何度も何度も拳を叩きつける。力は籠めているけれど本気ではないし、豊かな被毛に包まれるルトの身体に大してダメージを与えることはないが、衝撃がすべて吸収されるわけではない。でもルトは黙って受け入れた。

「もう本当にだめだと思って……っ、これ以上ルーに迷惑かけちゃいけないって、でも、でも好きなこと、やめられなくて……」

 感情のまま言葉が飛び出るように、涙もぼろぼろと零れていく。

「もう、街を出るしかないって……今日がだめだったら、ルーとお別れしなきゃって……」

 その言葉にルトが目を瞠った。ヒューの苦悩を知らないわけではなかっただろうが、そこまで思い詰めていたことには気が付いていなかったのだろう。
 伸びてきた腕がぎゅっとヒューを抱きしめる。もう叩き続ける気力もなく、ただされるがままかたいような柔らかいような、温かな毛並みに顔を押し付けた。

「ぅ、う……ひっ、ひっく……」

 声を押し殺しながら、子供みたいに泣きじゃくった。
 嗚咽するヒューに自慢の胸毛を濡らされても、ルトはただそっと落ち着かせるよう背中を撫でてくれる。
 たくさん泣いて、ようやく落ち着きを取り戻しつつある時に、ルトは言った。

「悪かった。俺には俺なりの考えがあって行動していたが、おまえだっておまえの考えがあるのをわかってなかった」

 ルトはヒューのことを見くびっていたのだ。好きだという気持ちを疑っていたわけではないだろう。影で泣いていることくらいは知っていたはずだ。でも、そこまでだと思っていた。
 愛する生まれ故郷、大切な家族や仲間を捨ててまで、ルトへの想いを断ち切るために街を出る覚悟をするほどとは考えてもいなかったのだろう。
 でもそれはヒューも同じなのかもしれない。
 ルトから拒否されることが怖くて、だから断り文句の先の、子供ではなく大人になった時の話をすることができなかった。
 ちゃんとルトに、大人になったら本当に相手をしてくれるのかと、いったいいつからが子供でなくなるのかと聞けば、少しは違う答えがあったのかもしれない。
 尋ねたところで適当にはぐらかされて、やっぱりルトに選ばれることはないんだと胸を痛めるのが嫌で、いつもの返事のその先を見ようとすることができなかった。
 街を去る選択だって、ちゃんと自分の覚悟を示したうえでルトに自分を抱くか選ばせればよかったのだ。
 ルトは意地悪だが誠実な面がある。逃げ道を残さず真正面からいけばきちんと真摯に向き合ってくれる人だ。その時出された答えはきっと生涯変わることはない。もし拒否されれば苦しいが、でももう相手にしてもらえるのかもらえないのか、はっきりしない状態に苦しむことはなかったはずで、少なくとも曖昧な現状よりはよかったのかもしれない。
 それをわかっていたはずなのに、それでも黙って逃げようとしたのは、最後の最後まで拒絶されるのが怖かったから。何振り構わず縋ってもだめだったら本当に立ち直れないかもしれないと勇気が出せなかったせいだ。
 好きだ抱いてと言いつつ、決定的な拒絶を避けるためにどこかに逃げ道を残していた。それにルトは気づいていていて、その逃げ道を利用していただけに過ぎない。
 きっとお互いさまな部分は、ヒューが思うよりも多くあったのだろう。

「これまで散々傷つけた。これからはおまえが根をあげるくらい大事にするから、許してくれないか」

 滅多に聞くことのない優しいルトの声。髪を掻き分けるように頭に長い鼻が擦りつけられ、甘えられるように懇願される。
 目の縁に残る最後の涙を瞬きで頬に落としながら、ヒューは毛を握る手に力を込めた。

「……ぎゅっとして」

 背中に回る腕に力が籠められ、よりルトと密着する。

「許したかよ」
「――まだ。好きって、言って」
「好きだよ」

 普段が想像できないくらい、反省しきったルトはヒューを甘やかし、欲しい言葉をすんなりくれる。
 でも足りない。

「もっと、言って。ヒューが好きって。おまえとかじゃなくて」

 確かにお互いさまな面はあったとしても、すべてを知っていたルトと何も知らなかったヒューとではやはり前提が違う。それにヒューは何度だって好きだと伝えてきたのだから、ちょっと優しくされる程度では飢えに飢えきった心が満足するはずもない。

「ヒューが好きだ。ずっとヒューが好きだった」
「……本当に?」

 自分で言わせておきながら、あまりにもあっさり言うものだから不安が過ぎる。
 こんな時にそんな冗談をいうわけがないとわかっているが、あまりにも長すぎた片想いの期間のせいで未だに両想いであるという事実を受け止めきれずにいるからだ。
 ようやく持ち上がったヒューの涙で濡れた顔を指で拭きながら、ルトはやや呆れたように言った。

「何でそんな疑ってんだよ。確かに好きだと言わずにはいたし悪かったとは思ってるが、これまでおまえのことは散々特別扱いしてただろ」
「だって、ルトはなんだかんだ言いつつみんなに優しいし。確かにオレはちょっと特別だったかもしんないけど、弟扱いだと思ってたし……」
「妹扱いのルカに対してだってああなんだから、おまえはちょっとどころか破格の扱いだっただろが。俺を優しいだなんて言うのはおまえくらいなもんだぞ」
「そう、かな……?」

 思い返してみれば確かに、ルトがまめに食べ物を持ってくるのはヒューにだけだったし、頼まなくても飲み物を用意してくれるのも他の誰かにしているのを見たことはない。時にはじゃれてきて圧しかかってくることも、ヒュー以外にしていたことはないように思う。
 誰かの面倒を見ていることはあっても、それは頼まれたりその先にある面倒を回避するためとかで、特別親切というわけではなかった。
 あまりに断られた回数が多すぎて、少しルトに対する見方が変わっていたのかもしれない。

「でも……その。それだけ特別に好きって言ってくれるってことは、つがいにしたいくらいなの?」
「当たり前だろ」

 その気のない相手に好き好き言うことがないとわかっていたのに、即座に返されて言葉に詰まってしまう。

「う……でも、でも……お、オレ相手に……勃つ、の?」

 おねしょ履歴を知っているような相手だ。記憶にはないがおしめを替えられたこともあるのだという。
 発情期の相手をしてくれるというのだからつまりはそういうことなのだろうけれど、兄弟のように扱われていると思い込んでいたので、そういう目で本当に見てもらえるのか不安しかなかった。
 この時ばかりは即答のかわりに、少しの沈黙の後、長い長い溜息をつかれる。

「……おい、顔をちゃんと見せろ」
「なに……っ、ん?」

 顎を掴まれ上を向かされたかと思ったら、近づいたルトの顔に反応する間もなく、唇をぺろりと舐められた。
 驚いてかたまっていると、ふわりと唇に毛の感触が伝わる。またちろりと舐めとられた。

「る、ルー……ぁ、っ……」

 ほどんどルトの身体に倒れ込む形になっていたヒューの腰が無意識に浮きそうになるが、背中にあった腕に押さえつけられより密着させられた。
 唐突なキスにどうすればいいかわからず唇をぎゅっと閉じる。
 息も忘れて内心で大混乱するヒューの酸素が持たなくなった頃、それを見越したようにルトの唇が離れていった。

「息、ちゃんとしろ」

 それでもかたまったままでいたヒューの唇を、顎に添えていた指でむにっと触れられ、ようやく呼吸することを思い出して慌てて息を吸う。

「な、なに、今の……っ?」
「キスだろ」
「そっ、そうだけど! なんでいきなり!?」

 これまで両想いだったことを知らなかったのだから、当然キスなどしたことがない。ルト以外にも興味がなかったので人生初の、それもルトとのキスなのに感動よりも驚きが強く、けれども興奮もあって頭の中は大混乱だ。

「したくなったから。おまえが好きで、ずっと触れたいのを我慢してきたんだ。もういいだろ」
「へあ……っ」

 誰だこの人は。
 こんな素直に答えるルト、これまで見たことがない。
 真っ直ぐな欲望を告げる言葉に、ただ顔を赤くするしかできないヒューの反応に満足したのか、ルトはぺろりと舌なめずりする。

「こんなもんでいちいち驚いてちゃ身が持たねえぞ。おまえだって逃げられるうちに逃げなかったんだから、もう我慢しねえ。遠慮なく俺のもんにさせてもらう」
「あ、あう……」
「ああ、そういえば、おまえ相手に勃つかって? 今日は蜜夜だ。これからゆっくりその答えを教えてやるよ」

 もう一度顔が寄せられ、ふわりと優しいキスをする。
 獣人同士はあまりキスはしないという。その代わりに顔や鼻を擦り合わせるなどの愛情表現をするのだそうだ。
 狼の獣人らしく長く鼻が張り出したルトも本来なら口づけはあまり行わないはずだが、人間であるヒューに合わせてなのか、人間とはまったく違う毛に覆われた口を重ね合わせる。
 ちろちろと閉じた唇を舐められて、腰の手が身体を擦るように動き、興奮に熱が溜まっていく。
 ついに唇が綻びそうになったとき、ルトの顔が離れていった。

「はっ、いい顔になってきたじゃねえか」

 ルトの瞳に映る自分の顔がどうなっているかわからないが、間違いなく発情してしまっているのだろう。
 先程の感情の涙とは違ったもので瞳が潤んでいるのがわかる。ただキスをしていただけなのに、身体がひどく熱くて、心臓がばくばくと鳴り苦しいくらいなのに、もっとずっとルトと引っ付いていたいと思ってしまう。
 もっとキスしてほしい。もっと舐めてほしい。言葉にすることも忘れてじっと金の瞳をねだるように見つめていると、ヒューの望みとは反対にルトは身体を起こした。
 先に立ち上がったルトに、このままついにベッドまで連れて行かれるのかと期待したが、予想に反して背中が向けられる。

「ちょっと待ってろ」

 背中を向けたまま戸棚のほうに向かったルトは、何かを手にしてすぐにソファに戻ってくる。
 握られていたのは爪切りと爪やすりだった。

「え、ここまできて、お預けっ?」

 発情期の相手をしてくれると言ったはずなのに、こんな盛り上がってきているところでルトはまさかの爪切りを始めてしまった。

「も、もうちゅーしないの? この先は? もうおしまいなの?」
「ちょっと落ち着け。続きは終わってからだ」
「だって、なんで今なの!?」
「家に戻ってろって言ったのにおまえが言うこと聞かなかったから、今やるしかないだろ」

 確かにルトの言いつけを破ってルカの店に行った。だがそれとこれがどうして今関係あるのか本気でわからない。
 考えている間にもルトは伸ばした自慢の爪を切り落としていく。見守っているうちに、それがいつものやり方と違うことに気がついた。
 普段ならば鋭く残しておく場所を、随分と短く丸く整える。やすりまでかけて丁寧に滑らかに仕上げていった。

「おまえが発情期を迎えたことは匂いでわかったからな。だから後で家まで迎えに行くつもりだったんだよ。さっさとあの二人組に話をつけて、おまえを迎える準備をしてからな」
「準備って、爪とぎが?」

 削った爪に息を吹きかけながら、ちらりと視線だけがこちらに向けられる。

「いつもの手で触ったら、怪我させちまうだろ」

 ようやく合点が言ったヒューは黙り込み、それ以上質問をすることもなかった。
 ただ顔を赤くして、爪を削る音を聞きながら俯く。
 獣人の爪は彼らにとっては身を守るための武器である。伸びるのが早く、たとえ短くしても人間よりも倍の速度で元に戻るが、大事にしている部分のひとつであることに違いはない。
 それでも、ヒューに触れるため、かたい皮膚も身体を覆う毛もない人間の柔な肌に傷をつけないためにルトは爪を短くしてくれたのだ。
 すべての爪を短く整え、手を洗いに行って戻ってきたルトは、隣に腰を下ろすことなくヒューの正面に立つ。
 そろりと顔を上げると、ルトはいつもの余裕が見られない熱っぽい眼差しで見下ろしてくる。

「寝室まで自分で歩くのと、運ばれるの、どっちがいい」

 選ぶまでもなく、腰が抜けかけていたヒューは手を伸ばし、屈んできたルトの首に腕を回した。


 ―――――