ソファに座らされたヒューは落ち着きなく周囲を見回す。

 ルトが引っ越してから、初めてこの家に入る。ものが少なく整理された部屋はルトらしく、実家の彼の部屋によく似ていて不思議な既視感を覚えた。
 テーブルに置かれた読みかけの本や背もたれに投げ出された上着など、生活の気配があちこちに感じられる。ついそれらに気を取られているうちに、さっと用意してくれたらしいカップを差し出された。

「ありがと……」

 蜂蜜がたっぷり入ったホットミルクだ。ふわりとミルクと甘い匂いが混じったそれは幼い頃からのヒューの好物のひとつだった。
 でもルトの前では大人ぶりたくて、「そんな子供っぽいもの好きじゃない」なんて以前に意地を張ったはずなのに。
 そんなことはすっかり忘れているのか、それとも嘘なんて見抜かれていたのかわからないが、蜂蜜の量も温め具合もヒューの好みの塩梅だ。
 ヒューが落ち込んでいたり不安定になっている時など、幼馴染の双子はよく甘い飲み物を出してくれた。普段は喧嘩ばかりだし、猪突猛進で豪快なルカと用意周到で冷静なルトでは性格が正反対のような二人だけれど、そんなところに二人の血のつながりを感じて少しだけ心が和む。
 ルトはヒューの隣にどかりと腰を下ろし、自分用に用意した水を飲んだ。
 食にこだわりはなくシンプルを好むルトは、誰かが用意しない限りは基本的に水しか飲まないのに、こうしてわざわざヒューのために飲みものを作ってくれる。しかもヒューの好みを覚えていてくれたし、カップを包む手から広がる温かさがまるでルトの優しさのようで、こんな時なのにきゅうっと胸が高鳴ってしまう。
 でも、ときめいている場合じゃない。
 ミルクを一口含み気持ちを落ち着かせてから、そろりと隣のルトに目を向けた。

「あの、ルー。色々聞きたいことがあるんだけど……」
「ああ」
「何から聞けばいいのか……えっと、そうだ。あいつらオレが発情期になってるって言ってたけど、本当?」
「本当だ」

 匂いを嗅がずにルトはあっさり肯定する。改めて嗅ぐまでもないというわけだろうが、それでも不安は拭いきれなかった。

「オレ、人間なんだけど。先祖返りって言われても、見た目はまんま人間だし……発情期が来るって言われてもまだ信じられなくて」
「あいつらも言ってただろ。おまえは先祖返りのなかでも特に希少な発情期の特性が出た人間なんだよ。それ以外は容姿もただの人間となんら変わらない」

 ルトの家に来るまでの道すがら、ヒューが彼らと接触した当初から様子を伺っていたことは聞いていた。
 だから彼らとの会話などもすべて把握されているのも知っていたが、それでも戸惑いもない様子で説明するルトに困惑する。

「ルーはオレがそうだって知ってたの?」
「当たり前だろ。匂いでわかるんだよ。ルカもキリトも、俺とおまえの両親だって知ってる。さすがに他にはバレねえように手は打たせてもらったがな」

 まさか当事者である自分が知らなかったというのに、身近な人間はみんな知っていたらしい。
 ふと、ルカが情緒不安定な様子のヒューにそれは満月のせいだと言ったことを思い出した。
 てっきり慰めか、もしくはルト関連で不安定になっているせいで間接的な影響の示唆かと思っていたが、もしかしたら本当に言葉通りの意味だったのかもしれない。
 発情期があるというのなら、ヒューだって獣人の特性として平常よりも感情が高ぶりやすくなる可能性は十分にある。
 だけどまだ自分が発情期持ちの人間だなんて信じきれなかった。

「でも、豹の人のほうはわかんないみたいだったし。この時期は獣人誰しも発情期なんだから、誰かの匂いが移ったとかあるんじゃない?」
「あ? 匂いが移るほど誰か傍にやったのか」

 不意に漂う不機嫌な気配に、理由はわからなかったが慌てて首を振る。

「ちがうって! でも、そういう可能性だってあるかなって。ルトたちの勘違いはありえない?」
「そんなわけあるか。それに他にはバレねえように手を打ったつっただろうが」
「――あ、もしかしてルトの服ってそのために?」
「この街で俺の匂いつけされたおまえに手を出すやつはまずいないしな」

 いくらルトが強いと言っても最強ではないし、数を揃えてきたら対処しきれいないこともある。だがルトを敵に回すということは、屈強なつわものぞろいの自警団そのものを敵に回すことになりかねない。
 自警団たちの活躍を知る街人なら、とくに彼らの匂いつけがされている人物にいらぬちょっかいを出すことはまずない。たとえ自警団とゆかりがない者であっても乱暴は許されることではないが、ここに来てまだ日の浅い二人は知らなかったのだろう。
 しかし両親も知っていたとなると納得できる部分もある。ルトからもらった服ばかり着ていても何も言わなかったのは、それが息子の身を守るためだと知っていたからだ。
 気づかないうちにルトに守られていたことを知り、またも胸がくすぐったいような切なさを覚え、宥めるためにミルクを口にする。

「まあ象はとくに鼻がいいし、おまえもいよいよ本格的に発情期がきたから匂いでバレちまったようだがな。服についた匂い程度じゃもう誤魔化せないだろ」
「……じゃあ、オレこれから、ああいうやつらに狙われるの?」

 たまたま見つけた発情期のある人間を売り飛ばそうとしたくらいだ。稀少な存在で金になると言っていたし、よからぬことを考える者はどこにでもいる。

「させるかよ。俺だけじゃなく、ルカだってキリトだっている。こうなったからには公言して自警団のやつらにも協力させるから大丈夫だ。おまえも自衛の必要はあるがな」
「でも……」

 確かに、この街にいればみんなが守ってくれるだろう。だがヒューはもうじきここを離れる予定だ。知り合いもろくにいない場所で、自分一人でこの身を守れる自信はない。
 過去に襲われた時も、先程の象の獣人に捕まった時も、その力の差は圧倒的で抵抗などないものとされてしまった。
 自衛だけでは限界がある。かと言って守ってもらうためにみんなに迷惑をかけるのは忍びないし、何よりルトの傍にいるのが限界だったから離れようとしていたのに居続けられるわけがない。

「他に何か心配ごとでもあんのかよ」

 まさか街を出るつもりだとは言えず黙りこんだヒューだったが、それよりも目下に迫る肝心なことを思い出した。

「そういえばオレ、発情期がくるんだよな? どうしよう……あいつら、発情期持ちの人間はものすごく乱れるって……」

 発情期中の獣人はまさに獣のように盛るという。しかしヒューにはそれにも勝る発情があるらしい。
 しかも蜜夜は今日だ。身体の奥に感じていた熱はどんどん強くなっていくのを感じる。
 このまま発情期を迎えたら自分はどうなってしまうのだろう。獣人たちでさえ大抵がその時限りであっても相手を探すような時間なのだから強烈なのは違いない。
 ルト以外の相手なんて考えられないから一人で乗り切るしかないが、なんの準備も知識もなく不安しかなかった。

「俺が相手するんだからなんの問題もないだろ」

 隣から聞こえてきた言葉に、頭を抱えていたヒューは一瞬悩みもすべて忘れて思考が停止する。

「……え? 相手、ルーが? なんの?」
「おまえの発情期の間の相手だろうが」
「…………発情期……って、なんだっけ……?」

 呆れた眼差しが返ってくるが、あまりの混乱に本気でわけがわからなくなっていた。

「だ、だって、待ってよ。ずっとオレが言っても、ルーは相手にしてくれなかったじゃん!」
「もうガキじゃなくなったんだからいいんだよ」

 十八歳の成人を迎えてもガキだと言われた。だが獣人基準とするなら発情期を迎えた今日が成人となるので、確かにヒューは人間としても獣人としても、本当にもう大人になったということになる。
 ――なら本当に、ルトに抱いてもらえる?
 夢にまでみた願いが今まさに叶おうとしている。でもすぐにルトに飛びつけなかった。
 もしかしたら、発情期を持てあますヒューを助けてくれるためかもしれない。
 思い出がほしいのだからたとえ優しさからだっていいじゃないか。こんなチャンスは二度とないかもしれない。ならば形振り構わず頷くべきだ。
 そう、思うのに。

「だって、ルー、好きな子いるって……」

 それなのに、本当に自分を見て抱いてくれるのか。もしかして、その人に重ねられる? その人を想いながらも、苦しむ幼馴染を見捨ててもおけず仕方なく?
 ルトにまだ意中の相手がいないと思っていた時なら、抱いてもらおうと思っただろう。でも知ってしまった今はもうだめだ。
 ヒュー自身を抱いてほしい。誰かの代わりにされるのだけはいやだ。
 だからいざその時がきたというのに、尻込みしてしまう。

「――誰から聞いた」
「ルカが、今日うっかり教えてくれて。だからルーは、その子がいつ発情期になってもいいように、待ってるって」
「あのばか……」

 双子の妹の迂闊さをよく知り、時にはそのフォローに回っていたルトは遠くを見るよう目を座らせた。
 やはりヒューにはその存在をあえて伏せていたらしい。そして確実にルトの想い人はいるらしく、感じる胸の痛みにヒューは顔を伏せた。

「というかおまえもそこまで話を聞いててもまだわかんないのか」
「……何が?」
「おまえだよ。俺が好きなやつってのは」
「オマエって誰だよ、そんな名前のやつ知らないし、ルーの口から聞きたく……えっ?」

 顔を跳ね上げると、つい先程のうっかり屋の妹を嘆き呆れたものと同じ眼差しのルトがヒューを見つめていた。

「お、おまえって……おまえ? オレ?」

 わけもわからないまま自分を指差すと、ルトは浅く頷いた。

「え……えっ? る、ルー、オレのこと、好き、なの……?」
「そうだって言っただろ」
「……嘘だっ! だってルー、オレが好きって言っても邪険にするし、ずっと抱いてくれなかった……!」

 だからいつも悲しくて、悔しくて、一人ベッドにもぐり込んで泣いていた。
 何度も心臓がねじ切れそうなくらい痛くなって、涙が止まらなくて、苦しくて、いっそルトを恨んでしまいたくなるくらいつらい日もあった。
 ルトが一向にヒューの想いに応えてくれそうになかったからだ。それなのに、本当は両想いだったなんて信じられるはずがない。

「嘘じゃねえ。好きじゃなかったら買い間違えたのなんだの小細工までして、わざわざ服に匂いつけするなんて面倒を誰がするかよ」
「で、でもそれはオレが幼馴染だから、弟みたく思ってくれてて……」
「おまえのことただの幼馴染だの弟だの思ってんなら、その身体のこともとっくに話して迂闊なことしないように注意させてた」

 合理的なルトの性格を考えればまさにその通りで、ヒューに発情期があることを伏せておく理由はない。
 ヒューだって自分の身体のことを知っていたら蜜夜に無防備に出歩くなんてことはしなかったし、危険を回避するための行動を自分で考えていただろう。
 でもルトは沈黙を選び、何も知らないヒューのために先んじて対策をとり守ってくれていた。
 あのルトが手間をかけてでもそんな面倒なことをやっていたのが、本当にヒューのことが好きであることに繋がっているというのなら。

「でも……信じられないよ。本当に好きだと思ってくれてたなら、なんでオレに言ってくれなかったの? 何度も好きだって……オレを抱いてってお願いしたのに」
「俺は一度だっておまえの気持ちに応えられないって言ったことはない」
「は……?」
「よーく、その小さな頭使って思い返してみろ」

 かちんとくる余計な一言に少し冷静を取り戻しながら、言われた通り過去を振り返る。
 ――確かに、好きだ抱いてとばかみたいに繰り返しては「ガキには手を出さない」を定番の断わり文句にされていた。だがルトの言う通り、はっきりと「おまえの相手はできない」と拒否の言葉は聞いたことはない。
 いやいやそんなはずは……と真剣に記憶を掘り起こしてみる。そうするとやはり、あまりにヒューが好き好き言い過ぎて鬱陶しがられることがなかったわけではないし、意地悪そうに片頬を上げるように笑われることもあったが、いつだってルトは「はいはい」と適当に流す他は一貫した態度しか見せていない。
 数多の中で散々想像した言葉も、現実のどこにもありはしなかった。

「だからちゃんと待ってたんだろうが。おまえがガキじゃなくなるの」

 呆然とするヒューにいつもの意地悪な笑みが滲む声音が言い聞かせてくる。
 その姿は自分を好きでいてくれている人の態度にはまったく見えない。
 けれどもいつもの不敵な姿を見てようやくルトの言葉を信じられた瞬間、腹の底からかっと怒りが燃え盛った。

「だったら何でずっと教えてくれなかったんだよ! 両想いだったんなら言ってくれればよかったのに!」

 自分の気持ちはいつだって全力で伝えてきた。だからあとはルトが応えてくれるだけでよかったのに、そんな素振りは今まで一度だって見せてはくれなかった。
 希望がなかったからこそ、ヒューはいつもつらくてしかたなかったのに。

「あのな。教えたらおまえ、絶対に今以上に抱けって迫ってきただろが」
「当たり前だろ!」
「だからだよ。ただでさえこっちは我慢してんだぞ。それなのに、ご馳走自らが鼻先に来てんのに呑気に堪えられるかよ」

 ルトの言うご馳走とはまさか、自分のことなのか。
 ただの年下の幼馴染としか認識されていないと思っていたヒューは激しく動揺するも、納得はできない。

「が、我慢なんてしなくていいじゃん。オレはルーのこと好きなんだし」
「よかねえ。言っただろうが。身体の準備が整ってねえガキ相手にできるかってな。ただでさえ人間は獣人の相手するには軟弱なんだ」
「オレのため、だったの……?」

 ふん、と呆れたように鼻で息をつかれたが、否定はされない。つまりそれはルトなりの肯定だ。
 子供だと言っていたのは断り文句ではなく、本当に身体がまだ未熟だから手を出さないということだったらしい。
 ヒューが混じり者であると気が付いていたルトは、獣人としての成人を迎えるのを待ち続けていたのだ。
 獣人の成人とは発情期を迎えること――つまりは、盛んな性交を行っても耐えうる身体となったことを示すもの。

「おまえのことなんざ、おまえよりよくわかってんだよ」

 その行動も、考えも、実は混じり者であった事実でさえも、ルトは何でも知っていた。
 だからこそ食べ頃になるまでひたすらじっと待ち、耐え忍んでいたという。誰かに摘み取られないように注意を払い、自ら熟す前に落ちてしまうのを防ぎ、じっとその時を待っていたのだ。
 そしてついに時はやってきて、舌なめずりしながら実ったヒューという果実に手をかけた。

「――ッば、ばかっ! ルーのばかぁっ! オレ、ずっとつらかったんだからな!」

 手にしていたカップをカッとテーブルに置いて、ヒューは拳を握ってルトの胸を殴りつけた。

「わかってんのかよ、いつもオレが、どんな気持ちでルーに好きだって言ってたか! 抱いてって、どんな覚悟で言ってたのか!」

 どれほど涙したのか。どれほど心乱され、まだ一縷の望みはあるはずだと前向きに行こうとする気持ちと、もう顔も見たくないと絶望する気持ちとがないまぜになって苦しんだのか。
 ルトにわかるはずがない。でもヒューはそのすべてと向き合い、切り捨てることもできずにルトを想うこの恋を抱え続けてきたのだ。