18

 

 魔人襲来を察知したリアリムたちは、村に留まることはせず、夜道を魔術の光で照らしながら馬を駆けさせた。
 夜は、闇のとき。闇に属する魔族たちがより活発になる時間帯だ。そんなところへ身を晒せば途端に襲われてしまうのだが、リューデルトが魔除けの魔術を用いて邪魔な者どもは遠ざけたらしい。
 愛馬たちが苦しげに息を荒げても、それでも足を止めることはない。リアリムはひどく揺れる馬上で、必死に目の前の勇者にしがみつき、振り落とされぬようにどうにか均衡をたもつことに精一杯だった。
 村からツェルの町に戻ってこられたのは、空が白み始めた夜明け頃だ。まだ町は眠っている人のほうが多いような時間であったが、急いたような顔で道を行き交う男たちの姿があった。
 明け方だというのに忙しない町の様子に勇者たちは表情をより険しくさせる。
 近場で荷を運んでいた男を一人捕まえて話を聞いてみれば、これからなだれ込むであろう隣町のスーリからの難民の受け入れ態勢を整えているのだという。手の空いている男は物資をまとめることに駆り出されているそうで、この男もその手伝いに出ている最中なのだそうだ。
 男を解放したリアリムたちは、すぐさま町長のもとへ向かい、詳しい事情の説明を求めた。
 対岸の火事とは思えぬのであろう町長は、魔族がこちらも来るのではないかと取り乱していたが、勇者の瞳の奥にある揺るがぬ芯を見つめているうちに我に返ったようだ。それでも収まらぬ動揺にきつく両手を結びながら、隣町に起きた悲劇を教えてくれた。
 勇者が感知した通り、スーリは魔人に襲われたのだそうだ。相手の数は正確に把握できていないものの、最低でも十体以上はいたのだという。さらには魔獣もいくらか引きつれてきていて、スーリの町は一刻も経たぬうちに壊滅したらしい。
 それでもかろうじて生きのびた町人たちは今、一番近くにあるツェルの町を目指して向かっている途中だそうだ。見逃したのか、気がついていなかったのか、今のところ魔人たちの追跡はなく、ツェルから数人護衛も出ているとのことだった。

「こ、これまでにいくつもの町が魔人の襲来に遭いましたが、町の再建もできぬほどに壊滅的打撃を受けたのは今回が初めてです。それで、もしやと、この町の人間の間で噂も広まっておりまして……や、やつが、動き出したのでは、と……」

 震える町長の声は、ついには小さくなって消えていった。
 世界の隅の集落に暮らしていたリアリムは知らなかったが、これまでにも魔人が人間の住む町を襲ったことは幾度かあった。そのなかに、ラディアが言っていた勇者に対するあてつけのような攻撃も含まれているが、それでもせいぜいそこを半壊にする程度で済まされていたのだ。まるで人間に対する牽制のように。
 リアリムの集落のように、人が少ないところであれば魔獣に踏み荒らされることもあり、そのまま地図から名を消すようなこともあるが、町ほどの人口の多さともなれば、魔獣らとてそう手出しはできない。だからこそ町が魔族に破壊されるなど、それこそ人間と同等の知能の魔人が動かねばなせぬことだ。それも、いくら魔術に長けている魔人といえども、町の規模に対して一人や二人であれば、抵抗する人間たちの数に負けてしまう。
 そもそも魔人とは、個々の力が強いせいか、協調性に欠ける面がある。自由奔放で、他人に縛られることを嫌っていた。だからこそ魔人たちが協力をして町を襲うなど、その裏で糸を引いている人物がいるとしか思えない。その人物がこれまでにも町を襲うよう指示していたのだろうか。
 魔人は己より強い者にしか従わない。そんな気ままな魔人たちを多く指揮ができる者など、この世でたった一人。

「魔王――」

 魔族を束ねし王者。闇夜の支配者。勇者の、対なる者。
 町長が口に出せなかった名を、リアリムは呟いた。
 ただ名を出しただけで、町長は怯えたように肩を跳ねあげる。

「早計はやめましょう。魔王がいつ本格的に動き出すか、我々にはまだ予測できません。もし今回が皮切りになるとしても、また確定していない以上、下手に言及すれば余計な混乱を深めるだけです」
「つっても、もう噂されてちまってるようだからな。スーリが壊滅したほどならば派手にやってくれたろうし、あそこには交易船がよく通ってるし、今回のことはすぐにでも世界全土に広まっていくだろうよ」

 ため息交じりのラディアの言葉が終わると同時に、それまで肩を縮めて震え上がっていた町長が、勇者に掴みかからんとする勢いで迫った。

「勇者さま! 我々はどうすればよいのでしょう。もしこちらにまで魔人が来れば、我々に対抗する術はございません!」

 隣町は魔人に襲われ、壊滅してしまった。明日は我が身かもしれないと恐怖するのは当然の成り行きだろう。そして彼の言葉は、この町に住むすべての者の声を代弁していた。
 勇者が一歩後ろに下がっていなければ、きっと彼は縋りついていただろう。それほどまでに追い詰められた表情で、前回会ったのはほんの二日前だというのに、そのときよりも五、六歳ほど老けて見える。きちんと整え後ろに撫でつけていた髪も、寝ているところを起こされたからなのか乱れたままだった。
 リアリムは町長に同情していた。彼の抱く不安はわかるし、どうしたって予測してしまうであろう最悪の事態も思い描ける。本当の最悪を目にしたリアリムは、かつて見たその惨状を頭に蘇らせていた。
 はたして勇者は、救いを求める人間に、なんと言葉を返すだろうか。
 もしリアリムだったら――きっと、なにも言えないだろう。
 自分が勇者だとしたら、ここに留まることなどまずできはしない。リューデルトがリアリムに魔を呼ぶ者の力を抑えつけているような、人々を守る結界を張ったとしても、効力が持続する期間は限られてしまう。だからこそ彼らにしてやれることはなにもない。
 町長とてわかっているはずだ。旅の最中にある勇者たちはこの町には立ち寄ったに過ぎないのだと。旅路はこの先にも続いており、足を止めているのはほんのひと時。勇者の守護が得られるのも、束の間でしかないのだ。
 だがそれでも恐怖は襲いくる。頭ではわかっていても身体は震え、こうしている間にも絶望に襲われた難民がツェルの町を目指してやってこようとしている。彼らを見てしまえばますます現実に打ちのめされることだろう。
 人々の長たる者であるからこそ、彼は気丈でなければならない。すべての判断がその肩にのしかかっている。しかし長とてまた人であり、押し留めなくてはならないものだとしても、その内では魔人に対する恐れが渦巻いているのだ。それが彼の頭の内を混沌とさせていた。
 本来は己で考えなければならないところだが、今ここには勇者がいる。
 世界一の大国の王でさえ、彼の前では頭を垂れるという。唯一魔王と対峙できる、いうなれば彼が冠を被らぬ人類の王である。その力は圧倒的で、傍にいれば縋りたくなってしまうのも道理。現状をどう打破すべきか、答えを委ねたくもなるのだろう。
 自分をまっすぐに見つめる町長の涙目を見下ろして、勇者はようやく薄い唇を動かした。

「おれたちは今まで通りに旅をするしかない。そして魔王の居場所を突き止め、やつに直接この剣を突き立てるまで、おまえたちの恐怖は終わらない」
「そん、な……」

 いつものような平坦な声音が告げたのは、この町をすべて突き放すような言葉だった。
 町長は顔から色なくしてゆく。指先でちょんと触れただけでも、すぐにでも崩れ落ちてしまいそうなほどに儚く哀れに見えた。
 彼に同情していると、だから、と勇者が言葉を続けた。

「だから、祈ってくれないか。おれたたちの旅は早々に終えるように。この世界の行く末に、光があるように」
「――いのり、ですか」

 思いがけなかった勇者の言葉に、町長は呆気にとられたように目を瞬かせた。そんな彼に納得してもらえるように、勇者は浅く、けれども力強く頷く。

「魔族は闇の眷属。負の感情も管轄する。やつらの力が増長されれば夜の時間も増していく。これ以上やつらの力を蓄えぬよう、おれたちの力が強まるよう、その心に強い光を持て。それが人々に唯一できることだ」

 勇者ははっきりと断言した。助けることはできないと。恐怖はこれからも続くだろうと。それは紛れもない現実だとしても、救いを求める町長にとってはあまりに酷な言葉であるだろう。
 しかしそれは、勇者が実直であるからなのかもしれないと、リアリムはふと思う。
 気休めを口にすることは簡単だ。必ず魔王を打ち倒す、とだけ伝えるだけでも十分に長の心は励まされたはずだろう。だがそれをしなかったのは、過度な期待を持たせないためではないだろうか。
 勇者は魔王に負けると思っているわけではないだろう。しかし旅の終わりは未だに見えない。魔王の根城ですら判明していないのだから、現時点では結果を出すことさえ断言はできないのだ。
 ただ望む未来を夢見続け、日々期待からの裏切りにあい、いつ終わるかわからない恐怖が明日にはなくなることを祈り続けて。そうして疲弊していくのは待ち続ける人々である。そしてその疲弊こそ、いつしか負の感情へと繋がっていくのだろう。
 何故魔王はまだ討たれないのか。勇者はなにをしているのか。誓ってくれたのに、我々はこんなにも終わりを望んでいるのに。それなのにまだ、決着はつかないのか――
 やがては行き場のない苛みが、勇者への恨みへ変わる。そのことで得をするのは魔族だけだ。
 魔王を倒すことは勇者にしかできない。魔族の力を弱めることができるのも勇者だけなのだ。だからこそ人々は、たった一人に願うしかない。そしてそれが叶わなかったとき、責められるのもまた彼一人だけ。
 勇者は現実を見つめている。だからこそ夢は見ず、己がすぐにでも成し遂げられるものであるかないかを判断して、真実のみを答えているのだ。

「――すまない」

 それは、励ますことすら許せぬ己の未熟さか。
 まるで頭を下げるかのように目を伏せた勇者に、町長も、そしてリアリムも驚いた。まさか勇者が謝るとは思ってもいなかったのだ。
 勇者が己に課せられた使命を果たすべく、この町から去っていかなければならないことは至極当然のことである。
 勇者が完全な存在で在ったのならば、スーリは崩壊することはなかっただろう。そもそも魔王がこの世に存在していることさえあり得なかっただろう。勇者とて人間で、だから限界がある。
 綺麗事で済まされないことがあるからこそ犠牲はつきまとうものであり、今回は小さな村を救った代わりにひとつの町が滅んだ。勇者が間に合うことができなかったとしても、それは彼の責任ではない。しかし勇者は仕方のないことだと受け入れていなかった。
 表情から読み取れる感情はない。けれどもその一言だけで、今きつく握られている拳だけで、彼の真なる心を教えられているようだ。
 町長は呆けたように勇者を見つめて、やがて、目を逸らさないままその場に跪いた。

「ああ、勇者さま。我らの希望を担いし光の御子さま。どうか、一日でも早く魔王を討ち果たしてくださいまし。そのためにも我々は、あなたさまに毎夜祈りを捧げましょう」

 右手を胸にあて、恭しく深く頭を垂れた。
 押さえた掌の下には、いつ魔族に襲われるやも知れぬ恐怖と、町人たちをまとめなければならぬ責任と、そしてたった今勇者に対して芽生えた敬愛に溢れていた。

 

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