爪切り

 

 ソファに並んで座っていたナギは、ふとリモコンをテレビに向けてチャンネルを変えた龍之介の手を取り、その指先を覗き込んだ。

「Hm……爪が伸びていますね」
「あ……本当だ。そういえば、最近立て込んでてうっかりしてたな」
「きちんと整えるのはエチケットですよ」

 アイドルという職業柄、身なりには気をつけていたが、多忙を極めるとつい疎かになってしまうところがある。特に爪は管理が行き届かないことが多い。運動部にて身体を動かすこともあるので、自分自身だけでなく、誰かを傷つけないようにと気をつけていたが、それにも顔を出せない日々が続いていたため余計に見落としていたようだ。
 気づいたのなら今やらなければまた忘れてしまうと、爪切りを探しに席を立ちかけた龍之介をナギが引き留めた。

「爪をカットするのでしょう? ワタシがやってあげましょうか」
「え? ナギくんが?」

 できるのか、とでも言いたげに思わず聞き返した龍之介に、ナギは気分を害する様子はなく、むしろ胸を張って答える。

「ええ。以前はワタシも人に任せていましたが、日本にきてからは自分でやっていますからね」
「すごいね! いつも指先まできれいだなって思ってはいたんだけど、ナギくんは自分でやってたのか」

 今では男でもネイルサロンに通い、メンズ専門の店もあるという。いつ見てもだらしなく伸びることもなく、適度な爪の長さを保っているし、ナギは店で整えているのかと思っていたが、自分でやっていたことに龍之介は純粋に驚いた。

「そうでしょう。ソウゴから教わりました」
「ああ、なるほど。先生は壮五くんか」
「上手だとお墨付きをいただいておりますよ。……それで? ご自分でなさるのです?」
「あっ、折角だからお願いするよ。爪切り持ってくるね」

 再び腰を上げようとする龍之介にナギは首を振る。

「いえ、結構です。今日待機の時間に爪の手入れをするため、道具を持ってきていました。それを使います」
「そうか。なら、よろしくお願いします」
「You got it」

 機嫌のよいナギは、ウィンク付きの返事をした。

 

 


 道具を机に並べ、ソファの上で龍之介と向かい合ったナギはその手を取り、爪切りを構える。
 爪切りは弟たちにしてやるばかりで、自分が誰かにやってもらうことはほとんどない。スタイリストにも、切ってもいいかと言われてもまずは自分でやって、その後に細かい調整をお願いする程度だった。
 それが今は、ナギがやってくれようとする。少し照れくさく感じるが、指先を見る長い睫毛に縁取られた瞳の真摯な眼差しが美しく、ついそちらに見惚れてしまう。
 龍之介のぽうっとする視線に気がつかぬまま、ナギはまずは親指の爪を切ろうとするが、指先に寄せた顔を上げて息をついた。

「Hm……他人のツメキリは難しいですね。失礼」

 手を放したナギは、一度立ちあがり龍之介の背後に向かう。

「ナギくん?」
「じっとしていてください」
「はっ、はい」

 思わず頭ごとナギの行方を追おうとしたが、真剣な声音に思わず背筋を伸ばせば、背中にナギの体が重なりびくりと肩が跳ねる。
 白い腕が前に回り、何をされるのかとドキドキしていれば、片腕を取ったナギが背後で唸った。

「……何も見えません」

 どうやら、正面から向かい合ってだと切りづらいので、普段自分がしている目線に合わせるために向きを合わせてやりたかったようだ。
 しかし、龍之介のほうが大きく背後から手を覗き込むということができず、ナギは不服そうに眉を寄せる。
 背後からやることは早々に諦めたナギは、次に龍之介の隣に身を置き、片腕を引き寄せ抱え込んだ。
 体がぴったり寄せられて、腕はしっかりと抱え込まれ、二人の間にあるのは互いの服の厚みだけだ。鼻先の近くに来きたナギの頭にあるうなじを見つめながら、身動きの出来なくなった龍之介は石になったかのようにカチンと固まった。しかしナギはその理由を協力的な態度であると判断したらしく、その調子で動かないでくださいね、と機嫌を取り戻したかのように明るく言った。
 パチン、パチン、とテンポ良く爪が切られていく。
 ナギの頭で見えないが、龍之介の爪先をのめり込むように見つめる後ろ姿を見れば、丁寧にやってくれていることは十分に分かった。
 片腕を終え、龍之介の反対の隣側に移動して、再び腕を抱え混みながら、ナギはふと思い出したように言った。

「今は爪用の美容液もあるようですね」
「へえ、そんなものもあるんだ」
「九条氏にお聞きしました」
「天から……?」

 ナギの口からさらりと出てきた自身のメンバーの名に、龍之介は目を瞬かせた。
 最近、天とナギが顔を合わせたなど、どちらからも連絡を受けていなかった。TRIGGERとしても、天のソロでも、IDOLiSH7との仕事もなかったはずなので、顔を合わす機会もなかったはずだ。
 ――とすれば、二人はわざわざ顔合わせのタイミングを作った……?

「いつの間にか天とすごい仲良しになったんだね……?」
「……検討外れな勘違いしていないでしょうね。九条氏と不仲であるつもりもありませんが、含みあるいわれはありませんよ」

 龍之介の腕を握る力をやや強めながら、爪切りを片手に振り返ったナギに睨まれる。どうやら強い戸惑いから出てしまった不用意な発言で不快にさせてしまったようだ。

「ご、ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど、ちょっと驚いて」
「仕事上がりに偶然お会いしただけですよ。話の流れて一緒にティータイムすることになっただけで、そこにはリクもいました」

 陸の名に、天とナギのいう珍しい組み合わせに共通点を見つけて合点がいった。
 再度龍之介が謝罪をすれば、許してくれたナギは爪切りを再開する。

「九条氏はさすがでした。美意識が高いですね。ワタシも彼から色々と学ぶことがあります」
「ナギくんは、今のままでも十分きれいだと思うけど」

 切り終えた爪先をネイルファイルで微調整をしながらそんなことを言うナギに、龍之介は本心を告げる。
 ナギは素材そのものが大変よいため、肌もなめらかで、指先の先や毛先の一本まで、まるで神がこだわり作り上げた人形のように完璧な存在である。それは自他ともに認める事実であり、龍之介も、とくに彼の瞳はいつまでも覗き込んでいられるような魅力にとらわれている者の一人であった。

「当たり前です。ワタシは美しいのですから。ですがワタシがより輝けば、みなさんの幸福が増しますからね」
「そうか。確かに俺も嬉しくなるから、その通りだね。なら俺も応援するよ。手伝えることがあったら言ってくれ」
「そうですね。まあアナタの手が必要になるときはないと思いますが」

 相変わらずのつれない反応に、龍之介は苦笑する。
 最後にふうと龍之介の爪先に息を吹き掛け、ナギは寄せていた身体を起こした。

「終わりましたよ」

 離れたことにより落ち着いた胸の高鳴りに安心しつつも、ぬくもりが離れてしまったことを寂しく思ってしまう。
 身勝手な自身に呆れつつも、整えられた自分の手を眺め、ナギの自信のある態度の通りの仕上がりに関心をする。

「ありがとう、ナギくん。おかげできれいになった。この状態を保てるよう気を付けたいんだけど、俺にもちゃんとしたやり方とか教えてくれる?」
「いいでしょう。爪先まで気を付けることはよいことですからね。――ワタシも、痛みに興奮はしませんから」
「え?」

 言葉の脈絡が読めずに戸惑う龍之介を見たナギは、満足げに目を細める。
 膝においていた龍之介の爪をつう、と撫でて、そっと耳朶に口を寄せる。

「優しく撫でられるのは好きですよ」

 直接吹き込まれたその艶やかな声に、ようやく爪を整えることはエチケットだとあのとき言ったナギの本当の言葉の意味を悟る。
 面白がっているナギの眼差しから逃れるよう、龍之介は赤くなった顔をうつむかせた。

「こ、これからはちゃんと管理します……」
「よろしい。ワタシの指導を望むのなら覚悟していてくださいね。――ああ、でも」

 龍之介の顔をわざわざ覗き込んだナギは、鼻先が触れそうなほど近くで微笑んだ。

「時々でしたら、爪を立ててしまうように激しくされるのもいいですね」

 ナギの指先が撫でていた場所に立ち、爪が立てられる。
 自分の歌う歌詞になぞらえられたセリフに、龍之介は早々に両手をあげた。

「ナギくん」
「なんです?」
「俺は今、ナギくんのおかげで爪をきれいにしてもらったわけだけど」
「ワタシが整えたわけですから、その出来は知っていますよ」

 もしかして、触れられることを想像しながらやってくれたのか――なんてよからぬことを考えてしまいながら、先程から肌をくすぐる指先をつかまえる。
 持ち上げた爪先にキスをすれば、ナギは小さく微笑んだ。

 おしまい

 2018.7.17

 

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