げて、勇者の髪に触れる。指先で摘まみその感触を確かめた。
 リアーナの髪は細く絡まりやすかったが、彼のものは硬くしっかりとしている。指に巻きつけるほど長くもない。
 色はそっくりだがまったく別人のもの。当然だ。彼は勇者であり、リアーナではない。年齢が違えば、性別だって異なる。置かれた環境も辺境の娘と旅をする勇者であり、性格もお喋りだったリアーナと違い、勇者は寡黙だ。中身は対照的な二人だった。
 勇者は、リアリムの手が疲れて落ちてしまうまで好きにさせてくれた。男に髪を弄られて楽しいわけがないのに、不愉快そうに顔を歪めることもない。それはリアリムを憐れんでいてのことなのか、単に気にならなかっただけか、それとも内心では嫌がっているのか。表情を変えることのない男から窺えるものはなかった。

「……もう大丈夫か」

 今度こそリアリムは浅く頷いた。
 勇者はほんの少しだけ表情を和らげたのだったが、正常な意識でないリアリムがそれに気がつくことはない。
 勇者は寝台脇に膝立ちになっていた身体を起こして立ち上がる。そのままリアリムに背を向けた。
 もしかしたら、本来勇者に用意されたもうひとつの寝台へと行くのだろうか。それもそうだろう。もう夜明けがほど近いが、起き出すにはまだ早い。もう一眠りしたいとこだろうが、もしまたリアリムがうなされでもしたら、落ち着いて寝ていることもできないはずだ。
 リアリムは黙って勇者の背を見送るつもりでいた。しかし彼は一向に踏み出さないまま振り返る。
 勇者は身を捩り、腰辺りに手を回す。そこでようやく、リアリムは自分の右手が勇者の服を掴んでいることに気がついた。勇者が解こうとする前に、慌てて自ら離れる。

「すみ、ませ……そんなつもりじゃ」

 いつの間に、勇者の裾を握っていたのだろう。リアリム自身が意識していなかった行動に、驚かずにはいられない。自分はただ彼が隣の寝床まで行くのを、見つめていようと思っていたのではなかったのか。
 自分の手に目を向けていたリアリムは、勇者の動きに気がついていなかった。
 毛布の端が持ち上げられ、その隙間に勇者は身体を滑りこませる。眠りについたときと同じように、リアリムと勇者は一人用の狭い寝台の上に、二人並んだ。

「勇者さま、もう片方の寝台をお使いください。ここでは狭いですし、また、起こしてしてし、ま――」

 リアリムの言葉は途切れる。動かしていた唇が、勇者によって塞がれたからだ。
 気がつけばリアリムは、勇者の腕の中にいた。彼の胸板に顔を押しつけている。咄嗟に離れようと肩を押したが、体格はほぼ同じであっても、勇者の身体は揺るがなかった。リアリムとて非力ではないが、そもそもの資質と、日頃の鍛え方が違うからだろう。

「ゆうしゃ、さま……」
「寝ていろ。起きるにはまだ早い」
「でも」
「寝ろ」

 決して譲る気はないのだろう。勇者はリアリムをしっかりと抱きしめたまま目を閉じてしまう。リアリムを捕える腕を緩める気配もなかった。
 毛布のなかに勝手に潜りこんできていた妹は自分よりも小さかったし、両親とは随分と前から離れて寝るようにしていたし、なにより隣にいるだけで抱きしめられることはなかった。だからこそ包み込んでくるような初めての熱に戸惑ってしまう。彼の息遣いも聞こえている。
 勇者は、きっと体温の低い人間だと思い込んでいた。それはリアリムに触れた、ひどく緊張した指先で勝手に予想していたものであったが、実際の彼はリアリムよりも温かい。これが本来の勇者の体温であるのだろう。
 抱きしめられて眠るなど落ち着かない、と思っていたが、寝汗で冷えた身体が、次第に勇者の温もりに染まっていく。自分でも気がつかないうちに高ぶっていた精神が宥められる。
 眠りの泉に沈んでいく途中に、ふと気がつく。勇者の体温と、リアーナの体温は、そっくりだということに。
 彼女は子供であったから、くっつかれると少し暑いと思うくらいだった。勇者はすでに成人しているし、リアーナとは髪色以外はなにもかも違うが、けれどもその体温は同じくらいに高いらしい。
 背も、身体の柔らかさも、匂いも、包み込む腕の広さも、そのどれもがリアーナとは似ていない。それなのに、どうしてか彼女が頭の中で微笑んでいる。リアリムに、ちゃんと寝なきゃだめなんだよと、おやすみと、声は出ていないのに、そう口を動かしている。
 リアリムは自ら手を伸ばし、ゆるく勇者を抱きしめ返した。初めは軽く服を握っていたが、次第にそこに籠める力を強めていく。
 いっそのこと、泣けたのならば。どれほど楽になれるだろう。――いや、楽になってはいけないのだから、これでいいのだ。
 目の前の胸に擦り寄り、リアリムはリアーナと同じ体温に抱かれながら、目を閉じた。

 

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